大学の入学式を終え、着慣れないスーツに疲れを貼り付けた間宮草介(まみやそうすけ)は、帰宅するため電車に揺られていた。

 心地よい揺れに眠気を誘われ、座りながら目を閉じる人が多い中、さきほどから視界に映る光景に、草介は静かに動転していた。

 夕焼けの中を突き進んでいく電車の扉の前で、真新しいシンプルな紺のスーツを着た若い女性がうずくまっていた。

 苦しそうに肩を上下させている彼女に気づいて声をかける人は、まばらな車内にはいない。

 草介は、話しかけるべきかどうか、ずっと悩み続けていた。

 彼の生まれ持つ厄介な吃音(きつおん)というコンプレックスが邪魔をして、彼女に話しかける勇気が出ない。

 言葉がつっかえてしまって、恥をかいたらどうしよう、彼女に変な人だと思われたらどうしようと、そればかりが、草介の頭の中を支配し、臆病な彼は一歩を踏み出すことが出来ない。

 しかし、至近距離の彼女は、明らかに具合が悪そうで、救急車を呼ぶ必要があるのかもしれないと危惧した草介は、震える脚でそっと、うずくまる彼女に近づいた。

「あ、あ、あ、あの……っ」

 やはり盛大につまずいてしまった。

 顔を真っ赤にしながら、恥ずかしさに耐え、それでも彼女に触れそうな距離まで近づくと、顔を伏せていた彼女が、がばっと草介にしがみついてきた。

 あまりの力強さに驚いた草介は尻もちをついてしまう。

「助けて……お願い、降ろして……電車を止めて!」

 草介のスーツを命綱のように握り込んだ彼女は、震える声で訴えた。

 床に尻をついたまま、どうすればいいかわかなくなった草介は車内を見回すが、誰も目を合わせようとはしてくれない。

 途方に暮れながら、草介は「だ、だ、大丈夫ですか」とこちらも震える声で尋ねる。

「怖いの……降ろして……」

 彼女は草介のスーツに顔を埋め、泣きそうなか弱い声で訴える。

 困り果てた草介が彼女の背中を恐る恐る撫でてひたすら困惑していると、駅に到着したとのアナウンスが流れてきて、いくぶんか希望を見出すことが出来た。

 やはり草介は恐る恐る彼女に声をかける。

「こ、こ、ここで降りましょう」

 電車がゆっくりと速度を落とした気配に気づいたのか、彼女が草介の言葉に顔を上げる。

 怯えを含んだ彼女の顔には、ナチュラルメイクが施されていて大きな瞳には涙が浮かんでいた。

 想像していたより、ずっと幼い顔立ちをしており、不謹慎ながら、可憐で可愛らしいな、などと草介は思ってしまった。

 電車が完全に停車し、ぷしゅう、と気の抜けた音とともに扉が開くと、草介は彼女の小柄な身体を支え、もつれるようにホームに降り立った。

 ベンチに彼女を座らせ、少し落ち着いたところで、自販機からミネラルウォーターを買ってきて手渡す。

 キャップを捻った彼女は、冷たい水を飲んで、人心地ついたようだった。

「あ、あ、あの、大丈夫ですか……?
 救急車、呼びますか?」

 そう尋ねると、彼女は蒼白だった顔に少しだけ体温を宿し、首を横に振った。

 「……大丈夫です。
 本当に、すみません……。
 少し休めば、大丈夫だと思います」

 流れゆく人波になんとなく目を向けながら、ベンチに並んで座っていると、だいぶ顔色が回復した彼女は、恥ずかしそうにうつむいて、ぽつりと言った。

「……もう、平気だと思ったんだけどな。
 しばらく、発作なんて出てなかったのに」

 誰にともなく呟いた彼女に、草介の顔が強張る。

「ほ、ほ、発作?
 どこか悪いんですか?」

 苦笑いを浮かべ、彼女が「パニック障害なんです」と告白した。

「パ、パニック障害……」

 草介は頭の中から、聞き覚えのあるその言葉が意味することを探り出す。

 パニック障害──呼吸困難などの発作が起こり、恐怖を感じて公共交通機関などを利用することが困難になる病気……草介は、そのくらいの知識しか持ち合わせていない。

 自分には関係のない病気だと思っていたし、草介は草介で、吃音という厄介なハンデを持っているから、自分がいかに『普通の人』になるかに意識が向けられていて、あまり興味を持ってこなかった。

