俺はずっと、ひれがない魚だった。
 水のなか、深くて暗い底で、いつもひとり、水面に光る魚たちの影を見上げているだけ。
 混ざりたくても、ひれがないからあそこまで泳いでゆけない。
 ただ、魚の群れを見上げて、憧れているだけ。
 きっと、あの場所にはいけないまま、俺の人生は終わる。
 そう思っていた。
 あの、優しい光を知るまでは。


 ***


 それは、夏休みも終わりに近づいたとある真夜中のことだった。
「なぁ、肝試し行こーぜ!!」
 俺が発案した肝試し。
 はた迷惑な誘いであるにもかかわらず、ルームメイトである柚月は、なんだかんだ文句を言いながらも俺のわがままに付き合ってくれた。
 真夜中に寮を抜け出して、向かったのは学校。
 昼間とはまるで違う雰囲気の校舎に、俺の心臓はどきどきと高揚していた。
 こっそり忍び込んで、旧校舎のいちばん奥の教室を目指す。そこの窓だけ鍵が壊れていることを、俺は知っていた。掃除の時間に気付いたのだが、先生に知らせるのを忘れていたことを、数日前に思い出したのだ。
 鍵が壊れていた教室は、昔の理科室だった。
 藍色が落ちた室内。ヒビが入った試験管に、薄汚れてしまったビーカー。星空がぎゅっと詰まった水玉が落ちそうで落ちない蛇口。
 壁にかけられた標本の蝶は、今にも飛び出してきそうなほど大きく感じる。
 明かりがないからか、それとも人気がないからか、なんだかいけないことをしているような気分になってしまう。……まぁ事実、不法侵入という大変いけないことをしているのだけど。
「やべー興奮するってこれ! な、柚月!」
 大きな声を出す俺のとなりで、柚月は苦笑いをしている。
「お前は夜中なのに元気だな……」
「柚月は相変わらず冷静だな」
 お化けは怖くないらしい。相変わらず冷めた男だ。可愛い反応を期待していたから、ちょっと残念。
「なっ、次行こ、次!」
 俺は怖いふりをして柚月の背中に隠れつつ、次の部屋へ行こうと促す。
「こら、あんまり押すなよ。……ったく、勇ましいんだかビビりなんだか分かんないな……」
「へへへ」
 本当は、お化けなんてぜんぜん怖くない。だって、お化けなんて病院にはごろごろいたから。
 今日、肝試しがしたいと言ったのは、どうしても柚月とふたりだけの思い出がほしかったから。
 怖がるふりをしているのは、もっと柚月のそばに行きたかったから。
 触れたかったから。
 柚月に俺を、少しでもいいから意識してほしかった。
 好きだった。
 ただどうしようもなく、柚月のことが。
 もし俺がそう言ったら、柚月はどう思うのだろう。
 俺は柚月の背中をぐいぐいと押しながら、柚月と出会う前のことを思い出していた。


 ***


 ――俺は、生まれつき身体が弱かった。
 疾患は、心臓。そして、一歳のときに喘息も発症した。
 心臓のほうは、三歳までに二回手術をしたけれど、完治はしていない。発作を起こすたび、頭のなかが真っ白になって、そのたび、『あぁ、俺はもう死ぬんだ』と思った。でも、俺は生きていた。
 肺にはすぐに痰が絡まって、咳が止まらなくなった。
 うまく息ができなくて、いつもヒューヒュー苦しくて。
 頑張って痰を出そうと唾を吐くけど、うまくできない。
 吸引をすると楽になるけど、麻酔なしで口や鼻から直接チューブを入れられるから、される瞬間は苦しくて痛くてたまらない。
 でも、暴れても、泣いても、ゲロを吐いても鼻血を出しても止めてはくれない。
 そうやって、身を削るようにして一日一日を必死で生きてきた。
 ベッドに横たわる俺を見るたびに、家族は悲しそうな顔をしていた。
 申し訳なかった。
 早く元気にならなきゃ。家族が笑えるように。家族がもう心配しなくてすむように。
 そう思うけれど、同時に勝手だなと腹が立った。
 だって、治療がつらいのは俺だけ。家族は痛くも痒くもないのだ。そんな顔をするくらいなら、この痛みを代わってくれたらいいのに。
 身体が成長するにつれて、喘息はゆっくり改善されていったけれど、心臓のほうは日毎悪くなるばかりだった。
 ふつうに生活するためには、もう一度手術をする必要がある。
 主治医の先生には、物心ついた頃からそう何度も言われてきた。
 ――手術をしよう。
 先生も看護師も、家族もみんな、簡単に言ってくれる。
 助かる道がそれしかないのは、理解している。
 でも、頭では分かってはいるけれど、大人になればなるほど、『手術』という言葉に恐怖心は膨らむものだ。
 だって、怖いじゃん。
 手術してぜったい治るという保証があるならいいけど、そうじゃない。それに、手術自体が失敗する可能性だってある。
 眠ってるあいだに終わっちゃうよ、なんて看護師さんは簡単に言うけれど、眠ったまま起きられなかったらどうなるの?
