あれから週末は男の格好をした結芽と一緒に過ごすことが恒例化した。
初めて僕らが出会った時から2ヶ月が経ち、梅雨入りをした今でもそれは続いており、今のところ毎週二人でどこかしらに『いつもの格好』で出かけている。
お互いの服を見に行ったり、喫茶店を巡ってみたり、ただただ歩いてみるだけの日を過ごしてみたりと以前とは比べ物にならない程楽しい時間を過ごしている。
これがあるおかげと言うべきか、普段の平日もいつもより楽に過ごせているような気がする。
鬱憤が溜まっていて、心の中ではため息ばかりついていたのが今ではそのようなことも減った。
純粋に嫌なことより楽しいことを考える割合が多くなったのだと思う。
「中原、すまないがこれを小会議室まで頼むよ」
学校での待遇は変わらず、中年の担任の先生からは変わらず雑用を押し付けられるけれど。
「はい。分かりました」
先生は心做しか普段よりイライラしているような気がしていつもより気を使って笑顔を作った。
この教材も一枚一枚が薄く、成人男性の先生なら一人ですぐにでも運べる量だ。
先生同士で何かがあって会議室の方へ行きたくないのだろうか。
僕は小会議室によるついでにそのまま帰ってしまおうと鞄を背負い、教材の入ったダンボールを持って教室から出た。
「あれ?翼じゃん」
「え、結……、鈴音さん?」
「どうせ今は誰もいないからいつも通りでいいよ」
もし僕が結芽のことを下の名前で呼んで親しげに話しているところを他の人に見られてしまったら今度こそ袋叩きにされそうなので気を使ったのだけれど、それは杞憂だったようだ。
結芽は学校でも周りの人にバレない程度だけど僕に関わるようになった。
最初の方はアイドルのような結芽と美男子と呼ぶのにふさわしいイケメンの結芽との差に慣れるのに少し時間がかかってしまったけど、今では廊下で会ったらバレないように小さく手を振り合う程度になった。
「また雑用?それくらい先生も自分でやればいいのにね」
「仕方ないよ。僕は姉さんの弟だから」
ふーん。と結芽は納得してない様子でおもしろくなさそうに呟いた。
「嫌になったら言うんだよ。私も手伝うから!」
「ありがとう。結芽」
そんなのいいのに。別のクラスでしょ、迷惑かけれないよ。なんて言うより結芽はこっちの方が喜んでくれることを2ヶ月の間に学んだおかげで結芽は笑顔を取り戻してくれた。
「よろしい!それじゃあ、私は帰るのね。じゃあ、また日曜に」
「うん。またね」
踵を返して帰って行く結芽は途中まではこっちを見ながら大きく手を振っていたけれど、僕の向かい側に別の生徒がやってきたのを見て最後に小さく手を振ってから前を向いて行ってしまった。
僕も結芽といた時よりも歩くペースを上げて小会議室へ向かう。
今日は物理で少しつまづいたところがあるから帰って復習しないと。明日は英語の小テストもあるし。
なんてことばかりを考えながら小会議室のドアを開け、長机がホワイトボードに向かって二列になって並んでいる教室に入る。
手前には既に別の資料が入っているダンボールが置いてあったので混ざっても面倒だしと奥にある長机の上にダンボールを置いた。
この教室は「小会議室」なんて名ばかりでほとんど倉庫と化してるので換気が行き届いてなくて少し埃っぽい。
早く出てしまおう。
そう思い、扉を出ようと振り返ろうとした時、カチッと鍵のかかる音がした。
ドア付近の荷物か何かが倒れ、その拍子に鍵の開閉スイッチに当たったのかと思い、急いで後ろを振り返った。だけど、鍵をかけたのは倒れた荷物なんがじゃなくて、扉の前にはピンク色の陸上部のTシャツを着た女の人が立っていた。