「ほ、ほ、発作、大丈夫なんですか?」

「だいぶ落ち着きました。
 ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。
 一緒に、電車まで降りてもらっちゃって……」

「あ、大丈夫です、ここ、僕の最寄りの駅ですから」

「そう、ですか。
 お名前、()いてもいいですか?
 あとでお礼したいし」

 「お礼なんて」と言ったのだが、彼女の大きな瞳に見つめられ、草介はしどろもどろになりつつも、やっとのことで自己紹介を始めた。

「え、えっと、間宮草介です。
 今日、美波(みなみ)大学の1年生になって……」

 すると彼女が大きな目をさらに見開いて言う。

「私も美波大学の学生です。
 今日が入学式で……間宮さんの学部は?」

「き、教育学部です」

「同じです!
 私も教育学部です」

「え、ぐ、偶然ですね……えっと……」

 すると草介の困惑を察した彼女が、あっと言って口を押さえる。

「すみません、私、自分の名前も言っていませんでしたね。
 原田泉(はらだいずみ)といいます。
 今日は本当にありがとうございました」

 ぺこり、と泉が小さな頭を下げる。

 慌てて頭を下げ返した草介は、ふと浮かんだ疑問を口にする。

「は、原田さんは家、どこなんですか?」

「……もう少し離れたところにあります」

 言葉を濁した泉が自分を警戒しているのだと気づき、草介は配慮の足りなさを突きつけられる思いがした。

 電車内で介抱した草介に、恩は感じているかもしれないが、いきなり居住地を訊いてきた見ず知らずの男に素直に個人情報を話すことは危険だと、泉は考えたのだろう。

 当然といえば当然だった。

 それ以来会話が途絶え、ひっきりなしに行き交う人の流れと慌ただしく発車していく電車を眺めていた草介は泉に今年一番の緊張を抑えつけながら、何とか切り出した。

「あ、あ、あの……うちに来ませんか?」

「え?」

 肩につくくらいの黒髪を揺らしながら、泉が驚いた表情で草介を振り向く。

 草介は、再びの失敗を悟って、あたふたと忙しなく手を振り、詰まりながらも説明を続ける。

「あ、あ、あの、変な意味じゃなくて……。
 また電車に乗るのは大変でしょうし、ここからうち近いから、少し休んでいったらどうかなって……」

「……はあ……」

 明らかに泉は草介の提案に困惑している。

「い、家っていっても、僕ひとりじゃないんです。
 シェアハウスに住んでいて、女の子もいるし、どうかなって……」

「シェアハウス……」

「で、電話で確認してみますね」

 そう言うと、草介はスマホをポケットから引っ張り出し、電話をかけ始めた。

 3回コールしただけで電話はすぐに繋がった。

 スピーカーをオンにして、泉にも会話が聞こえるようにする。

「も、もしもし、(べに)?」

『草介、お疲れー。
 入学式終わったの?
 つーか、騒がしいね、まだ大学?』

 高めの声の女性が親しげに草介と会話を始める。

「い、今駅なんだ。
 実は、家に連れて行きたい人がいて……大丈夫かな?」

『連れて行きたい人?
 草介が?
 まさか草介、早速友達が出来たの?
 何それ、マジ?
 もしかして女の子とか?
 いいよいいよ、連れてきな。
 璃来(りく)たちまだ帰ってきてないけど、今日はパーティーするつもりで食料とか余分に買ってきてあるから、人数増えても大丈夫だよ』

