翌週から、早速三石との相部屋生活が始まった。
 もともと僕がひとりで使っていた部屋はふたり用だったため、僕の部屋に三石が引っ越してくるかたちになった。
 部屋は十畳ほどで南側に大きめの窓がひとつあり、窓に向かって机がふたつ並べられている。さらにそれぞれの机の両サイドにベッドがある。
「おっじゃまっしまーっす!」
 三石は部屋に入ってくるなり、元気よくベッドにダイブしようとした。
「待て待て待て待て!」
 三石の腕を掴み、慌てて止める。三石は半分ベッドに倒れ込みそうになりながら、片足立ちで静止した。
「おわっ、なんだよ!?」
 三石が振り向く。
「なんだよじゃないよ。暴れんなってば。埃っぽくなるから」
「えぇ〜? 少しくらいはしゃいだっていいじゃん!」
 三石は不満げに口を尖らせると、ベッドにぼふっと腰を下ろした。結局埃が立つ。
 僕は顔の前に飛んできた埃を手で振り払いながら、ため息をつく。三石の奔放さには、もはや呆れを通り越して感心してしまう。
「なんでそんなに楽しそうなんだよ……」
「なんでって、そんなの決まってんじゃん! 今日が俺と柚月の同棲記念日だからだよ!!」
 だから、なんで僕と同じ部屋になって楽しいのかと聞いているのだ。
「……まぁ、面倒だからもうなんでもいいや」
 こんなこと言っていたってどうせ、いちばん仲のいい圭司と同部屋になったほうが三石は喜んだのだろうから。
 三石は呆れる僕を気にもせず、落ち着きなく部屋のなかを見回している。
「にしてもお前几帳面なんだな〜。部屋んなか、めっちゃ片付いてんじゃん!」
「べつに、このくらいふつうだろ」
 と返すと、三石は信じられないものでも見るかのような眼差しで僕を見た。
「ふつうじゃねーだろ!?」
「大丈夫。これからはこれがお前にもふつうになるから」
「は? どゆこと?」
 きょとんとする三石の前に、僕は仁王立ちする。
「それじゃさっそくだけど、三石。話がある」
「んー?」
 三石は僕の横をすり抜け、僕のベッドからクッションをひったくると、抱えるようにしてまたじぶんのベッドに座った。
「なになに?」
 本当に落ち着きがない。
「今日から共同生活を送るに当たって、ルールを決めようと思う」
 僕が言うと、三石が怪訝そうな顔をした。
「ルールって、なんの?」
「同じ部屋でお互い気持ち良く過ごすためのルールだよ」
 ほかになにがある。
「えーなにそれ。べつにお互い好きに過ごせばよくない?」
「よくない。ぜったいよくないよ」
 各々自由に、なんてなあなあにしたら、十割僕が我慢を強いられる未来がはっきり見える。
 ここはぜったいに引いてはいけない、と僕の全身が叫んでいる。
「はい、まずここ見て」
 僕は部屋のちょうど真んなかに貼られたテープの上に仁王立ちをして、ベッドに腰掛けている三石を見下ろした。すると、三石が僕の足元を見る。
「ん? なにそのテープ」
「仕切り。ここからそっちがお前の部屋で、ここからこっちは僕の部屋。お互い、この線より先には干渉しないこと」
 本当はカーテンかパーテーションで明確に区切りたかったが、時間とお金がなく断念した。
「えぇ!? それじゃ俺、柚月のほうに行けないってこと!?」
「うん。そのための線だから」
「なんでよ!? やだ!」
「やだって……」
 さっそく、三石が駄々を捏ねる。始まった。
「なんでいやなんだよ。お互いプライベートはちゃんとしてたほうがいいだろ?」
「やだやだ! だってそれじゃ同じ部屋になった意味ないじゃん!」
「じゅうぶんあるよ……」
 少なくとも、僕にはある。これから三石が、朝、僕と同じ時間に起きて準備をしてくれれば、僕がもう一度学校から部屋まで起こしに戻る手間がなくなる。
「やだ!」
 三石がベッドに座ったまま、足をバタバタさせる。あぁ、埃が……。
「落ち着け、三石。べつに難しいことは言ってないだろ? 要はここを越えなきゃいいだけ」
「……なんのために?」
 バタ足をやめ、ひっそりした声で三石が訊く。
「プライベートを大切にしたいからだよ」
 というか、出来うる限り三石に僕の生活の邪魔をされたくないのだ。
「えぇーなにそれ。そんな理由? もしかして柚月、意識高い系目指してる?」
 三石がぷっと笑う。こいつ、いちいちムカつく。
「うるさい」
 僕は三石をきっと睨んだ。
「そもそもお前、僕と同部屋になった理由は分かってるよな?」
「もちろん!」
 三石がはっきりと頷く。
「まぁそうだよな」
 さすがに先生から聞いているのだろう。寮に入って二ヶ月足らずで部屋替えなんて、余程の理由がなければ有り得ないことだ。
「言ってみろ」
「ぼっちで可哀想なお前を、クラスに馴染ませるためだろ?」
「違う!!」
 あやうく三石を殴りそうになった。
「特待生のくせにお前の生活態度が悪いから、僕が面倒を見るようにって言われたの!」
 あと、僕はぜんぜん可哀想じゃない。
「え、なにそれ。マジで?」
 三石は本気で意味が分からないといった神妙な顔をしている。僕のほうがその顔をしたいよ。
「おかしいな……。俺、優等生のつもりだったんだけど」
 耳を疑う。
 優等生? どのへんが?