 そう訊ねると、黙り込んだ。答えをくれなかった。
 ――死ぬよ。
 そうも言わなかった。大人はずるい。
 手術のことを考えるだけで、夜なんて簡単に眠れなくなる。術後のリハビリだって、頑張れる気はしなかった。
 それになにより、手術してまで生きる意味が分からなかった。
 こんな身体なら、生まれてこなければよかった。
 夢も、希望も、なにもない。こんな世界、生きている価値なんてあるのか。
 そう思いながら入院生活を送っていた十三歳の夏、俺は、運命に出会った。
『――藤峰水月?』
 見舞いに来た姉ちゃんが、俺にスマホを見せてきた。画面には、知らない男性アイドルグループの写真がアップで映っている。
『だれ? これ』
『私が今超ハマってるアイドル!』
『へー……』
 正直ぜんぜん興味なかったけれど、姉ちゃんがあんまり興奮気味に話すものだから、仕方なく話に付き合ってやっていた。
『私の推しはこの子なんだけどねー……見てみて、この藤峰水月って子! ちょーイケメンじゃないっ!?』
 ――藤峰水月。
 端正な顔立ちをした俺と同年代のアイドル。
 そのひとを見た瞬間、脳天に雷が落ちたような衝撃を受けて、気が付けば息をすることを忘れていた。
 きれいな顔。きらきらした瞳。無邪気な笑い声。
 水月のぜんぶに憧れた。男が男に憧れるなんて、おかしいのかもしれない。でも、好きなものは好きなのだ。
 俺は、あっという間に水月のファンになった。
 当時はまだ駆け出しで、ぜんぜんテレビの露出はなかったけれど、動画サイトでは結構人気があるようだった。
 水月を知ってから、俺の世界は変わった。
 毎日、彼を見るようになった。
 笑うことも多くなった。
 夜、眠るのも少しだけ怖くなくなった。
 明日が、楽しみになった。
『ねぇコウ。もし、コウの病気治ったらさ、ふたりで水月のライブ行こうよ!』
 ある日、俺の病室でライブ配信をいっしょに見ていた姉ちゃんが言った。
『俺と姉ちゃんでライブ? でも……』
 心臓は、手術をしないと治らない。喘息のほうは大人になるにつれてだいぶ軽くなってはいたけれど、それでも年に一度は発作を起こしている。退院だってできないのに、ライブなんてまず無理だ。
 答えられず俯いた俺の手を、姉ちゃんがぎゅっと握る。
『そんなことないよ! 私、それまでライブ我慢するから!』
『えっ!?』
 びっくりして姉ちゃんを見る。
『だからさ、コウも頑張ろうよ!』
 姉ちゃんは、どこか必死な顔で俺を見ていた。祈るような眼差しだった。
 その目を見て初めて、俺は姉ちゃんにずっと心配をかけていたことを自覚した。
 瞬間、目にじわっと涙の膜が張る。涙とともに、ずっと抱えていた思いがあふれた。
『っ……姉ちゃん、ごめんっ、俺、ずっと姉ちゃんに甘えてばっかで……弱虫で』
 姉ちゃんは、感泣し出した俺を優しく抱き締める。
『いいんだよ、そんなのあんたは気にしなくて。手術が怖いのは当たり前だもん。私がコウだったら、きっと毎日泣いてるよ。ママとパパに八つ当たりしてるかも。……だから、コウはじゅうぶん強いんだよ?』
 初めて聞くような、優しい声だった。
『そんなことないよ……だって俺、手術したくないって、ずっとわがまま言ってる。みんなに迷惑かけてる』
 すると姉ちゃんは、違う、と強く否定する。
『それこそ迷惑じゃないよ。私もママもパパも、ただ心配してるだけ。コウに生きててほしいだけ』
 ――生きててほしい。
 胸がきゅっと苦しくなる。
 俺は、生まれてきてよかったと思えたことが、これまで一度もなかった。俺を産んだ両親を恨みに思ったことさえあった。なんでこんなに苦しまなきゃいけないのか、と。
 でも。苦しいのは、俺だけじゃない――?
