「あはははは! 尻の調子が悪いなら初めにそう言ってくれよ! 痔に効くいい薬を知っているからさ」

 深月は朋代の手伝いで食器を片付けるため退室し、残ったのは男性陣だけ。彼女が執務室を離れた瞬間、乃蒼は堪えきれずに笑い転げていた。

 「薬なら俺の専門分野だろうが。とんでもねぇ不名誉を被ったけどな」

 蘭士もいい大人だ。乃蒼の茶化しに腹を立てるようなことはなく、ため息とともに疲弊の色を顔ににじませている。

 「なにを言おうとしていたんだ」

 ひいひいと笑いっぱなしの乃蒼に目を向け、そんな彼に呆れながら暁は先ほどの会話をふたたび掘り返した。

 「だからおまえと深月ちゃんのことだよ。いつから恋仲なのかって話だ!」

 「恋……?」

 「まさかそんな間柄になるとは思ってもいなかったが、おまえらの様子を見たら意外でもなかったというかな。なんだかんだ似合いのふたりって感じで」

 「さっきからおまえは、なにを言っている?」

 浮かない様子で蘭士のひとり語りを聞いていた暁は、会話の意図を理解しきれていないのか眉をひそめた。

 「なにって、おまえこそなに言って……はあああ⁉」

 冗談やおとぼけでもなく、至って真剣な顔つきに蘭士は声を荒げる。

 「あれだけ仲良さそうな空気を見せつけておいて、まさかなにもないって言うのか? 俺はてっきりおまえにもいよいよ春がきたんだって、それも恋仲を通り越して恋人にでもなったのかと思ってたんだぞ⁉」

 熱く語る蘭士とはまるっきり正反対に暁の反応は薄い。

 なにも感じていないというより、蘭士から面と向かって指摘され、驚きと戸惑いが入り混じっているようだった。

 暁はこれまでの自分の言動を振り返るようにしばし考え込むと、それは小さな声音で否定した。

 「……勘違いだ。彼女とはそういった関係ではない」

 「とか言うわりに、あれだけ……っ」

 「まあまあ、蘭士くん」

 納得がいかない蘭士が反論しようとしたところで、ようやく落ち着いた乃蒼が冷静に制止した。

 「ふたりの関係を勝手に勘違いしていたのは僕たちなんだ。本人が違うというならそれでいいよ」

 乃蒼は思いのほかあっさりと暁の言葉を受け入れていた。

 そのうえで、これまでの飄々とした態度から一変、真面目な顔つきで問いかける。

 「望んだのは、深月だけではないよね?」

 乃蒼の意表をついた問いに、暁は目を見張った。

 「俺も望んだことには相違ない。そばにいてほしいと伝えた」

 「そこは肯定してくれてよかったよ。うんうんそっか、そうなんだ。そういう感じねぇー」

 一を聞いて十を知るように、乃蒼はこくこくと小刻みにうなずいた。

 居場所はここがいいと、深月が自分から決めたということはもちろん乃蒼も聞いている。ふたりのあいだにどのような会話が成されたのかはわからないが、しっかり想いを伝え合ったからこそ両者ともにこの時を過ごしているのだと見当違いな考えをしていた。

 だが、よくよく思い返してみれば、それは恋人でなくても成立してしまえる関係だ。両者ともに相手には好意的に接していても、肝心な部分が通い合っていなかった。

 暁は、どうしてそばにいてほしいと望んだのか。

 そこには保護や契約のためという使命とはべつに、確実に感情の部分が絡んでいるはずだ。周りからすればその答えは明確なのに、どういうわけか彼は一線を引いている。

 「深月の場合は自覚するだけの経験をこれまでしてこなかったからだとしても、暁くんがそこまでどっちつかずの木偶の坊とは思えないし。むしろ君の場合は、無意識に拒んでいるのかな?」

 訳知り顔の乃蒼の発言に、暁がまとう空気が戸惑いに変わる。

 それに横で聞いていた蘭士は、はっと顔色を変えた。

 「アキ。まさかおまえ、まだ思ってるわけじゃないよな。覚悟や資格がないなんて馬鹿なことを」

 「やめろ、蘭士」

 禁句な話題に、いつにもまして暁の声が早く上がる。

 どれだけ普段から顔に出さずにいても、暁が〝あの夜の惨劇〟から抜け出せていないことは明白だった。

 「すまない」

 声を荒げたことを詫びたあと、暁はふたりから目を背ける。

 そのことについて無闇に触れられたくないのか、ここまで態度に出ているのは稀だ。やはり時期が影響しているのだろう。

 事情を知ってか知らでか、暁と蘭士を交互に確認し、乃蒼は肩をすくめた。

 「暁くんに嫌われるのは嫌だし、ここでこれ以上の言及はしないけど。年長者からの助言をここでひとつ」

 乃蒼はこほん、とわざとらしい咳をする。

 「話を聞く限り暁くんは誠実そのものだよ。彼女のことを慮って、親身に、それはもう大切にしてくれている。血縁としてはありがたい限りだね」

 「それは、当たり前だろう。無下にする気はない」

 この部分が、暁は理解に欠けている。

 曖昧な関係のまま誠実を貫く行為は、ひっくり返ってすべてが相手にとって不誠実にもなり得るということを。

 「ここからが助言。君がそんな調子でも、深月はこれからどんどん綺麗になる」

 改まって言うようなことかと、暁は一瞬怪訝そうにした。

 こちらを窺い見るような試す目つきはそのままで、乃蒼はさらにはっきりと告げた。

 「年頃の少女は蕾が花開くように可憐になるものだよ。その当たり前の変化が、いままさに深月には少し遅れて起こっている。普通の少女がそうなんだから、深月はさらに特別だと言えるかな」

 「どういう意味だ?」

 「深月は稀血だよ。人の娘にはない妖力がある。それはときに人を魅了し、惹きつける色香にもなり得る代物なんだ」

 「ちょっと待て、稀血にそんな力があるなんて初耳だぞ。なんでそういうことを言わずにいたんだっ」

 聞き捨てならないと蘭士が横槍を入れるが、乃蒼は悪びれる様子もなく続けた。

 「それは僕も半信半疑だったからね。でも、君たちだって知っているだろう? 元来女型のあやかしものというのは、男を惑わし堕落させる能力に秀でていたって」

 「深月ちゃんがそうなるっていうのか?」

 「そんな魔性になることはないだろうけど、あくまで潜在能力の話だよ。さっき深月を前にしてなんとなくわかった。彼女はこの先、たくさんの経験と感受性を育てて心も身体も美しく変わっていく。蛹が蝶へと羽化するように、必然的にね」

 そう言って乃蒼は立ち上がり、改めて暁に尋ねた。

 「いまよりも可能性が広がっていく彼女は、そのときも君のそばにいたいと一心に思ってくれるかな。そばにいることは望んでいるくせに、肝心な感情には向き合わず、背けている君に」

 その瞬間、暁の瞳がほのかに揺れ動いたのを見て、乃蒼は満足そうに笑った。