翌日、僕は無事退院した。もう大丈夫だと何度も説得したけれど、両親が寮の前まで送るときかないので、素直に送迎を頼むことにした。
寮の前まで車で送ってもらい、夏休みにはちゃんと帰るという約束をして、別れる。
寮の部屋に戻ると、三石がベッドで寝ていた。
「……いや」
いやいやいや。おかしい。
僕は時計を見た。時刻は午前十時を指している。今日は金曜日。今の時間は、学校のはずだ。
見間違いだろうか。そうだと思いたい。
とりあえず、声をかけてみる。
「……おい、おい三石」
軽く揺するが、起きない。
「おいってば」
「んぁ?」
無理やり枕を引っこ抜くと、ようやく三石は目を開けた。眠そうに眉を寄せて、くあっと大きな欠伸をしている。欠伸を終えると、僕を見て固まった。
「……あれ、柚月じゃん。退院したの?」
「……うん、おかげさまで」
病院を出たときまでは礼のひとつでも言ってやろうと思っていたけれど、やめた。
こいつ、学校はどうした。聞きたいけどどうせろくな返答は返ってこない気がする。
「おめでと。よかったな、大したことなくて。顔色もいいし安心したわ」
「あぁ、うん……」
三石は、それまで眠そうにしていたくせに、しっかりと目を合わせてくる。こいつ、本当に寝ていたのか?
クローゼットから制服を取り出しながら、ちらりと三石を見る。三石はベッドに座ったまま、呑気に大きな欠伸を繰り返している。
それを見ていたら、なんだか全身から力が抜けた。
「……あのさ、三石」
「ん〜?」
「……その、ありがとう。いろいろ」
「……いろいろとは?」
三石に訊き返され、僕は言葉につまった。つっこまれるとは思わなかった。三石の澄んだ眼差しに、僕は恥ずかしさをこらえつつ、
「え……いや、その……お母さんが言ってた。三石に叱られたって」
すると三石はようやく納得したように、あぁ、と言った。
「あれね。べつに、俺は思ったこと言っただけだから。つか、叱ってねぇからな」
三石はどこか戸惑ったような声音だった。気まずいのか、瞬きの回数が増えている。
もしかして、気を遣っている?
無鉄砲なやつだと思っていたけれど、三石は三石なりに、ちゃんと考えて行動しているのかもしれない。
いや、ふつうに考えればそんなことは当たり前なのだけど、なんとなく先入観で、三石はなにも考えていないのだろうなと決めつけてしまっていた。
「……三石は、すごいな。だれにでもまっすぐじぶんの意見を言えて」
「べつにすごくないだろ」
「すごいよ。僕にはできないから」
白いワイシャツに視線を戻して、僕は続ける。
「……本音を言うと、僕、本当はここじゃなくてもよかったんだ。高校」
三石がちらりと僕へ視線を向ける。
「家を出られればそれでよかったんだ。水月ばっか気にかける両親と、仕事で忙しくしてる水月を間近で見ているのがいやで、寮があるここを受けたんだ。特待生として入学すれば、学費も寮費も免除されるから、親に迷惑もかからないだろうと思って」
少しの間を開けて、三石が訊ねてくる。
「……水月って、アイドルやってる兄貴だっけ?」
「うん」
三石は目尻に溜まった涙をごしっと拭うと、ベッドの上にあぐらをかいてこちらを見た。
「……正直僕、今まで三石のことがきらいだった。三石はさ、なんとなく水月に似てるんだ。自由気ままで、ちょっと問題児で。小さい頃から両親は、水月に手を焼いてた。でも、中学のとき事務所の社長にスカウトされてアイドルになってからは、真面目に仕事に打ち込むようになって、あっという間に人気者になって……ブランドで私服まるごと固めちゃうくらい大金持ちになって。両親はすっごく喜んでてさ。自慢の息子だったんだと思う。でも、忙しくなればなるほど、両親はさらに水月にかかりきりになって」
三石はなにも言わず、黙って僕の話を聞いている。
……意外だった。もっとちゃちゃを入れてくるかと思ったのに。
「……僕だけ取り残されてるみたいで、すごく焦った。でも、僕はお金なんて稼げないし、みんなが振り向くような容姿も持ってない。……だからせめて、迷惑をかけちゃいけない、面倒をかけちゃいけないってずっと思ってて」
でも、いい子のふりをするのは想像以上に窮屈だった。ずっと笑顔で、物分かりのいいふりをして、ため息を呑み込む日々。
「だから、家を出たの?」
こくりと頷く。
「水月のことばかり話すふたりを見ていたくなかったんだ。両親には水月がいればいい。僕は用無しなんだって、言われているような気がして」
だから、当てつけみたいに勉強しまくって、特待生としてこの学校に入学した。
「ただの柚月じゃなくて、『特待生の柚月』になれば、僕にも価値が生まれるかなって」
「価値ってお前な……」
三石が呆れた声で呟く。
「あのさ、価値ってそもそも、ひとに使う言葉じゃねーからな?」
「え?」
「価値ってのは、ものに使う言葉だよ」
三石の言葉は、驚くほどすんなりと僕の胸に落ちた。
僕はずっと、じぶんに価値なんてないと思っていた。
そのとおりだ。『価値』なんてない。僕はものじゃない。人間なのだから。
「俺らはひとで、言葉を持ってる。だからさ、思ってることはちゃんと口に出したほうがいいよ」
口に出す。
思っていることを。
ずっと、喉で詰まらせていた言葉たちを。
本音を言うのは怖い。だけど、踏み出すなら、今だ。そして、覚悟を決められるとしたら、今しかない。そんな気がする。
