七月中旬。期末考査が終わり、すっかり気が緩んだ教室に雨谷先生の声が響いた。
「はーい、じゃあ学期末の考査も終わったということで、球技大会の種目決め始めるぞー。委員長、前出てきてー」
「よっしゃ来たーっ!」
 立ち上がってはしゃぎ出す三石に呆れた視線を送りつつ、僕は教卓に立つ雨谷先生の話をぼんやり聞き流す。
 女子の委員長である丸木さんが教卓に出て、雨谷先生と会話を始めた。なんとなくその様子を眺めていると、ふと、ふたりと目が合った。
「委員長ー……っと、おーい、藤峰!」
「藤峰くーん、種目決め、私たちが進行だよ」
 雨谷先生だけでなく、丸木さんも困惑気味に僕を呼んだ。
「あっ、ごめん!」
 名指しで呼ばれ、ハッとして席を立つ。
 そういえば、そうだった。
 学級委員長として、丸木さんとふたりで種目決めを進行してほしいと雨谷先生から頼まれていたんだった。慌てて教卓に向かう。
「大丈夫か?」
 雨谷先生が心配そうに僕の顔を覗き込む。
「大丈夫です。すみません」と、僕は慌てて笑みを作った。
「藤峰くんがぼんやりするなんて珍しいね」
 黒板に種目を書き写しながら、丸木さんがちらりと僕を見る。
「はは……ごめん。テストが終わって、気が抜けちゃったみたい」
 笑って誤魔化すと、丸木さんもつられたように笑った。
「分かる。まぁでも、球技大会が夏休み前最後のイベントだし、クラス優勝目指して頑張ろうね!」
 丸木さんに笑顔で頷き、僕は名簿へ視線を落とす。
「じゃあ僕が希望とって名前あげてくから、板書お願い」
「うん!」
 テストが終わって、あとは夏休みを待つのみ……ということはなく、僕たちの学校では、夏休みの前にもうひとつ大きなイベントが行われる。
 それが、球技大会だ。
 クラス対抗戦で、種目は男女ともにバスケ、バレー、テニス、バドミントン、サッカー、野球、卓球の七種目。
「じゃあまず、注意事項を説明するので配られたプリントの一番下の部分を見てください。各種目、重複参加は認められますが、人数制限があるので希望が通らない場合もあります」
 丸木さんが板書を終えたのを確認してから、
「じゃあ、まずバスケ希望のひと、挙手してください。とりあえず、僕に名前を呼ばれるまでは挙げてて……名前を呼ばれたひとは手を下げていってください。えーっと、まずは……」
 ひとりずつ、手を挙げた生徒の苗字を読み上げていく。徐々に枠が埋まっていき――。
「じゃあ、最後。まだ決まってないひとは……僕たち委員長ふたりと――えっ、三石?」
 僕と丸木さんはあらかじめ人数が足りていない種目に入るつもりでいたので想定内だったが、もうひとり、名簿のなかでチェックがついていない名前があった。三石だ。
「あれ。三石、まだ決まってないけど……なにかに手、挙げた?」
「……や、まだだけど」
「なにがいい? つっても、残ってるのはバレーと野球だけだけど」
 三石のことだ。やりたいほうを選べなかったらきっと練習をサボるに決まっている。仕方ないから、僕は選ばせてやることにした。
「俺、柚月と同じやつがいい!」
「それは無理だよ」
 ふたりとも同じ競技になるのなら、選ぶもなにもない。
「えっ! なんで!?」
 驚愕の顔を向ける三石に、僕はため息をつく。
「だから、今言っただろ。もう残ってんのはバレーか野球ひとりずつしかないの」
「えー……マジかよ」
 あからさまにテンションを下げる三石。やっぱり、僕の思ったとおりだ。
「僕はどっちでもいいから、三石が先に決めていいよ」
「えー……」
 三石は珍しく悩んでいる様子で、黙り込んだ。
 意外だ。三石なら、まっさきにやりたいほうに手を挙げるかと思ったのに。
「どっちにする?」
 訊ねると、三石はしばらく悩んでから、
「じゃあ……バレー」
 と言った。
「ん。じゃあ、僕は野球ね。ということで男子は決まったけど、女子は……」
 丸木さんを見ると、彼女は笑顔で頷いた。
「女子もオッケーだよ」
 丸木さんに頷き、僕はクラスメイトたちに向き直る。
