目を開けると、白々とした天井が見えた。ちょっと視線を落とすと、同じく白々としたシーツ。独特の薬液の芳香。
……ここは?
ゆっくり視線を動かすと、顔のすぐ横に細い金属のパイプが見える。
点滴スタンドだった。ぶら下がったパックから伸びた細いチューブは、僕の腕に繋がっている。
僕は、病院にいた。
そうだ。学校で倒れたのだった。
起き上がろうと腕に力を入れようとするが、寝起きだからか、まだうまく力を入れられない。僕は諦めて全身の力を抜いた。
今、何時だろう。
寝たまま室内に視線を巡らし、時計を探す。
もう午後十四時を過ぎていた。かなり寝ていたみたいだ。
しばらく瞬きだけ繰り返していると、鉛のようだった身体が少しだけ楽になった。
ゆっくりと起き上がる。身体が揺れたせいか、頭ががんがんとしてひどい目眩がした。
歯を食いしばり、拳を握ったとき、すぐ耳元で乾いた衣擦れの音がした。ハッとして、反対側を見る。ベッド脇のスツールに腰を下ろし、膝に頬杖をついたまま目を瞑る三石がいた。
「……みつ……いし?」
僕の声に反応して、三石が目を開ける。
「あ、起きた?」
「ん、……」
目が合った瞬間、気まずさのせいなのか、どきりとした。
「体調、どう?」
「……うん、平気」
「軽い脱水症と熱中症だってさ」
なんと言葉を返せばいいのか分からなくなって、僕は小さく、うん、ともそう、ともつかない吐息混じりの返事をした。
「お前さぁ、ばかにも程があるだろ」
そのまま黙ってもじもじしていると、三石が聞こえよがしのため息をつく。
「倒れるほど勉強するとか、マジで引くんですけど」
「……うるさいな。お前に関係ないだろ」
図星を突かれると不貞腐れるじぶんの悪い癖が反射的に発動して、僕はどうしようもなくこの場から逃げ出したくなる。
「あるだろ。同室なんだから」
「いや、べつにそれは……」
「お前が言ったんだぞ。こういうときは早めに連絡しろって」
「それは……」
間髪入れずに言い返されて、僕はとうとう言葉につまりそうになる。たしかにそう言った記憶はあった。だが、
「……でも、べつに僕は大丈夫だったし」
「なにがだよ。救急車で運ばれたくせに。言っておくけど、俺よりよっぽどひどいからな?」
言い返す言葉が見つからずに目を逸らすと、三石はなぜだか嬉しそうに声を弾ませた。
「おっ、もしかして、珍しくしょげてる?」
あぁ、もう。本当にうるさいんだが。
「放っておけよ」
三石が手を伸ばしてくるが、僕はその手を容赦なく振り払った。
心臓が暴れ出して、無性に髪を掻き乱したくなる。そうでもして気を紛らわさないと、感情が爆発してしまいそうで。
「なんだよ。心配してやってんのに」
「……うるさい」
本当にうるさい。お前になにが分かるんだ。努力もしないで特待生の権利を得られるお前なんかに。
「……つか、こうなったのはだれのせいだよ」
我慢できず、ぼそりと小さな声で文句を漏らすと、
「だれのせいなの?」
聞こえていたらしく、三石はきょとんとした顔で訊ねてきた。
目眩がする。
こいつはどこまでばかなのだろう。
「お前だよ!」
思わずツッコむと、三石は心底驚いたように、ぽかんと口を開けた。
「はぁ? なんでお前が倒れたのが俺のせいになるの?」
マジで言ってんの、こいつ。
驚きを通り越して、もはや嘆きたくなってくる。いや、嘆く。
三石といると、どうも呼吸が乱れてしまう。たぶん、吐きまくってるからだ。ため息を。
「分からないの!? 僕は、お前のせいで成績が落ちてるんだよ! ちょっとじゃない、ものすごく!!」
叫ぶと、三石はやはり驚いた顔をして僕を見た。
「あぁ……成績が落ちたってのはまぁ、この前先生が言ってたから知ってるけど。でも、だからってなんでそれが俺のせいになるんだよ?」
三石はそれでも曇りなき眼をしている。
呆れた。ここまで言ってもまだ分からないのか。
「お前が真面目にやらないからだろっ……! 僕はお前の面倒を見てるせいで、勉強する時間が明らかに減ってるの! 先生に任された手前ちゃんと面倒見なきゃいけないから心労も増えたし、お前が言うことぜんっぜん聞いてくんないしで、こっちはめちゃくちゃ迷惑してるんだよ!」
強い口調でひと息に言うが、三石はきょとんとしたままぜんぜん動じていない。それどころか、困惑気味に僕を見つめ、ぽりぽりと頬を掻いている。その顔がまたムカつく。
「いや……さっきから言ってる意味が分からないんだけど。俺がいつどこでなにしてようが、お前の成績には関係ないだろ?」
それに俺、べつに成績下がってねぇし。と、三石は平然と言った。
ぎりっと奥歯を噛む。手のひらを握り込んだ指先は、怒りのあまり震えていた。
なんだよそれ……。
ぜんぶ僕の落ち度だって言うのか?