「なにもおかしくないし、お前はだれがどう見ても劣等生だからね? 自覚してね」
「ひどっ!」
「まぁそういうことだから、三石は基本僕の言うことを聞くこと。分かった?」
「わん」
 急に犬になった。まぁ素直に言うことを聞いてくれるのならなんでもいい。
「よろしい。じゃあまず明日の課題やるよ。僕もやるから準備してください」
 さすがに部屋替えまでさせられれば彼のなかで危機感も生まれるだろう、と思った僕が甘かった。
 三石は元気よく、
「あ、課題はパス!」と言った。
 ……聞き間違い?
「今はおやつ食べたい気分だからムリ。それに俺、課題とかやんなくても勉強できちゃうし」
 三石は、カバンをぽいっとフローリングに放り出すと、ベッドに寝っ転がってポテチを豪快に食べ始めた。
 それを見て、僕は気を失いそうになりながら、声にならない悲鳴を上げた。
「待て待て! ベッドの上で食べ物は食べたらダメだろ!?」
「へ? なんで?」
 三石は口の周りに食べかすをつけたまま、怪訝な顔をして僕を見る。
「そこは寝るところでしょ!? 食べかす落ちたら掃除大変じゃん!!」
「べつによくね?」
「よくねぇよ!!」
 なにがいいんだよ!
「つか俺、生まれてからずっとベッドの上で飯食ってきたんだけど」
 目が点になる、とはこのことだ。マジで。
「いったいどんな家で育ってきたんだよ!!」
「へへっ。なーに、柚月くん。俺ん家に興味あるの? 今度来る? いつでも両親に紹介するよ!!」
「うるさい。黙れ。話を逸らすな。というかまずポテチを食べるな!!」
 三石が部屋に来てほんの数分。僕は既に何回大きな声を上げたか分からない。
「とにかくポテチは没収!!」
「あっ! 俺のポテチ!! 限定梅味があぁー! もう! 柚月! 返してよー」
 三石が僕の腰に絡みつく。あろうことか、油まみれの手で。僕は青ざめた。ワイシャツが!
「ぎゃっ! おまっ、お前、油ついた手で僕の制服触るな!!」
「俺のポテチ〜!」
「分かった、返す! 返すから! とにかく僕に触るな近づくな!」
 三石との同室一日目、ポテチ事件が発生。
 ぎゃいぎゃい騒いでしまったせいで、寮監から初のお説教を食らう羽目となった。
 こってり説教を受け、部屋に戻る道すがら、三石が口を尖らせて僕を見る。
「ほらもー、お前のせいで怒られたじゃん」
「なんで僕のせいなんだよ」
 お前のせいだろ。すべてが。
「は? だってお前がポテチとったからじゃん」
「お前がベッドでポテチ食ったからだろ!?」
「うわー責任転嫁だ!」
「お前がな!?」
「むっ?」
 三石は眉間に皺を寄せて、難しい顔のまま静止した。
「むっ、じゃねえよ! その顔は僕がしたいよ!」
 思わず言い返すと、三石は同じ顔のまま、僕をじっと見つめた。そして、言い放ったのだ。
「……お前って、案外頑固なんだな」
 あまりに頭にきたとき、血管が切れる、と表現したのはいったいだれなのだろう。賞賛を送りたい。なぜなら、まさしく今の僕がそれだから。
「なんで僕がお前に呆れられなきゃいけないんだよ……!」
「ははっ! また怒った〜! 柚月のおこりんぼー」
 無邪気に笑う三石を見て、僕は深いため息をつく。
 こんななにもかも合わないやつとこれから三年間も同部屋だなんて、考えただけでも目眩がする。
 やっぱり、断るべきだったのだ。今からでもどうにかならないだろうか。
 でも、一度引き受けたことを放り投げたら、責任感のない人間だと思われかねない。三石のせいでそんな評価をされるのはいやだ。
「ここは我慢だ、我慢……頑張れ、僕」
 念仏を唱えるように小さく呟いて、心が折れそうになるじぶんに言い聞かせた。
 そんな僕の気も知らないで、三石は相変わらず悪びれる様子もなく、ベッドでポテチを食い散らかしている。こいつ、なにも反省してない。
「はぁ……」
 もう視界に入れるのはやめよう。自由な三石を見ていると、水月のことを思い出して余計苛立ちが増幅する。
 僕は三石を机に向かわせることは諦め、ひとりで勉強を始めた。
 そうだ。同室になったからといって、べつに僕が必要以上にこいつの面倒を見なきゃいけないということはないのだ。遅刻と課題さえちゃんとやらせれば、先生だって文句は言わないだろう。
 今日の課題は、数学と英語。とりあえずじぶんのことを済ませてから、こいつのことは考えるとしよう。そうじぶんに言い聞かせて、僕は机に向き合う。
「ねぇ、お前ってなんでわざわざ県外からここに来たの?」
 自習を始めて数分。三石が声をかけてきた。