「本当は……当てつけなんかじゃなかった」
「うん」
声が震える。三石はまっすぐ僕を見て、耳を傾けてくれる。その眼差しに背中を押されるように、僕は想いを吐き出していく。
「本当はただ……頑張ったねって、そう言ってほしかっただけだった。ほんの少しでいいから、お父さんとお母さんに、僕を見てほしかった……心配してほしかったっ……!」
昨日の涙が、心のなかで乾き切っていた泥を溶かしていったみたいだ。それを今、一気に吐き出してゆくような心地だった。
「……そっか」
笑われるかと思ったのに、三石は意外にも真剣な顔で僕の話を聞いてくれていた。不意打ちで優しく微笑まれて、じわっと頬が熱くなる。
……ち、違う。これは、泣いてるから熱く感じてるだけだ。ぜったい、そうだ。
「……ごめん、帰って早々愚痴って」
いたたまれなくなって、制服をハンガーから取ると、洗面所に向かう。扉に手をかけたとき、三石が言った。
「……あのさ、柚月は俺のことすごいって言ったけど、べつにそんなことないよ」
「え……」
「俺はさ、生きてれば満足なの。人生に目標なんてないし、夢もない。特待生になったのはたまたまだし、ラッキーぐらいにしか思ってなかった」
三石がなにを言いたいのか、よく分からずに僕は首を傾げる。
「だから、目標を持って勉強してる柚月はすごいってこと」
「……そんなことないよ」
「それからもうひとつ、ずっと言いたかったことがあるんだけど」
「なに?」
「柚月はひとりぼっちじゃないよ」
「…………」
「柚月には俺がいるじゃん。――俺は、柚月のことが好きだよ」
「え……」
心が揺らぐ。ただ好きと言われただけなのに、心臓がどうしようもなく騒ぎ出す。
「……なんだよ、好きって」
「そのまんまの意味だよ。まぁ、解釈はおまえに任せるけど。とにかく好きなんだよ」
いつものふざけた表情とぜんぜん違う真剣な眼差しに、僕は狼狽える。
「…………」
なんだよ、その目は。
「好きだよ」
なんてことない四文字。だけど、なんてことないこの四文字を、僕は、これまでずっと、求めていた。求めていたけれど、だれも……。
唇を引き結んだ。涙が出そうになる。
「……なんだ、それ。意味分からないし」
分からないけれど、嬉しいと思っているじぶんがいる。
「アイドルの兄貴のことは俺は知らねえけど、俺は柚月が好きだよ。柚月が優等生じゃなくても、柚月の兄貴がアイドルじゃなくても。……だって俺のわがままにここまで付き合ってくれるの、柚月ぐらいだし」
そうかもしれない。だけど、僕が三石のわがままに付き合ったのは、僕自身に価値を見出すためだった。心臓が脈を打つたびに染み出すような罪悪感を感じて、僕は俯いた。
「……僕はただ、先生に頼まれたからやってただけだよ」
かすかな笑い声が聞こえた。ひっそりとした三石の笑い声は、知ってるよ、と言ったように思えた。
「それでも、だよ。それでも俺は嬉しかったんだ。俺は柚月と同じ学校で、同じ部屋になれて心から良かったと思ってる。おまえにどう思われてたとしてもさ。……まぁ扱いは雑だし、みんなといるときよりかなり口も悪くなってたけどな〜」
「そっ……それは、お前が言うこときかないからだろ」
服の袖で涙を拭いながらツッコむと、今度はいつもの三石らしい笑い声が飛んできた。
「ははっ、だな〜。……じゃあさ、今日から先生がもう俺の世話やらなくていいって言ったら、柚月はどうする? ここから出てくの? 俺と話してくれなくなるの?」
突然真剣味を帯びた声に変わって、僕は三石を見る。
「……なんだよ、いきなり」
「だって、今義務で俺のそばにいるってことは、そういうことだろ? 柚月は、俺のこと、どうだっていいってことになる」
少し切ないその表情に、喉が詰まった。
「……そんなことない。僕はお前のこと、べつにきらいじゃない」
本当は、最初からきらいじゃなかった。きらいじゃなくて、
「……ただ、羨ましかっただけ」
自由気ままに好きなことやって、みんなに好かれている三石は僕にはちょっと眩しすぎた。
「ははっ」
三石はからっと笑うと、黙り込んだ。
「……三石?」
「あ〜……」
突然黙り込んだ三石の顔を覗き込むと、三石はなぜか、頬をほんのり赤くしていた。
……いや、なんだよその顔。つられるように僕の頬も熱を帯びてくる。
「ははっ! やべー、めっちゃ嬉しいな!」
なにも言えなくなっていると、三石がパッと笑った。陽だまりのようなその笑顔を真正面からくらって、僕はこれまで感じたことのない感情を抱く。
「…………」
「って、なんだよ。柚月? 無視すんなよ! って、おまえ、顔赤……」
「うっ、うるさい! こっち見んなってば!」
顔の火照りを指摘されて、僕は思わず三石に背中を向ける――が、三石の手によって阻止された。
「待って!」
「ひゃっ……!?」
引き止められ、変な声が漏れる。咄嗟に抗えず、僕と三石は至近距離で向かい合うかたちになった。
「な、なんだよ」
「さっきの好きって意味だけどさ」
「う、うん」
ごくりと息を呑む。
三石は黙り込んだまま、なにを思ったか僕の頬にすすっと手を滑らせてきた。突然頬を撫でられて、息が止まる。突然のことに、身動ぎすらできない。
「……あのさ、さっきは解釈任せるって言ったけど」
「う、ん……?」
なにを言われるんだろう?
