『柚月くん、高校特待で入ったんだって? いいわねぇ。優等生で羨ましいわ』
優等生。
『水月と違って、柚月はものわかりが良いから助かるよ』
ものわかりの良い子。
『さっすが、委員長! 頼れる〜!』
委員長。
『ねぇ、柚月くんのお兄ちゃんってアイドルなんだって!』
アイドルの弟。
ぜんぶ、僕を形容する言葉たち。
これらの言葉は、僕のなかで呑み込まれることなく喉につまったまま、どんどん蓄積されていく。
僕は、窒息している。
こういうとき、いつも考える。
もし僕が女の子だったら、辛い境遇から救いあげてくれる王子さまのようなひとが現れたのかもしれない。
でも、僕は男だから。
助けてくれる王子さまはいない。
だからずっと、窒息したまま。
クローゼットに備え付けられた鏡を見る。映っているのは、見慣れた、見飽きた能面のような自分の顔。
鏡のじぶんから目を逸らして、ブレザーを乱雑にハンガーから引き抜く。
「……おはよう。頑張れ、僕」
呪文のように呟いて、ドアノブを握る。
ふう、と息を吐く。
さて、今日も一日が始まる。
寮の部屋を出たら、僕はいつものように優等生の皮を被る。
ふだん、にぎやかな声があふれんばかりに響く教室。しかし、僕が登校するときはいつだって静まり返っている。
僕は、ひとの気配のない空間が好きだ。
気を遣わなくて済むから。ひとの視線を気にしなくて済むから。
初夏の匂いが漂い始めた五月の初め。
寮生活にも、クラスメイトたちにも少しづつ慣れてきた、今日この頃。
雨がそぼ降る街を横目に、僕は夏休み前の期末テストに向けて、教科書を開く。
自習を始めて一時間ほど経つと、ぱらぱらとクラスメイトたちが登校してきた。
「藤峰おはよー」
「おはよう、石田」
いちばんに教室に入ってきたのは、石田だった。石田はいつも僕の次に来る。僕と同じく、朝、学校で自習するタイプだ。真面目で、面倒見のいいクラスの兄貴的存在でもある。
さらにもうひとり、男子が元気よく教室に入ってきた。
「おっす、石田、いいんちょ! 相変わらず今日も早いのな!」
クラスメイトの圭司だ。
「いいんちょー! いいとこにいた〜!」
圭司は教室に入ってくるなり、僕の席へ駆けてきた。
なんとなくいやな予感がする。
「なに。いやだよ」
「まだなにも言ってないじゃん!」
「言われてからだと押し通されそうだから、先に言うの」
「ひでぇ!」
昨日は、数学の課題が出ていた。
圭司は数学がとても苦手だ。そしてそれを克服する気もない。だから、テスト前も課題が出たときも、いつも僕に泣きついてくるのだ。
「なぁ頼む! 数学のプリント見せて! 頼むよぉ〜いいんちょ〜!」
案の定、圭司は俺の前で手を合わせて懇願してくる。
圭司はこの学校にスポーツ推薦で入った上京組。専攻は競泳だ。既に日本記録を保持しているとか聞いた気がするけど、詳しくは知らない。
圭司のこと自体はきらいじゃない。
でも、いくら言っても課題をやろうともしない姿には苛立ちを覚える。もう少し強く言えばいいのかもしれないけれど、そんなことをしたら、空気が凍るのは目に見えて分かる。
だから僕は、「いい加減にしろよ」という言葉は呑み込んだ。
「仕方ないな……」
僕は机のなかに手を入れる。プリントを取り出し、圭司に差し出す。
「でも、たまにはちゃんと勉強もしろよ」
「サンキュー、助かった〜!!」
圭司は競泳はすごいけど、勉強はちょっと……というか、かなり苦手らしい。
――私立明日葉高等学校。
学業、部活動ともに全国でも有数の名門校だ。
僕は神奈川の地元中学から特待生として入学し、現在寮生活を送っている。
プリントを渡すと、圭司は自席につき、自分のプリントに答えを写し始めた。
僕も自習に戻る、努力をする。
じぶんのなかで渦巻く感情を、なんとかフラットにする。
じぶん以外の人間が教室にいる時点で、僕の集中力はなくなったに等しい。