「なに、いきなり」
 手を止めないまま、僕は彼が始めた会話に渋々応じる。本当は無視したいところだけど、おそらく三石とはこれから卒業まで同部屋になる。気まずくなるのは避けたい。
「だってさ、噂で聞いたから。お前、地元ここらへんじゃないんだろ? 地元にも同じ偏差値の高校くらいあっただろうに、なんでわざわざここにしたのかなーって」
 ポテチの咀嚼音が室内に響く。
 ふっと、手が止まった。
 ……僕はべつに、ここに来たかったわけじゃない。
 この学校を選んだのは、寮があったから。特待制度を受ければ、家を出ても家族に大きな負担をかけずに済むと思ったから。
 べつにここが良かったわけじゃない。
 僕は、あの家を出られればどこだってよかった。
 ……なんて、こいつに話したところで、僕の気持ちなんて分からないんだろうな。
 静かな部屋には、相変わらず三石がポテチを食べる咀嚼音が響いている。
 あぁ、もう。思考の隙間に入ってくる呑気な咀嚼音が鬱陶しい。
 僕は止めていた手を再び動かしながら、ぶっきらぼうに返した。
「……特待で入れるのがここだけだったからよ」
 わざと不機嫌を声に乗せるが、三石は「へぇ」と、まるで僕の態度に気にする素振りを見せない。
「特待っていいよな。いろいろ免除されるし。……あ、っつーことはお前んちって、貧乏なの?」
 ストレートにもほどがある返しが飛んできて、僕は鼻先で戸を閉めるようにぴしゃりと言う。
「違う」
 こいつはデリカシーという言葉を知らないのだろうか。聞くにしても、もう少し聞きかたがあるだろう。
 僕の家は貧乏ではない。特別裕福とはいえないが、ふつうに不自由しない暮らしを送ってきた。
 だからいいが、もし僕の家が貧乏で、それが理由でここに来ていたとしたら、三石の今の発言はとても不快に思うだろう。
「ねえねえ、柚月は大学とか、もう決めてんの?」
 三石はやはり機嫌が悪い僕に気付く気配はない。ケロッとした顔で、新たな質問を投げてくる。
「……それは、まだだけど。三石は?」
「あー……」
 一瞬、三石は僕から視線を外したものの、すぐに人懐こい笑顔を向けてきた。
「や、俺はまだぜんぜん! 今はとにかく高校生活を楽しもうと思ってるからさ!」
「違いないな……」
お前以上に今を楽しんでいるやつは、そういないよ。
「つうか俺さぁ、ぶっちゃけ特待生とかどーでもいいんだよね。運で入っちゃったみたいなもんだし。勉強も、ただの暇つぶしとしか思ってないし」
 なにかが割れるかすかな音がした。力加減を間違えたのか、シャーペンの芯が折れてしまった。手が止まる。
『――俺、課題とかやんなくても勉強できちゃうし』
 ふと蘇る何気ない言葉。
 三石にとってはただの本音で、深い意図はないのだろう。けれど、僕はばかにされている気しかしない。
 なんでわざわざ、僕に言うのだろう。
 僕は必死にこの居場所にしがみついているのに、三石は好きなことをやって僕と同じこの場所にいる。
 俺とお前は違う。だから上から目線でものを言うな。
 そう言われているようで。
「なぁ、柚月って弟とかいる?」
「……」
 さっきから質問攻めだな、おい。
 シャーペンを置き、折れた芯と消しカスをまとめる。
「……さっきからなんだよ。僕今勉強してるんだけど」
 今度こそ無視しようかと思ったが、『三年間同部屋』という文字が脳裏に浮かんで僕を引き留めた。この狭い空間で喧嘩などしても、逆に面倒なことになるだけだ。そう思って、僕は苛立ちを消しカスたちとともにゴミ箱に捨てる。
「だって気になるんだもん。柚月って面倒見いいし、なんとなく兄貴っぽいなぁって」
 ふぅん、と小さく相槌を打ってから、僕は答える。
「……兄貴がひとり」
「えー、柚月って弟なんだ! なんか意外!」
 三石はなぜか嬉しそうにこちらへ身を乗り出してくる。そんなに食いつくか? と思いながら「そう?」と返す。
「お前は?」
「俺? 俺はね、姉ちゃんがいる!」
 納得。
「……たしかに、お前は弟っぽいよな」
 わがままで勝手なところが。どろどろに甘やかされて育ったんだろうな、と容易に想像がつく。
 嫌味のつもりで言ったのだが、三石は、
「ははっ! よく言われる!」
 と、やっぱり人懐こい犬のような笑みを浮かべる。
 あまりに眩しい笑顔を向けられ、僕は息を呑んだ。
 どうやったら、こんなふうに笑えるんだろう。三石のそれは、僕とは正反対のものだった。
 なんだか虚しくなって、僕は三石から目を逸らした。


 ***


 六月、僕たちの街は梅雨に入った。