「じゃあ、さっそく今日からそれぞれの種目で練習を始めるので、放課後は各種目代表の指示に従って練習してください」
 はーい、と素直な返事が飛び交う教室の隅で、三石は珍しく不安げな顔をして俯いていた。

 その日の放課後から、それぞれ種目別の練習が始まった。
 僕は野球なので、校庭集合だ。真夏の陽射しはインドア派の僕にはなかなかこたえるが、バリバリ運動部のメンバーたちは、教室にいるときよりずっと楽しそうだ。水を得た魚とは、まさに彼らのことを言うのだろう。
 僕は、同じ野球部メンバーである石田とともに、キャッチボールの練習から始める。
 一年に割り振られた場所は体育館のすぐ近く。そのせいか、取りこぼしたボールを取りに行くと、開け放たれた窓から体育館の練習風景がわずかに見えた。
「おい三石! 今のお前だろ! 取れよ!」
「わっ……わりい!」
「どんまーい!」
「おーい三石、いったぞー!」
「あー……どんまい!」
 ボールを拾いながら、ちらりと体育館のほうをちらりと見る。
 なんだろう。やけに三石の名前が聞こえてくるような気がする。
 気になって覗いてみるが、日差しが眩しいせいで体育館のなかはよく見えない。
「おーい、藤峰! 早くー!」
「あ、はーい!」
 まぁ、たまたまだろう。違和感を聞き流し、僕はじぶんの持ち場へ戻った。
 それからしばらく、僕と三石は放課後別行動をすることが多くなった。
 それぞれ球技大会の練習があるからだ。種目によって練習時間はまちまちで、熱心なグループは下校時刻ギリギリまでやっていることも多い。特に三石たちバレーグループは、かなり本気で練習に打ち込んでいるようだった。
 うちの高校は進学校ということもあり、全体的に努力家で真面目な生徒が多いのだ。
 とはいえ、あまり練習に熱を出し過ぎてもいけない。練習後が自由というわけではないからだ。寮に帰ったら、勉強しなければならない。
 期末考査のあと、両親から成績が下がったことを追求する連絡はなかった。
 学校からのメールを見ていない、ということはないだろうから、単に忙しくて連絡できなかったのだろう。
 僕の成績が下がったことを言及されなくてよかったと思いつつ、でも、だからといって安心もできない。
 これ以上成績が下がることは許されない。
 最近は特に、球技大会の練習やら三石の世話やらで勉強時間が減っている自覚がある。
 練習が早く終わったときくらい、みっちりやらなければ。
 それに今日はまだ、三石が帰ってきていない。集中できそうだ。
 しかし、部屋着に着替えて顔を洗うと、どっと疲れが押し寄せてきた。
 長いあいだ陽射しに当たっていたせいか、身体がかなりだるいし、目眩もひどい。
 ……少し休みたい。
 本音がちらりと胸をよぎり、慌てて追い出す。
 僕は特待生だ。みんなの見本になるべき生徒であるべきなのだ。
 心のなかでじぶんに言い聞かせて、机に向き合った。

 しばらく勉強していると、がちゃ、と扉が開く音がした。振り向くと、三石がいた。
 その表情はげっそりしていて、どこか元気がないように感じる。
「あぁ、三石。おかえり」
「あぁ……うん」
 三石は言葉少なに返事をすると、ベッドにダイブした。ばふっと埃が立つ音がする。
「おい、あんまり埃立てるなよ」
「おー……すまん」
「練習、お疲れ。バレーは結構本気度高めだな」
「んー……」
 いつもうるさくて仕方ない三石が、枕に伏せたまま動かない。本当に疲れているようだ。口数が少なくて、大変助かる。僕はこれ幸いと勉強に戻った。
 しばらくして、ぽつりと三石が言った。
「なぁ……そっちは楽しい?」
「……え?」
 わずかに反応が遅れる。顔を上げて振り返ると、三石はうつ伏せのまま、顔だけを僕のほうへ向けている。
「野球。楽しい?」
「え……うん」
 いきなりなんだ、と思いつつも頷くと、さらに質問が飛んできた。
「石田といっしょだっけ?」
「……まぁ、そうだな」
 三石のいうとおり、石田とは同じチームだ。べつに示し合わせたわけではなく、たまたまだが。
「……柚月ってさ、石田と仲良いよな」
「え」
 そうだろうか?