『……姉ちゃんも?』
『え……』
 身体を離して、俺はおそるおそる姉ちゃんの顔を覗く。姉ちゃんは困惑気味に眉を寄せていた。
『だって姉ちゃん、俺のこときらいじゃないの?』
『はぁ!? なんで私が……ちょっとコウ、どういうこと?』
 機嫌が悪いときの反応をされて、思わず怯む。姉ちゃんは目付きが悪いから(俺に似て)、睨むとかなり迫力が出る。
『だ、だって……生まれたときから俺が病気だったせいで、姉ちゃんは小さい頃からずっと我慢することを強いられてきただろ……?』
 それでなくとも、両親はずっと俺につきっきりだったから、姉ちゃんはいつも寂しそうにしていた。
 コウばっかりって、両親に泣いて文句を言っていたことも知っている。
 それがずっと、申し訳なかった。
『俺さえいなかったら、姉ちゃんはお母さんとお父さんにもっとたくさん愛されたはずなのにって……』
 そこまで言ったとき、頭上からゲンコツが降ってきた。
『いだぁっ!!』
 頭を押さえて姉ちゃんを見る。
『なっ、なにすんだよ!?』
 抗議するつもりで顔を上げると、いつも勝気な姉ちゃんが、目を潤ませて俺を睨んでいた。
『あんたがバカなこと言うからでしょ! あのねぇ、コウ。私たち、家族なんだよ!? 血が繋がった弟のことをきらう姉がいるか!!』
 ――家族。
『で、でも……』
『家族はねぇ、遠慮とかするもんじゃないんだよ!』
『むぐっ……!?』
 姉ちゃんは俺の両頬を手のひらで挟み、無理やりぐっと俺を上に向かせる。そして視線を合わせ、言った。
『そりゃ、子どもの頃は寂しいこともあったし、わがまま言いたくなるときもあった。だけど、そんなことできらいになるわけないでしょ! 私は、あんたが泣きながら治療受けてるとこ、何十回も何百回もこの目で見てきてるんだよ! あんたが苦しんでることくらい、いちばん知ってるんだから!』
『姉ちゃん……っ』
 再び涙腺が緩み出す。
 ずっとひとりだと思っていた。
 だれも、この痛みを分かってくれない。
 だれも、この苦しみを変わってくれない。
 ひとりぼっち。そう思っていたけれど。姉ちゃんも、お母さんもお父さんも、俺の痛みと同じだけの痛みを、抱えていたんだ。
『だから、あんたが手術したくないって気持ちだってちゃんと分かってるよ。わがままだなんてぜんぜん、これっぽっちも思ってないよ。だけど……それでも私は、治る可能性が一パーセントでもあるなら、受けてほしいって思っちゃうんだよ……。コウのことが、大好きだから。これからもコウといっしょにいたいから! これは私のわがままなの! 私がわがままを言ってるの!』
 そう、姉ちゃんは涙ながらに言った。
 初めて知る姉ちゃんの思いに、俺は再び感泣する。姉ちゃんは子どものように泣きじゃくる俺を見て笑いながらも、その目尻にも透明な涙が光っていた。

 しばらくして泣き止んだ俺は、姉ちゃんに向き合った。
『姉ちゃん……俺、手術受ける』
『ほ……ほんと!?』
『うん。……手術は怖いけど……本当は、死ぬほうがずっと怖いから。それに、水月のライブも行きたい!』
『よし!! よく言った! さすが私の弟だ!』
 俺は、手術を受ける覚悟を決めた。
 姉ちゃんが初めて口にした本音を聞いて、じぶんが初めて漏らした本音に気付いて。
 死ぬしかない、と思っていた俺の道を切り開いてくれたのは、家族と、水月の存在だ。
 姉ちゃんとの約束。
 水月のライブに行く。
 たったひとつの目標で、たったひとりの人間との出会いで、世界は変わる。
 ひとは変われるのだ。
 そんな存在に、いつか俺もなりたい。だれかの人生を変えられるような、そんな影響力を持つ人間に。そう、強く思った。

 その後手術は無事成功し、俺は長いリハビリの末、長年暮らした大学病院を退院した。
 しかし、手術から一年が経った中三になっても、水月のライブにはまだ行けていなかった。
