姉さんと別れて僕は『私』の格好のまま、母さんが家に帰ってくるまでに夕食の調理を済まし、机に置いて準備してそのまま椅子に座って待っていた。
妙に緊張して心臓の鼓動が早かったけど、スマホの通知に姉さんから「応援してるよ」と顔文字付きで送られてきたのを見て、少し落ち着きを取り戻した。
「ありがとう」と姉さんに返信してからすぐに玄関の扉が開いた音がした。
「ただいま。はー、疲れた。翼ー!晩ご飯の支度はできてるの?」
「できてるよ、母さん」
リビングの扉を開け、僕と目が合った母さんは僕の服装や顔を見て一瞬フリーズした。
「何してるのよ、翼。お母さん疲れてるからそんな手の込んだ一発芸なんてしなくても……」
「母さん」
呆れたように言った母さんの言葉を僕は遮るようにして言う。
僕は結芽のおかげでこの格好をしてもいいと思うことができた。
そして、姉さんのおかげで、この姿を愛してあげてもいいと思うことができた。
あとは、自分がこの姿をどれだけ愛してあげられるか。
どれだけ、自分が自分でいてもいいと思えるかだ。
母さんは僕の神妙な顔を見て、荷物を置いていつもの向かい合わせの席に座った。
「それで、何の用なの?そんな格好までして……」
「「姉さんならそんな変なことしないのに」」
「って言うだろうなって思ってたよ」
僕の予想通りの言葉が返ってきたので二人の声がシンクロした。
母さんは目を見開いて驚いている様子だった。
「僕は、ずっと辛かったんだ。姉さんなら。姉さんだったら。って言われてきて。みんな中原翼(ぼく)じゃなくて僕の影の姉さんのことを見てた」
母さんはそのまま身動きが取れないようだった。
「母さんもいつも僕じゃなくて姉さんの方ばかり見てた。僕の価値は姉さんの付属品程度なのかな?」
これはいじけて言ったわけじゃない。
僕は今までずっとそう思っていた。心配していた。
もしかしたら母さんにとって、僕の価値なんてそんなにないんじゃないかなって。
姉さんと比べてどうなんだろうって。
下を俯いた僕の頬に母さんは両手で手を当て上を向かした。
「そんなこと絶対にない!二人とも大事な私の子供よ……」
母さんが勢い余ったのか、頬がヒリヒリと痛んだ。
母さんの目の下には濃い隈ができていることに気づいた。
当然だ。母さんは一人で僕たち家族を守ってくれているんだ。
母さん朝も昼も働いて、夜遅くに帰ってくるのに、どうして気がつくことができなかったんだろう。
姉さんの時と同じく、僕はどれだけ家族の顔を直視できていなかったのかが実感できた。
「ごめんなさい。翼にそんな心配させていたなんて。母親失格ね」
「そんなことない!!母さんは僕達のことを大切にしてくれていたんでしょ?」
目の下の隈も、成績について言ってくることだって、母さんが僕のことを、僕らのことを大切に思っているからなんだって今になってようやく気づくことができたんだ。
「いえ、私は美優の優秀さと、翼の優しさに甘えていたのよ」
「母さん……」
「美優も翼も大好きよ。同じように愛してる。言葉にしないと伝わらないのに、勝手に伝わっていた気になっていたわ。本当にダメな親ね」
母さんは僕のメイクが施された顔を今一度よく見て、頬から手を離した。
言葉にしないと伝わらない。
それは今回の件で身に染みて実感していた。
今までのように二人のことを避けて過ごしていたら母さんからはこんな言葉を聞けなかっただろうし、姉さんの素の姿も知ることはなかっただろう。
僕もこの姿を二人に見せることは一生なかったかもしれない。
自分を貫くことは簡単では無い。折れることの方が多いだろうとさえ思う。
でも、隠していても始まらない。
誰にも見つからないようにしてしまえば、それはただ辛いだけだ。
自分を貫いた先にあるのは折る、折れないだけでは無い。
もしかしたら周りの人が自分に合わせてくれることもあるかもしれないし、自分が自分を失わず変わっていくことだってあるかもしれない。
自分を覆い隠していてはそれが起こることもない。
「母さんは、こんな格好をしている僕でも愛してくれる?」
「もちろん。最初はびっくりしちゃったけど、それも含めて翼なんでしょう?なら、私は母としてただ見守るだけよ」
「……ありがとう。母さん」
僕の目から自然と涙が落ちた。
姉さんと話し、母さんと話し。緊張の糸が途切れたのかもしれない。
母さんがどうしたのと慌てているのをみて涙を流しながら笑った。
「早くご飯を食べよう、母さん。冷めちゃう」
「そうね」
いただきますと挨拶をした後に母さんは「あっ」と言って何かに気づいた様子で僕の方を向いた。
「作ってくれてありがとね。翼」
「……どういたしまして」
面と向かって言われるのは照れるけど悪い気はしなかった。
母さんは僕の作ったハンバーグを口にして「おいしい」と何度も口にした。
「そんなに言われると照れるんだけど……」
「言わないと伝わらないって分かったから、何度でも言うわよ。本当に昔と比べて美味しくなっているわ。なんで私はこんなことにも気づかなかったんだろうって。普段からもっと味わって食べればよかった」
「……別に明日も明後日も食べれるから、それでいいじゃん」
母さんがハンバーグの乗った皿を見ながら悲しそうに言うものだから少し恥ずかしかったけどそう言い、僕はさっそく明日は何を作ろうかななんて考えていた。
「そうね」
母さんは微笑み、二人で会話をしながらご飯を食べ進めた。
こんなに賑やかな食卓は何時ぶりだろう。
楽しい。そんな感情が心の中に満ち溢れていた。
「た……ただいま〜」
「姉さん?!」
突然玄関から姉さんの声が聞こえて賑やかだったリビングに姉さんが入ってくる。
「姉さん、友達いないのに大口叩くから……」
「うるさい!ほんとに泊まれるところがなかったの!」
「美優おかえり」
「ただいま。お母さん」
賑やかだったリビングがさらに賑やかに、明るくなって心地よかった。
「姉さんの分も今作るよ」
「いいよいいよ、私自分で作るって。それより翼メイク落としたりウィッグ片付けたりしなくてもいいの?」
「いいのいいの」
キッチンに僕が入ると姉さんも横に入ってくる。
「なら、久しぶりに私と一緒に作ろっか?」
「別にいいけど……」
ニヤリと笑う姉さんと少し照れてる僕を見て母さんは静かに笑っていた。
「ちょっと、お母さんも混ぜなさい!」
「お母さんこそ疲れてるでしょ?休んでなよ」
「除け者にしなくてもいいじゃない」
そんな母さんと姉さんのやり取りをみて笑っていると二人もつられて笑っていた。
こんな光景、昨日の僕だったら想像もしなかっただろう。
この家族団欒が、僕が自分を隠さなくなって初めて得た、最大の収穫だった。