 三石と同部屋になってから、あっという間に一ヶ月。それだけ一緒に過ごせば、いやでも生活リズムができてくる。
 一緒に暮らして、つくづく思った。
 僕は、三石がきらいだ。
 マイペースという性格に、こんな弊害があるとは思わなかった。
 朝は今までより少し遅く出るようになった。
 僕がいつも学校に行く時間に合わせて三石を起こしたら、文句を言われたからだ。だから譲歩して、二十分だけ遅くしてやった。もちろん、遅くしたからといって、三石は起こさないと起きやしないが。
 放課後は、教室に三石がいるときは一緒に連れ帰って課題をさせる。うっかりして逃げられたときは、追いかけるほどでもないので放ったらかしておく。
 帰ってきたら机に縛り付けて、予習復習とまでは言わないまでも翌日提出する課題だけはやってもらう。
 しかし、それがまたひと仕事だった。
 ただ課題をさせるだけのことでも、三石が相手だと骨が折れるのだ。
 三石はとにかく集中力がない。
 しばらく駄々をこねて、ようやく机に向かったと思ったら三分で話しかけてくる。
 なだめてまた机に向かわせても、今度は一問解いたらお菓子を食べ始める。
 しまいには消しカスを手で払うつもりで、僕の机に消しゴムを投げてくる。
 それが、毎日。
 ポテチ事件のあと、僕たちの部屋では、梅干し事件とスマホ紛失事件が発生した。
 梅干し事件は、ポテチ事件の三日後に起きた事件だった。
 放課後、冷蔵庫を開けた三石が断末魔の悲鳴を上げたのがことの発端だ。
 冷蔵庫に入れていた三石の梅干しが、忽然となくなっているというのだ。この部屋には僕と三石しかいないのだから、そんなわけないのに。
「柚月、俺の梅干し食べただろ!!」
「……はぁ?」
 三石はあろうことか、梅干しを食べたのが僕だと疑っていた。僕を責めたてるその形相はまるで、大好きなおもちゃを捨てられた仔犬のそれだった。きゃんきゃんとうるさいのなんのって。
 話を戻すが、僕にはもちろん身に覚えがない。とんだ冤罪である。
「……食べてないよ」
 否定するけれど、三石はそれでも信用せず、不貞腐れている。
「うそだ! だってめっちゃなくなってるもん!」
「だから知らないって……」
 勘弁してほしい。子どもか。いや、犬か。
「なくなってるなら、お前が食べたんだろ」
 僕は部屋着に着替えながら、三石を宥める。
「食べてないよ!」
「昨日、食べたんじゃないの?」
「だから食べてないって! 俺が食べてないんだから、犯人はお前しかいないじゃん!」
 三石の言うとおり、この部屋には僕と三石しかいない。この数日のうちに、だれかをこの部屋へ呼んだということもない。
 つまり、犯人は僕か三石かということになるのだが、僕はひとのものを勝手に食べたりしない。ということは、三石が食べたということになる。というか、こんなことをいちいち考えなくてもぜったい犯人は三石だろ。
 僕はクローゼットの扉を勢いよく閉めた。
「だから僕は食べてません! よく思い出してみなよ。昨日じゃないなら、一昨日食べたんじゃないの」
「一昨日? そんな昔のこと覚えてねーよ!」
「たった四十八時間前のことだろうが!!」
 思わずツッコんでいたとき、脳裏に一昨日の映像が過ぎった。
「待って、あのさ……一昨日お前、夕飯のあと課題させてたら一回居眠りしたよな?」
「え? あー……そうだったっけ?」
 三石は記憶を辿るように、宙へぼんやりと目を向ける。
「そのあと、目を覚まして、それで腹減ったとか言い出して。冷蔵庫、漁ってたよな? あのときお前、なに食べてたんだ?」
 わざと〝冷蔵庫〟を強調する。
「えー?」
 三石は少しの間考え込むと、
「はっ……」
 一瞬、なにかを思い出したように僕を見た。
「…………」
「…………」
「…………さあて、課題でもしようかな」
 なにを思ったか、三石はなに食わぬ顔で僕に背を向ける。
「おい」
 三石の肩を掴む。逃がす気はない。こいつ今、確実になにかを思い出した。
「おーい、三石くん? ひとを疑っておいてそれはないんじゃないかな?」
 笑顔で三石をこちらへ向かせる。さすがの三石も、冷や汗を垂らしていた。笑顔をしまい、もう一度訊く。
「……なにか言うことは?」
「ごめんなさいぃ!!」
 ――はい、これが梅干し事件。驚くほどにくだらない。
 そしてそのあと起こったのが、スマホ紛失事件である。
 スマホ紛失事件が起こったのは、梅干し事件のさらに一週間後のことだ。
 学校から帰ってきた直後、部屋着に着替えた三石が叫んだ。
「――俺のスマホがない!!」