 俺がファンになってすぐ、水月はものすごい勢いで売れ出して、あっという間にドラマに映画に引っ張りだこ。
 チケットはファンクラブに入っていても倍率がかなり高く、入手困難になってしまったのだ。
 ライブチケットが落選するたびに落ち込みながらも、テレビで見られる機会が増えたことは純粋に嬉しかった。
 なんとなく、水月のアイドルとしての成長が、俺の成長と繋がっているような気がして。
 そして、ふつうの生活を送るようになった俺は、とうとう学校へ通えることとなった。
 水月にハマるまでは勉強で暇を潰していたから、それなりに優秀だったということもあり、受験する高校は、地元の名門私立。
 ようやく俺にもひれができて、彼らの群れに混ざれる日が来たのだと、嬉しかった。
 しかし、いよいよ迎えた受験当日の朝、悲劇は起こった。
 会場に着く直前、最寄り駅の構内で、喘息の発作を起こしてしまったのだ。
 発作を起こしたのが人気のないトイレのなかだったということもあり、俺はひとりでうずくまったまま、咳き込んでいた。
 気道がほぼ完全にふさがってしまって、息を吸いたくても吸えない。噎せるばかりで、だんだん意識が遠のいてくる。カバンのなかに発作止めの薬があるけれど、取り出す余裕すらない。
 どうしよう、こんなに頑張ったのに。怖かった手術だって乗り越えたのに。姉ちゃんとの約束、まだ果たせてないのに……。
 ――だれか、助けて……。
 薄れる意識のなかで嘆いていると、そっと背中にあたたかななにかが触れた。
『大丈夫ですか……!?』
 急病人を前にしながらも、落ち着いた声。
 タオルで口元を押さえたまま顔を上げると、そこにはどこかの制服を着た男子がいた。
 顔は涙でぼやけてよく見えない。ただ、なんとなく雰囲気が水月に似ている気がした。
 俺は噎せ返りながらも、なんとか床に落としたカバンを指さす。
『カバン……? あ、薬か! ここ開けるな。どこにある? 内ポケット?』
 そのひとは、少し狼狽しながらも的確に薬を探し出し、渡してくれた。
 吸入薬を飲み、しばらくして発作が落ち着くと、俺は彼に礼を言った。といっても、発作直後でうまく声が出せず、口パクでだけれど。
 それでも彼は俺の口パクを理解してくれたようで、ひっそりとした笑みを浮かべながら、頷いてくれた。ほっとした。
 そのあと、俺はなんとか無事に受験を終えて、合格を果たしたのだ。

 ――そして、初めての入学式を迎えた春。
 俺はまた、運命に出会った。
 ――藤峰柚月。
 受験のときに助けてくれたあの男子学生と、偶然にも再会したのだ。
 残念ながら、その男子学生――藤峰くんのほうは俺のことを覚えていなかったけれど。でも、それがちょっと嬉しかったりもした。
 だって、あのできごとを覚えていないということは、藤峰くんにとって道端で倒れているひとがいたら助ける、という行為が当たり前のことなのだと分かったから。
 あんな現場、そうそう居合わせるものでもないはずなのに。特別なことをしたと思っているなら、きっと彼の記憶に俺の存在は残っていたはずだ。
 でも、その記憶のなかに俺はいない。
 つまり、彼にとってひと助けは、息をするように当たり前の行為なのだと。
 藤峰柚月くん。
 いったい、どんなひとなんだろう?
 仲良くなりたいな。
 けれど、話しかけるチャンスをうかがっているうちに、数週間が経過してしまっていた。
 ほかの奴らとはすぐに打ち解けることができたのに、藤峰くんとはぜんぜん接点が作れないまま、どんどん時間だけが過ぎていく。
 特別過ぎて、怖い。でも、諦めたくない。相反する感情の狭間で悩んでいたとき、彼の噂を耳にした。
 特待生で入学した優等生。
 みんなが頼れる委員長。
 そして――藤峰水月の弟であるということ。
 ……藤峰水月の弟!?