成績が下がったのは、ただ僕の努力不足?
そんなわけない……そんなこと、あるわけがない。あっちゃいけない。
僕のなかでずっと張り詰めていた細い線が、ぷつんと切れる音がした。
「いい加減にしろよ! お前の面倒見てるせいで、僕の勉強時間が削られてるの分からないのか!?」
「分からないっつーか……いや、ふつうに疑問なんだけど、そこまで分かってるなら、なんで柚月は俺の面倒見てくれんの?」
そんなの、決まっている。
「先生たちから、お前の面倒見るよう頼まれてるからだよ!」
するとそこでようやく三石が、なるほど、と頷いた。
「じゃあ、先生が悪いんじゃん」
あまりにもさらっとした声で言われて、それまで頭が沸騰していた僕も、思わず、「はっ?」と間の抜けた声を漏らしてしまった。
意味が分からない。なんでここで先生が出てくるんだ?
「はぁ!? なんで……」
「だって、俺はべつにお前に面倒見てくれ、なんて頼んでないよ。頼んできたのは先生なんだろ? それなら柚月の成績が落ちたのは先生のせいじゃん。なのになんで俺が責められてんの?」
真顔で返され、続けて吐き出そうとしていた言葉が喉の下にぐっと押し戻された。
額を押さえて、目を瞑る。
理屈がばか過ぎてついていけない。いや、そうだ。ばかなんだった、こいつは。
三石が大袈裟なため息をつく。なんでお前が、って叫びたいけれど、できない。もやもやするのに、どうしても三石を責める言葉が出てこなかった。理由は分かるようで分からない。
「前から思ってたけどさ、お前っていつもそうだよな。大人の顔色うかがって、いい子ぶって。ばかじゃないの」
ばかだと?
顔を上げ、三石を睨む。
「うるさいっ! お前になにが分かるんだよ!」
「……分かんねぇよ。俺は優等生じゃねーし、優等生になりたいとも思わないしな。……だって、大人が言う優等生っていうのは、ただ自分たちに都合のいい子どもの言い換えだろ? 柚月はさ、先生に都合のいい子って言われてるだけだよ。それで柚月は本当に嬉しいわけ? 俺だったら、ぜんぜん嬉しくないんだけど」
黙って聞いていれば、言いたい放題言ってくれる。
「うるさいうるさいうるさいっ……!」
そんなこと、言われなくたって分かってるよ。僕は大人の良いように利用されてるだけ。
知ってる。だからなんだ。それこそお前には関係のない話だ。
そう言いたいのに、やっぱりこれも言葉にならない。
代わりに口をついたのは、負け惜しみのような言葉だった。
「……なんの努力もしないで特待生でいられるお前なんかに、僕のなにが分かるんだよ……!」
「えへっ、それはどーも」
三石がいきなり照れ出した。
「褒めてねーよ!!」
思い切りツッコんでから、もう一度ため息をつく。目が覚めてから、果たして何回ため息をついただろう。たぶん、この部屋の二酸化炭素濃度は、今院内でいちばん高いと思う。主にこいつのせいで。
「じゃあさぁ、柚月」
三石は笑顔をしまって、話し出す。
「仮にだけど、柚月は特待生じゃなくなったらどーなんの?」
「――は?」
質問の意味が分からなくて、僕は思わず顔を上げて三石を見た。相変わらず澄んだ泉のような瞳は、吸い込まれそうにどこまでも深い。
「特待生じゃなくなったら親に捨てられんの? 先生に無視されんの? そのほかなんかいやなことあるの?」
言われて考える。考えて口を着いたのは、曖昧な言葉だった。
「……そうじゃ……ないけど……」
けど、の先が続かない。
「……てか、なんだよいきなり」
立場が逆転しかけていることに気付き、ハッとして三石を睨む。
「だって、そんなに頑張るってことは、柚月には特待生でいなきゃなんない理由があるんだろ?」
――理由。
「だって、特待生でいなきゃ……親が」
「親に言われたの? 特待生になれって」
「……違うけど」
親に言われたわけじゃない。僕がじぶんで決めたのだ。
「じゃあ、なんで?」
――理由……。
「ないの?」
「…………」
……違う。
「ないわけ、ないだろ……」
でも、返す言葉がない。
違う、言い負かされたんじゃない。意味が分からないから答えられないだけだ。
「前から思ってたけどさ、柚月は理想が高すぎるんだよ」
「そんなことない!」
すぐさま否定するが、三石も折れない。
「あるよ。お前はもうじゅうぶんすごいじゃん。だれより努力して、特待生っていうちゃんとした結果を出してる。真面目で努力家で、理想が高くて、おまけに俺みたいな問題児にも優しいしさ。それ以上なにがほしいの? もうじゅうぶんじゃね?」
両手を強く握り締める。
「……そんなことない。僕はもっと頑張らないと……」
もっと頑張らないと、だれの特別にもなれない。
「…………」
本当にそう?