ホームルームが始まるまでの数十分間。彼らは黙って自習なんてしないし、いやでも会話が聞こえてくる。ほら、こんなふうに。
「なぁ石田〜。今日帰りにマック行かね?」
「またぁ?」
「だって昨日のハンバーガー、めっちゃ美味かったんだもん」
「今日はムリ。部活だし」
「えー、サボればよくね?」
「いや、放課後までサボったら、さすがにレギュラー取られるって」
それぞれ自席に座ったまま、大きな声で話す石田と圭司。
「ちぇー。じゃあ三石でも誘うかぁ」
いいなぁ、とふたりの話を聞いていて思う。
放課後に友だちと遊びに行ったり、買い食いしたり。そんなこと、一度もしたことがない。
友だちがいないというわけじゃない。
石田も圭司も、みんな良い奴だ。こんな僕と仲良くしてくれるし、だから僕も彼らが好きだ。
でも、彼らは僕の手前で一線を引いているし、それだから僕も、彼らに本音を言ったことはない。
お互い本心を見せ合っていない。
なんとなく、思う。
そういう関係は、学校を卒業したらぜったいに交わることはないのだと。
たぶん、彼らの物語のなかで、僕はそこまで重要な登場人物ではない。さらっと出てきて消えていく。そういう存在。だから遊びにも誘われないし、いじめられることもない。
一見穏やかに見える毎日だけど、それはただ、僕が何者でもないというだけ。
――もし。
……もし、僕が今石田たちに向かって、その輪に入れてと言ったら、彼らはどんな顔をするのだろう。
いいよ、と笑うのか。若しくは、冗談だろ? と笑って牙を剥くのか。
考えるだけでも足がすくんで、言葉なんてどこかへいってしまう。
本音を言うなんて恐ろしいこと、僕には到底できそうにない。
つまらない煩悩は頭の外に追いやって、僕は目の前のルーズリーフに数式を書き込む。
と、そのとき。
「おはよー!」
扉をがらりと開け、なだれ込むようにして教室に入ってきたのは、クラスメイトの女子ふたり。
佐藤さんと丸木さんだ。
佐藤さんは特に、クラスのなかでは比較的いつも明るく、大きな声で話しているところを見る。たしか、アイドルとか俳優の話をよくしていた気がする。
「あっ!」
ふたりのうち、佐藤さんが教室のある一点に目を向けて、「いた!」と叫んだ。彼女たちの視線の先にいたのは、僕だ。
目が合うと、佐藤さんがものすごい勢いで僕のもとへと駆けてきた。
「いたいたっ! ねぇ藤峰くんっ!」
「う、うん?」
なんだろう、なんか怖い。
身構えつつ、反応する。
「ねぇ! 藤峰くんって、あの藤峰水月の弟って本当!?」
「――え」
その瞬間。きぃんと金属が擦れるような、いやな音が頭に響いた。
こめかみに響いて、思わず一瞬、顔をしかめる。
「なんだよ佐藤。朝からいきなり」
「つか、藤峰水月ってだれ?」
石田と圭司は、顔を見合わせて首を傾げている。
「あぁ、アイドルじゃなかった?」
「なんか聞いたことあるかも」
「ちょっと男子は黙ってて! ――ねぇ、どうなの!?」
佐藤さんは窓際から会話に混ざってきた石田たちを一喝して、後半、また僕に訊ねた。
「……あぁ。うん、まぁ」
そうだけど、と作った笑顔のまま頷く。
「言ってなかったっけ」
「聞いてないよ〜!」
藤峰水月は、僕の兄だ。
今年高三になる水月は、男性アイドルをやっている。結構人気があって、同年代で水月を知らない女子はまずいないだろう。最近は、同性人気も高くなっているらしい。……どうでもいいけど。
「マジで!? すごっ!!」
「いいなぁ。お兄ちゃんがアイドルとか憧れる!」
「ねっ!! だって家に帰ったら水月がいるってことでしょ!?」
女子たちは僕の席を取り囲んだまま、兄の話でキャッキャと盛り上がっている。
ふと、興奮気味な佐藤さんの一歩うしろにいた丸木さんと、目が合う。
丸木さんは僕と目が合うとなぜかふっと俯いた。まるで僕を拒絶するような視線の流れに、心が暗くなる。