その女子に僕は覚えがあった。
「井上……さん?」
井上琴音。
僕の同級生の陸上部で、彼女がこの高校に入った理由は確か姉さんだったはずだ。
彼女と僕が中学生だった頃、僕らは別の学校でお互いに陸上部に所属していて、僕は姉さんの、彼女は地元の先輩の応援のために高校生の大会を見に来ていた。
その大会で姉さんは一年生でありながら二年、三年の先輩と競い合い、その結果、準優勝。
元々、姉さんは中学生の頃から結果を残していたから注目はされていた。ただ、一年生で先輩相手に勝ち上がるなんて誰も想像しておらず、それはまさに偉業と呼べる出来事だった。
その姉さんの姿を見て、彼女は憧れの念を抱き、今の学校への入学を決めたという話を僕は陸上部の入部当初に彼女から何度も聞かされていた。
それからは今までと同じだった。
あの姉さんの弟ということで僕は最初は期待されていた。
けれど、徐々に僕の凡人さが明るみに出ていき、次第に失望されていった。
尊敬されていた最初の眼差しから一変、部活を辞めた今ではまるでごみでも見るかのような目で見てくる。
それが僕の今の彼女への印象だった。
「井上さん、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもない!」
彼女は背にある壁を思い切り平手で叩きつけた。
彼女はよほど怒り心頭のようで呼吸は荒く、落ち着きの無い様子だった。
彼女をここまで怒らせてしまうような理由が僕には一つあった。
「……それは僕が君に黙って陸上を辞めたこと?」
僕は彼女に部活を退部することを知らせずに辞めた。
もし、辞めると知られれば、裏表のない彼女のことだからきっと僕に「逃げるな」と言うだろう。それが怖くて、僕は彼女と部活をやめたあとも意識的に避けるようになった。
「それもよ!だけど、あなたには一度言ってやりたかったのよ」
彼女は大股でズカズカと迫り、僕は教室の奥の壁に追い詰められた。
彼女は僕よりも一回り身長が小さいのに、今は僕なんかよりもよほど大きく見えた。
「私はあなたが許せないのよ。なんであんたは部活を辞めたのよ?しかも私に黙って」
「……僕は姉さんほど優秀じゃないから、陸上をしながらだと勉強に置いてかれそうでね」
「そうは言っても、あなたいつも一位を逃してるじゃないの」
彼女は鼻で笑うように吐き捨てた。
一位はずっと結芽が取り続けたから僕はずっと二位だった。
結芽も頑張っている、人様の家庭に物言う訳では無いが、結芽はそれこそほとんど監禁と大差ないような環境で勉強している。
もう、自分だけが……。なんて思わない。
でも、そうは言っても。嫉妬心は完全に拭い切れるわけじゃない。
僕だって一位が取れたら、どのように僕を取り巻く環境は変わるだろうかと思ったのは今までに一度や二度じゃないし、それは結芽と出会ったあとでも、情けない話だが、無いわけじゃない。
その自分の心の弱さに飽き飽きする。
「それで今度は女子に現を抜かしてるわけ?」
「女子に現を……?いったいどういうこと?」
「とぼけないで!あんたと鈴音さんの一件は既に学校中に広がってるわよ」
僕と結芽が学校で初めて会った時、廊下全体がざわめいていたしそうなっていても不思議ではない。
僕がこの学校内の情報を得る術がないだけできっと、とっくにそうだったのだろう。
「勘違いしてるようだけど僕とゆ……鈴音さんは別に何も無いよ。あの呼び出しは僕が休日に出かけた時の落し物を渡してくれたからで……」
「そう。じゃあ、さっき鈴音さんがあなたが手を振っていたのは私の幻覚かしら?」
結芽さん!しっかり見られてますよ!