このまま頑張れば、僕はだれかの特別になれる?
「…………」
……本当は、分かっていた。いくら頑張ったって、根本的に僕自身が変わらなければ、だれの特別にもなれない。分かっていたから、目を逸らし続けていたのだ。
三石は頬杖をついて、僕をじっと見ている。
「……お前が優等生だと、たしかにまわりは助かるよ。でもそれってまわりの理想を演じてるだけであって、本当のお前の気持ちじゃないよな?」
「本当の……僕の気持ち……?」
「親のためとか先生の期待に応えるためとか、そういうことぜんぶ抜きにして考えてみなよ。お前自身がなんのために特待生でいたいのか」
「なんのためって、そんなの……」
きゅっと唇を引き結ぶ。
お金のため?
違う。
両親は共働きで、なんなら兄貴だってもう働いているし、他所より裕福な家庭だと思う。
なら、なんで?
それは……。
本音から目を逸らすように、ぎゅっと目を瞑る。すると、頭上からため息が聞こえた。
「……そうやって、いつもいつも本音を呑み込むのやめなよ。なんか、見てていらいらすんだよ」
「なっ……なんでお前にそんなこと言われなきゃ……」
言い返そうとするが、三石に邪魔される。
「お前がお前を認めなかったら、なんにも残んないじゃん。じぶんでじぶんを追い詰めてんじゃねぇっつってんだよ!」
三石はそう言い捨てると、乱暴に扉を開けて病室から出ていった。
僕は、ただ呆然とその背中を見つめる。
「……お前みたいに素直になれたら、こんな苦労してねぇよ……」
その背中にぽつりと呟いたけれど、たぶん三石には聴こえていないだろう。
病室にひとりきりになると、あらためて三石の騒々しさに気付かされる。
そういえば、ひとり部屋だったときは、四六時中こんなふうに時計の音が響いていた。
三石と同部屋になってから、毎日が祭りのように騒がしくてすっかり忘れていたけれど。
「なんのために特待生をやってんの、か……」
親に特待生になれって言われたわけじゃない。
じぶんで決めたのだ。
特待生なら学費がかからないし、寮なら家を出たいと言っても反対されないだろうと思った。
とどのつまり、僕は家を出たかった。
それだけ?
いや、違う。本当は、家を出れば……。
「――藤峰っ!」
横になったまま考え込んでいると、扉が大きな音を立てて開いた。
雨谷先生だった。慌てた様子で僕のもとへ駆け寄ってくる。
「……せん、せい……?」
「三石から、藤峰が目を覚ましたって聞いて、慌てて来たんだ」
雨谷先生は肩で息をしていた。額には汗が滲み、髪が張り付いている。相当急いで来てくれたらしい。
「雨谷先生……わざわざすみません」
僕はまだ重い頭を支えるように腕に力を入れて、よろよろとベッドから起き上がる。頭だけ軽く下げると、きぃんと耳鳴りがした。一瞬、顔を歪める。
「いい、いい。起きるな」
雨谷先生は僕を気遣ってくれながらも、そわそわとして落ち着かない。先生のこんな狼狽えたところは初めて見た。
「あの、すみません……僕、迷惑ばっかり」
「藤峰、あのな? 俺は心配はしてるが、迷惑だなんて思ってないよ。……まぁ、でもよかったよ、無事目が覚めて」
雨谷先生は僕の肩を二、三度トントンと叩くと、申し訳なさそうな顔をして頭を垂れた。
「それから、すまなかった。お前にはいろいろ頼り過ぎてしまったよな。まさか倒れるほど無理させてたなんて気付かなくて……俺は、本当に教師失格だ」
心底申し訳なさそうな顔をする雨谷先生を少し意外に思いながら、僕は首を横に振った。
「え、いや……大丈夫ですよ。倒れたのは、僕の自己管理不足ですし」
「……体調はどうだ?」
「はい。もう大丈夫です」
「そうか……」
雨谷先生は僕の笑顔にようやくホッとしたのか、スツールに座った。と、思えば、なにやらハッとしたように顔を上げて僕を見た。
「……いや、ダメだ。大丈夫って言うのは、お前の口癖だろう」
え、と顔を上げる。目が合って、気まずさからすぐに逸らした。
「いえ、そんなことは……」
「実はな、三石に言われたんだ。お前の大丈夫を真に受けるなって。……たしかにそのとおりだったよ。お前はかなり強がりだからな。これからは気をつける。とにかく、今はゆっくり休め。もちろん、勉強もダメだぞ。勉強は、体調が戻ってからな」
黙り込んでいると、先生がわざとらしく僕の顔を覗き込んでくる。心臓が大きく跳ねた。
「返事は?」
「は、はい……」
頷くと、先生がにこりと微笑んだ。