彼女は女子の委員長だから、女子のなかでは比較的話す機会が多い。水月の件を黙っていたことを、不快に思ったのかもしれない。
「ねぇ、もしかして、藤峰くんちに行ったら水月くんに会える!?」
丸木さんが視界から消える。彼女の前に身を乗り出した佐藤さんが、僕に訊ねた。
「あー……」
いや、ふつうに考えて、たいして仲良くないクラスメイトを家族に紹介する奴なんていないだろう、と言いたくなるけれど、なんとか呑み込む。
「……いや。水月は今、東京でひとり暮らししてるから」
「えーそうなんだ。どこに住んでるの!?」
言うわけないだろ。顔が引き攣りそうになるのをなんとか堪えて、僕はただ笑う。
いつまで続くんだろう、この話。
「ねぇ、水月くんって家だとどんな感じなの!?」
「そうそう! 藤峰くんに対してとか!」
「……べつに、ふつうの兄貴だと思うけど」
「ふつうって、そんなわけないじゃん!」
「ねぇ?」
「はは……」
なにが、『そんなわけない』んだろう。
僕にとって水月は、アイドルの前にただの兄だ。
ぶっちゃけ、家ではぐーたらなふつうの兄貴だった。
成績は下の下で、九九すら言えない。
ただ、センスだけは良くて性格も明るいから、アイドルになる前から女子にはよくモテていた。
……まぁ、今は離れて暮らしているし、どうかは分からないけれど。
「水月くんとメッセージ交換とかするの!?」
「きゃー見たい!!」
面倒だな、と心のなかで思いながらも、当たり障りのないように答える。
「まぁ、家族だからね。ふつうにするけど、大した内容じゃないよ」
「えぇ〜いいなぁ。家族がアイドルとかめっちゃ憧れるよねーっ!」
佐藤さんは丸木さんに同意を求めるように顔を向けた。丸木さんは困ったように、曖昧に笑う。
「そういうものかな?」
いつも思う。女子って、男の顔しか興味ないのだろうか。
「ねぇもしできたら、サイン欲しいんだけど!」
あぁ、また。
僕は、この状況を安全に回避するための正答を持っていない。
中学のとき、クラスメイトにいい顔をしたくて水月にサインを頼んだことがあった。だけど、水月はぴしゃりと僕の頼みを断って、そのせいで僕は、学校での居場所を失った。
水月はいつもそうだ。
僕のことなんてどうだっていい。僕がいつもどんな思いで水月の弟をしているか、気にしない。
きっと、僕がなにを言ったとしても、教室の空気は凍るんだろうな。
怖いけれど、無視することはできない。
僕はぎゅっと目を瞑る。
「……ごめん。そういうのはできないって、水月から言われてるんだ」
沈黙が恐ろしくて、目を開けられない。
「なぁんだ、そっか」
佐藤さんは、ため息をつきながらも納得してくれた。
「ま、そうだよね。仕方ないね」
あからさまに落胆した声で、佐藤さんが言う。
「……ごめん」
サインがもらえないと分かると、女子たちはあっさり僕から興味を失くし、じぶんたちの席へと戻っていく。
それらの背中に気付かれないように、僕は小さく息を吐く。
みんなの声が遠くへと流されていく。いや、流されているのは、僕だけなのか。
思わず握っていたシャーペンをぎゅっと握って、額を押さえた。
……いつもこうだ。
みんな、僕を通して僕じゃないだれかを見る。
いつになったら、僕はだれかの目に止まるんだろう……。
窓の外を見る。
街は雨のせいで、薄い灰色にけぶっていた。
息を吐く。吐いて、吐いて、それから吸おうとして、喉に空気がひっかかる。
この世界は、なんでこんなに息苦しいんだろう。
***
朝礼の時間になると、担任教師の雨谷先生が教室に入ってきた。
僕のクラスの担任教師だ。歳はたしか、三十半ばくらい、と入学当初の自己紹介で言っていた。ひょろりと背が高くて、目力がある男性だ。
「はい、おまえら席につけー。ホームルーム始めるぞー」
教材を机のなかにしまい、教卓に立つ先生を見る。
雨谷先生は黒いファイルを開いて、出欠確認を始めるところだった。が、その勢いは出鼻でくじかれた。