 自覚がなく首を傾げていると、三石がひとりごとのように呟く。
「……そっかぁ。楽しーんだ。……いいなぁ」
「……なんだよ、三石はバレー楽しくないの?」
 聞き返すと、三石はわずかに口を尖らせて言葉を濁す。
「べつにそういうわけじゃないけど……俺も野球がよかったなって」
「はぁ? お前がじぶんでバレーがいいって言ったんじゃん」
 選ばせてやったのに、その文句はあんまりじゃないか。思わずムッとして、口調が若干強くなる。
「それはそうだけど……」
 しかし、三石はまだなにか言いたそうに口を尖らせている。
「だけど、なんだよ」
 無理に胸のなかに留めていた黒いなにかが、ぶくぶくと沸騰するように、喉元にせり上がってくるのを感じた。すると三石も、苛立ったように言い返してくる。
「だから俺はバレーがやりたかったんじゃなくて、柚月といっしょがよかったの!」
「はぁ?」
 三石のそれは、まるで駄々をこねる子どものようだった。
「そんなの、先に言ってくれなきゃ分かんないだろ」
「言ったじゃん! 俺は柚月といっしょがいいって言ったよ!」
 たしかに種目決めのとき、三石はそう言っていた。でも、
「ほかのメンバーが決まってから言われたって困るよ!」
 言い返すと、三石は項垂れるように俯く。
「それはそうだけど……」
「言うならもっと早くに言えよ。球技大会がこの時期だってことくらい、ふつう考えたら分かるだろ」
「それは…………つか、なんだよふつーって」
「ふつうはふつうだろ!」
 言葉に詰まる三石に、僕は畳み掛けるように続ける。
「とにかく、バレーはじぶんで選んだんだから、ちゃんと文句言わずにやれよ」
 その直後だった。三石が僕を睨んだ。
「……んだよ、文句って。文句ばっかなのは、そっちじゃん」
「はぁ?」
 今のは聞き捨てならない。不機嫌をあらわに三石を睨む。すると、
「……もういい」
 三石は不貞腐れたように呟き、僕に背を向けた。
「おい、課題は……」
「あとでやるってば! 話しかけんな」
 珍しく、三石が声を荒らげる。いつもと違う様子に、僕は思わず口を結んだ。
 ……なんだよ。
 三石はいらいらしているのか、あからさまに僕を無視する。
 不機嫌な態度をとられて、次第に僕も苛立ってきた。
 そもそも、なんで僕が三石にキレられなきゃならない?
 こんなに面倒見てやってんのに。
 球技大会の種目だって、よかれと思って選ばせたのに。
 勉強だって……。
 いろんな感情が綯い交ぜになって、僕は手のひらを強く握り込んだ。
 もういい。知らない。
「勝手にしろよ」
 鼻息荒く言い捨てて、僕は勉強に戻った。


 ***


「……あれ? 藤峰、今日早くね?」
 翌朝、ひとり教室で自習していると、石田が登校してきた。石田は僕に気付くと、不思議そうに教室内を見回す。
「三石ももう来てんの?」
「あー……いや。今日はべつ」
 昨日の口喧嘩以来、僕は三石と完全に別行動をしている。今朝も三石のことは放ったらかしのまま、ひとりで学校へ来た。
 三石の面倒を見ないぶん自習の時間が増えて、僕には利益しかない。
 ただ、三石とは仲直りしていないから、寮でふたりのときはちょっと気まずいままだけど……。
「なんだよ。また喧嘩したのか?」
 ぴくっと身体が反応する。またって。ひと聞きの悪い。
「……え、なに。マジで喧嘩したの?」
 石田が意外そうな顔をしながら、僕の前の席に座る。
「今度はなに事件?」
 石田は横向きに座り、椅子の背もたれに腕を置いた。話を聞こうとしてくれているらしい。どことなく嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「……そーゆうんじゃない。たぶん、ガチのやつ」
「おぉ。っつーことは、原因は三石だな。あいつ自由だからなぁ……」
 石田が頬杖をつきながら、ため息混じりに言う。
「それにしても、お前大丈夫?」
「なにが?」
「なんか最近顔色悪いし……」
「……大丈夫。三石と合わないっていうのは、初めから分かってたし」
「……そっか」
 石田は頭のうしろを掻きながら、少し言いづらそうな顔をして、
「……あのさ、ずっと思ってたんだけど、三石と部屋変えてもらったら?」