「よし、よろしい」
知らなかった。雨谷先生って、こんなふうに笑うんだ。
「いや〜にしても暑いなぁ……こんなんじゃ校庭で運動なんて危なくてさせられんよなぁ。まったく最近の天候はどうなってんだか」
「……ですね」
意外だった。
雨谷先生には、特待生のくせに自己管理がなっていないと説教を食らうかと思っていたのに。
本当に僕を心配しているみたいな顔に、胸がざわつく。
「あ、そうだ。さっきな、飲み物買いに行ってたんだよ。水とレモン炭酸とりんごジュース。置いておくから、好きなものを飲みなさい」
「えっ、えっ、こんなに!?」
驚いてペットボトルと雨谷先生を見比べると、雨谷先生は少しだけ照れくさそうに笑いながら、
「あぁ。どういうのを飲むのか分からなくて、とりあえず若い奴が好きそうなの選んできたんだよ」と言った。
「……ありがとうございます」
……案外、良い先生だったのだな。
汗だくの雨谷先生を見てふと思った。
雨谷先生はそのあと、しばらく談笑してから帰っていった。そして雨谷先生が帰ってすぐ、入れ替わるように新たな客がやってきた。
「藤峰っ!」
「いいんちょ〜!!」
病室に騒がしく飛び込んできたのは、石田と圭司。それから、佐藤さんに丸木さんだ。みんなそれぞれ我先にとなだれ込むように入ってきて、僕はその勢いに思わず肩を揺らした。
「み、みんな、どうしたの……」
いち早く反応したのは、石田だった。
「どうしたのじゃねーよ! 目の前で倒れられたらみんな心配するって!」
「う、ごめん」
石田は謝る僕から、流れるように視線を動かす。そして声を上げた。
「うわ、点滴! 針刺さってるじゃん、痛そー!」
石田の声に、佐藤さんが反応する。
「マジだ……っていうか倒れるとか聞いてないよ〜」
続けて圭司がカバンを漁って僕になにかを差し出した。反射的に受け取って、なかを見る。ビニール袋のなかには、美味しそうなパンが入っていた。
「これな、俺のイチオシの激うまパン! やるから元気出せ! あ、それから経口補水液も買ってきた! これ飲めばすぐ元気になるぞ! クソまずいけどな!」
「え? あ、ありがとう……」
相槌を打つ暇もないほどの勢いで話しかけられて、僕はなにから反応したらいいのか分からなくなりながらも、なんとか礼を言った。
というか、忘れかけていたが、ここは病院だ。こんなに騒がしくして怒られないだろうか。廊下のほうを気にしながら、僕は緩みそうになる顔を引き締める。
「ねえねえ藤峰くん、熱中症だったんでしょ? 熱中症ってつらいよね、頭ガンガンするし。私も部活中になったことあるから分かるよー」
今度は佐藤さんが話しかけてくる。彼女の口から水月以外の話題が出るのは珍しい。
「えっと……」
「藤峰くんの場合は勉強し過ぎでしょ? 特待生ってそんなに大変なの?」
「いや……」
こういうとき、なんと返せばいいんだろう。僕の返答次第では、水月にマイナスのイメージを持たれてしまうかもしれない。慎重にならないと、と思っているうちに、佐藤さんが口を開いた。
「藤峰くん頭いいんだから、少しくらいサボったって大丈夫だよ〜」
「あ……うん。え? いや、ぜんぜんそんなことはないよ」
次から次に話しかけられて、目が回りそうだった。ふと、視線を感じて顔を上げた。佐藤さんの背後に、丸木さんが立っていた。佐藤さんはべつとして、丸木さんまで来てくれるとは思わなかった。彼女とは、視聴覚室で気まずくなったままだったから。
「丸木さんも……ありがとう」
最奥にいた丸木さんに向かって言うと、それまで俯いていた彼女が顔を上げた。そろそろと控えめに前へやってくる。
「……あの、この前はごめんね。変なこと言っちゃって」
気まずそうな彼女の表情に、罪悪感が積もっていく。
「ぜんぜん。僕こそ、いやな態度とってごめん」
ずっと気がかりになっていた彼女へ謝罪ができて、少しすっきりした。
「ほら、あれ渡しなよ」
佐藤さんが、なにやら意味深な笑みを浮かべて丸木さんの肩を小突く。すると丸木さんは顔を真っ赤にして、「え、今!?」と慌て始めた。
どうしたのだろう、と思いながら丸木さんを見ていると、ふと丸木さんが僕を見た。
「あ、あのね、藤峰くん」
「うん?」
「あの……これ、あ、あげる!」
丸木さんの手にあるのは、可愛らしくラッピングさらた手作りクッキーだった。袋にはクマのキャラクターが印字されている。
「えっ! これ……ぼ、僕に?」
