今日は朝から暁が本部に出向いており、深月は朝昼共にひとりで食事を終わらせた。朋代の手伝いで別邸横の花壇の手入れをし、余った時間に自室で眉を描く練習をしていると、暁の帰宅を知らされる。

 彼に一声かけるため、そして自分の不調について話す機会なのではと思いながら暁の執務室に入ると、室内には暁のほか、白夜乃蒼と蘭士の姿があった。

 「やあやあ、深月。元気にしていた?」

 「よう、深月ちゃん」

 透し彫りのソファに腰を沈めた蘭士は、片手をゆるりと上げた。

 「乃蒼さん、蘭士さん。おふたりとも、いらっしゃってたんですね」

 「うん。蘭士くんとは外でばったり会ってね。いやー、それにしてもこの時間って日差しが強いね。出歩く時間を間違えたよ」

 からからと笑い声を発し、蘭士の隣に座る乃蒼は頭を覆う中折れ帽をはずした。光沢のある銀鼠色の髪の下で蒼色の瞳が楽しげに揺れていた。

 樺茶色の背広を着こなす姿は、気品を兼ね備えた紳士然としている。

 口調や素振りは飄々としているが、彼はれっきとした禾月の現首領であった。

 「白夜殿は、君の様子を見に来たらしい」

 そう言った暁は、ふたりの反対側に設置されたソファに腰を下ろしていた。いまだ所在なく立ち尽くしている深月に目を向けると、とん、と左側の空いた場所に手を置く。

 「君はここに」

 暁と視線が重なる。動悸は起きなかった。

 「はい、失礼します」

 特に不調もでなかったので深月は隣に安心しきって座るが、それからすぐにはっとして小さく頭を下げた。

 「暁さまも、おかえりなさいませ」

 「ああ、ただいま」

 深月の出迎えの言葉に、暁はふっと口元を緩める。

 傍から見るとすっかり板についたふたりのやり取りに、乃蒼と蘭士は密かに見合わせた。

 「ふふ、少し見ないうちに見違えたね」

 乃蒼は安堵混じりの喜悦を顔に浮かべ、深月をじっと見つめる。

 「そう、ですか?」

 身なりには気を遣うようになったので、なにかしら変化はあるのかもしれないが。見違えたと言われると恐縮してしまう。確かに髪は櫛を通して絡まらなくなって格段に手触りもよくなったけれど。

 「顔色が明るくなって、声に張りも出た。言葉を交わすことにも恐怖感も消えてきて、なんといっても幸せオーラが出始めた感じ」

 どうやら乃蒼は身なりの言及ではなく、内面のことを言っていたらしい。

 「おーら……あ、雰囲気のような意味合いでしょうか?」

 「そうそう、挨拶の語源として使われる国もあるんだけど、この場合はそれで大正解。よく知っていたねぇ、えらいえらい」

 「あんた、さっきからべた褒めじゃねぇか」

 賞賛を隣で聞いていた蘭士は、呆気にとられている。

 「養父さまが与えてくれた外来語の書物に載っていた言葉でしたので。たまたま覚えていただけです……」

 気恥しさを通り越し、戸惑いすら覚える深月の視線が膝の上まで落ちていく。誉める乃蒼の様子は、まるで妹の博識さを手放しで讃える過保護な兄のそれである。

 でも、あながち間違いではないのかもしれない。

 深月の母親は、白夜家に生まれた禾月だった。乃蒼の母とは姉妹関係にあり、紛れもなく深月と乃蒼は従兄妹同士なのである。

 とはいえこの事実を知ってからまだ日が浅く、親族と聞いてもいまいちピンときてないのが正直な気持ちだが、乃蒼が深月を顧慮しているのは、この場にいる者には十分に伝わっていた。

 「まあしかし、謙遜のし過ぎはよくないな。なあ、アキ。実際のところ深月ちゃんはよくやってるよな。おどおどして俯いていたのが遠い昔に感じるぜ」

 乃蒼の発言に乗っかる形で蘭士が口を開く。まだ自分の話が続くのかと、深月はぎょっとする。

 そんな深月の心を見透かすように、暁はひとつ咳払いをした。

 「今日のところはその辺にしておけ。彼女が戸惑っているだろう」

 「えー、つれないよ暁くん。僕は君を信頼して彼女を任せているんだから。一番近くにいる君が変化に気づいてくれないと」

 「なんだその面倒な小姑みたいな文句は」

 「……」

 どういう理屈でそうなった、という思いが無言の暁からひしひしと感じられた。にこにこと笑う乃蒼の声音には挑発めいた感情の起伏がある。もはや悪ふざけで言っているのではと、深月は疑惑の目を向けそうになった。