「…………え?」
 一瞬なにを言われたのか分からなくて、戸惑う。
「だってなんか、最近めっちゃ疲れてんじゃん」
「……そんなこと」
 ない、とは言えなかった。たしかに疲れは感じている。だけどまさか、周囲にまで気付かれているとは思わなかった。
「あいつ、集団行動とか向いてないし、空気読めねーし。話もあんま噛み合わないし、テンポが独特っつーか……あ、そうだ。なんなら、俺もひとり部屋だし、藤峰を俺と同室にしてもらえるよう、俺から雨谷先生に頼んでも……」
「待ってよ」
 勝手に話を進めようとする石田に、僕は困惑する。
「……三石はたしかにわがままだし、空気も読めない」
 けど……。
「けど、表面上仲良くしておきながら影でさんざん悪口言ってるような奴より、ずっと素直で良い奴だよ!」
 被せるように強く言い返すと、石田は僕の剣幕に驚いたのか、一瞬言葉を詰まらせた。しかし、すぐにじぶんのことを言われたと理解したのか、彼の眉間に深い皺が刻まれる。
「……はぁ?」
 その顔を見て、ハッとした。まずい。これはさすがに言い過ぎた。
「あっ……いや、違くて……」
 気まずい空気が流れる。
 今のは、僕が悪い。いくら本心だからって、言っていいことと悪いことがある。
「その、石田。ごめ……」
 僕が謝罪の言葉を言い終える前に、目の前の椅子がガタンと大きな音を立てた。石田は立ち上がって、冷ややかな目で僕を見下ろしている。
「そーかよ。じゃあもう勝手にすれば」
 そのまま、苛立った様子で自席に戻っていった。
 手のひらをぎゅっと握る。
 最悪だ。
 最低だ。
 自己嫌悪でどうにかなりそうだった。
 だって僕は、三石を悪く言われて怒ったんじゃない。あれは、フリだ。ルームメイトを庇うフリをしただけ。本当は、気遣われたことに苛立って怒ったのだ。……だって。
 ――無理するな?
 そんなの無理だ。
 勉強ができて、対人関係も得意で、青春のどまんなかで生きているような、三石や石田とは違う。
 僕は、無理しなきゃ『特待生』ですらいられない。
 成績が悪くなっても、親からは心配されず、連絡すら届かない。
 三石にだって僕なりに気を遣ったつもりなのに、余計なお世話だと突っぱねられるし。
 石田に優しくされても笑顔ひとつ返せない僕は、いったい、どうしたらいい?
 どうしたら、だれかの特別になれる?
 机で小さくなるじぶんがあまりに惨めで、唇を噛んでいないと、涙があふれてしまいそうだった。


 ***


「――なぁ、三石知らない?」
「え?」
 その日の放課後のことだった。球技大会の放課後練習に向かう準備をしていると、圭司から声をかけられた。
「三石?」
 窓際の席を見るが、三石の姿はない。カバンもないから、トイレでもないだろう。
「さぁ……もう体育館行ってるんじゃないの?」
 何気なく答えると、圭司は頭のうしろをかきながら、苛立ったように呟く。
「それがさぁ、さっき体育館に見に行ったら、いねーんだよ」
「え……そうなの?」
「休むとも言われてねーし、こーいうのマジで困るんだよね」
 たしかに困るだろうが、しかし、知らないものは知らない。僕にはどうしようもない。
「ごめん。僕は知らない」
 素直に告げると、圭司はため息をつきながら頭を掻いた。
「そっかー。いいんちょーなら知ってるかと思ったんだけど」
 ごめん、と謝っていると、僕たちの話が聞こえていたのか、ちょうど教室に忘れものを取りに来た佐藤さんが会話に混ざってきた。
「あれ。三石くんならさっき、昇降口ですれ違ったけど。帰ったんじゃない?」
「はぁ!? 帰った!? マジかよ……!? ったく、あいつ……バレー下手くそなくせにサボりかよー!」
 嘆く圭司に、僕は苦笑を返す。
「三石、バレー下手なんだ?」
「あー……なんつーかな。あいつ体育案外苦手じゃん? 予想はしてたけど、ここまでかって感じだったわ。ま、べつにいいんだけどさ。でも下手なら下手なりに練習しろよとは思うわけ」
「まぁ、そうだよね」
 やっぱり、三石は相変わらずのようだ。苦笑していると、佐藤さんがぽつりと言った。
「というか三石くんって、木曜はいつも病院じゃなかった?」
 え?