 また出たよ。
「……バッグにあるんじゃないの? もう一回探してみなよ」
 もはや驚きもしない。呆れ気味に返すが、
「見たもん! でもなかったの!」
 と、三石は子どものように、否、仔犬のように騒ぐ。
 どうせそこらへんにあるんだろうが、三石はぷんすか怒っている。これもまた僕のせいだと思っているらしい。
「分かったよ」
 仕方なく、カバンを見る。
「僕も見てみるけど、きっとないからもう一回お前もじぶんのカバン見てみろって…………あ」
 僕の所持品のなかになければ納得するだろう。そう思ったのだが。
 カバンのなかに、見覚えのあるスマホケースを見つける。
 なんと、信じられないことに僕のカバンのなかから、僕のものじゃないスマホが出てきたのだ。三石のものだった。
「……も、もしかして、これ?」
「あーっ!! 俺のスマホ! ほらぁ、やっぱり柚月が犯人だったじゃん!!」
 三石が僕の手元のスマホを指さしながら、得意げに言う。いや、濡れ衣もいいところだ。
「僕はこんなの知らない!」
 横暴だ、と抗議すると、三石は余裕のある顔をして僕を見返した。
「おやおや。犯人っていうのはね、必ずそう言うんですよ」
「…………」
 くっそムカつくこの顔。
「いやいやいや、そもそもなんで僕のカバンに三石のスマホがあるんだよ!? 怖いわ!!」
 僕は盗んでなんかいない! と、強く訴えるが、三石は尚も疑いの眼差しを向けてくる。
「そーれはお前が取ったから……」
 途中、不自然に三石の声が途切れた。
「……では、ないかもしれ……ない……?」
 怪訝に思って顔を上げると、三石が気まずそうに僕から目を逸らす。
「……三石?」
 名前を呼ぶと、三石が今度は野良猫のように肩をびくつかせる。
「ひゃいっ……?」
 さてはこいつ。なにかを思い出したな。
「怒らないから正直に言ってごらん」
 満面の笑みを浮かべて促すと、三石は記憶を辿るようにしながら呟く。
「……や、えっと……今日、帰り道……途中で靴紐が解けて……手にスマホ持ってたから、それで……目の前にあった柚月のカバンに、そっと」
 入れた、と言うかどうかくらいで、僕の血管がプチンと切れた。
「三石ィー!!」
「ぎゃあーっ!! ごめんなさーい!!」
 ――はい、これが、スマホ紛失事件。否、スマホ紛失濡れ衣事件。
 ポテチ事件同様、騒ぎ過ぎにより、寮監よりくどくどとした説教プラス食堂の掃除を与えられた。なぜか僕まで。
 三石は小学生だ。いや、小学生以下の犬だ。
 こいつといっしょになってから、いろんな事件が毎日起こる。しかしそれは、どれも原因はすべて三石。僕は理不尽に巻き込まれるだけ。
 おかげで息を吐く時間がなくなった。
 くだらないことで時間を潰すことが非常に多くなった。生産性のない会話とか、愚痴とか。
 でも、仕方ない。だって、僕がやらなければ、三石の世話はだれもやらないのだから。


 ***


「――ゆーづきー! 一緒に帰ろーぜ!」
 翌日、いつもどおりの授業が終わった放課後のこと。いつもなら脱兎のごとく教室から逃げ出す三石が、カバンを肩にかけて僕の席にやってきた。驚いて顔を上げると、三石は驚く僕に首を傾げる。
「あれ? 今日一緒に帰って課題やるって言ってなかった?」
「そ、それはそうだけど……」
 いつも逃げ回っている奴がなにを言うか。そう言いそうになって、口を噤む。余計なことを言って逃げられたら困る。
「……じゃあ、帰るか」
「おう!」
 ……それにしても。
 並んで歩きながら、そろりととなりを見る。
 三石は呑気に鼻歌を歌いながら歩いていた。
 一体どんな心境の変化なのか。三石の考えはまるっきり分からない。
 三石はふだん、本当に勉強をしない。
 授業はちゃんと受けているみたいだが、本当にそれだけだ。休み時間に自習する素振りもなく、放課後自習室に行くこともない。もちろん寮に帰っても、僕が無理やりやらせなきゃカバンさえ開けない始末。
 しかし、それだけで学年十位以内をキープできるものなのだろうか。
 うちの学校は進学校で、うちのクラスは進学クラスだ。クラスメイトたちもそれなりに学力が高い。首席で入学した僕だって、成績を落とさないように必死で努力している。
 ……でも。彼が特待生であることは変えようのない事実だった。
 僕は、三石と一緒に生活すればするほどそのことを身に染みて感じて、自信を失くさざるを得なかった。
「にしてもあちぃな〜」
「わざわざ言うなよ。余計暑くなるだろ」
「暑いから暑いって言ってんの。寒かったら言えないじゃん」