「さて、出席取るぞ……と、言いたいところだが、三石がいないな」
雨谷先生は窓際のいちばん前、空白の席を見てため息をつく。
「おい、寮組。三石はどうした」
「さぁ〜。寝坊じゃないっすか」
三石のとなりの席である圭司が答える。
その返答に、雨谷先生がため息をついた。
「まったく、あいつは……」
雨谷先生は苛立ちを露わにしながら、ちらりと僕を見た。
……いやな予感がする。
「委員長。悪いんだが、三石を連れてきてくれないか」
……言われると思った。
「……はい」
椅子を引き、立ち上がると、クラス中の視線が僕に向いていた。
こんなときばかり。
教室を出ようと教卓に背を向けたとき、「いつも悪いなー」という雨谷先生の、少しも申し訳なくなさそうな声が聞こえた。
学校を出て、徒歩十分ほどかかる寮に戻る。
海星寮、部屋番号、七〇五。家主・三石コウ。僕のクラスメイトであり、学年一の問題児がいる部屋。
三度ノックをして、声をかける。
「おーい、三石。いるかー?」
返事はない。ため息をつく。
「おい、三石ってばー。もう学校始まってるんだけど」
ドアに耳を当ててじっとしてみる。反応はない。
絶対寝てるな、これは。
とんとん。とんとん。
少し乱暴に扉を叩くと、ようやくなかから物音が聞こえた。
しばらくして扉が開き、パジャマ姿の男子生徒が顔を出した。
「――あ〜、柚月。なに?」
今起きました、という間延びした声にいらっとする。
なに、じゃねえよ。もう登校時間とっくに過ぎてるんだよ。
心のなかで毒づく。
明るい金髪。切れ長の瞳はとろんとしていて、ほとんど開いていない。完全に寝起きの顔だ。あぁ、もう。
「時間、見ろ。もうホームルーム始まってるよ」
「時間? んー……」
大きな欠伸をしながら、三石はパジャマのなかに手を入れて腹をぽりぽりとかいている。
「とにかく、顔洗って制服着ろ。学校行くぞ」
「あーダルいなぁ」
「ダルくても行くんだよ。学生なんだから。ほら、早く着替えろ」
「えー」
僕は三石の肩を掴んでくるりと回転させ、部屋に押し入る。
三石の部屋に入るのは、今日に限ったことではない。三石は三日に一回は遅刻するから、そのたびに僕がここへ派遣される。
ベッドの下に放り投げられていたカバンをとり、なかに今日のカリキュラムの教材を突っ込む。
カバンのなかには、昨日授業があった教材が入ったまま。こいつ、もしや昨日も自習していないのか。察して呆れる。
「朝起きられないなら、せめて今日使う教科書ぐらい、夜のうちに用意しておけよ」
「だなー」
呑気な返事が返ってきて、さらにため息が漏れる。
なんで雨谷先生は、こんな奴を気にかけるんだろう。高校生にもなって朝起きられない奴なんて、放っておけばいいのに。
心のなかで、何度目か分からない毒を吐く。すると、喉元がさらに締め付けられるような気がした。
三石の首根っこを引っ掴んで、なんとか教室に連れていくと、ホームルームは既に終わっていた。
教室に雨谷先生の姿はなくて、それを確認した三石はセーフ! と無邪気に笑っている。
なにがセーフだ。完全にアウトだ。
笑いかけられた僕は、苛立ちのあまり三石を無視して自席についた。
「みんなおはよー」
三石は僕を気にする素振りもなく、さっきまでの気だるそうな態度から軽やかな足取りで自席へつく。
「三石ー! お前おせぇよ」
「わりー。だって眠くて」
「ったく、そろそろ真面目に来ないと単位落とすぞ〜」
「マジかぁ。それは親に怒られそうだからダルいなぁ」
クラスメイトたちと何食わぬ顔で談笑する三石に、いらっとする。
本来ならば、とうの昔に三石は単位を落としているはずだ。今無事にここにいるのは、僕が叩き起して学校に連れてきているからなのに。
それなのに、三石の寝坊ぐせはまるで治らない。たぶん、本人は治す気がない。
「三石〜。今日放課後カラオケ行かねぇ?」
「カラオケ!? 行く!!」