訊ねると、丸木さんはこくこくと頷いた。緊張気味の彼女に、僕の顔にも熱が集まっていく。
「あっ、あの、これね! これはその……前、藤峰くんを傷付けること言っちゃったから、そのお詫びにたまたま昨日の夜に作ってて。だから……その、よかったらもらって」
差し出された包みを、僕はありがたく受けとった。
「うわぁ、ありがとう。僕、クッキーとかこういう焼き菓子、けっこう好きなんだ」
もじもじと恥ずかしそうに下を向いていた丸木さんが、顔を上げる。
「ほっ、ほんと?」
「うん。これ、もらっていいの?」
「う、うんっ! もらってもらって!」
可愛らしいラッピング袋のなかに入っているのは、くまのかたちをしたクッキーだった。
嬉しい。
こんなにも手の込んだものをもらうのは、人生で初めてだ。それに、こんなふうに女子からの視線を浴びたのも、兄の話以外では初めてだった。
女子にとって、僕の価値はアイドルの弟であることだけだとばかり思っていた。
けれど、そんなものは僕の勝手な想像だったのかもしれない。ずっと他人を拒絶してきたけれど、ちゃんと向き合っていれば、丸木さんのように歩み寄ろうとしてくれているひともいたのかもしれない。
今まで僕がしていたのは、遠慮などではなく、相手の気持ちを考えない拒絶だったのだ。
今さら気付いた本心に愕然としながら顔を上げたとき、石田と目が合った。
「……石田、あの……」
なにか言わなきゃと口を開くものの、上手く言葉を続けられずにいると、石田が動いた。
「大丈夫か? 身体は」
石田は静かに僕の横へ来ると、スツールに座った。
「あ……うん。わざわざ見舞いに来てくれたんだ。ありがとう」
礼を言うが、石田は真剣な顔のまま僕を見ている。なにか言いたげな顔だ。
「……石田?」
「……あのさぁ、わざわざってなんだよ」
石田は頭のうしろを苛立たしげに掻きながら、言った。
病室にぴりっとした緊張が走った。心臓の鼓動が急速に早まっていく。
「あ……いや、その……みんな部活とかいろいろ忙しいだろうし。球技大会の練習とかもあるのにって……」
慌ててその場を繕おうとするが、
「だから、そんなことより友だちだろって言ってんの!」
石田の言葉に、息が止まりかけた。
「友だち……?」
友だち。友だち? 言葉を知らない子どものように、何度も小さく繰り返す。
「え、なんだよその反応! 俺たち友だちだろ!? 違うの!?」
今度は圭司が身を乗り出した。丸木さんたちも、僕のことをじっとうかがうように見ている。その視線に、あぁ、と息が漏れる。
そう……だったのか。
僕はみんなに、そう認識されてたのか。肩から力が抜けていく。
「……あと、この前は藤峰の気持ちも考えずに悪かった」
石田はバツが悪そうに呟く。
「あ……」
きっと、喧嘩してしまったときのことを言っているんだろう。
石田とは、いつかの朝に喧嘩をしたままだった。というか、僕が一方的に石田を傷付けたまま、謝りそびれていた。
あの日から石田とは、挨拶程度の言葉しか交わしていない。
みんなの前でこの話を続けていいのか、少し悩む。でも、今流してしまったら、もうチャンスがないように思えた。意を決して、石田に向き合う。
「違うよ。ひどいこと言ったのは、僕のほう。石田は僕のことを心配してくれてたのに、僕は石田の気持ちをぜんぜん考えてなくて……本当、ごめん」
謝ると、石田は困ったように眉を下げて、首を振った。
「いいよ、そんなの。お互いさまだろ。俺も、藤峰のこと本当に考えられてたら、三石のこと悪く言ったりしなかったかなって反省した」
石田の表情を見てあらためて、涙が出そうになる。
石田はだれかの悪口を言うこともあるけれど、僕を心配してくれたあのときの気持ちは本物だった。
僕だってさんざん三石のことを悪く思っていた。でも、素直なところは信頼できると思う。
きっと、好きってこういうことなんだろう。
どんなに好きでも、仲が良くても、少なからず不満に思う部分はある。それでも、それぞれに好きな部分があるから付き合っていくのだ。折り合いをつけるという言いかたは悪いかもしれないけれど。でも、きっとそうなのだ。
「なぁ、石田。あのときは本当にありがとう。すごく嬉しかった。心配してくれて」
石田は少しだけ照れくさそうに笑って、「うん」と頷いた。石田の表情が伝染したように、僕まで恥ずかしくなってくる。でも、いやなかんじはしない。
……初めて知った。
石田って、こんなふうに笑うんだ。