 驚いた、なんてものじゃない。
 憧れの水月。その弟が、同じクラスにいる。
 まるで漫画かアニメの世界だ。
 これを運命と呼ばないのなら、なんと呼ぶのだろう。
 俺たちはやっぱり運命だったのだ。
 もちろん、憧れの水月との接点ができた、と喜んだのではない。
 藤峰くんとの縁を、水月が繋いでくれたということが、嬉しかった。
 わくわくした。心臓がときめく、という経験を、初めてした。
 ――だけど。
 しばらく彼を観察するうちに、気付いた。
 藤峰くんは、いつもひとりだった。
 特定のだれかとつるむことなく、いつもひとり黙々と勉強している。
 委員長として、クラスのみんなの悩みや問題の相談に乗っていたりはするけれど、それ以上はない。部活にも入らず、寮もひとり部屋。
 朝早くひとりで登校して、授業が終わった放課後はずっと自習室。下校時刻になったら寮に戻って、それからはずっと部屋で勉強。
 藤峰くんは、そういうサイクルで生きていた。
 付け入る隙がなかった。
『委員長ー、課題見せてよー』
『委員長、このプリント配布頼む』
『あの子、藤峰水月の弟らしいよ』
『藤峰って、あの特待生の? なんかツンとしててイケすかねーよな』
『家族が芸能人だからって、じぶんも特別だとか勘違いしちゃってんのかな?』
 しばらく彼を観察していると、もうひとつ気付いた。
 それは、だれも彼のことを名前で呼ばないということ。
『委員長』とか、『特待生』とか、『水月の弟』とか。とにかく、名前を呼ぶ奴がひとりもいないのだ。
 あだ名なんてふつうのことかもしれないけれど、なんとなく気になった。
 だって、名前ってその存在を認めるためのものだ。
 みんな、名前で呼ばれたいと思うものなのではないだろうか。
 だから俺は、まず彼を名前で呼ぶことにした。
『柚月』って。
 だってそうすれば、俺を見てくれるかもしれないと思ったから。俺が特別になれるかもしれないチャンスだったから。
 それから、わざと寝坊するようになった。寝坊すれば、柚月が迎えに来てくれるって分かっちゃったから。
 初めは体調が優れなくて、本当に起きられなかっただけだったけど、その日から三日に一回くらいは、わざと起きないようにした。
 柚月が迎えに来てくれれば、学校までいっしょに登校できるから。ふたりで話す時間が作れるから。
 友だちの作りかたを知らない俺にとってその時間は、ささやかな楽しみになっていた。
 けれど、あんまり遅刻していたら、雨谷先生に呼び出されてしまった。
『さすがにな。これ以上はな』と。
 このままだと、部屋を変えざるを得ないと言われた。
 柚月と同じ部屋にして、規則正しい生活に慣れるように矯正させるぞ、と。
 たぶん、雨谷先生は脅しのつもりだったんだろうけれど、俺にとってはこれ以上ないご褒美だ。
 だって、柚月と同じ部屋だなんて。
 ぜったいなりたい。
 だから、
『お願いします!!』
 俺は食い気味で頭を下げた。
 柚月のことをもっと知りたい。
 柚月ともっと仲良くなりたい。
 柚月はどんな歌を聞くんだろう。
 どんなドラマを見るんだろう。
 歯磨き粉はなにを使う?
 目覚ましの音はなににしてる?
 ささいなことまで気になってしまう。
 これじゃあまるで、恋する女の子だ。
『……あぁ、そうか』
 これは、恋だったのか。
 俺は、柚月に恋をしていたのだ。
 じぶんと同じ特待生に。
 ルームメイトに。
 アイドルの弟ではない、藤峰柚月に。
 そして――同性である、男に。
 柚月のことを知れば知るほど、水月でいっぱいだった俺の頭のなかが柚月で塗り替えられていく。それは、柚月が俺にとっての特別であることの証拠だった。
 けれど、残念なことに、俺は柚月にきらわれているらしかった。
 俺は柚月のことが大好きなのに、柚月はそうじゃないみたい。
 いつも鬱陶しそうに俺を見るし、説教をしてくる。いつも文句ばっかり。俺に指示するばっかり。
 言うことをきかないと、怒る。
 でも、その忠告を素直に聞いて、いい子になったら部屋をまた戻されてしまうかもしれない。
 それはいやだ。
 きらわれたくない。
 だけど、俺は男だから、きっと、彼に好かれることは永遠にない。
 それならいっそ、きらわれてでも、柚月の視界に入っていられる人間でいたい。……できれば、きらわれないで、いたいけれど。
 だから俺は、うそを重ねた。


 ***


 肝試しからの帰り道。