「それはそうだけど……寮の部屋はもっと暑いんじゃない?」
「うわぁ、マジか。なぁ、ゲーセンでも行って涼まない?」
「涼まない。課題やるっつっただろ」
「うわ、そうだった。忘れてた」
 もう忘れてたのかよ。
 実にくだらない言い合いをしながら歩いていると、ぽつ、と頬になにかが当たった。
 空を見上げると、怪しげな雲が頭上に漂っている。
「雨……?」
「おっ! 夕立? 少しは涼しくなるかなぁ」
 三石は雨を疎むどころか、呑気に手を空へ翳している。
「いや、呑気に言ってないで早く走れ! お前どうせ傘持ってないだろ!」
「傘! 持ってない!」
 僕は三石が着ていたパーカーのフードを強引に顔に被せると、そのままの流れで彼の手を掴んだ。その瞬間、わずかに三石が息を呑んだ気がしたが、今はそれどころではない。
「濡れる前に帰るよ!」
「お、おう」
 わぁわぁとやっぱり騒ぎながら、僕は三石と急いで寮の部屋に帰った。
 雨を受けて走りながら、ふと思う。
 そういえば、この道を歩いて登校したのがついさっきのような気がする。もう放課後なのか。三石といると一日があっという間に過ぎていくような気がするのは、気のせいだろうか。
 降り出しこそ小ぶりだった雨は、僕たちが寮へ着く頃には無情にも本降りになっていた。
 僕たちは、走ってきた勢いのまま雪崩込むように部屋に入る。男ふたりで立つには狭い玄関で乱れた息を整えていると、足元にみるみる水たまりができていく。ふと、その水たまりに三石の姿が写って、僕はすぐ真横に立つヤツに目を向けた。
 柔らかそうな金髪は、雨のおかげでいつもより元気を失くし、いくつかの束になっている。前髪の細い毛先から、ぷっくりとした雫が三石の白い頬にしたたり落ち、そのまま肌の優しい曲線を流れていく。
 なんとなく、見てはいけないものを見てしまったような気分に苛まれた。身体のどこかが疼くような感覚に、僕は焦って視線を外す。
「せ、制服、かなり濡れちゃったな」
 僕は肌に張り付いたシャツの感触だったり、雨水をたっぷり含んだ靴下の気持ち悪さなんかに意識を向けて、なんとか平静を保つ。
 って、いやいや。平静ってなんだ。僕は常に冷静だ。まったく。
「んー……」
 一方、となりからは、僕の気も知らないようななんとも呑気な相槌が返ってくる。目を向けると、三石はどこかそわそわと高揚しているようだった。
「……いや、なにその顔?」
 三石はびちょ濡れのまま服を脱ごうともせず、じぶんの濡れた身体を見下ろしている。さすがに気になって、訊ねた。
「へへ、雨に濡れるのってこんな感じなんだなーって。なんかおもしれーな!」
「はぁ?」
 意味が分からない。いや、ほんとに。雨に濡れたら冷たいし生臭くなるだけじゃん。
「なにが面白いんだよ」
「えーうまく言えないけど、なんかおもしれーじゃん」
 初めて雪を見た犬か、お前は。もはや真面目に聞くのも面倒になってきた。
「……とりあえず、風邪引くから早く脱ぎなよ」
「おう! あっ、柚月くんこんなところにホクロ見っけ〜」
 つん、と三石が僕の脇腹をつついた。突然の感触に、僕は猫のように飛び跳ねる。
「わっ!? なんだよ、いきなり触んな!」
 僕の反応に驚いたのか、三石は目を丸くして固まっていた。直後、堪えきれなくなったように、ぷくくっと笑い始める。
「なんだよ、柚月ってくすぐったがりなの?」
 いいこと知った、とでも言いたげに、三石がにやーっと笑う。僕はといえば、恥ずかしくて耳まで熱くなっていく。
「うっ……うるさいうるさい! 突然触られたから驚いただけ!」
「えー本当にー?」
「本当に!」
 僕はにやけ顔で絡んでくる三石から逃げるように、靴下を脱いで脱衣所へ飛び込んだ。
 熱がこもった耳を押さえて、瞬きを繰り返す。あぁ、もう。なんだこれ。走ったからか、それともべつの理由かは分からないが、心臓のあたりが妙におかしい。
 深呼吸をする。しばらく深呼吸を繰り返すと、やがて動悸は落ち着いた。脱衣所を出ると、ベッドに座る三石の背中が見えた。するとまた、なぜだか心臓が騒ぎ出す。おさまったと思ったのに。
 なんとなく気まずさを感じて、僕はあまり三石を見ないようにしながら横を通り過ぎた。
 じぶんのクローゼットを開け、着替えを済ませながらふと、疑問が湧いた。
 そういえば、ずっと脱衣所を占領してしまっていたが、三石は着替えたのだろうか。
「三石、濡れた制服はちゃんと脱衣所に――」
 振り返った僕は、悲鳴を上げかけた。三石は制服のまま、ベッドで寝ていた。
