長閑な春日和。独特の薬品臭が漂う医務室の窓に、どこからか飛んできた桜の花びらがぺたりと張りついた。

 「よし、採血はこれで終了だ」

 すぐそばから物音がして、深月はそちらに意識を戻す。蘭士が先ほど採取したばかりの深月の血液を、長細い硝子の容器に移し替え、しっかりと密封しているところだった。

 木製の丸椅子に腰かけ、少し距離を開けてふたりは対面するように座っている。蘭士は捲っていた袖を戻すと、居住まいを正した。
 「毎回同じ問いで悪いが、最近体になにか変わったところはないか?」

 普段の意気揚々とした彼とは違い、篤実な医者の顔をして深月に尋ねてくる。

 「いいえ、なにも」

 「求血衝動もなく、月の光による高揚感も皆無、と」

 「はい、華明館で感じたようなものも、いまのところないです」

 稀血として覚醒した深月だが、華明館での一件以来、暴走どころか、禾月特有の衝動も表れていなかった。

 いまの深月はただの人間とほとんど変わりない。安堵する一方で、あまりの静けさに不安も覚える。

 「あの、蘭士さん」

 問答を記録する蘭士に、おずおずと深月が口を開く。

 「わたしの治癒については……その、なにも実験などはされないのでしょうか」

 自分で聞いていてちょっと恐ろしくなる。もちろん実験を希望したいというわけではなく、深月に治癒の力があると把握しているはずの軍がなにもせずにいるのが不思議だったのだ。

 「治癒の実験といっても、やり方には限りがあるしな。手っ取り早くわかりやすいのは、あんたに負傷者の怪我を舐めさせるのが一番なんだが……」

 そこまで聞いて、深月の体がびくりと震える。

 自分はとんでもないことを口走ってしまったと後悔していれば、蘭士が安心させるようにからりと笑った。

 「いくら実験だとはいえ、人の傷口を舐めるなんて嫌だろ? 暁を治癒したときは、まあ特例中の特例だったわけだが。ひとまずそんな実験をさせるつもりはねえよ、いまはこっちの協力だけで十分だ」

 蘭士はちらっと血液が収まる容器を横目にし、つけ足すように続ける。

 「そもそもアキが、それを許さないだろうしな」

 「暁さまが?」

 「ああ、あいつは深月ちゃんの負担になることは極力させる気はないからな。素直じゃないが心配なんだよ、深月ちゃんのことが」

 少し呆れて、でも納得した素振りの蘭士に、深月は押し黙る。勘違いをしてはいけないと、心のなかで言い聞かせるために。

 「あいつの名が上がったついでにちょっとした世間話を挟むが、アキはここのところどんな調子なんだ?」

 「暁さまは、忙しくされています」

 忙中ながら、夕食の席には極力つこうとしているのも相変わらずだ。

 「そうか。忙しく、な」

 たった一言だったが、蘭士は意味深につぶやいて顎に手を当てた。

 だが、その忙しくしているという点で、深月には気がかりなことがあったのだ。

 「……暁さまは、どこかで多忙を望んでいるような感じがします」

 原因はおおよその見当がついている。

 少し前までは深月も似たようなものだった。理由自体は、自分と比にもならない内容だと思うけれど。

 「ほんとによ、深月ちゃんに見透かされてるんじゃざまあないな」

 おそらく蘭士は、深月がなにを言いたいのか察している。だからあえて口にしないのかもしれない。

 蘭士は乱暴に頭を掻きながら、最後につぶやいた。

 「深月ちゃん、あいつは……他人が傷を負っていたら自分を顧みず一目散に動き出すくせに、自分の傷に関してはどこまでも蔑ろにする不器用なやつなんだよ」

 ちょっとした世間話には意味深い発言を、深月は医務室を出たあともしばらく考えていた。