 佐藤さんが言うと、圭司があ、という顔をした。
「そーいやそうだったー!」
「え、なに。病院ってどういうこと?」
 困惑する僕に、圭司が驚いた顔をする。
「え、いいんちょーもしかして知らないの? あいつ、なんかの病気ですぐそこの大学病院に通院してるんだよ」
「そうそう。私の部活の友だちも、整形に行ったとき、見たって」
「そうだったんだ……」
 知らなかった。病院に通っているなんて、あいつの口からは一度も聞いたことがない。
 でも、この様子だと知らなかったのは僕だけなのだろう。みんな、あっさり納得している。
 ……そっか。知らなかったのは、僕だけ。
 三石は、なんで僕には言わなかったんだろう。わざと黙っていたのだろうか。
 それとも、僕には言う必要なんてないと思った?
「…………」
 もやっとした気持ちが胸のなかでふくらんでいく。
 いや、まぁべつにいいんだけど。そもそも、僕と三石は友だちでもなんでもない。ただのルームメイトで、それ以外なんの接点もない間柄なのだ。友だちでもない相手に、わざわざ持病の話なんてしないのがふつうだ。
 だけど……。
「…………」
 ほんの少し、疎外感のような、それともまた少し違った憤りのような、よく分からない気持ちが胸のなかで渦を巻く。
「つーか、それならひとことくらい言っていけよなー」
「ま、忘れちゃったんだよ。三石くんのことだし」
「しゃーねぇなー」
 ぼんやりしながら圭司と佐藤さんの会話を眺める。
 ……知らなかった。
 三石はいつも、放課後になると僕から逃げる。てっきり課題をさせられるのがいやで、毎日遊びに行っているものだとばかり思っていた。まさか、病院に通ってるだなんて思いもしなかった。
「あ、引き止めて悪かったな。じゃ、いいんちょーも頑張れよ、練習」
 三石のことは諦めたらしい圭司が、カバンを持って教室を出ていく。
「あ、うん。またね」
 圭司を見送り、三石のことが気になりながらも僕も練習へ向かった。
 下駄箱からスニーカーを取り出して履き替えていると、ふと三石の下駄箱が目に入り、動きを止める。
 ――病院じゃなかった?
 佐藤さんの声が蘇る。
 病院って、なんの病院だろう。
 そういえば、この前も熱を出していたし、もしかしたら、どこか悪いのかもしれない。
 同部屋なのに、僕はこれまで、あいつのなにを見てきたんだろう。佐藤さんや圭司なんかよりもずっと長い時間、いっしょにいたのに……。
 虚しさのような不甲斐なさが波のように押し寄せてきて、僕はその場に立ちつくす。
 そのときだった。
「あっ、いた! おーい、藤峰くん!」
 ぐるぐると考えごとをしていると、突然どこかから名前を呼ばれた。声がしたほうを見ると、パタパタと階段からだれかが駆け下りてくる姿が見える。丸木さんだ。
「丸木さん? どうしたの、そんなに慌てて」
 丸木さんは僕のもとへやって来ると、呼吸を整えながら言った。
「どうしたのって……今日の放課後、委員長は視聴覚室で球技大会のトーナメント決めの会議だって言われてたでしょ!?」
「え……」
 今朝、ホームルーム後に雨谷先生に言われていたことを思い出し、血の気が引く。
「そ、そうだった!」
 慌ててスニーカーをしまい、サンダルを履き直す。
「ごめん! すっかり忘れてた! どうしよう……もう始まってる!?」
 昇降口にある時計を見ながら、駆け足で階段を昇る。視聴覚室は、一棟の三階。僕たちが今いるのは、二棟の一階だ。とりあえず二棟の二階まで上がって、渡り廊下で一棟に行く。
「ううん。まだ先生来てなかったから、急げば大丈夫だよ」
「ごめん、本当に……」
 視聴覚室へ向かいながら、じわじわと申し訳なさがふくらんでいく。振り返りながら謝ると、丸木さんは首を振って笑った。