そして、そのことに驚いているじぶんにハッとする。
これまでずっと、みんなは僕に興味なんてないんだと嘆いていたけれど、そんなことはなかったのかもしれない。勝手に一線を引いて遠ざけていたのは、僕のほうだったのかもしれない……。
「まぁとにかくさ、早く元気になれよ。藤峰がいないと三石手に負えないし」
圭司が言う。
「えぇ……それはちょっと」
苦笑を返すと、女子たちがどっと笑う。
「そうじゃなくても、早く元気になんないと」
佐藤さんの言葉に、僕は頷く。
「そうだよ。もうすぐ球技大会なんだし、来週からは夏休みなんだから! 寝込んで終わるなんて最悪だもんね!」と、丸木さん。
「だな」
圭司が大袈裟なくらいに頷く。
「とにかく早く良くなれよ〜」
「学校で待ってるねー!」
こうして、石田たちはサイドテーブルに大量のお菓子やスポドリなどのお見舞いを置いていくと、ぞろぞろと列を生して帰っていった。
一瞬で静けさを取り戻した病室で、ふっと息を吐く。なんというか、台風一過のような心地だ。
みんなも案外自由なのだなと苦笑する。
山のように積み上がったお見舞いを見ていたら、ほんの少し、喉に詰まっていたものが流れていった気がした。
***
医師の問診をあらためて受けた結果、問題はなかった。ただ、念の為今日一日は病院に泊まっていくことになった。
問診を終えて病室に帰ると、両親がいた。
僕が入ってくるや否や、スツールに座っていた両親は弾かれたように立ち上がる。
「柚月!」
「わっ!?」
突然抱きしめられ、驚いた僕は言葉を失って立ち尽くした。
「あぁ、もう! 柚月、よかった……っ!」
「お、お母さん? お父さんまで……なんでいるの」
「なんでって、先生から柚月が倒れたって聞いたから慌てて来たのよ!」
お母さんが怒ったように言う。久々だ、このかんじ。
「そんな、仕事抜けてわざわざ?」
今日はいろいろと想定外なことばかり起こる。
熱中症ごときで倒れた僕を見舞うために、わざわざ神奈川から来るなんて。
ふたりとも共働きで、それに加えて水月のサポートもしているから目が回るほど忙しいはずなのに。
お父さんもお母さんも真っ青な顔をしながら、僕を見て涙ぐんでいた。
ふたりとも、いつものほほんとしているくせに、珍しく取り乱しているようだった。
「でも、思ったより元気そうで安心したわ。今日突然倒れたなんて学校から電話が来たから、本当に心配したのよ!」
「体調はどうだ? まだ気分悪いか?」
お母さんに続いてお父さんも、僕の傍らで心配そうに言った。
「いや、大丈夫……だけど」
「そう、良かった」と、お母さんが大きく息を吐く。
「それよりふたりとも、仕事は大丈夫なの? ごめん、迷惑かけて……」
「ばかじゃないの! 仕事なんてしてる場合じゃないでしょ!」
強い口調で返され、ぎょっとする。
「それに、迷惑ってなによ! 私たちはあなたの親なのよ! 息子の心配するのは当たり前でしょう!」
半ば怒鳴りつけるように言われ、言葉に詰まる。いつもおっとりしたお母さんが、こんなに感情を露わにするのは珍しい。
「……ご、ごめん」
思わず俯くと、そっと頭を撫でられた。
「柚月、先生から学校での様子を聞いてたけど、最近ちょっと勉強し過ぎなんだって? 少し痩せたみたいだし、どうせご飯だってろくに食べてないんでしょう! あぁもう……これだから私は寮に入るの反対したのよ!」
お母さんの言葉に、僕はえっ、と顔を上げる。
「反対? お母さんが?」
そんな記憶はぜんぜんない。僕の記憶のなかでは、僕が相談したらふたりはすぐ了承してくれた。だからこそ、僕はふたりにとってはどうでもいい存在なのだと悩んだのに。
「そうよ! 私は反対したのに、お父さんがやりたいことをさせてやれってうるさいから仕方なく……」
「当たり前だ。水月は好きなことをしてるのに、柚月だけさせてやらないのは可哀想だろう」
お父さんが静かに言った。そういえば、お父さんはこういうひとだった。いつもどんなときでも、天秤の均衡を保とうとする。
知らなかった。ふたりが僕の知らないところで、そんなふうに話していたなんて。
「あなたってば、しっかりしているようで結構抜けてるところがあるし、すぐに我慢しちゃうから」
「え……そ、そんなことないよ……」
言い返しながらも、語尾がしりすぼみになる。自覚がちょっとだけあった。すると、お父さんが容赦なく言う。