 結局、怪奇現象なるものには出会えなかった。けれど、またひとつ柚月との大切な思い出ができたから、俺としては大満足だ。
「さて、そろそろ戻ろ。バレないうちに寮に帰らないと」
「えーもう? あっという間だったなぁ……肝試し」
「……まぁ、そうだね」
 相槌を打つ柚月の声も、少しだけ名残惜しそうなニュアンスを含んでいる気がするのは、きっと気のせいじゃない。それが、とてつもなく嬉しい。俺にしっぽがあれば、たぶんはち切れんばかりに振っていることだろう。
「でも、楽しかったな!」
 嬉しくなって、笑顔で笑いかけると、
「……うん」
 柚月もわずかに笑った。
 ほんの些細な表情の変化だけど、今ならその変化がちゃんと分かる。ちゃんと気付ける。その変化が嬉しくて、俺は叫び出したい衝動を必死に堪える。
 入院していた頃、楽しい時間はあっという間だという言葉を、俺はぜったいうそだと思っていた。
 だって、入院していた頃は一晩が果てしなく長く感じていたから。
 でも、柚月が教えてくれた。
 あの言葉は、うそではなかった。
 柚月といると、驚くほど時間が早く過ぎていくのだ。このまま時間が止まってしまえばいいのに、なんて乙女チックなことを考えてしまうくらいに、早く。
 歩きながら、ぼんやりと空を見上げる。
 このまま帰るのはやっぱり惜しい。もう少しだけ、柚月とふたりで特別なことをしたい。
「……なぁ、柚月。コンビニ寄っていかね?」
「はぁ? 今から?」
「うん、今から!」
 柚月が呆れた顔を向けてくる。まぁ、予想どおりの反応だ。
「学校にチクられたらどうするんだよ」
「私服だし、学生かどうかなんて分かんないんじゃない?」
 ちょっと下手に、可愛らしい……かどうかは分からないが、できるかぎり可愛らしく甘えてみる。
「ダメ。夜中は客が少ないから、顔を覚えられやすいんだよ」
 ばっさりだ。
「ちぇー……アイス食いたかったのに」
 真面目な柚月は、俺の提案をあっさり却下。相変わらず、カタブツくんだ。そんなところも好きなんだけど。
「アイスくらい、明日まで我慢しろよ」
「うへぇ。出た、我慢」
 俺がこの世でいちばんきらいな言葉。そして、柚月がよく口にする言葉でもある。
「茶化すな。お前は我慢が足りな過ぎなの」
 柚月に諭される。
「自覚してます〜。……でもさぁ、わがまましたくなるのが人間じゃん?」
「それを自覚して、我慢するのが人間なの」
「うっ……ああ言えばこう言う」
「おまえのためにな」
 俺のことをすべて分かってるような口ぶりで、柚月が言う。
 俺のためって、なんだよ、それ。俺だって我慢くらいしてる。これ以上無理って叫びたくなるくらい、毎日柚月を我慢してるのに……。
 俺の我慢なんてなんにも気付いていない顔をする柚月にイラついて、俺は衝動的に柚月の手を掴んだ。
 柚月が驚いた顔で俺を見る。
「なんだよ、怒ったの?」
「……ちげーよ」
 違くない。本当はめちゃくちゃ怒ってる。
 まるで俺のことなんて意識してませんというような無防備な顔を向けられて、胸が苦しくて、よく分からない涙が出そうになっている。
 ムカつくのに、腹が立ってるのに、繋がれた手から伝わる柚月の体温は、たやすく俺の心臓を掻き乱して、甘く俺を絆していく。
 あぁもう、なんで俺、こんなに柚月のことが好きなんだろ。俺ばっかりが柚月を好きで、いやになる。
「……じゃあなに?」
「…………」
 柚月が優しく訊く。
 あぁ、もう。こういうときばっか優しいとか。
 このまま告白したら、すんなり俺を受け入れてくれるんじゃないか、なんて誤解してしまいそうになる。
 落ち着け、俺。
「……柚月はちょっと我慢し過ぎだと思う」
 呟くように言うと、柚月が怪訝そうな顔をした。
「……いや、そんなことないだろ? べつに」
「あるよ! 柚月はもう少し、わがままになってもいいと思う!」
 強めに言うと、柚月が戸惑った声を漏らす。
「お、おう……なんだよ。すごい言うじゃん」
「ご、ごめん。でもその、柚月見てるとなんかつらくなるんだ。前から思ってたけど、柚月は〝我慢〟って言葉に呪われてると思う」
 柚月は話を遮ることなく、じっと俺の言葉に耳を傾けてくれている。なんだかんだ優しい柚月は、いつも俺の話を最後まで聞いてくれるのだ。
「その……柚月は健康だからぴんと来ないかもだけど、生きてること自体、すごい奇跡みたいなことなんだよ」
 俺は、少し前までいろんなことを我慢してきた。我慢しなきゃ死ぬって言われていたから、我慢すること自体強制だった。