三石は、クラスメイトたちの誘いに目を輝かせて飛びつく。三石はいつも、こういう話にはすぐに飛びつく。僕の説教には、ちっとも耳を傾けないくせに。
「三石くん行くなら私も行く〜」
「じゃあみんなで行こーぜ!」
三石は、当たり前のようにクラスの中心にいる。
理由は分かっている。
三石はじぶんの気持ちに正直で、裏表がない。
だからみんな三石が好きだし、僕と違って、遊びにも誘われる。
三石がちらりと僕を見た。
ヤバい、こっそり見ていたことがバレた。慌てて逸らそうとしたとき、三石が僕に笑いかけた。その瞬間、どくんと心臓が大袈裟に反応する。
「柚月も行かない? カラオケ!」
「え……」
「今日の放課後、みんなでカラオケ行くの。お前っていつも勉強ばっかじゃん? たまには羽伸ばそーぜ!」
まっすぐ僕に向けられた笑顔にどうしようもない安心感を覚えながらも、同時に、胸の奥が軋んだ音を立てる。
「……僕はいいよ。誘われてないし」
「俺が誘ってんじゃん! なぁ、行こうよ! 柚月がいないとつまんないよ!」
……よく言う。誘うだけ誘って、どうせ輪に入ったら僕の相手なんかしてくれないくせに。
華やかに盛り上がるカラオケの隅で、小さくなってぬるいジンジャーエールを啜るじぶんが容易に想像つく。
だから、思わず言ってしまった。
「……お前だけだろ」
「ん?」
「あいつらが誘ってるのは、お前だけだろって」
苛立ちを含んだ声で言い捨てる。
気まずい沈黙が落ちた。三石はじっと僕を見つめたあと、不貞腐れたように小さく「あっそ」と言って、それ以上誘ってはこなかった。
罪悪感と寂寥感で心臓が絞られるような悲鳴を上げたが、僕はそれに気付かないふりをした。
これでいい。僕は間違っていない。だって僕には、遊んでる暇なんてないのだから。
***
一日の授業が終わり、放課後になると、僕は職員室へ向かっていた。雨谷先生に呼び出されたのだ。
もちろん僕には、呼び出される心当たりなどない。
渡り廊下を歩いていると、校門のところに三石たちの姿が見えた。男女数人で、楽しげに話しながら学校を出ていく。
――マックからのカラオケかな。
足を止めて、みんなの後ろ姿をじっと見つめる。
べつに、羨ましくなんかない。
だって、僕にはやるべきことがある。
特待生として入った僕は、みんなの見本としてしっかり勉強しないといけない。
芸能人である兄のためにも、真面目な弟でいないといけない。
親にはできた息子だと、先生にはものわかりのいい子だと、クラスメイトたちには頼れる委員長だと思われないといけない。
「……僕は特待生だから」
だから僕には、遊んでいる暇なんてないのだ。
今日だって、雨谷先生の用事が済んだら、早く寮に帰って勉強しなくちゃいけない。
「……僕は……」
喉がつかえて、きゅっと唇を引き結ぶ。
僕は、ではない。
……僕だけじゃない。特待生なのは、三石もだった。
職員室に入ると、僕は雨谷先生の姿を探した。
僕たちがふだん生活拠点としている教室三つ分くらいの広さはある職員室。たくさん並んだデスクのひとつに雨谷先生の姿を見つけて、「失礼します」と挨拶をしてからそこへ向かう。
パソコンをいじっていた雨谷先生は、僕に気が付くと「あぁ」と軽く手を挙げてパソコンを閉じた。
「藤峰。わざわざ放課後に悪いな」
「いえ」
「実は、三石のことで頼みがあってな。青柳先生、ちょっとよろしいですか」
雨谷先生が学年主任の青柳先生を呼ぶ。
青柳先生は雨谷先生と僕を一瞥すると、あぁ、となにやらひとりで納得したような顔をして、僕たちのそばまで歩み寄ってくる。
「こんにちは、藤峰くん」
「こんにちは……」
青柳先生は、柔和な笑みを浮かべて挨拶をしてくる。僕は戸惑いつつもぺこりと頭を下げた。
青柳先生はそんな僕に柔らかく微笑むと、
「じゃあ、ちょっと場所を移動しようか」
「え?」
――わざわざ話す場所を移動?