 紅と呼ばれた女性は、矢継ぎ早に言葉を連ね、草介に喋る隙も与えない。

「そ、そう、良かった。
 原田さん、どうかな?
 悪い人たちじゃないし、うちでゆっくり休んでから、家に帰ったらどう?
 何なら、家まで送ることも出来るし……」

 言ってしまってから、泉が自分を警戒していたことを思い出す。

 家まで送る、なんて発言は泉の警戒心を強めはするが、安心感はもたらさないだろう。

 一歩間違えば、草介は犯罪者ではないかと勘違いされかねない状況なのだ。

 出会ったばかりの素性も知れない男の発言なんて、信用されるはずがない。

 介抱したのだって、下心があるのではないかと誤解されても不思議ではない。

 草介が思考の波に溺れてどうすべきか途方に暮れていると、「お邪魔しても、いいですか」と泉が弱々しい声で呟く。

 すると、それを耳ざとく聞きつけた紅が、電話の向こうで興奮した声音で叫ぶ。

『やだ、本当に女の子じゃない!
 草介、やるじゃん!
 大学デビューってやつ?
 彼女、連れてきな!
 楽しみだなー、可愛い子かなー、じゃ、またね!』

 何の前触れもなくぶつりと通話が切られた。

 紅と呼ばれた彼女は、相当せっかちなようだ。

 草介も、さすがに苦笑を隠せずに、「さ、騒がしい人なんだ、ごめんね」と頭をかいた。

「助かります、実は、私、すごく心細くて……。
 上京したてで知り合いもいないし……。
 発作、最近は出てなかったから、少し安心してたんですけど……」

 潤んだ瞳で自分を見上げる泉に、草介は内心たじろぐ。

 誰かに頼りにされた経験など、草介にはなかったことだ。

 忘れていた緊張が再び顔を出してきて、強張った表情のまましばらくフリーズしていたが、自分を叱咤するように深呼吸したあと、やはり詰まりながらも言葉を発した。

「い、い、行きましょうか。
 10分くらい歩かなきゃいけないから」

「はい、よろしくお願いします。
 こっちにも、優しい人がいるんですね、安心しました」

 はにかんだように、ふわりと柔らかい笑みを泉が浮かべ、草介の緊張はさらに高まる。

 紅を除いて同年代の女の子と話す機会など、ほとんどなかった草介に、向けられたその笑顔はあまりに眩しかった。

 ふたりは雑踏を横切って駅を出ると、夕暮れの住宅地を歩き、草介の住む家へと向かった。


☆☆☆

 会話のない何となく気まずい時間を過ごすこと、しばし、何の変哲もない2階建ての一軒家に到着して、草介は心底ほっとした。

 泉の不安を和らげる会話のひとつも出来ない自分に、自己嫌悪に陥りながら、鍵を取り出して玄関を開ける。

「た、た、ただいま……」

「お邪魔します……」

 草介まで恐る恐るといった様子で家に入ると、廊下の向こうから、どたどたと、スリッパの音を轟かせて、ひとりの少女が走ってきた。

「やだー!
 草介がとうとうカノジョ連れてきたー!
 入学早々ナンパ?
 カノジョ、入りな入りな、草介のどこが良かったのか、中でじっくり話聞かせてもらおうじゃない」

 電話で聞いた声そのままの少女の外見は、金髪を緩くカールさせ、綺麗にネイルを施し、ド派手なメイクにぎりぎりまで短いスカートと、おおよそ『ギャル』といって差し支えないものだった。