「お、お、おい、なに濡れたまま寝てんの!?」
「ん?」
 三石のなんとも気の抜けた返事に、先程まで感じていた気まずさなどどこかへ飛んでいく。
「正気!? ふとんが! 濡れるでしょ! 早く起きろ!」
 三石の腕を引っ掴む。
「起きて! 早く!」
「え〜」
 三石はわざと全身の力を抜いて、くたっとしている。たとえるなら、しなびた葉物野菜のようだ。
「起きて着替えろ!」
「えーダルい。柚月が着替えさせて」
「ふざけんな!」
「じゃ、着替えたら寝ていい?」
「いいわけないだろ! 着替えたら課題やるんだってば!」
 腕を掴んで無理やり起こすけれど、全身の力を抜いた三石を僕ひとりで起こすのはなかなか困難だ。
「くっそ、重い……おい、起きろって。明日は小テストがあるんだってば!」
「いやぁ、さっきまでそのつもりだったんだけどさぁー、雨だからダルいじゃん? ひとやすみしてからにしよー?」
 自由にも程がある。
「つーか『雨だから』の意味が分からないんだけど!?」
 三石は前髪をかきあげながら、渋々起き上がった。
「はいはい。分からなくていいですよーっと。……はぁー仕方ない。着替えるかぁ」
「早くしろ」
「んー……」
 着替えを済ませた三石を監視していると、さすがに視線を感じたのか、サボる気は失せたようだ。
「やるかぁ」と、素直に勉強机に向き合った。
 ようやくやる気になった三石とともに、机に横並びになって教科書を開く。
 さて、今日はいつまで集中力が続くか。三石の集中が切れないうちに、僕もできるところまで進めよう。
 せっせと問題に取り組んでいると、しばらくして視線を感じた。
 となりを見ると、やはり三石が僕を見ていた。僕を、というよりも僕の手元を、といったほうが正しいだろうか。
「なに?」
 疑問に思って訊ねると、三石は戸惑うように視線を彷徨わせてから、言った。
「あのさ、そこ違くね?」
「え……」
「そこの問三。答え」
 答案用紙を見る。数学の問題だ。一目見ただけで正答が分かるものじゃない。
 でも……。
 見直して、青ざめる。
「……ほんと、だ」
 三石の言うとおり、答えが間違っていた。
 三石はこれまでにも何度か、僕に間違いを指摘することがあった。べつにいやな言いかたでもないし、僕をばかにして笑うわけでもない。
 でも、こういうとき、僕はどうしたらいいか分からなくなる。羞恥で血が沸騰したように熱くなって、動揺で頭が真っ白になる。
 だって。
 なんで、勉強なんてぜんぜんしていない三石がこんなに勉強できるんだよ。
 僕はこんなに頑張っているのに。
 なんで――。
「……おい、柚月? 聞いてる?」
 黙り込んだ僕に、三石が怪訝そうな顔を向ける。まるで悪気のないその顔に、余計に腹が立つ。
「……るさいな」
 僕と三石は、なにが違うんだろう。
 どうして三石は、こんなに要領がいいんだろう。
 僕はこんなに必死なのに――。
 頭のなかがぐちゃぐちゃになって、爆発しそうになるのをすんでのところでこらえた。
「言われなくたって分かってるし」
「なんだよー。せっかく教えてやったのに」
「頼んでないし」
「なんだそれ。可愛くねー」
「知ってる」
 僕は可愛くない。カッコよくもない。水月みたいにアイドルという肩書きもないし、三石みたいな愛嬌もない。だからこうやって勉強して、なんとか自尊心を保っているんじゃないか――。
「柚月」
 ふいに、すぐ間近で名前を呼ばれ、我に返る。ハッとして顔を上げると、三石の出来のいい顔が、驚くほど至近距離から僕を覗き込んでいた。思わず椅子を引いて、三石を睨む。
「……なんだよ」
 これはろくなことを考えていないときの顔だ。ぜったいそうだ。
「……お前ってさ、そうやって優等生やってて楽しいの?」
 ほらな。くだらない質問だ。
 答える必要なんかない。……ない、けれど。
 三石の言葉が、頭のなかを巡り続ける。
 だって。楽しい? そんなこと……。
 丸めたプリントで三石の頭をぽんっと叩く。
「あたっ!」
 いい音がした。笑いそうになるけれどこらえる。
「楽しいってなんだよ。勉強するのは学生の本分だろ」
「ふぅーん」
 三石は後頭部に両手を組み、なんとものんびりとした様子で僕を見上げる。
「でもさぁ、そればっかじゃ飽きるじゃん? もっと自由に生きよーぜ! 眠いときに勉強したって頭に入んないし、だったらきっちり寝てから学校に行けばいーじゃん」
「それで成績が保てたら苦労しないよ……」
 そもそも、僕はこれまで、寝食以外の時間はすべて勉強に使ってきた。その結果今があるのだ。この努力をやめてしまったら、僕は……。