「それは……彼女はいい人だからこんな僕にでも優しくしてくれているんだよ」
「うるさい!」
井上さんはまだ納得がいっていないどころかさらに不機嫌になっているような気がする。
一体どうしたらいいっていうんだ……。
「もう彼女には近づかないで」
「なんで?」
正直、この言葉に僕は怒りを感じていた。
結芽のこと、僕のこと。何も知らないくせにそんなこと言うなよって。
「あんたと鈴音さんは釣り合ってないのよ。正直、みんな気を使ってるだけでなんであんたなんかが鈴音さんに呼び出されてんだって思ってるよ」
誰も理解してくれなかった。
誰も僕の影にいる姉さんを見ていて『僕自身』を見てくれなかった。
そんな中、結芽だけは僕のことを見てくれた。
『私』をも受け入れ、仲間だと言ってくれた。
何も知らない人が表面だけみて騒ぐのに徐々に怒りをこみ上げてくる。
「それから、話は変わるんだけどさ」
彼女は僕への圧を急に和らげて言った。
それがわざとらしくて嫌な気配がした。
「ちょうど二ヶ月前くらいに変わった人を見たの」
「……それがなに?」
「そんなに焦んないでよ」
からかわれ、嘲笑われているかのような気がした。
最悪の想定が脳裏を横切った。
「休日、女の人が財布の中身を地面にばらまいちゃってるところに出会ったんだ。私も拾うのを手伝おうと思って腰を屈めたのときの話」
頭から冷水をあびせられた気がした。
彼女は多分その場に居たんだ。
嫌だ。やめてくれ。それを知るのは結芽だけでいい。
「女の人から男の声がしたのよ。そう、聞き間違えるはずがない。あんたの声と一緒だったわよ」
膝から崩れ落ちそうになった。
これで否定できる材料が無くなった。
喉がやけに熱かった。
声を出すのにも、気力が必要だった。
「なんで僕の声だって思ったの?」
「それは……その……。って話をすり替えないで。あれがあんたなことくらい分かってるの」
彼女はまた僕に詰め寄ってきた。
彼女の顔は怒りからか真っ青になっている僕とは逆で少し赤くなっていた。
「安心していいわよ。この情報はまだ誰にも言ってない。でも、勘違いしないで。これはあんたを生かすも殺すも私次第ってことよ」
彼女は踵を返し、教室の鍵を開けた。
「もう、鈴音さんには近づかないで。それから、美優先輩の顔にもこれ以上、泥を塗らないで頂戴」
彼女はそう言い捨て教室を出ていった。
「これであなたには私だけ……」
去り際に口からこぼれるように呟いた井上さんの声は僕の耳には届かなかった。
僕はその埃っぽくて薄暗い教室にただ一人で立ち尽くしていた。
嫌なことというのは立て続けに怒るもので僕が帰ると家にはある人物がいた。
「姉さん……?」
「おかえり、翼。なんだか久しぶりね」
リビングのドアを開けたら羽織っていた白の薄手の上着をハンガーにかけている姉さんといつもは仕事で居ないはずの母さんが立っていた。
「姉さん、帰ってきてたの?」
「そう。ちょうど今帰ってきたところ」
「そっか」
姉さんは顔色一つ変えずにいつものクールで落ち着いた声音だった。
僕は早々に逃げるように部屋に向かおうとしたが遅かった。
「翼も見習いなさいよ。お姉ちゃん、大学でもいい成績の上、学費も自分で払ってるのだから」
「うん……そうだね。すごいよ姉さんは」
「ありがとう。でも、翼だって十分すごいじゃない」
姉さんは僕の前回のテストの答案を見て言った。
多分母さんが姉さんに渡したんだろうな。
「あなたに比べてあの子はこの程度なのよ」と言うわれているところが想像できて嫌だった。
「テスト、ほとんど90点台だし、数IIに至っては99点じゃない」
「でも、お姉ちゃんだったらそれくらい100点だったでしょ。それにこの子まだ一位だって一度も取れたことないんだから」
「そんなことないよ。翼は十分すごいよ」
分かってる。姉さんに比べたら僕なんかちっぽけな存在であることくらい。