「初めまして〜、あたし、草介の保護者代わりの五十嵐紅(いがらしべに)っていいます。
 さ、入って入って、カノジョさん」

「ほ、保護者じゃないでしょ……」

 という草介の否定の呟きは完全に宙に浮いて黙殺された。


 紅は、戸惑い気味の泉の腕を引っ張って、玄関を上がらせると、スリッパを履かせて連れて行ってしまう。

 泉は、玄関に取り残された草介を振り返り、しかしされるがままに紅に連れられ姿を消した。

 紅に連れられ、案内されたのは、広いリビングだった。

 大型のテレビにコの字型の革張りのソファ、レースのカーテンにアンティーク調の家具が整然と並ぶ清潔感漂う立派なリビングだった。

 リビングの隣にはダイニングテーブルがあり、その向こうにはキッチンがある。

 LDKが一続きの部屋は明るい照明に照らされ、キッチンからは作りかけの夕食の香ばしい匂いが立ち込めている。

 紅の姿に、泉はほっとすると同時に、心のどこかで草介を疑っていたことに軽く罪悪感を覚えた。

「えっと、座って座って。
 ごめんね、あたし料理まだ勉強中でさ、作るのに時間かかっちゃって。
 草介、相手してあげて。
 あ、まだ名前聞いてなかったね」

 泉をダイニングの椅子に座らせながら、紅は甲高い声で一方的に話し続ける。

「あ、初めまして、原田泉といいます」

 泉は、紅の言葉の隙間に、やっとのことで自己紹介を挟み込む。

「泉ちゃんね、わかった、わかった、ようこそ。
 歳はあたしたちと同じ?」

「18歳です」

「同じだね!
 あっ、鍋が吹きこぼれちゃう、ごめんね!」

 紅はばたばたとスリッパを鳴らしてフローリングの床を走っていく。


 ダイニングのブラウンのテーブルには、椅子が六脚ある。

 草介はシェアハウスといっていたけれど、何人で住んでいるのだろう、と泉が首を捻ったそのときだった。

「ただいまー」

 と、男性の声が玄関から聞こえてきた。

 すぐに足音が耳に届いて、リビングのすりガラスがはまった木製のドアが開かれる。

「あっ、璃来、お帰りー」

 振り返った泉は絶句した。

 そこに立っていたのは、モデルか俳優かというほどに整った顔立ちの青年だったからだ。

 こんなに美しい男性がいるのかと泉は言葉を失ってしまったのだ。

 璃来と呼ばれた青年は、泉たちと同じように、真新しいスーツ姿で、少し伸びた明るい茶色の髪が特徴的だった。

「璃来、お疲れー。
 聞いてよ、入学早々、草介がカノジョ連れてきたんだよ!」

「カノジョ!?」

 璃来が目を丸くしてリビングに所在なさげに佇む草介を見つめる。

「べ、紅の言うことは本気にしないで……。
 璃来ならわかるでしょ」

「また紅が暴走して騒いでるのか」

 璃来が綺麗な顔に苦笑を浮かべる。

 そんな璃来に、仕返しとばかりに紅が泉に告げ口するようにささやく。

「泉ちゃん、璃来、すごい美形でしょ?
 でもね、実は璃来には秘密があるんだ」

「……秘密?」

 泉はまじまじと璃来を見つめる。

 すると、璃来は長身をくねらせ、照れたように笑った。

「やだー、そんな見つめないでよ、恥ずかしいじゃない」

「……え?」

 璃来が突然繰り出した女性言葉に、泉が呆けた声を出す。

「そう、璃来はオネエでしたー」

 愉快そうにネタばらしをする紅を軽く睨んで、璃来が口をとがらせる。

「ちょっと、オネエって呼び方やめてって言ってるでしょ。
 差別よ、差別、それ。
 あたしは、心は完全に女なんだから!」

 生まれた性と心が一致しない──性同一性障害というのだったか。

 存在は知っていたものの、身近にそういう人がいなかったので、どう接すればいいかわからず、泉は戸惑った。

「大丈夫だよ泉ちゃん、璃来、怖くないから、ちょっとオネエなだけだから、安心して。
 璃来ちゃんでもりっちゃんでも好きに呼んであげて」

 泉の困惑にいち早く気づいた紅が、殊更明るくフォローを入れる。

「そうよ、取って食ったりしないわよ。
 あたしは優しいオカマだからね。
 えっと、あなたのお名前を訊かせてもらってもいいかしら?」

 璃来は、イケメンとしか表現出来ない綺麗な顔に、柔和な笑みを浮かべる。

 ビジュアルと口調のギャップがすごすぎて、泉はますます萎縮してしまう。 

「は、はい……。
 美波大学1年の原田泉です」

「草介と同じ教育学部?」

「あ、はい」

「そう。
 あたしは、藤原璃来(ふじわらりく)
 今日からヘアメイクの専門学校の1年。
 泉ちゃん、よろしくね」

 璃来がにっこりと微笑むので、泉は顔を赤くしてしまう。

「……で、あの草介とよく会話出来たわね。
 どっちから声かけたの?」

 璃来の瞳は、いたずらっぽい色を含んでいる。

「それは……電車で助けてもらって……」

 泉がたどたどしく説明しようとすると、玄関扉を開閉する音が響いてきて、女性の声で「ただいま」と言う声が聞こえた。

 足音が真っ直ぐリビングに近づいてきて、ドアが開けられる。

 姿を現したのは、しわひとつない純白のシャツに、すらりと長い足を細身のデニムに包んだ女性だった。

 泉はこの日何度目かの衝撃を味わった。

 女性は、長い茶色の髪をひとつにくくり、璃来に負けず劣らず整った美貌を誇っていた。

 ドラマや映画に出ている女優さんよりも美しいのではないかと思ってしまうほどの、涼しげな、凛とした佇まいだった。

 顔が小さい、肌が綺麗、眼が大きい、唇は桃色で形が完璧、一見飾り気のないシンプルな服装だけれど、彼女の顔の美しさを強調するのに一役買っている……泉は一瞬にして、彼女に様々な感想を抱く。

