今日はいつもよりも達成感に包まれた一日だったと、食堂の間にひとり座っていた深月はぼんやりと考えた。

 警備体制の強化や計画、日が進むにつれて人とあやかしものの数が増える帝都の治安維持のため、特命部隊員は多忙に追われている。夕方食堂に顔を見せる隊員からは等しく疲弊の色がにじみでており、深月を含めた女中たちは食事の提供を少しでも早くしようと一致団結したのである。だからなのか、誰かと一緒に勤めることの楽しさを、深月はやっと知れたような気がした。

 無論、暁も警吏との連体でいくつもの決議会に出席し、一日別邸を空ける頻度が高くなっていた。

 それでも夕食時になると、彼は律儀に別邸に帰ってきて食堂の間に現れることが多かった。

 「すまない、遅くなった」

 この晩、暁は駆け込むように扉を押し開いた。

 先に席についていた深月は、椅子を引いて彼のもとに歩み寄る。

 「おかえりなさいませ、暁さま」

 「……ただいま」

 暁はほっと息を吐き、深月に言葉を返す。

 ふと、彼を見上げた深月は瞬いた。

 そこまで急いで走ってきたのか、呼吸は上がっていないものの髪が少し乱れ、額がいつもよりもだいぶ広く見えていたのだ。
 「暁さま、前髪が少し」

 「……?」

 そう教えられ、髪の乱れに気づいた暁は決まりが悪そうにする。

 どのような瞬間でも美々しく隙がない彼がほんの少し無防備に感じた。

 「見苦しいところを見せた」

 「いえ、そんなことは」

 暁にしてみればあまり見られたくない姿なのだろうが、即座に直された前髪に深月はもう少し見ていたかったと、口には出来ない感想を抱く。

 それから暁の帰宅を聞きつけた朋代がすぐに食事を配膳してくれたので、ふたりは定位置に座り、夕食をとり始めた。

 「食事、まだ手をつけていなかったのか?」

 暁は一足先に運ばれていた深月の食事を目にして尋ねた。

 今日の献立は和食中心。白飯、吸い物、鯖の味噌煮、切り干し大根と油揚げの煮物、漬物など…‥量を少なめにはしてもらっているが、やはり副菜の種類は一般に比べて尋常ではない。

 小鉢のひとつにも手をつけた痕跡がないのを見られては誤魔化しようもなく、深月は素直にうなずいた。

 「もう少ししましたらお先にいただくつもりでした」

 深月が取り繕うように笑ってみせると、暁が勘づいて言った。

 「待っていてくれたのか。今朝、夕食には帰ると朋代さんに伝えていたから」

 「……それは、その。そう、ではありますが」

 なにやら気まずそうに深月は視線を泳がせる。

 たしかに朋代から暁が珍しく帰宅時間を名言していたと聞いてはいた。

 ゆえに深月ももう少しだけ待ってみようと思い、箸には手を伸ばさないでいた。

 不規則な勤めのなかでも、彼は深月との時間を大切にしている。

 ……いや、大切とは少し違うのかもしれないけれど。

 どちらにせよ決めたことは守り通す暁が、こうして共に過ごす機会を作ろうと努力してくれているのは深月にも伝わっていた。

 (待っている時間がまったく苦ではないなんて、伝えるのはちょっと変よね)

 考えて、これは言わないでおこうと心に留める。

 以前は部屋の主より先に食べるわけにはいかないと、女中奉公で染みついた考えが常にあった深月だが、待つことの理由にもいままでにはない変化が表れていた。これは果たして良いことなのか判断が難しい。