99点と100点の差は一点だけなんかじゃない。
姉さんや結芽のような100点の人はそれ以上のポテンシャルがある。
でも、僕みたいなやつはどう頑張っても99点止まりだ。
姉さんは僕を庇ってくれているけど、それも僕からしたら少し怖かったんだ。
姉さんがあまりにも完璧だから。
「僕も姉さんみたいになれるように頑張るよ」
偽の笑顔はいつもみたいに作れているだろうか。
母さんと姉さんは笑ってくれているかな。
リビングの窓に映る自分がまるで道化師のように見えた。
これでいい。これがいいはずなんだ。
僕は偽の笑顔を貼り付けたまま、部屋にゆっくりと上がって行った。
初めて僕らが出会った時から2ヶ月が経ち、梅雨入りをした今でもそれは続いており、今のところ毎週二人でどこかしらに『いつもの格好』で出かけている。
お互いの服を見に行ったり、喫茶店を巡ってみたり、ただただ歩いてみるだけの日を過ごしてみたりと以前とは比べ物にならない程楽しい時間を過ごしている。
これがあるおかげと言うべきか、普段の平日もいつもより楽に過ごせているような気がする。
鬱憤が溜まっていて、心の中ではため息ばかりついていたのが今ではそのようなことも減った。
純粋に嫌なことより楽しいことを考える割合が多くなったのだと思う。
「中原、すまないがこれを小会議室まで頼むよ」
学校での待遇は変わらず、中年の担任の先生からは変わらず雑用を押し付けられるけれど。
「はい。分かりました」
先生は心做しか普段よりイライラしているような気がしていつもより気を使って笑顔を作った。
この教材も一枚一枚が薄く、成人男性の先生なら一人ですぐにでも運べる量だ。
先生同士で何かがあって会議室の方へ行きたくないのだろうか。
僕は小会議室によるついでにそのまま帰ってしまおうと鞄を背負い、教材の入ったダンボールを持って教室から出た。
「あれ?翼じゃん」
「え、結……、鈴音さん?」
「どうせ今は誰もいないからいつも通りでいいよ」
もし僕が結芽のことを下の名前で呼んで親しげに話しているところを他の人に見られてしまったら今度こそ袋叩きにされそうなので気を使ったのだけれど、それは杞憂だったようだ。
結芽は学校でも周りの人にバレない程度だけど僕に関わるようになった。
最初の方はアイドルのような結芽と美男子と呼ぶのにふさわしいイケメンの結芽との差に慣れるのに少し時間がかかってしまったけど、今では廊下で会ったらバレないように小さく手を振り合う程度になった。
「また雑用?それくらい先生も自分でやればいいのにね」
「仕方ないよ。僕は姉さんの弟だから」
ふーん。と結芽は納得してない様子でおもしろくなさそうに呟いた。
「嫌になったら言うんだよ。私も手伝うから!」
「ありがとう。結芽」
そんなのいいのに。別のクラスでしょ、迷惑かけれないよ。なんて言うより結芽はこっちの方が喜んでくれることを2ヶ月の間に学んだおかげで結芽は笑顔を取り戻してくれた。
「よろしい!それじゃあ、私は帰るのね。じゃあ、また日曜に」
「うん。またね」
踵を返して帰って行く結芽は途中まではこっちを見ながら大きく手を振っていたけれど、僕の向かい側に別の生徒がやってきたのを見て最後に小さく手を振ってから前を向いて行ってしまった。
僕も結芽といた時よりも歩くペースを上げて小会議室へ向かう。
今日は物理で少しつまづいたところがあるから帰って復習しないと。明日は英語の小テストもあるし。
なんてことばかりを考えながら小会議室のドアを開け、長机がホワイトボードに向かって二列になって並んでいる教室に入る。
手前には既に別の資料が入っているダンボールが置いてあったので混ざっても面倒だしと奥にある長机の上にダンボールを置いた。
この教室は「小会議室」なんて名ばかりでほとんど倉庫と化してるので換気が行き届いてなくて少し埃っぽい。
早く出てしまおう。
そう思い、扉を出ようと振り返ろうとした時、カチッと鍵のかかる音がした。