 彼女は、泉の姿を認めても、あまり表情を変えない。

灯名(ひな)、お帰りー。
 ほら、草介がカノジョ連れてきたよ!」

 紅が嬉しそうに女性に駆け寄る。

「カノジョ?
 へえ、草介、やるじゃないか。
 ようやく初恋か?」

 泉は、女性の見た目からは想像出来ない、さばさばとした口調にたじろいでしまう。

「そ。
 草介の遅い初恋。
 お祝いしましょ」

 紅の発言を訂正する気力も失せたのか、草介は暗い表情でうつむいている。

「で、こちらは?」

 灯名と呼ばれた女性が改めて泉を示す。

「原田泉ちゃん。
 草介と同じ教育学部なんだって。
 灯名、座って座って、すぐに夕食にするから」

 紅は灯名の腕を取ると、泉の隣の椅子に座らせる。

 灯名が帰ってきてから、もともと高かった紅のテンションがさらに上がっている。

「あ、泉ちゃん、言ってなかったけど、灯名、男だから」

 キッチンに戻りがてら、さらりと告げられた言葉に、泉は目をむく。

 ばっと灯名を振り返り、頭のてっぺんからつま先まで眺め回してしまう。

 灯名はその視線を不快そうに受け、脚を組んだ。

「初対面の相手に話したくはないが、紅のことだ、隠しておけるわけないよな。
 僕は神林灯名(かんばやしひな)という女だけど、心は男なんだ。
 璃来のことはもう聞いた?」

 泉はゆっくりとうなずく。

 ため息を交えながら、「やっぱりな」と灯名がぼやいた。

 美しい顔の眉間にしわを刻む。

「全く、紅は口を閉じることを覚えたらどうだ?
 初めて会う人間に、知られたくないことをべらべらと喋られちゃ、こっちが迷惑なんだよ」

 灯名の小言を完全に無視し、紅はキッチンから料理の載った皿を運んでくる。

「いいじゃない、そんなに怒らなくても。
 もう高校を卒業したんだし、卒業後は隠さないって言ってたじゃない」

「それはプライベートな話だろ。
 バレたら仕事に影響する。
 仕事先では女ってことになってるからな」

 湯気を立てる大皿料理が次々並べられ、テーブルが一気に埋まっていく。

「ごめんねえ、泉ちゃん。
 さっきも言ったけど、あたし料理初心者でさ。
 毎日スマホのレシピとにらめっこして作ってるの。
 だから、味には期待しないで。
 ほら、草介も璃来も座って、食べよう」

 紅の一言で、全員がテーブルにつく。

「いただきまーす」

 紅の音頭とともに、食器が立てるかちゃかちゃという音が部屋に響き渡る。 

 
 謙遜していたわりには、紅の料理は絶品だった。

 泉も料理はほとんどしないので、同じ初心者のレベルとは思えない。

「じゃ、改めて自己紹介しよっか。
 あたしは五十嵐紅、主にこの家の管理……掃除とか洗濯とか料理なんかを担当してる。
 時間があるときはアプリで探したアルバイトしてるの。
 で、あたしの隣がご存知、間宮草介、美波大の1年ね。
 反対の隣が、藤原璃来、専門学校生のオネエ。
 泉ちゃんの隣の美女が心は男の神林灯名、モデルの卵」