この状況、まるで告白、のような……。
どくん。
心臓の音がひどくうるさい。落ち着け、僕。落ち着いて、頼むから。
こころなしか三石の声はなんだか甘い気がする。それに、瞳も熱を帯びているような……ということはまさか。まさかこれって……。
鼓動が最高潮になったそのとき、三石がパッと見をひるがえした。
「……なーんて、まつ毛がついてるよん」
三石は僕の目元を親指の腹できゅっと払うと、あっさりと離れた。呆気にとられた僕を見て、三石が屈託なく笑いかけてくる。
「はっ……はぁっ!? なんだよ、まつ毛かよ!」
あーもう、こいつ……っ!!
両手で顔を覆い、しゃがみこむ。
「おっ、おい、柚月!? 大丈夫かよ……!?」
突然しゃがみ込んだ僕を見て、三石が慌て出す。
けれど僕は、とても答える余裕はない。
この感覚は、なんだ。
恥ずかしくて駆け出したくなるのだけど、決していやじゃない曖昧な幸福感。
その正体が分からないほど僕は鈍くはないし、子どもでもない。
……でも、いいのだろうか? だって、この気持ちはたぶん……。
僕は勢いよく立ち上がる。
「おっ、おい、柚月?」
同じようにしゃがみ込んでいた三石が、そのまま僕を見上げてくる。
僕は三石を見下ろした。
考えるのはあとだ。そもそも今は、こんなことをしている場合ではない。危うく流されるところだった。
「つか、照れてないし。というか今授業中だよね? お前、なんでここにいるんだよ」
不覚にも気付いてしまった気持ちを誤魔化すように、僕はいつもの説教モードに舵を切る。
「そりゃ決まってんだろ。ルームメイトが心配で待ってたんだよ」
よく言う。ただサボってただけのくせに。
「……言っておくけど、僕もういい子やめたからな? 明日から起こさないから、自力で起きろよ」
ばっさり言い捨てると、三石がぎゅんっと勢いよく僕を見た。
「えっ! そんなつれないこと言うなよ! ルームメイトだろ!」
「よくよく考えたら、だれよりお前が僕のこと都合よく扱ってたよな」
「うっ……そんなことないって!」
機嫌をとるように、三石が僕に絡みついてくる。これまでのような鬱陶しさを感じるより早く、心臓が跳ねた。
意識が持っていかれる前に、僕は三石をぺっと引き剥がして、素早く制服に着替えた。カバンを持ち、息を整える。
「じゃ、僕用意できたからもう学校行くね」
わざと冷たく言うと、
「えっ!? ちょ、待て待て、俺も行く! 柚月〜! 俺お前のこと待ってたんだよ〜」
慌ててベッドから降りた三石が、仔犬のような眼差しで僕を見上げてくる。その眼差しには、さすがにやられてしまった。
なんだか今日は、三石に『柚月』と呼び捨てにされるたび、むず痒さを感じる気がする。
三石の行動や表情のすべてに過剰に反応してしまっている気がする。
ついこの前まで、あんなに鬱陶しかったはずなのに。
「……あぁもう、分かったから! 服、引っ張るなよ。待ってるから早くして」
「お、おっす!」
三石が支度を始める。その姿にすら愛おしさを感じ始めてくる始末。
僕は、倒れたときに頭でも打ったのだろうか?
