私はおそらく、他者と比べ『喜怒哀楽』に乏しい平坦な人間だ。

 主観的にも、感情に振り回されるのは効率的ではないし、客観的に見ても、感情的な人は扱い辛いのが明白で。
 常に穏やかに微笑んで、その場を当たり障りなく乗り切るのが、正直一番都合が良かった。それは私なりの処世術で、自らの平穏を保つためのものだ。

 もちろん、楽しい雰囲気には水を差さないように乗るし、何かして貰った時は喜びをきちんと表す。けれど怒と哀については、表に出すことは滅多になかった。
 そもそも怒りがこみ上げるほど誰かに期待したりもしないし、哀しみを感じるほど誰かに心を傾けることもない。

 例えば同僚が大きな怪我をしたとして、表面上心配こそすれど、心から痛そうだとか哀れむこともなく。かといって、怪我ごときで休むなんて仕事の押し付けだとか、理不尽に怒ることもない。ただ怪我をしたという事実のみ受け入れ、そこに感情が動くことはない。

 ニュースで皆が可哀想だと宣う事件や事故を見たとしても、画面の向こうの他人事として、そんなことがあったんだと思う程度で感情を揺らすには至らない。
 それがきっと、知人や親族だとしても。衝撃は受けても、痛みを自らのことのように感じたりはしないのだと思う。事実、数年同居した祖母やペットが亡くなっても、涙の一つも出なかった。
 先程自分を平坦と言ったけれど、存外冷淡な人間なのかもしれない。

 本来、他者と共感してコミュニティを作り上げていくのが人間という生き物だ。それなのに、全く心を動かされない方が楽だと、それらしく取り繕っていく方が都合が良いと、そう感じてしまう。

 実際、感情に振り回されず仮面のように笑顔を張り付けていても、皆からは『いい人』だと認識されているようなので、所詮皆も他人の内部にまで踏み込もうとは思わないのだろうか。

 そうであるならば、私も皆と何も変わらない。共感性の低さを、感覚の鈍さを、他者との間にある圧倒的な感情の格差を、コンプレックスではなく効率的だと自分で正当化することの、何が悪いというのか。

「……それでさ、さっき灰咲さんがお客さんに怒鳴られてて……お客さんの焦りも苛立ちもわかるし、でも怖さとか申し訳なさとか理不尽とか、色々我慢して頭下げてる灰咲さんの顔がすっごく痛そうで……見てる僕の方が泣いちゃった」
「……そっか。そういうの、疲れない?」
「え?」
「あ、いや。灰咲さんも、白石くんも大変だったね……」
「ううん……僕は平気。勝手に共感しちゃっただけだし」

 たまたま休憩の被った彼は、そんな私とは正反対の人間だった。
 身近な人の痛みに対し、それこそ自ら傷を負ったように敏感で、何なら絵本や昔話などにも共感して泣き、他者に分け隔てなく全身で寄り添う。
 心の声に耳を傾けるどころか、心のままに動く子供のような人。それにしたって、ここまで感受性の豊かな人も珍しい。

 今度は近所のお年寄りが庭に綺麗な花を咲かせたと、おそらくそのお年寄り以上に喜び語る彼に対して、私は『可哀想』だと感じた。

 彼のような人は、生き辛いだろう。そんな風に他人に振り回されていては、絶対に疲れてしまう。

「……白石くんは、すごいね」
「え、黒瀬さんの方がすごいよ。僕の話、つまんないみたいで、皆によく困った顔させちゃうんだ……なのに、いつも真剣に聞いてくれてありがとう!」
「ううん、白石くんの話、楽しいから」
「本当!? そんなこと初めて言われた」
「そう? またこうして話してくれたら嬉しいな」
「もちろん! あ、あのさ……よかったら今度、映画とか行かない?」
「……え?」
「今駅前でやってるやつ。僕あれすっごく感動してさ! ……多分二回目でも号泣しちゃうんだけど……黒瀬さんさえよければ、一緒に行って欲しいなって……」

 こんなにも他人に振り回される彼は、可哀想。だから、これは『愛』ではなく『哀』だ。
 自らを正当化した手前、正反対の彼に焦がれているなんて、認めたくなかった。

 こんなにも他人を慮る彼は、私の感情の手前の仮面には気付かない。
 誰にも気付かれたくないのに、いつか彼に気付いて欲しいと、この場に私を留めるのは『錨』ではなく、気付いてくれない彼への、矛盾した自分への『怒り』だ。

 そこまで必死に言い訳をして、ふと、彼の前ではコントロールするまでもなく『喜怒哀楽』全ての感情が動いてしまっていることに気が付いた。こんなことは、初めてだ。

「……。うん、行こうか」
「本当? やった……!」
「私は泣けるか、わかんないけど」
「あはは、いいんだよ。感じ方は人それぞれだから!」
「……そっか」

 もしも泣かなかったなら、変わらず自分を保てるだろうか。
 もしも泣けたなら、彼と変わり行く世界を見られるだろうか。

 そんな期待と不安の入り交じる気持ちに、あんなにも頑なだった分厚い仮面に小さくひびの入る音が、心のどこかで聞こえた気がした。