 そしてべつの言葉を探しつつ、深月が若干冷めてきていた吸い物に目をやれば、暁が先に口を開いた。

 「心遣いはありがたいが、次からは遠慮せず自分の食事を優先させてほしい。君に夕食を遅らせてまで共に食事をするのは、こちらも申し訳ない」

 深月が食事を摂らず待っていた本当の意図までは汲み取れなかったようで、少しほっとする。

 「……はい。では、次からはなるべくそのように」

 「そうしてくれ。だが、待っていてくれてありがとう」

 自分を健気に待ち続けてくれた深月に対して、暁は口元に笑みを刻み、優しげに瞳を細めた。

 きゅう、と胸が締まるのを感じ、深月はほんのり眉を下げて笑みを返した。

 (今日、女中の皆さんや、園子さんのお話を聞けてよかった)

 深月は午前中にあった女中らとの会話を思い出す。

 とくに園子が言っていた最後の言葉。

 それは先日、朱凰秀慈郎と暁のやりとりの一部始終を耳にしてしまった深月に、園子の何気ない一言一句が肺腑を貫いて脳裏に焼きついていた。

 生まれて初めて恋を自覚したことに後悔はない。

 こうして一緒にいることが彼にとって義務感でしかなかったと知っても、本心が別のものだとしても、嫌いになんてなれない。

 (だって、暁さまはわたしに選べる道を与えてくれた。ここ以外にも居場所はあると。それでもわたしが選んだのは、この人の隣だから)

 特命部隊に留まることは、軍の監視下に置かれるということ。

 軍にとって都合が良いという話は暁からも直接聞いていたし、いま思うと警告してくれていたのだろう。

 彼の言葉には、いつも気づかされることが多くて、何度も救われた。

 その感謝は揺るぎない。深月を変えてくれたのは暁の存在だったから。

 だから、あの日の彼の沈黙に自分の心が動揺していたのは、身勝手に期待をしていた自分のおごりだと、そう言い聞かせる。

 (暁さまは真面目に責務を全うしているから、わたしに親切で優しくしてくれる。わたしのは恋だとしても、彼の気持ちは違う。そこだけはもう間違ってはいけないわ)

 契約花嫁がふたりの関係の名前。

 いつ解消されてもおかしくない、曖昧で不安定なものだ。

 これから先、もし暁の口からそばにいること自体を拒絶されたとしても、彼を疎まずに離れられるよう、心の準備だけはしておきたいと思う。

 そのためにも、いまは目の前の彼とできる限り向き合っていたい。

 それが、ふたりの会話を耳にしてしまった日から今日に至るまで、ようやく心の整理がついた深月の答えだった。

 「……深月?」

 かたん、と音がして、黙り込んでいた深月ははっと正面を向いた。

 暁が大きく瞳を開いていて、席を立とうと腰を浮かせているところだった。

 「どうかされましたか?」

 深月がぱちぱちと瞬くと、じんわり熱くなっていた目の奥が乾いていく。

 不思議そうに首をかしげた深月を、暁はしばらく動きを止めて見ていたが再度座り直した。

 「いや、すまない。見間違えたようだ」

 暁は瞼を伏せ、はあと息を吐く。

 やはり日頃の疲労が蓄積されているのだろう。さすがの暁もいつもに比べるとどこか余裕ない表情をしているように見えた。

 「……暁さまもお疲れですよね。わたしもなるべく早く食事を済ませますので」

 箸を取り、急いで食べ進めようとする深月を、暁はかすかに苦笑して諌める。

 「そう慌てなくてもいい。それより、君の話を聞きたい。最近は君も女中の勤めで忙しくしていただろう。疲れは出ていないか?」

 ふ、と微笑まれ、深月は平常心を保ち続ける。

 だがそのように言われてしまっては話を続けるほかない。

 「今日は、女中の方と一緒にお茶をしてすごしました。それから、今朝のことですけど璃莉さんの格好に羽鳥さんが――」

 嬉しかったこと、驚いたこと。可笑しかったこと。

 記憶を掘り起こしながら深月は話す。

 暁は相槌を繰り返し、ときおり質問を投げかけては、深月の声に耳を傾けていた。

 複雑な心境が絡んでいようと、結局のところ彼と過ごすひとときが、深月には特別で、代えがたい瞬間だった。