ドア付近の荷物か何かが倒れ、その拍子に鍵の開閉スイッチに当たったのかと思い、急いで後ろを振り返った。だけど、鍵をかけたのは倒れた荷物なんがじゃなくて、扉の前にはピンク色の陸上部のTシャツを着た女の人が立っていた。
その女子に僕は覚えがあった。
「井上……さん?」
井上琴音。
僕の同級生の陸上部で、彼女がこの高校に入った理由は確か姉さんだったはずだ。
彼女と僕が中学生だった頃、僕らは別の学校でお互いに陸上部に所属していて、僕は姉さんの、彼女は地元の先輩の応援のために高校生の大会を見に来ていた。
その大会で姉さんは一年生でありながら二年、三年の先輩と競い合い、その結果、準優勝。
元々、姉さんは中学生の頃から結果を残していたから注目はされていた。ただ、一年生で先輩相手に勝ち上がるなんて誰も想像しておらず、それはまさに偉業と呼べる出来事だった。
その姉さんの姿を見て、彼女は憧れの念を抱き、今の学校への入学を決めたという話を僕は陸上部の入部当初に彼女から何度も聞かされていた。
それからは今までと同じだった。
あの姉さんの弟ということで僕は最初は期待されていた。
けれど、徐々に僕の凡人さが明るみに出ていき、次第に失望されていった。
尊敬されていた最初の眼差しから一変、部活を辞めた今ではまるでごみでも見るかのような目で見てくる。
それが僕の今の彼女への印象だった。
「井上さん、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもない!」
彼女は背にある壁を思い切り平手で叩きつけた。
彼女はよほど怒り心頭のようで呼吸は荒く、落ち着きの無い様子だった。
彼女をここまで怒らせてしまうような理由が僕には一つあった。
「……それは僕が君に黙って陸上を辞めたこと?」
僕は彼女に部活を退部することを知らせずに辞めた。
もし、辞めると知られれば、裏表のない彼女のことだからきっと僕に「逃げるな」と言うだろう。それが怖くて、僕は彼女と部活をやめたあとも意識的に避けるようになった。
「それもよ!だけど、あなたには一度言ってやりたかったのよ」
彼女は大股でズカズカと迫り、僕は教室の奥の壁に追い詰められた。
彼女は僕よりも一回り身長が小さいのに、今は僕なんかよりもよほど大きく見えた。
「私はあなたが許せないのよ。なんであんたは部活を辞めたのよ?しかも私に黙って」
「……僕は姉さんほど優秀じゃないから、陸上をしながらだと勉強に置いてかれそうでね」
「そうは言っても、あなたいつも一位を逃してるじゃないの」
彼女は鼻で笑うように吐き捨てた。
一位はずっと結芽が取り続けたから僕はずっと二位だった。
結芽も頑張っている、人様の家庭に物言う訳では無いが、結芽はそれこそほとんど監禁と大差ないような環境で勉強している。
もう、自分だけが……。なんて思わない。
でも、そうは言っても。嫉妬心は完全に拭い切れるわけじゃない。
僕だって一位が取れたら、どのように僕を取り巻く環境は変わるだろうかと思ったのは今までに一度や二度じゃないし、それは結芽と出会ったあとでも、情けない話だが、無いわけじゃない。
その自分の心の弱さに飽き飽きする。
「それで今度は女子に現を抜かしてるわけ?」
「女子に現を……?いったいどういうこと?」
「とぼけないで!あんたと鈴音さんの一件は既に学校中に広がってるわよ」
僕と結芽が学校で初めて会った時、廊下全体がざわめいていたしそうなっていても不思議ではない。
僕がこの学校内の情報を得る術がないだけできっと、とっくにそうだったのだろう。
「勘違いしてるようだけど僕とゆ……鈴音さんは別に何も無いよ。あの呼び出しは僕が休日に出かけた時の落し物を渡してくれたからで……」
「そう。じゃあ、さっき鈴音さんがあなたが手を振っていたのは私の幻覚かしら?」
結芽さん!しっかり見られてますよ!