 泉は、ほうと感嘆の息を洩らす。

「モデルさん……」

 そう言われて、納得してしまう。

 泉にとって、実在するのか疑ってしまう、芸能人という雲の上の存在。

 その天上人が今、目の前にいるのだ。

 泉のきらきらした視線に、灯名が気まずそうに表情を歪める。

「まだ、レッスン受けてるだけ。
 本当にモデルとしてやっていけるかはわからないよ」

「あら、灯名なら大丈夫よ。
 ねえ、泉ちゃん、聞いて、灯名がモデルにスカウトされたのは、あたしの手柄なの」

 紅が嬉しそうに身を乗り出すと、それを制するように璃来が口を挟む。

「違うわよ、スカウトされたのは、あたしのメイクが上手かったからでしょ、ねえ、灯名?」

 紅と璃来の応酬に、灯名はうんざりした顔を隠しもせずにため息をついた。

「社長と出会えたことは、紅のお陰でも、璃来のお陰でもあるよ」

 灯名の言葉に、璃来と紅が椅子から腰を浮かせて顔を輝かせる。

「そうよね!」
「やっぱりあたしのお陰よね!」

 紅と璃来はお互いを見ると、「あたしよ!」「いや、あたしのお陰よ!」と言い争いを始める。

 灯名は我関せずを貫き、ハンバーグを口に放り込んでいる。

 呆然と紅と璃来を見つめていた泉に、草介が恥ずかしそうに小声で呟く。

「いつもこんななんだ。
 原田さん、うるさくてごめんね」

 草介に苦笑を返すと、紅がばっと音を立てて泉を振り向き、「泉ちゃん、あたしと璃来、どっちのお陰だと思う!?」と目を三角にして叫んだ。

「えっ……は、はい……?」

「まずはあたしからよ」

 璃来が泉を真っ直ぐに見つめ、真剣な眼差しで言った。

 先手を取られて紅が悔しそうに唇を噛む。

「あたしね、ヘアメイクの専門学校に今日から通ってて、メイクアップアーティストになるのが夢なの。
 で、高2のとき、灯名を練習台にして、メイクしたことがあるのね」

 璃来がそこまで言うと、紅が真正面からずいっと泉に顔を近づけて、その先を言わせまいと言葉を挟み込む。

「で、メイクして絶世の美少女になった灯名を原宿に連れて行ったのがあたしなの。
 みんなに見てほしくてさ、自慢の彼女を連れ歩いていたわけ。
 で、灯名はそこで今の事務所の社長さんに声をかけられたの。
 灯名がスカウトされたのは、メイクした璃来のお陰か、原宿に灯名を連れて行ったあたしのお陰か、ずっと結論が出ないままなのよ」

「はあ……」

 泉はほぼため息としかいえない吐息を洩らすことしか出来ない。

「そ……それは確かに難しい話ですね……」

 戸惑いを隠せない泉に同情したのか灯名が食事の手を止めて口を開いた。

「原田さん、本気で考えることないから。
 ほら、料理冷めちゃうよ」

 灯名に促されて、泉は置いたままの箸を手に取る。

「ねえ、泉ちゃん、どっちだと思う!?」

 紅に迫られた泉をかばうように、灯名が大きな目でふたりを睨む。

「その話はもういいから!
 僕が社長と出会えたのは、紅と璃来、両方の手柄だから」

 灯名の断言に、紅はとろけるような笑みを浮かべる。

「……そうよね、あたしの、あたしの手柄……ふふっ」

 非常に不気味に呟く紅を横目で見ながら灯名は何事もなかったかのように食事を再開する。

 一連のやり取りを、ただ眺めていただけの泉が、唐突にぷっと小さく噴き出す。

「みなさん、すごく仲が良いんですね。
 いつもこんな感じなんですか?」

 自分で揚げた唐揚げを食べながら「ん、まあね」と紅がうなずく。

「みなさんは、どんな関係で……?」

「ああ、あたしたちね、高校の同級生なの」

「同級生……昔から仲が良かったんですね」

「んー、同級生だから仲が良かったってわけでもないのよね。
 あたしたちが仲良くなったきっかけは、オンラインゲームだったの」

 もぐもぐと咀嚼しながら紅が教えてくれる。

「オンラインゲーム?」

「そう。
 『幻想宮殿』ってゲーム知ってる?
 あたしたち、最初はお互いの顔も名前も知らないまま、ゲーム上で出会って、ギルド組んで攻略していくうちに、チャットで現実(リアル)のことも話すようになってね。
 誰にも打ち明けられない悩みとか、秘密とか、洗いざらいみんな。
 で、高2の夏休みに、オフ会やろうってことになって、集まったのがこの4人……。
 つまり、星の数ほどいるプレイヤーの中からギルドを組んだメンバーが、全員同じクラスの生徒だった……って、ちょっと奇跡的な話」