「あるから倒れたんだろう。いいか、柚月。成績なんて、そのときの状況によって上下するのは当たり前なんだから、いちいち気にすんな。お父さんたちは、べつに成績なんて気にしてないよ。それより、柚月にはもっと学校生活を楽しんでほしいと思ってる」
いつも寡黙なお父さんの言葉に、僕は口を噤んだ。学校生活を楽しむ。今の僕は、とてもその願いを叶えられてはいないだろう。
「友だちはいるのか? クラスメイトとはちゃんとやってるか? 部活には入ったのか? お前、こっちから連絡しなきゃ電話もぜんぜんかけてこないだろ。俺たちも気を遣って連絡を控えてしまっていたのも悪かったけど、もう少し、連絡しなさい」
「……うん、ごめん」
責めるような口調ではないにしろ、やっぱりお父さんに言われるとショックが大きい。お母さんと違って、普段は小言すら言わないタイプだからだろうか。
「……お兄ちゃんも心配してたわよ。柚月が起きてるようなら、連絡させろって。あとで声くらい聞かせてあげなさいね」
え、と思う。
「……でも水月は今、ドラマの撮影中で大変なんじゃないの?」
「報せを聞いて、現場からこっちに来るってきかなかったのを、なんとか止めて私たちがここに来たのよ。それだけ柚月のことが心配だったのよ。……あのね、柚月。水月が言ってたわ。柚月は『大丈夫』って言うのが口癖だからって。大丈夫って言ったら、ぜったい大丈夫じゃないからって」
「……え……」
なんでそのことを。
目の奥がぎゅうっと絞られるように熱くなった。
だって、水月は僕のことなんか、眼中にないと思っていた。いつも自由で、なんでもセンスでこなしてしまう水月と、器用貧乏な僕。
水月と僕は、いつだって比べられてきた。そのせいで僕は昔から水月にはよくない態度をとっていたから、てっきりきらわれていると思っていた。
「べつに、大丈夫だよ。僕は……」
強がりを口にしたとき、ぽろっと涙が落ちた。
「あれ……」
ぽろ、ぽろ。涙はなぜか、次々と溢れ出してくる。
「なんで……」
どうしよう、泣きたくなんてないのに、涙が止まらない。
ごしごしと涙を拭う。けれど、拭っても拭っても視界は明瞭にならない。
みんなにそんなふうに思われてただなんて、知らなかった。みんな、僕のことなんて興味ないのだとばかり……。
『お前の本音はどこにあるの』
三石から言われた言葉が蘇る。
僕の、本音は……。
「ねぇ……お母さん、お父さん」
「なに、柚月」
ふたりは優しい顔をして僕を見ている。
「こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど……僕、ずっとふたりのこと苦手だった。ふたりとも、昔からよく言ってたでしょ。僕は手がかからないから助かるって。でも、本当はわがままだって言いたかったし、不満だってあった。でも言えなかった。手がかかったら、僕に価値なんてないから……僕は、水月と違って自慢の息子じゃないから……」
ずっと喉の奥に詰まっていたものが、なにかの拍子にぐっと押し流されて吐き出されていくような、そんな心地だった。
「寮がある高校に入ったのも、水月の話ばっかりするふたりを見たくなかったから。特待生で行くって言えば、お金はかからないし、反対されないだろうと思って。でも、本当は引き止めてほしかった。ここにいていいって言ってほしかった……!」
僕はごちゃ混ぜの感情を、泣きながら吐き出す。両親は僕の言葉を否定せず、黙って聞いてくれていた。……いや、お母さんは、声を抑えて泣いていた。その涙に、一気に血の気が引く。
「ご、ごめん……その、泣かせるつもりじゃ」
「ううん。私こそごめんなさい。私……母親なのに、柚月がそんなふうに思ってたなんてぜんぜん気づかなくて……親失格だわ」
お母さんが僕を抱き締める。
「お母さん……」
懐かしい。お母さんが好きな柔軟剤の香りがした。
「ごめんね、ずっと寂しい思いをさせて、我慢させてたんだね……ごめんね」
「…………っ」
お母さんの後悔の滲んだ声に、とうとう僕の心が決壊する。お母さんの腕のなかで、僕は年甲斐もなく泣きじゃくった。
しばらくして泣き止むと、思いのほか心のなかは穏やかになっていた。身体まで軽くなったような気までしてくる。不思議だ。思いを吐き出したからって体重が変わるわけないのに。
僕が落ち着いたことを確認してから、お母さんが言った。
「実はね、さっき、あなたのルームメイトっていう子から、怒られちゃったのよ」
「え?」
ルームメイトって、もしかして三石……?