そうに違いないと思う。うん、ぜったいそう。
それから僕は、たっぷり十分ほどバタバタしてから、三石といっしょに寮を出た。
***
「あ〜、あち〜」
ごりごりに強い陽射しを浴びながら、三石が文句をボヤく。そのとなりで、僕はため息を漏らした。
「わざわざ言うなよ。余計暑くなるから」
「だって暑いんだもん、暑いって言いたくなるじゃん」と、三石は口を尖らせる。
「子どもか」
「子どもだよ!」
「都合によりな」
「そのとおり!」
にっと無邪気な笑みを向けられ、つられて僕も笑う。まったく、三石は相変わらず自由だ。
「なぁ、夏休みどーすんの?」
問われた僕は、すんっと空を仰ぐ。
「……たぶん、帰るかな。親が家族旅行計画してるみたいだから」
「そっか」
「三石は?」
「俺は実家すぐ近くだし、帰ったり帰んなかったりって感じだろーなぁ。あっ、でもお盆は姉ちゃんも夏休みだから、いっしょに出かけるんだ! いいだろ!?」
そういえば、以前三石は姉がいると言っていた。
「仲良いんだな、お姉さんと」
三石と、未だ見たことのない三石のお姉さんの姿を想像して、口元を緩める。微笑ましい光景が脳裏に浮かんだ。
「昔はそんなことなかったけど、今はすげー仲良しだよ!」
無邪気な笑みを浮かべる三石に、僕も思わず笑顔になる。うそのない笑顔は伝染する。これも、最近三石に教えてもらったことだった。
「柚月もだろ?」
え、と目を丸くする。
「なにが?」
「兄貴と仲直り。したんだろ?」
「なっ、なんで知ってんの!?」
驚愕の顔を向けると、三石がにやりと笑う。
「へへっ! さっき、俺が着替えてるとき柚月が珍しくスマホばっかいじってるから、こっそりうしろから覗いた」
「勝手にひとのスマホ覗くな!」
「だって気になったんだもん」
「なんでおまえが僕んちの兄弟喧嘩を気にすんだよ!」
「だって〜」
思ったことが口に出るところは相変わらずだけど、何気ないそのセリフに意味を探しかけているじぶんにハッとする。
三石の言うとおりだ。
ついさっき、僕は水月とメッセージでちゃんと話をした。お互いの立場からものを見るとなかなか分かり合えないものも、お互いの話をしっかり聞いてから話し合えば、仲直りはそう難しいものではなかった。
……礼のひとつでも言ってやるか、と三石を見て目を疑う。
「って、あぁっ!? お前それ、なに食べてんだよ!?」
三石は、見覚えのある可愛らしい袋を手に持っていた。クマの絵が印字されたラッピング袋だ。
指摘すると三石は、明らかにしまったという顔をして、僕に背を向ける。
「おい!」
三石の肩を掴んでこちらに向かせる。
「やっぱり! これ、僕が丸木さんからもらったやつ! なんでお前が食べてんだよ!」
それは、僕が丸木さんからもらった手作りクッキーだった。
「だ、だって腹減ってたんだもん!」
三石が逃げる。それを僕は追いかける。三石は運動があまり得意じゃない。だからすぐに追いついた。片方の手で腕を掴み、もう片方の手を三石の腰に回して受け止める。すると三石が驚いたような声を上げ、振り返った。
「おまえ、やっぱり足遅いな」
ちょっと笑ってからかってやると、三石は顔を真っ赤にして、「うっ、うるせぇ!」と叫んだ。形勢逆転だ。
すると僕にからかわれたことが相当恥ずかしかったのか、三石はこれ見よがしに丸木さんのクッキーを袋を傾けて勢いよく口のなかに流し込む。
「あっ! おまえ!」
激しい咀嚼音と、三石のにやっというなんとも腹の立つ笑みに僕はため息をつく。クッキーは、もう空だった。べつに甘いものが好きというわけではないし、三石に食べられたこと自体はいい。ただ、せめてひとつだけはじぶんでちゃんと食べて、感想とお礼を本人に伝えたかった。しかし、そんな思いも虚しく、クマさんは三石の胃のなかへ消えてしまった。
「まったく、仕方ないな……」
呆れて笑っていると、それに気付いた三石がそっと僕の顔を覗き込んできた。
「……お、怒った?」
その顔を見て、僕はついおかしくなって笑ってしまう。だって、目の前の三石は完全に、イタズラがバレて怒られる直前の仔犬のそれだ。
「そう思うならやんなきゃいいのに」
「だ、だって……柚月、丸木さんと仲良いからちょっと寂しくて」
「えっ?」
まさか寂しいと言われるとは思わなくて、ちょっと驚く。
「そ、そう?」
「そうだよ! だって柚月、俺にはすぐ怒るくせに、丸木さんといるときはよく笑ってるし……」
拗ね始めた三石に、動揺を隠せない。僕が丸木さんと仲良い? そうだっただろうか? まったく自覚していなかった。
「……てか、僕と丸木さんが仲良くしてると寂しいんだ?」
ちょっとからかってやるつもりで言ってみると、三石は口を尖らせて呟いた。
「……そりゃそーじゃん」
「……ふぅん」
そうなんだ。……ふぅん。
「って僕、そんなに三石に怒ってる?」
「まぁな。あ、でもみんなに向けるのと同じ顔されるくらいなら、俺は怒られてたほうが特別って思えるから怒っていいよ!」
「はっ?」
なにそれ、どういう理屈?