なんだろう。
これからどんな話をされるというのだろう。職員室でできない話なんてあるのか。
ものすごくいやな予感がしながらも、僕はふたりについて行くしかなかった。
結果、僕が連れて来られたのは、進路相談室だった。部屋の扉を開けた途端、埃っぽい匂いとじっとりとした空気に思わず噎せそうになる。
「いやぁ、まだ五月に入ったばかりだっていうのに暑いね。さ、藤峰くんそこ座って」
青柳先生は僕にそう言いながら、窓を全開にした。窓からは、なかの空気とさほど変わらない湿度の高い風がどろりと入ってくる。昼前まで降っていたはずの雨はいつの間にか止んでいたが、灰色の重い雲は以前、青空を完全に覆い隠していた。
「いやぁ、いきなり呼び出して悪いね」
「いえ……」
僕は言われたとおり、先生たちを正面に椅子に座る。教師ふたりと向かい合う構図が完成した。
なんだか、これから面談でも始まりそうな気配がして落ち着かない。
「さてさて藤峰。高校生になって一ヶ月が経つが、調子はどうだ? 慣れてきたか?」
「え、あぁ、まぁ……はい」
雨谷先生から本当に面談のような問いかけをされて、背筋が伸びる。
「藤峰は特待生だからな。そうそう。このあいだの中間考査、学年トップおめでとう。さすがだよ」
「あ、ありがとうございます」
不意に褒められて、頬が緩む。
「だけど、トップというのはなにかとプレッシャーだろう? 夏休み前には期末考査もあるし、特待生にとって成績はとても重要になるからな。それに君は親元を離れて寮でもひとりだし……なにか悩みはないか?」
雨谷先生に続いて、青柳先生が僕に言う。
ふたり同時に話しかけられてもな、と思いながら、
「……いえ、大丈夫です。勉強は楽しいですし、寮の生活にも慣れてきましたし」
と、返す。
「そうか。さすがだな」
「君は優秀で、生徒の鏡のような子だ」
「そんなことは……」
返す言葉に困って曖昧に笑っていると、それまで笑顔で頷いていた雨谷先生が突然神妙な顔をした。
「そこでなんだが、今日は藤峰にちょっと頼みがあってな」
「……頼み、ですか?」
先生たちは顔を見合わせて頷き合う。
なんだ、その意味深なアイコンタクトは。
「実はな、藤峰には三石と相部屋になってもらえないかと思って呼んだんだよ」
――相部屋?
「え……三石と、ですか?」
「あぁ、そうなんだよ。ちょっと三石には先生たち、頭を抱えていてな」
なんだそれ。なんでそんな話になっているんだ。三石と相部屋なんて、ぜったいにいやだ。
心のなかで叫ぶけれど、僕の顔は冷静にいつもどおりの笑みを作っている。優等生は、こんなことで動揺したりしない。
「遅刻癖のことですか?」
戸惑いがちに雨谷先生と青柳先生を交互に見つめる。すると、青柳先生が困ったような顔を僕に向けた。
「そうなんだ。ちょっと三石くんの素行には手を焼いていてね。このままひとりで生活させるのはちょっと不安があるんだよ。それにね、君たちは特待生同士だし、同じ境遇だろ? 同志として、相部屋でも仲良くできるんじゃないかと思って」
青柳先生が言い、すかさず雨谷先生が大きく頷く。まったくそのとおりだ、というように。
「三石はちょっと自由が過ぎるだけで悪い奴ではないからさ、それに、藤峰に特に懐いてるみたいだし。藤峰と同部屋になれば、多少は生活態度も改善されるだろうということで、職員同士で話し合ってたんだよ」
「はぁ……」
当事者の僕抜きでか。
というか、だれが僕に懐いてるって? そんなことない。ぜんぜんない。三石は僕を目覚まし代わりくらいにしか思っていない。ぜったい。
「で、どうかな。藤峰。藤峰がいやだって言うなら考え直すんだけど……」
そんなの、いやに決まっている。
だって、だれかと相部屋になってしまったら、僕の息抜きの時間がゼロになってしまう。
僕はひとりでいい。ひとりがいい。
それになにより、相手がいやだ。三石のことは、正直好きじゃない。
そもそも、なんで僕が成績に関係のないクラスメイトのことまで請け負わなくちゃならないんだ?
まるでみんな、僕を便利な道具みたいに扱って……。
悔しくて、腹が立つ。先生たちにも、三石にも。
……でも。
僕は、目の前の視界を潰すように目を伏せる。
いやとは言えない。だってそれが、僕の価値。
僕は委員長で、クラスメイトの面倒を見るのは僕の役目だから。
先生たちにもこうして期待されてるのだから、ちゃんとその期待に応えないといけない。
たとえ、どれだけ息が苦しくても。
顔を上げる。顔には、いつもどおり優等生の仮面。
「……いいですよ。毎朝寮に戻って三石起こしに行くよりは効率的ですし」
僕は笑顔で了承した。