「それは……すごい偶然というか、本当に奇跡的ですね」

「でしょ?
 テンモンガク的数字……だっけ?草介、合ってる?」

「天文学的数字ね、合ってるよ」
 
 草介はコップを置いてうなずいた。

 シェアハウスに帰ってきてから、草介は目に見えてリラックスしていて、吃音もあまり気にならない。

 よほど居心地が良いのだろうと、親元を離れひとり暮らしを始めたばかりの泉は、少し彼が羨ましくなった。

「で、現実でも会うようになってね、仲良くなったの。
 特に、璃来と灯名の秘密は、あたしと草介しか知らなかったし、家族よりも信頼出来る仲間になったっていうかさ。
 あたし発達障害があってね、草介に勉強教えてもらったり、璃来が草介をいじめから救ったり……。
 まあ、色々あった高校生活を経て、逃げるみたいに実家出て、4人で暮らし始めたの」

 紅は朗らかに、この家に辿り着くに至った経緯を説明しているが、この4人は、自分が想像するより過酷な道を歩いてきたのではないかと泉は推察して、自分の人生と重ね合わせて考えてしまう。

 自分を苦しめてきたこの病気は中々周囲から理解されにくい。

 どうしてそれくらいのことが出来ないのかと、自分も周りも、もどかしい思いを抱くのが、この病気だ。

『普通の人』と同じことが出来ないのかと思い悩んで自分をさらに追い詰めてしまう。

 しかし、今日出会ったこの人たちは、周りから理解されにくい『少数派』なのに、悲観せず、一見楽しそうに生きている。

「泉ちゃん?」

 思案に沈み込んでいた泉は、紅の呼びかけに、はっと我に返る。

「初対面なのに、ちょっとハードな話しちゃったかな。
 あんまり重く考えないで」

 正直、それはもう無理だと思ったが、泉は精一杯微笑を作った。

「大変、だったんですね。
 でも、こんな大きなお家に住めるなんて、すごいです」

 すると、紅が「ああ、それね」と気のない相づちを打つ。

 突然話の内容に興味を失った紅に代わり、璃来が仕方ないと言わんばかりに口を開く。

「この家はね、あたしの叔父さんの家なの。
 叔父さん一家が海外赴任になって、この家を空けるから、家の管理をしてくれるならって条件で、タダで住ませてもらってるの。
 あたしたち、実家が居心地悪くてね、叔父さんからこの家の話を聞いたとき、3人を誘って一緒に暮らそうと思ったの。
 ここなら、草介の大学もあたしの専門学校も灯名の事務所も比較的近くて、都合が良かったのも引っ越してきた理由のひとつね」

「なるほど、そうなんですね」

 見ず知らずの自分を邪険にせず迎えてくれた彼らは、目に見えない絆で結びついていることがわかり、同時に彼らが優しいのは、痛みを知っているからなのだと、泉は短い会話から、そう結論を出した。

 食事を再開して、わいわいとお喋りに興じている4人を見て、泉は知り合いのいない土地に来たことを実感して寂しさを募らせた。

 そして、唯一無二の仲間を手にした4人が、眩しく羨ましかった。

 顔見知りがいない大学で、早く友達を作らなくてはいけないと、泉の心の隅から焦りのようなものが生まれた。

「泉ちゃんは?」

「え?」

 唐突に紅が、ひた、と猫のような瞳で見つめてくる。

「草介との馴れ初めよ。
 この草介と、よく意思疎通が出来たわね。
 言葉に詰まるし、ネガティブだし、すぐ顔真っ赤にして恥ずかしがって男らしくないしさ」

「あ、それは……。
 私、電車で間宮さんに助けていただいて」

「助け……?
 痴漢にでも遭ったの?」

「あ、違うんです。
 私、パニック障害っていう病気で、電車とか、逃げ場がない乗り物とかだと怖くて呼吸が出来なくなるんです」

「パニック障害……。
 あたしの発達障害とは違うの?」

 首を傾げる紅に、草介が解説する。

「パニック障害と発達障害は全くの別物だよ。
 紅の発達障害は先天性のものだろう。
 パニック障害とはそこからして違う」

「ふうん……。
 ごめんね、あたしあんまり難しいこと理解出来なくて。
 でも、泉ちゃんも苦労してんのね。
 草介、やるじゃん、女の子を助けてあげるなんて。
 でも顔、真っ赤だったでしょ?」