「それは……彼女はいい人だからこんな僕にでも優しくしてくれているんだよ」
「うるさい!」
井上さんはまだ納得がいっていないどころかさらに不機嫌になっているような気がする。
一体どうしたらいいっていうんだ……。
「もう彼女には近づかないで」
「なんで?」
正直、この言葉に僕は怒りを感じていた。
結芽のこと、僕のこと。何も知らないくせにそんなこと言うなよって。
「あんたと鈴音さんは釣り合ってないのよ。正直、みんな気を使ってるだけでなんであんたなんかが鈴音さんに呼び出されてんだって思ってるよ」
誰も理解してくれなかった。
誰も僕の影にいる姉さんを見ていて『僕自身』を見てくれなかった。
そんな中、結芽だけは僕のことを見てくれた。
『私』をも受け入れ、仲間だと言ってくれた。
何も知らない人が表面だけみて騒ぐのに徐々に怒りをこみ上げてくる。
「それから、話は変わるんだけどさ」
彼女は僕への圧を急に和らげて言った。
それがわざとらしくて嫌な気配がした。
「ちょうど二ヶ月前くらいに変わった人を見たの」
「……それがなに?」
「そんなに焦んないでよ」
からかわれ、嘲笑われているかのような気がした。
最悪の想定が脳裏を横切った。
「休日、女の人が財布の中身を地面にばらまいちゃってるところに出会ったんだ。私も拾うのを手伝おうと思って腰を屈めたのときの話」
頭から冷水をあびせられた気がした。
彼女は多分その場に居たんだ。
嫌だ。やめてくれ。それを知るのは結芽だけでいい。
「女の人から男の声がしたのよ。そう、聞き間違えるはずがない。あんたの声と一緒だったわよ」
膝から崩れ落ちそうになった。
これで否定できる材料が無くなった。
喉がやけに熱かった。
声を出すのにも、気力が必要だった。
「なんで僕の声だって思ったの?」
「それは……その……。って話をすり替えないで。あれがあんたなことくらい分かってるの」
彼女はまた僕に詰め寄ってきた。
彼女の顔は怒りからか真っ青になっている僕とは逆で少し赤くなっていた。
「安心していいわよ。この情報はまだ誰にも言ってない。でも、勘違いしないで。これはあんたを生かすも殺すも私次第ってことよ」
彼女は踵を返し、教室の鍵を開けた。
「もう、鈴音さんには近づかないで。それから、美優先輩の顔にもこれ以上、泥を塗らないで頂戴」
彼女はそう言い捨て教室を出ていった。
「これであなたには私だけ……」
去り際に口からこぼれるように呟いた井上さんの声は僕の耳には届かなかった。
僕はその埃っぽくて薄暗い教室にただ一人で立ち尽くしていた。
嫌なことというのは立て続けに怒るもので僕が帰ると家にはある人物がいた。
「姉さん……?」
「おかえり、翼。なんだか久しぶりね」
リビングのドアを開けたら羽織っていた白の薄手の上着をハンガーにかけている姉さんといつもは仕事で居ないはずの母さんが立っていた。
「姉さん、帰ってきてたの?」
「そう。ちょうど今帰ってきたところ」
「そっか」
姉さんは顔色一つ変えずにいつものクールで落ち着いた声音だった。
僕は早々に逃げるように部屋に向かおうとしたが遅かった。
「翼も見習いなさいよ。お姉ちゃん、大学でもいい成績の上、学費も自分で払ってるのだから」
「うん……そうだね。すごいよ姉さんは」
「ありがとう。でも、翼だって十分すごいじゃない」
姉さんは僕の前回のテストの答案を見て言った。
多分母さんが姉さんに渡したんだろうな。
「あなたに比べてあの子はこの程度なのよ」と言うわれているところが想像できて嫌だった。
「テスト、ほとんど90点台だし、数IIに至っては99点じゃない」
「でも、お姉ちゃんだったらそれくらい100点だったでしょ。それにこの子まだ一位だって一度も取れたことないんだから」
「そんなことないよ。翼は十分すごいよ」
分かってる。姉さんに比べたら僕なんかちっぽけな存在であることくらい。
99点と100点の差は一点だけなんかじゃない。
姉さんや結芽のような100点の人はそれ以上のポテンシャルがある。
でも、僕みたいなやつはどう頑張っても99点止まりだ。
姉さんは僕を庇ってくれているけど、それも僕からしたら少し怖かったんだ。
姉さんがあまりにも完璧だから。
「僕も姉さんみたいになれるように頑張るよ」
偽の笑顔はいつもみたいに作れているだろうか。
母さんと姉さんは笑ってくれているかな。
リビングの窓に映る自分がまるで道化師のように見えた。
これでいい。これがいいはずなんだ。
僕は偽の笑顔を貼り付けたまま、部屋にゆっくりと上がって行った。