「ただし、みんなには怒るなよ!」
「怒んねぇよ!」
というか、三石にだってそんな怒ってるつもりなかったんだけど……。ちょっと反省しながら、三石を見る。するとやっぱり三石は不安げな眼差しで、こちらを見ていた。
「……どうした?」
「……や、その……」
三石の目が泳ぐ。
「クッキー、ぜんぶ食べてごめん」
「……ん。もういいよ」
そう言って笑みを浮かべると、途端に三石はホッとした顔をする。
まったく、拗ねたりビビったりほっとしたり。こいつは今日も忙しい。というか、ひとの表情ってこんなにころころと変わるものなのか。
三石と出会うまで、知らなかった。
「ただし、お前からも丸木さんにちゃんと礼言えよ」
「うん! 分かった!」
三石が素直に頷く。本当に、人懐こい犬みたいだ。
でも……だれにもかれにも懐く犬だと考えると、ちょっと気に入らない。どうせなら、僕だけに懐けばいい。……なんて、ばかみたいなことが脳裏に浮かんで、慌てて首を振る。
「ほら、早く行くよ」
「ん」
僕たちは再び肩を並べて歩き出す。
しばらくお互い無言で歩き、赤信号の横断歩道で足を止める。横断歩道の先に、大学生くらいのカップルがいた。仲睦まじそうに話すカップルをぼんやりと眺めていると、不意に三石が話しかけてきた。
「……なぁ、柚月って好きな子いるの?」
「は? 今度はなに」
「なんとなく……」
「好きな子ねぇ……」
空を見上げる。
これまで女子はみんな兄貴にしか興味がないと思って遠ざけてきたし、好きな子なんているわけがないのだけど、素直にいないと白状するのはちょっと悔しい。
「いるかもね」
わざとうそをついてみる。すると、三石がぎゅん、と音がしそうなほど勢いよく振り返る。
「え……」
だれ!? とか、同じクラス!? とか、騒ぎ出すかと思ったのに、三石はそうはしなくて。
よほど衝撃的だったのか、三石は驚いた顔のまま呆然と僕を見ていた。瞬きすらしない。
「……えと、三石? おーい……」
予想外過ぎる反応に、僕はどうしよう、と内心焦る。うそだよ、と打ち明けるタイミングを、完全に逃した気がする。
「あー……そ、そうなんだ」
三石は曖昧に笑って、そうひとこと言うと、俯いてしまった。それはもう、捨てられた子犬以上に切なげに。もし彼に耳としっぽがあったなら、完全に力なく垂れていることだろう。とんでもない罪悪感が僕を襲った。
え、どうしよう。そんな落ち込む?
「や……違うよ? う、うそだよ?」
さめざめと泣き始めた彼女を慰めるかのごとく、僕は三石に寄り添う。
「……え、うそ?」
三石が顔を上げる。
「うそなの?」
「う、うん」
「ほんとに?」
「うん、うそ、うそ。好きなひとはいない」
何度も顔を上下させて頷く僕を見て、三石は心底安心したような顔をして、僕に飛びついてきた。
「なんだよもー!」
「わっ!?」
反射的に三石の背中に手を回し、受け止める。
今は真夏で、クソ暑い真昼間。おまけに僕たちは男子高校生。
それでも、なんとなく、三石の身体を引き剥がすきにはなれない。鬱陶しいのに離したくないなんて、僕はいったい、どうしてしまったんだろう。
そんな僕の気を知ってか知らずか、三石はくるりと身体の向きを変え、あっさり僕から離れていく。
えっ。
離れていった三石を、思わず目で追いかける。名残惜し……くなんてない。
まったく、懐いたと思ったらこれだ。
……犬じゃなくて猫だったのか、こいつは。
すっかりご機嫌になった三石は、ヘタクソな鼻歌を歌いながら、呑気に僕の前を歩いている。
「なぁ、その歌、なんてタイトル?」
なんとなく、水月の曲に似たメロディがあったような気がして、僕は何気なく三石の背中に問いかけた。すると、三石がぴたりと足を止めた。
油を差し忘れたブリキの人形のようにぎこちない仕草で振り返ると、三石はなぜか明後日の方向へ目を向ける。
「……わ、忘れた」
「え、そうなの?」
「う、うん」
怪しいような気もするけど、まぁいいか。べつにどうでも。
再び歩き始めると、三石が僕の元へ駆け寄ってきながら、叫んだ。
「なぁなぁ柚月!」
「……なに?」
聞き返すと、三石は嬉しそうに笑って、
「夏っていいよな!」と言った。
「またお前は突然だな」
相変わらずその笑顔はきらきらとアイドルのように眩しくて、僕は目を細める。ムカつく顔だけど、きらいじゃない顔。いや、むしろ……。
「……まぁ、否定はしないけど」
三石に肩を小突かれる。
「なんだよぉ、素直じゃねーなぁ! なぁ、夏休みはどーすんの?」
「お盆前半の家族旅行が終わったら僕もこっちに戻ってくるかな」
「えっ、兄貴と遊び行ったりしないの?」
ないな、それは。
僕は苦笑しつつ、三石を見る。
「男同士だし、仲直りしたからってそんな関係じゃないよ。お盆の後半は水月、ライブがあるって言ってたし」
夏休みだからって、勉強の手を抜くわけにもいかない。夏休み明けには実力テストがあるからだ。特待生として対策をしなければならない。