 声を荒らげたくなる衝動を堪えて、僕は必死に息を吐いて誤魔化した。
 けれど、三石はなおも言い返してくる。
「保つってなに? べつに成績下がったって死なねぇし、次頑張りゃよくね? 勉強のためにほかのぜんぶを犠牲にすることねぇだろ」
 三石はまっすぐに僕を見つめていた。一片の曇りもないその眼差しに、嫌気がさす。
 三石は、人生が楽しくてたまらないのだろうな。僕と違って。
「だったら、お前はなんで特待生なんかやってんだよ。特待生は学生の見本だろ。勉強するのが仕事だろ」
「そんなことないよ! だって俺たちは、楽しいことをするために生まれてきたんじゃん! 人生楽しむのに、特待生も劣等生もないだろ!」
 ほら、思ったとおりのことを言う。
 どこまでも呑気な考えかたをしている三石に、ほとほとげんなりする。
「お前ってほんと、自由度半端ねぇよな……」
「ははっ! だろ!」
「いや、褒めてないから」
 あっけらかんと笑う三石が眩しくて、僕は目を細めた。
「つーわけでおやす〜」
「あっ、おい!」
 うっかりした。
 隙を見せた瞬間に、三石は椅子から立ち上がり、ころんとベッドに転がる。寝る体勢に入った。
「おいっ……お前、課題!」
「おおっと、その線から入っちゃダメなんだろ?」
 三石がドヤ顔で指摘する。
「ぐっ……」
 そういえばそうだった。三石に宣言しておいて、言い出しっぺの僕が破ることはできない。僕は、テープの前で、金縛りにあったように動けなくなる。
「三石!」
 一メートルも離れていない相手に話しかける声量じゃないが、このくらいの声量で呼ばないとこいつは起きない。
 が、無情にも寝息が聞こえてきた。
 うそだろ。
 愕然とする。
「寝付き良すぎだろ……」
 ため息をつきながら、ぐーすか眠る三石の間抜けな寝顔を見つめていると、ふといつかの先生の話を思い出した。
 入学した頃のことだ。
 自習室に籠って勉強していたとき、消灯の確認に来た雨谷先生がぽろりと零した言葉。
『――藤峰はさすが特待生だなぁ。三石とは大違いだ』
『――三石?』
 その当時、まだクラスメイトの名前を覚え切れていなかった僕は、咄嗟に三石がだれのことか分からなかった。
『――同じクラスにいるだろ? 三石コウ。あいつも藤峰と同じ特待生なんだけどさ、まぁ〜自由奔放でまいったよ』
 僕と同じ特待生が、同じクラスにいる。そのことを、僕はそのとき初めて知った。
 三石コウ。
 僕のライバル。
 いったいどんなひとなのだろう。
 それから僕は、三石のことを気にするようになった。
 それでも当時はまだ、焦りという感情は特になかった気がする。
 三石に対する先生の評価もさんざんだったから。果たしてどんな問題児特待生なのかと期待していたくらいだった。
 でも、三石のすごさは、すぐに分かった。
 三石は生活態度はすこぶる悪いけれど、とにかく頭の回転が早かった。
 授業で指されたときも小テストでも、なんでも涼しい顔でこなす。
 独特な感性と自由過ぎる価値観のせいでみんなには〝頭のいい特待生〟ではなく、ただの親しみやすい〝問題児〟として認識されているけれど。
『藤峰と同部屋になれば、多少は三石の生活態度も改善されるだろう』
『いつもお前にばかり三石を頼んで悪いな』
『頼りにしてるよ、藤峰。これからも三石を助けてやってくれ』
 雨谷先生は、問題児である三石に手を焼いている。
 雨谷先生が三石に手を焼くのは、彼には見放すにはもったいないくらいの価値があるからだ。
 だから、見放さないのだ。
 三石は、たしかに問題児だと思う。
 ……だけど、一緒に過ごしてみて、いやでも分かってしまった。
 三石は、ばかじゃない。
『べつに成績下がったって死なねぇし、次頑張りゃよくね?』
 そのとおりだ。
『勉強のためにぜんぶ犠牲にすることねぇだろ』
 お前の言うとおりだよ。
 だけど、それじゃだめなんだよ。
 僕は、三石とは違う。
 僕には、三石のように天才じゃない。器用じゃない。価値もない。だから、努力しないとだれにも見てもらえない。
 だれにも相手にされない、認知すらされない、透明人間になってしまう。
 なんでも持っている三石にはきっと、死んでも分からないだろうけれど。
『ばかじゃねえの』
 そんな言葉が返ってきそうだな、と心のなかで思った。だから、僕は口を開きかけたものの、ぐっと言葉を呑み込んだ。
 三石はただじぶんに素直に生きているだけ。
 三石は僕なんかより、ずっと利口な奴だった。