 「はあ……」

 一瞬まぶたを伏せ、暁は小さく息をつく。

 大抵のことはいつも冷静に対処する暁のことだ。当惑してばかりの自分とは違い、ちょうどいい塩梅で受け流してくれると思っていた。……のだが。

 「気づいているに決まっているだろう。彼女の生活を最も近い場所で見ているのは俺だ」

 心外だと言いたげに暁は堂々と声にした。そしてその一言だけでは終わらない。

 「普段どれほど周囲に気を遣い、協調し、溶け込もうと努力しているのかを知っている」

 「あ、あの」

 「表情が明るくなったとはいまさら言うまでもない。口数も格段に増えてその日あった些細なことを嬉しそうに報告してくれることも、以前にはない変化だ。それは俺としても嬉しく思う。白夜殿が納得するかどうかは別として、これからも一挙一動を見守りたいと――」

 「暁さまっ」

 深月の口から短い悲鳴にも似た声が飛び出た。

 暁は自分の主観から嘘偽りない事実を述べたに過ぎず、適当に流しもせず誠実に応えようとしてくれたのだろう。

 生真面目過ぎるがゆえに、同じく素直に真に受けてしまう深月には平静を装って聞いていられる自信がなかった。

 顔の中心にはじわじわと熱が集まっている。このまま耳にしていたら胸が破裂しそうな気がして、我慢できず遮ってしまったのだ。

 よもやいまのも不調による過剰な反応なのだろうか、と変な勘ぐりさえしてしまいそうになる。

 ちょうどここには蘭士もいるし、様子を見に来てくれた乃蒼にも相談できるのではと頭の隅で逡巡しながら、深月はまずは詫びの言葉を入れる。

 「申し訳ありません、お話の途中に割り込んでしまって。だけど本当にあの、身に余る光栄と言いますか、わたしには勿体ないお褒めの言葉ばかりでしたのでっ」

 人の話を止めてしまうなんてとんでもない失態だ。

 あたふたと言い募る深月に、申し訳なさそうに暁は眉を下げた。

 「俺こそすまない。その辺にしておけとふたりに言ったそばから、これでは立つ瀬がないな」

 「いまのは乃蒼殿の悪ふざけが過ぎただけって気もするがな」

 「ははは、ごめんごめん。暁くんっていつ見ても冷静沈着を体現したような感じだからさ。つい焚きつけるようなことをしちゃったよ」

 煽動の自覚があった乃蒼は、悪いことをしたね、と深月に謝意を述べる。

 「ひとまず今日は、暁くんがしっかり深月を見守ってくれていることがわかって安心したよ。もちろん君の意見を尊重するけど、君の頼れる場所がひとつではないということを忘れないでね」

 「……乃蒼さん、ありがとうございます」

 深月が血縁だとわかったときから、乃蒼は深月を白夜家に引き入れて外的要因から匿う算段をつけていた。しかし状況が変わり、深月が特命部隊の預かりとなったことで、こうしてたまに顔を出して様子を確認するだけの行動に留めているのだ。

 いつでも受け入れる態勢でいる乃蒼の申し出にはありがたいと思っている。

 ただ、いまは信頼を寄せる暁のそばにいたい。それが深月の出した答えだった。

 「もちろん暁くんも、困ったことがあればいつでも相談しておいでよ」

 「白夜殿のお気遣いに感謝する」

 「固いなぁ。もっと気軽に乃蒼って呼んでくれて構わないのに」

 乃蒼はその点に関してだけはいつまでも不服そうにしていた。

 「……」

 彼らの会話をじっと聞きながら、いまが好機かと深月が姿勢を正したところで。

 「あー、それでよ」

 彼の横にいる蘭士が、深月と暁を交互に見ながら少々聞きにくそうに尋ねてきた。

 「ふたりは、その……どうなっておいでで?」

 瞬間、室内には沈黙が下りた。

 話の意図が読めなかったことよりも、突然丁寧な物言いになっている蘭士が奇妙で、深月は内心首をかしげていた。

 奇妙に感じたのは暁も同様で、怪訝な目つきを蘭士に向ける。

 「なにを急にもじもじとしている、蘭士」

 「いや、だからな。それを俺に言わすのか、なあ?」

 蘭士は同意を求める仕草を乃蒼に向けてしてみせる。

 当の本人たちとは違い、乃蒼は訳知り顔でうなずいていた。

 「うーん、こちらから急かすのも野暮というものだと僕は思うけど。確かに気になってはいたよ」

 「回りくどい言い方はやめろ。一体なにが言いたいんだ?」

 暁はさらに顔をしかめた。

 「だああ、しゃらくせぇ! こういうまどろっこしいのはダメだ、性にあわん!」

 「し、不知火さん?」

 「おまえら揃ってなに腑抜けた顔をしてるんだ! 俺が言いたいのは、おまえらふたりが恋……」

 野太い奇声とともに蘭士が立ち上がったとたん、コンコン、と執務室の扉が軽快に叩かれた。

 「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました。あら不知火さま、どうかなさいまして?」

 四人分の飲み物と茶菓子を運んで入ってきた朋代は、ひとり不自然に腰を浮かせた蘭士に尋ねた。

 「…………。いや、最近どうにも臀部痛が」

 朋代の前では話せない内容に、蘭士は苦しまぎれの言い訳でその場を凌いだのだった。