特待生でいなければならないというプレッシャーからは少し解放されたものの、それでも特待生から除名されるわけにはいかない。できるかぎりの努力はしたい。
「なら、夏休みのうちにさ、肝試ししよーぜ!」
三石は目をこれでもかというくらいに目をきらきらさせている。
「この前さ、怖〜いドラマがやってて! 姉ちゃんと見たんだけどさ、肝試しした奴らがひとりひとり謎の死を遂げていくの!」
「へぇー。なんて番組? ほん怖?」
「あーっと……タイトル忘れた。えっと、ちょいまち。スマホスマホ……」
三石はバッグを漁り出す。スマホを探しているようだ。僕はかまわず三石に話しかける。
「でも、怖いなら肝試しはしないほうがいいんじゃないの」
「えー夏といえば肝試しじゃん。あっ、あと川かプールも行こ!? それからかき氷! 天然氷のふわふわのやつも食べよーな!」
相変わらずの三石に、思わずため息を漏らす。
「……お前、ひとの話聞いてた? 僕は実家から戻ったら勉強を……」
「あーっ!!」
すると突然、バッグを漁っていた三石が叫び声を上げた。
「どっ、どうした?」
「ペンケース忘れた!」
「…………」
……呆れた。
「……お前って、なにしに学校来てるの?」
「遊びに来てる!」
爽やかなキメ顔が返ってきた。つか、即答かよ。
「学校は勉強をするところで、曲がりなりにも僕たちは特待生……」
説教を始めようとしたところ、三石の視線がふらっと背後に逸れた。
「?」
直後、パッと腕を掴まれた。
「柚月! 俺いいこと思いついた。ちょっとこっち来て!」
「はっ? おい、どこに……」
三石は、僕の手を取って軽やかに駆け出した。
夏休み直前の学校は、静かなものだった。
三石が向かったのは、屋外プールだった。
蝉の声が響く、鋭い太陽の光を反射させた水面が目に眩しいプールサイドには、塩素の匂いが充満している。
「おい……プールなんか来てどうすんだよ」
「夏といえばプール! 夏休みにやりたいことのひとつ、ここでできるじゃん! って思って」
言いながら、三石は歯を見せて笑う。
「はぁ? なにそれ、どういう……」
「よっと!」
三石が飛び込み台に乗る。
「ちょ、落ちたら危ないぞ」
陽射しが強くて、思わず手を翳しながら三石を咎める。
――と、翳したその手を掴まれた。
「おい、なにを……」
驚いて顔を上げるが、太陽の光が眩しくてうまく目を開けられない。
目を細めていると、不意に強く腕を引かれた。かまえていなかった僕は、呆気なくバランスを崩し、
「うわっ!」
引かれた勢いのまま僕は飛び込み台に乗りあがって、そして、三石に抱きつくようなかたちのまま、水面に向かって落ちる。
――ドボンッ!
どろんと急に鈍く、遠くなった蝉の声。一瞬、ときが止まったかと錯覚した。
水のなかで目を開くと、視界が青一色に染まっている。
三石と目が合った。三石は笑っていた。口から透明な泡を吐きながら。
三石が水面を指さす。泡がくるくると水面に向かって昇ってゆく。
その光景は、今まで見たどんなひとやものや景色よりも美しく見えて、僕は呼吸を忘れて魅入った。
「…………」
三石がなにかを言う。けれど、分からない。
首を傾げると、三石はまたにかっと歯を見せて笑った。そして、僕の手を掴んで、勢いよく水面へ向かって泳ぎ始める。
そうだ。息を忘れていた。
……苦しい。苦しい。
「ぷはっ!」
ふたりそろって勢いよく水面に顔を出す。
水飛沫が舞い、細かい水の粒が太陽の光を透かして輝く。
「あぁ〜気持ちい〜!!」
三石が叫ぶ。そのとなりで、僕は必死に息をした。
はー、はー。
口から取り込んだ酸素は、途中で引っかかることなくすっと肺に入ってくる。
「柚月!」
「……っ、なんだよ」
若干苛立ちを露わにして三石を見る。
「めっちゃ楽しいな!」
「…………」
三石が濡れた髪をかきあげる。
うっかり、うん、と言いそうになった。
プールサイドに上がると、僕は裸になってぐっしょりと濡れた制服を絞る。
水が滴る。細く落ちる水の糸を、僕はじっと見つめる。
「うわ、やべー! パンツまでびちょ濡れだぁ」
となりで三石も同じように制服が含んだ水を絞っている。
「あ、なぁ柚月、タオル貸して」
持ってないのかよ。
「まったく……」
カバンからタオルを取り出して、三石の顔面にぶん投げる。
「わぷっ」
三石は顔面でタオルをキャッチした。
「とろいな」
三石は、意外と反射神経が悪い。圭司たちが言っていたが、バレーも下手くそらしいし、よくつまずいているところも見る。階段もいつも手すりに掴まって降りていたような。
なんでも涼しい顔でこなすと思っていた三石にも、苦手なものはあるのだ。僕と同じように。
「……なぁ柚月、もしかして怒ってる?」
「え?」
考えていると、ふと三石に声をかけられた。タオルで顔を拭きながら、ちらっと見てくる。