 だからこそ俺は、ずっと憧れていた。ふつうというものに。それが今だ。
「柚月のふつうは、俺にとってはすげぇ特別だってこと、分かってほしい」
 すると、柚月はハッとしたように息を呑み、俯いた。
「……ごめん。僕、不謹慎なこと言ったよな」
 いつになく真面目な口調で言ったせいで、柚月は俺が怒ったと勘違いしたらしい。
 あぁもう、なんて可愛いんだろう。
 今の話は、俺が俺の気持ちを誤魔化すためにそれっぽく言っただけなのに。それなのに柚月は、俺の言葉を素直に受け取って、反省して、向き合ってくれている。
 柚月の素直さといじらしさに、好きだ、と心のなかで叫びながら、俺は、いつもどおりのふざけた笑みを貼り付ける。
「や、べつに責めてねーって! お互いじぶんの意見を言っただけだし。つーか、元気なやつに元気でいられる幸せを自覚しろなんて、無理な話よ」
 俺は健康ではなかった。だから気付くことができただけのこと。逆を言えば、健康であることが当たり前の柚月には、ぴんと来なくて当たり前の話なのだ。
「……その、だからさ、なにを言いたいかと言うと、俺にとっては、柚月は特別だってこと」
 だから、せめて俺の前ではただの柚月でいてほしい。強がらないで、素を見せてほしい。
「う……うん?」
 柚月が戸惑い気味の視線を向けてくる。俺は一度言葉を呑み込んでから、思い切って柚月に告げる。
「俺は、たとえ柚月が優等生じゃなくなっても、わがままになっても、ぜったい見捨てたりしない。兄弟がアイドルとか、そんなのもどうだっていい。俺は柚月がいちばんいい! だれよりも大好きだって、今ここで誓う!」
 静かな夜空に木霊するほど響く、大きな声で宣言した。
「…………」
 柚月は目を見開き、驚いた顔のまま瞬きもせず俺を見ている。
「……ゆ、柚月?」
「…………」
 無反応。
「あの……おーい?」
「…………」
 やっぱり無反応。
 どうしよう。さすがにこれは焦る。
「み……見過ぎだろ!」
 いたたまれなくなってツッコむと、柚月がぴくっと肩を揺らして我に返った。
「あ、ご、ごめん。つい」
 柚月は、ぱちぱちと忙しなく瞬きをしている。つられるように俺も瞬きをしながら、頭のうしろに手を持っていく。痒くもないのに、後頭部を乱暴に掻きむしった。
 再び静寂が落ちる。コンビニの明かりが、わずかに俺たちの姿を闇に浮かび上がらせている。
 俺たちは、無言のまま見つめ合った。時間で言えば、おそらくほんの数分。でも、その数分がやけに長く、何十分にも思えた。
「あのさ、コウ」
 しばらくしてようやく、柚月が口を開いた。
 柚月の気まずそうな顔に、一気に現実が押し寄せる。ヤバい。今のはさすがに告白だって、バレた。どうしよう、ぜったいにきらわれた。
 次の言葉を聞くのが怖くて、俺はギュッと目を瞑った。
 夏休み直前、プールでのできごとが蘇る。あのとき俺は、プールのなかで柚月に告白をした。『好きだ』と言った。
 柚月はなんて言ったのか分からなかったみたいだけど、それでよかった。柚月の目を見て想いを告げられただけで、満足だった。
 これは、自己満足。
 実際俺の気持ちを伝えたところで、柚月を困らせるだけなのは分かっているから。
 同性愛者が同部屋なんて知られたら、さすがに部屋替えは免れられないだろうから。柚月と離れるくらいなら、ただのルームメイトでいる。この気持ちを我慢する。そう決めてたのに。なにやってんだ、俺は。
「やっ……今のはさ」
 冗談だよ! と、笑って誤魔化そうとした瞬間、柚月が一歩踏み出した。踏み出したぶん、俺と柚月の距離が縮まる。驚く間もなく、柚月が俺の頭に手を置いた。そのまま、わしゃわしゃと撫でられる。まるで犬を撫でるみたいな撫でかただったけれど、俺の心を乱すにはじゅうぶん過ぎた。
「わっ……え、な、なんだよ、ゆづ……」
 撫でられながら、ちらりと柚月の顔を見上げる。
「……うん。なんか撫でたくなった。……ありがとな」
 返ってきた言葉が、余計俺の心臓を締め上げてきやがる。
 見上げた柚月は笑っていた。とても優しい笑顔で。うわ、と思って目を逸らす。目に焼き付けたいと思う反面、恥ずかしくて顔があげられない。
 今の顔を見られたら、気持ちがバレる自信がある。
 ……でも。
 ちらりと柚月を見る。
 見ると、柚月の頬もいつもよりほんのり赤くなっている気がした。……なんて、思ってしまうのは、さすがに都合良く考え過ぎだろうか?