「大丈夫だって! このくらいよくあることだよ」
「でも……ほんと、ごめん」
 駆け込むようにして、丸木さんとともに教室へ入る。息を切らしながら教室内を見渡すと、既に一年の各クラス委員長たちがそれぞれ席に座っていた。
 先生の姿はまだない。助かった。
 僕たちも窓際の席に並んで座る。カバンからペンケースとノートを取り出しておく。ひと息ついて、あらためて僕はとなりに座った丸木さんに礼を言う。
「丸木さん、呼びに来てくれて、本当にありがとう」
「う、ううん。いいって」
 あらたまって言うと、丸木さんは恥ずかしそうに首を振る。白い頬に滲んだ赤みが増したような気がした。
 丸木さんとは、委員長としていっしょに仕事を任されることが多いから、比較的女子のなかでは仲がいいほうだ。話すようになって知ったことだが、彼女は引っ込み思案気味なところがあるものの、とても優しくて穏やかな性格をしている。
 だから、委員長にみずから立候補したと聞いたときは驚いた。大人しそうな印象を抱いていたから、意外だったのだ。
「ねぇ、藤峰くん」
 シャーペンの芯を出しては戻して、を何気なく繰り返して先生を待っていると、丸木さんが不意に僕に話しかけてきた。
「ん?」
 丸木さんのほうを向くと、彼女はなぜか早口で僕に質問を投げてくる。
「あ、あの……藤峰くんってさ、彼女とかいるの?」
 唐突な質問だった。一瞬、なにを言われたのか分からなくて、動きが止まる。
 なにも答えずにいると、丸木さんはハッとしたように慌て始める。
「やっ、ごめん。いきなり」
「……いや、いいけど、なんで?」
 困惑気味に聞き返すと、丸木さんは誤魔化すように笑った。
「いや! べつに深い意味はないんだけどねっ!? でもほら、藤峰くんってお兄さんがアイドルだから、その……そういう繋がりで女優さんとかモデルさんとかの知り合いもいたりするのかなーって、ちょっと思ったりして」
 冷水を顔面にかけられたような心地になる。もしや、とわずかに期待で膨らんでいた気持ちが、しゅうっとしぼんでいくのが分かった。
 また、水月だ。
「……なにそれ」
 低い声が出た。それに気付いたらしい丸木さんの肩が、わずかに揺れる。
「あ……」
 丸木さんの顔が強ばっていく。
 僕の反応に、怯えている。それが分かっていながらも、僕はいつものような笑みを作ってやれない。僕は丸木さんから目を逸らし、前を向いた。
「べつに、アイドルの知り合いなんていないし、彼女とかも興味ない」
「……そ、そうなんだ」
 それ以降、僕たちのあいだに会話はなくなった。
 彼女自身は、僕と兄を比べるつもりで言ったつもりではないのかもしれない。
 だからきっと、過敏に反応してしまう僕が悪いだけ。
 ……でも、聞きたくなかった。
 丸木さんだけは、佐藤さんやほかの女子と違うと思っていた。彼女自身は水月の話をあまりしなかったし、佐藤さんたちが盛り上がっているアイドルの話の最中も、そこまで興味がなさそうだった。
 唯一、僕を見てくれているクラスメイトだと思っていたのに……。それは僕の都合のいい思い違いで、結局彼女も僕を通して水月を見ていたのだ。
 ため息が漏れる。僕がため息をついた瞬間、彼女の肩がびくりと揺れた。
 ごめん、と心のなかで丸木さんに謝る。でも、どうしても感情が邪魔をして、それを口にすることはできなかった。
 ……こういうとき、三石なら素直に謝れるのだろう。言われたことを引きずりもしないで、笑ってみせるのだろう。
 でも、僕にはできない。
 僕は今、わがままを通してここにいる。それだというのに、なんの実績も出せていない。特待生すら危うい立場にいる。その事実が、僕をどんどん腐らせていく。
 ようやくやってきた先生が、トーナメントのくじの説明を始める。先生の声をぼんやり聞きながら、僕は窓の向こうにある体育館を眺めた。