「……べつに、怒ってないよ。お前がこういうやつだってのは、もう知ってるし」
「ほんと?」
「うん」
怒っていない。
ただ、少し驚きはした。水のなか独特の、あのいやな苦しさを感じなかったじぶんには。
「いやー俺、プール入ったの初めてだわ。結構塩素臭いんだな」
「は? 初めて? プールが?」
驚いて三石を見る。
「うん? そうだけど」
「中学でプールの授業なかったの?」
訊ねると、三石は気まずそうに曖昧に笑って、
「あー俺、最近まで身体弱かったからなぁ。学校にちゃんと通うの、高校が初めてだし。中学まではずっと、入退院の繰り返しだったんだよね」
顎が外れかけた。
「……マジで?」
「マジで。ほら俺、毎週木曜病院通ってるじゃん?」
そういえば、圭司がそんなことも言っていたような。
「いや、聞いてないよ! なに、病気!? 死ぬやつじゃないよな!?」
食い気味に問い詰めると、三石はいつものへらっとした力の抜けたような笑いかたをする。
「ははっ、死なない死なない! だからそんなびびんなって!」
「だって……」
「命には別状ないけど、ふつうとは程遠い生活してたわけ。だから、俺は生きてるだけでじゅうぶんなんだ。親も姉ちゃんも、俺が元気にしてるだけで嬉しそうにしてくれるし。実際学校ってめっちゃ楽しいしな!」
耳を疑う。
「学校が……楽しい?」
訊き返すと、三石は大きな目をぱちりとさせながら頷いた。
「楽しいだろ? 友だちに会えるし、放課後とか友だちと遊べるし! だから、そーゆうの知るために学校に通ってる!」
学校とは本来、勉強する場所だ。だけど、三石の言うことも間違ってはいない。
三石は、以前にも同じようなことを言っていた。そんな彼を、僕は甘ったれだと、思っていた。
でも。今は。
ぜんぜん、そうは思わない。そうは思えない。
三石は本気でそういう青春をしようとしている。なんなら、命懸けで。
そんな甘い世界じゃない、と思っていたけれど。三石はこれまで、ここよりもっとずっと厳しい世界で生きていたのだ……。
考えてみれば、これまでの三石の言動や行動は、学校で集団行動を学んできたとは思えないものだった。
けれど、ずっと入院生活を送ってきた三石にとっては、すべてが学びだったのだ。
朝、ちゃんと起きて学校へ行くことも、体調によってはつらいこともあっただろう。
だけど僕は、三石の事情なんて知ろうともせずに、ただ怠け者だと決めつけて呆れていた。なんでこんなこともできないのかと……三石の体調なんて、気にかけたこともなかった。
「……ごめん。僕、三石のことずっと呆れてた。まともに集団行動すら送れない、どうしようもないやつだって……」
声に後悔の色が滲む。三石はそんな僕を見て、からっと笑った。
「はは。べつにその認識は間違ってないし! それに、事情を言わなかったのは俺だからな! 柚月が気にすることはないよ」
そうかもしれない。でも、はじめから先入観を抱いていたのは、よくない。特に、僕はそれでさんざんいやな思いをしてきたから。
余計にじぶんが許せなかった。
気付かないうちにじぶんもだれかを傷付けている可能性があるということを自覚しなければ、いつか取り返しがつかないことをしてしまうかもしれない。
「今はもう、体調は大丈夫なのか?」
「うん。ぜんっぜん元気だから! ……あ、だからさ、みんなには言うなよ? 身体弱いとか思われんの、なんか恥ずいし」
「……それはもちろん、言わないけど。……いや、けどさぁ……」
僕はぽりぽりと頭を搔く。
「……ったく、なんだよそれ。学校行ったことなくて特待って、おかしくないか」
余計に、三石のスペックの高さに困惑する。
「ははっ。病院で暇過ぎて死ぬほど勉強してたら、まぐれで特待生受かっちゃったってやつ。だから俺、べつに特待生であることにこだわりないんだよね。親は、俺が学校に行けてるってだけで喜んでくれてるし。俺は俺で、初めての学校生活は遊びまくるつもりだったし!」
……なんだ、そうだったのか。
これまでも三石は、特待生には興味がないと言っていた。それは、必死に勉強する僕をからかっての言葉だと思っていたけれど、三石はただ本当に、素直な想いを言っていただけだったのだ。あの言葉には、悪意なんてなかったのだ。
まったく、全身から力が抜けていく。
「……お前らしいな」
「えーそう?」
そっか、そうだったのか。へなへなと座り込みそうになる。
なにより自由だと思っていた三石も、これまでは病院のベッドで制限ばかりの人生を送っていたなんて。
「……今まで黙っててごめんな?」
三石が僕の顔を覗き込んでくる。僕は首を横に振った。
「……べつに、謝ることじゃないと思う。ひとによって、言いたいことも言いたくないこともあると思うから。……でも、聞けてよかった。話してくれて、ありがとう」
礼を言うと、三石はからりと笑った。
「おう!」