「あのさ、コウ」
 今すぐにでも抱きつきたい衝動をこらえていると、柚月が俺の名前を呼んだ。
 柚月の声で紡がれるじぶんの名前は、信じられないくらい甘美に俺の耳を刺激する。
「な、なに?」
「僕も、コウのことは特別だと思ってる」
「え……」
 どくん、と心臓が跳ねる。俺はもう一度そろそろと顔を上げて、柚月を見る。柚月は、俺をまっすぐに見下ろしていた。ずっと焦がれ続けている瞳が、まっすぐ俺だけを見つめている。
「僕を、見つけてくれてありがとう」
 全身の体温が急上昇する。
 ヤバい。死にそう。
 不意打ちで向けられた柚月の笑顔の破壊力ったらない。
 柚月はいつも、俺の前では怒っているか、青ざめて嘆くかばかりだったから。まぁ、俺のせいなのだけど。
 とにかく、柚月が笑っている。
 俺に向かって。俺だけに向かって。
 笑っている柚月から、目が離せなくなる。
 ……あぁ、もう。泣きそうなんだけど。
 心臓を素手で鷲掴みにされたように、息が苦しくなる。
 苦しくて、目頭が熱くなって、いろいろ穏やかじゃないのに、嬉しい。愛おしい。こんなにも優しい感情が俺にも存在したのかと驚く。
 同時に、柚月と出会わせてくれた神様に感謝を叫びたくなった。
「さて。帰ろ」
 俺の気持ちを知ってか知らずか、柚月があっさり俺の頭から手を離して歩き出す。
 状況を思い出し、俺は慌てて柚月の手首を掴んだ。
「待って、特別ってなに? どんなふうに特別? 俺、柚月のどんな特別なの?」
「いや、どんなって……ふつうにだよ」
 柚月が困惑顔で僕を見る。
「ふつうに特別? え、なにそれどういう意味?」
「うっ、うるせーな。いいじゃん、そこはもう」
「よくないよ! そこはよくない。柚月のなかの特別ってなに!?」
「しつこいなー。じゃあもう、コウと同じ特別でいいよ」
 投げやりなそのひとことは、俺を興奮させるにはこれ以上ない一撃だった。
「はぁ!? ダメだよ、そんなの! そーゆうことは軽々しく言うなよ!」
「はぁ? 軽々しくって、べつにそんなつもりねーよ。……つーかなんでダメなんだよ」
 俺が怒った意味が分からないのか、柚月がとうとうため息をつく。
 呆れられてると分かっていても、こればっかりは流すことはできない。だって。
「だって俺の特別は……」
 続きを言いかけて、ぐっと言葉を呑み込む。危ない。口を滑らせるところだった。
「……コウ? どうした?」
 黙り込むと、柚月が訝しげに俺を見る。
 ダメだ、これ以上はボロが出る。
 後ろ髪を引かれる思いがありつつも、俺はじぶんの心が制御できるうちに話題を逸らす。
「……あ、ううん、なんでもない。うわぁ、それよりなんかいろいろ考えてたら眠くなってきた!」
「はぁ!?」
 いつものようにばかなふりをして話題を変えると、柚月もまたいつもの呆れた顔をした。
「へへっ、ほら、早く寮に帰ろーぜ」
「おまっ……自由にもほどがあるだろ!? さっきの話は?」
「もうおしまーい!」
「いやいやいや!」
「いいじゃん! 俺が自由なのはいつものことだろ?」
 文句を言う柚月の手をぐいぐい引きながら、俺は再び寮への道を歩いていく。
 一方的に掴んだ手は、少し切ない。
 でも、今はこれでいい。
 だって俺は、柚月にうそをついている。
 兄貴がアイドルだって知らなかったのはうそ。
 遅刻癖があるのもうそ。
 お化けが怖いのもうそ。
 いろいろ、ぜんぶうそ。
 だから、仕方ない。
 この気持ちは、ふつうじゃないって分かってる。俺ばっかりが柚月を好きだってことも、分かってる。
 でも、それがどうした。俺のふつうは俺が決める。俺が特別だと思うひとは、俺が決める。それでいい。
 たまにちょっと傷付くし、たまにちょっと我慢できなくなりそうになるし、鈍感な柚月に腹が立つときもあるけれど。
 いつかの俺にとっての水月のように、俺も、柚月の光になりたいから。
 今はまだ、この名前のない関係が愛おしいと思えるから。
 薄闇のなか、肩を並べて歩くこの時間が、泣きたくなるくらい幸せだから。
 だからまだ、もう少しだけ、このままで。