 その後も、僕と三石の溝は埋まらず、石田や丸木さんとも気まずいまま数日が過ぎていた。
 朝、騒がしい教室のなかで黙々と自習をしていると、本鈴が鳴った。それと同時に、三石が雪崩込むように教室へ入ってくる。
「おっ、三石おはよー」
「おはよー! ギリセーフ!」
「いや、微妙にアウトだろ」
「えー! セーフだよ」
 相変わらず騒がしい三石。近頃三石は、かなり努力して、自力で登校できるようになっていた。
 ふと、三石が石田や圭司たちと会話をしながら、ちらりと僕を見る。
「あっ、ゆづ……」
 目が合い、三石の顔がパッと華やぐように笑顔になる。それがまるでシャッターに切り取られたかのようにスローモーションで視界に飛び込んできて、僕は反射的にさっと俯いた。
「なぁ三石は夏休みどーすんの?」
 圭司が三石に話しかける。
「え?」
 その瞬間、僕へ向いていた視線が外されるのが分かった。でも、三石のつま先はまだ僕のほうへ向いている。
「あー……」
 そのまま自習に戻ったふりをしていると、三石は僕に声をかけることなく、自席に座った。三石はすぐに圭司と会話を始める。
「なぁ、夏休み海行かね?」
「えっ、海!? 行くいく!」
「あれ? でも圭司、夏休みは実家に帰るって言ってなかった?」
 石田が自然と会話に混ざっていく。
「帰るのはお盆だけ。あとはずっと部活だし」
「じゃあふつうに無理じゃん!」
 こういう瞬間を目の当たりにするたび、いつも思う。どうして僕には、こういうことができないんだろう、と。羨ましく思いながらも、僕は結局勇気を出せずに、ただその様子を、指をくわえて見ていることしかできない。
「サボればいいって。一日くらい! あ、それか夜行くとか?」
「無理だろ。どーやって寮監の目誤魔化すんだよ」
「あーそっかぁ」
 期末考査が終わったせいか、みんな夏休みのスケジュールを決めるのに精を出していた。
 僕はもちろん、だれにも夏休みの予定を聞かれることはない。
 それに比べて、三石は相変わらず人気者だ。
 ……べつに、寂しくなんかない。どうでもいい。青春もイベントも、僕には関係ない。僕には遊んでいる暇なんてないのだから。
 うちの高校は、夏休みが明けたらすぐに実力テストがある。それに向けて対策していたら、きっと夏休みなんてあっという間だ。
 三石は相変わらず寮でも勉強している気配はないし、今こそ差をつけるチャンスだ。
 ――でも。
 勉強してはいるけれど……三石がとなりにいるせいか、ぜんぜん集中できている気がしない。
 このままじゃまずい。
 頑張らないとと焦ると、余計に集中が切れて悪循環に陥る。その繰り返しの日々。
 そのせいか、頭痛が止まない。
 ため息をついた矢先、ずきんと頭部に鋭い痛みが走った。
「おい、藤峰」
 目頭を押さえていると、肩をぽんと叩かれる。顔を上げると、脇に体育着を抱えた石田がいた。
「ん……?」
「次体育だって。早く着替えねーと遅れるぞ」
 石田の声にハッとする。
「――あ、あぁ、うん」
 あれ、でも体育って、三限目じゃなかったっけ?
 いつの間に二限終わってた?
 そういえば僕、ちゃんとノート取ってたっけ。一、二限は数学と古典。どっちも小テストがあったはず……。
 手元を見ると、とりあえず古典のノートはきっちりまとめられている。
 ちゃんと取っていた。よかった。次は体育か……。早く着替えて向かわないと。
 体育着を持って、席を立つ。立った瞬間、さっきとは比べものにならないほどの痛みが頭に響き、踏ん張った足の力が抜けた。
 視界がぐらりと歪み、かくんと膝から崩れ落ちる。声すら出せないまま、倒れ込む。
「おいっ! 柚月!」
 遠くから、珍しく三石の慌てた声が聴こえた気がした。