水のなかは、きらいだった。息ができなくて、いくらもがいても水面はずっと遠くて、僕は暗い水底に沈むばかりで。
でも、さっきは違った。見上げた水面はきらきらしていて、手を伸ばしたら、その手を掴んでくれる手があった。
沈んでいく僕を、明るい境界線の向こう側へ連れていってくれる三石がいた。
だけど、三石もまた、僕と同じで、溺れていたのかもしれない。だれかの手を、待っていたのかも。
心のなかは、見えない。言葉にしなきゃ伝わらないのだ。だから、伝えたいことは呑み込んじゃダメだ。
「……なぁ、三石」
「んー?」
「さっき……」
一度言葉を切って、唾を飲んだ。
「さっき?」
三石が僕の顔を覗き込みながら、首を傾げる。
「プールんなかで、なんて言ったの?」
「あー……」
三石が曖昧に笑う。
「……なんでもねぇよ」
少し照れくさそうに、三石がはにかむ。
「なんだ、それ」
不服なような、ちょっと安心したような、よく分からない気持ちになった。
でも、今はまぁ、これでいいかと思い直す。
「あのさあ、三石」
僕は僕自身曖昧な感情のまま、なんとか言葉を絞り出す。
「僕も、三石と同じ部屋になれて良かったと思ってるよ」
言ってから恥ずかしくなって顔を逸らす。逸らしてから、チラッと三石を見ると、ヤツは瞳をうるうるとさせて感動していた。
「……あ、だからってこれから態度が甘くなるとかはないけどな」
「えっ」
「それでなくても僕は成績落ちてるし。あと、圭司からバレーが下手くそ過ぎて詰んでるって聞いてるから、今日から昼休みは毎日自主練な」
「自主練!?」
「やるからにはスパルタでいくつもりだから、そこんところよろしく」
「えぇーっ!?」
そんないじわる言うなよぉ、と三石はびちょぬれの身体で抱きついてくる。
「うわっ! ちょ、くっつくな気持ち悪い!」
なんとなく恥ずかしくて引き剥がすが、三石は懲りずにくっついてくる。
「ぎゃん、叩くのはひどい!!」
「だったら離れろ!」
「そんなこと言うなって〜! 柚月〜!」
三石の相変わらずな態度に呆れながらも、僕はその笑顔を邪険にできずに付き合ってやるのだった。
***
その後、すっかり乾いた制服を着て、僕たちは廊下を歩いていた。
プールで騒いでいた僕らの声を聞きつけた先生に、無断でプールを使用していたことがバレてしまったのだ。
教室に行く前にこっぴどく怒られた僕たちは、夏休み最初の二週間はまるごと補習という処分を下された。
「あ〜もう最悪。せっかく優等生で通ってたのに補習とか……」
僕はキッと三石を睨んだ。
「お前のせいだぞ!」
これで特待生資格を剥奪されたら本気で笑えない。
しかも、夏休みは実家に帰るって話までしていたのに、お盆休みギリギリまで補習になった、なんて両親になんと説明したらいいものか。言う前に学校から連絡がいきそうだけど。
「ドンマイ! このくらい高校生ならふつうだって!」と、三石はあっけらかんとした笑顔で言う。
先生のお説教も、三石にはまるで効いていない。まったく、自由が過ぎる……。
「お前のせいで親に捨てられたらどうしよ」
わざとしょげたふりをして言ってみる。
「うわぁ、悪かったよ〜! 悪かったから泣くな〜」
三石が抱きついてきた。
いや、暑い。
「うそだよ。つか泣いてないし。でもまぁ……あとでアイスくらい奢ってよね、――コウ」
さらっと名前で呼ぶと、コウは目を丸くして足を止めた。僕も足を止めて振り返る。
「なにしてんだよ、早く行くぞ?」
「……あ、う、うん」
コウは慌てて僕に駆け寄りながら、きらきらした瞳で僕を見る。……ずっと見てくる。
「……なに」
聞きたくないけど、聞かないとずっと熱視線を向けられそうなので訊ねてみる。
「もっかい言って」
「は? なにを?」
「名前。コウって」
「ヤダよバカ」
じぶんから言っておいてなんだけど、やっぱり恥ずかしくてやめよう、と思ったところだったのだ。
「いーじゃん、ケチ! なぁ柚月、お願いもっかい! アイス奢るから!」
「ウザいウザい」
「ちぇ〜」
僕たちはじゃれ合いながら、ふたりそろって昼下がりの昇降口に入る。
静かな渡り廊下を歩きながら、あらためて思う。
肺に入ってくる空気が軽い。どうしてだろう。
ちらりととなりを見る。コウは空を見上げて、相変わらず「あち〜」と嘆いている。
そのだらけた横顔に、ふっと笑みが漏れる。
「……そっか」
コウのとなりだからか。
「ん? なに?」
「……いや」
「なんだよ?」
コウは不思議そうに首を傾げて僕を見ている。
みんなには言っていない秘密を教えてくれたコウもまた、僕の前でだけは少し喉のつかえが取れているのかもしれない。そうだといいと思う。
教室に入る前に一度立ち止まって、すぅっと大きく深呼吸をしてみる。
喉になにも引っかからない。まっさらな空気が肺に流れ込んできた。
それはまるで、呼吸のしかたを覚えたばかりの人魚のように。
コウのとなりで、僕は少しづつ呼吸のしかたを覚えていく。