「な、なんて?」
思わず前のめりになる。
あの野郎。変なこと言ってないだろうな。ひやひやしていると、お母さんが言った。
「柚月が倒れたのは、私たちのせいだって」
「……え」
目を瞠る。
「ごめんね、柚月。私たち、あなたのことを蔑ろにしてるつもりなんてなくて……ただ、柚月は意思がはっきりしているから大丈夫って、勝手に思っちゃってたのかもしれない。本当にごめんなさい」
お母さんは申し訳なさそうに目を伏せる。
「でもね、柚月。これだけは信じて。あなたは私の命より大切な子なのよ」
「……うん。分かってる」
ずっと自信がなかったけれど、今なら分かる。きっと僕たちは、ほんの少し言葉が足りなかっただけ。
「良い友だちができたようで安心したわ。三石くん、仲良いの?」
お母さんとお父さんは、にこにこと嬉しそうに訊ねてくる。
「ち、違うよ。三石はべつに友だちなんかじゃないって」
「あら、そうなの? 三石くんは、柚月のこと大好きだったみたいよ。俺の命の恩人なんだーってすごくお話してくれて」
「はぁ!? 違うよ。三石は……ただの、ルームメイトだよ」
そんなふうには思っていないと、言いながら自覚する。三石は、僕にとっては特別だ。
「……ねぇ柚月。ゴールデンウィークはずっと寮にいたの?」
「……うん、そうだけど」
「勉強を頑張ってくれるのはすごく嬉しいけど、たまには帰ってきて。お兄ちゃんも会いたがってたから」
「……でも、水月は今東京でしょ?」
「あら。水月は休みのたびに帰ってきてるわよ。ゴールデンウィークも、一日だけ休みが取れたから柚月に会いたいって帰ってきてたし。柚月は帰ってないよって言ったら、落ち込んでた」
「……そうだったんだ」
知らなかった。中学に上がったあたりから水月を避けていたから、当然といえば当然なのかもしれない。
「そうだ! ふたりが帰ってきたら、旅行にでも行こうか!」
突然、お父さんが言った。
「えっ、旅行?」
「そう。たまには家族四人で」
「いやいや。水月は無理でしょ。仕事が……」
「なんとかなるわよ。一泊くらい」
「そうだな。それじゃ、ふたりが帰ってくるまでにお父さんとお母さんで計画立てとくからな。柚月、夏休みは絶対帰ってくるんだぞ」
そんな、強引な。
そう思いながらも、ちょっと嬉しく思っているじぶんがいる。
家族旅行なんていつぶりだろう。少なくとも、中学に入ってからは一度も言っていない。
仕方なく、「分かった」と素直に頷いておく。
「お父さんも仕事、休み取らなきゃね」
「そうだな」
ふたりとも、楽しそうに笑い合っている。こんなふうに両親と本音で話したのは、どれくらいぶりだろう……。
ずっと、ひとりぼっちだと思っていた。
お母さんもお父さんも、地味な僕には興味なんてないのだと。
だから、中学生になったあたりから、文句も不満も希望も、なにも言わなくなった。言ったって、面倒な子だと思われるだけだから。
……ふたりがこんなに心配してくれていたなんて、僕はちっとも知らなかった。というより、ちゃんと知ろうとしていなかったのかもしれない。
僕は久しぶりに、両親と一緒に笑い合った。