 紅が泉にいたずらっぽい笑みを向ける。

 泉は、苦笑しながら「はい」と答えた。

「泉ちゃんも、将来は先生になるのよねえ?」

「はい、今の状況だと、まともに大学に通えるのか不安ですけど……」

「電車にも、乗るのつらいんでしょ?」

 泉の顔をじいっと見た紅が、璃来に向けて何でもないことのように告げる。

「ねえ、泉ちゃんをここに住まわせてあげたら?
 泉ちゃん、ひとりきりで過ごすのは不安でしょう?
 ここにいれば、少なくともあたしは毎日うちにいるし、誰かと一緒にいたほうが安心じゃない?
 どうかな?」

「そ、それは……」

 紅の提案に、泉は面食らう。

 紅の心が広いことはよくわかった。

 本気で会ったばかりの泉を自分のことのように心配してくれる優しい人だとも。

 けれど、さすがにそれでは、迷惑をかけすぎる。

 ひとりが不安なのは、言うまでもない話だが、だからといって紅の提案に乗るのは、甘えすぎではないかと思うのだ。

「灯名は男だから、あたしと同室に住んでもらうことになるけど……。
 璃来、今からあたしの部屋に二段ベッド置けないかな」

「そうねえ、置けないこともないけど、叔父さんに報告してからになるかしらねえ」

 少し考え込んだ様子の璃来の返答に、紅は焦れたように璃来の肩を揺さぶる。

「今電話して訊いて!
 今日から泉ちゃんが一緒に住んでいいかどうか、叔父さんに訊いて!
 一晩だってひとりにしておくのは心配だわ。
 この話は待ったなしなのよ!」

 うーん、と唸る璃来に、紅が食い下がる。

「紅、まだ原田さんの答えも聞いていないだろ、ひとりで暴走するのはよせ。
 原田さん困っているじゃないか」

 灯名にとがめられ、噛みつくような勢いで紅は泉に、マスカラを塗り固めたまつ毛が縁取る瞳を向ける。

「泉ちゃん、悪いけど、これはもう決まりなの。
 泉ちゃん、絶対断るでしょ?
 でもね、あたしはそんなの絶対許さない。
 泉ちゃんがひとりで不安に震えているなんて、考えただけで居ても立っても居られないわ。
 だから、少し強引に話を進めるわ。
 いい?
 泉ちゃんは、今日からここに住むのよ!」

 拒否する間もなく、本当に強引にこの家で暮らすことが決まってしまいそうな状況に、泉は思わず席を立ち上がっていた。

「あの、紅さん、本当に私大丈夫なので……。
 そこまでしてもらうのは、ありがたいんですけど、申し訳なくて……」

 しかし、泉の消え入るような声は、紅には届いておらず、向かいの席で紅は璃来の耳にスマホを押し付けていた。

「ああ、叔父さん?
 悪いね、こんな時間に。
 実は、ちょっと相談したいことが出来て──」

 呆然と成り行きを眺めるだけの泉に、「原田さん、紅茶淹れるけど飲む?」と灯名がマイペースに訊いたのだった。
 
☆☆☆

 会計を済ませると、ソファに座って待っていた草介が立ち上がり、自然な流れで泉の隣に並ぶと、揃って自動ドアを潜り抜けた。

「あ、あ、暑いね……」

 気を利かせたのか、草介が泉に話しかける。

 まだ4月の中旬だというのに、太陽は絶好調だ。

 外を歩くだけで汗が吹き出す。

 カバンに財布をしまいながら、泉は隣を歩く草介に、ちらりと視線をやり、眉を下げた。

「ごめんね、草介くん。
 何の関係もないのに、病院にまで付き合ってもらっちゃって……」

「き、気にしないで。
 紅に言いつけられてるし、僕なんかで役に立てるなら、病院くらい、いくらでも付き合うよ」

 泉は弱々しい笑みを浮かべる。

「優しいね、草介くんも、紅ちゃんも。
 もちろん、璃来さんや灯名さんも」

 新しい環境で出会った人達の思いがけない優しさに触れ、泉は感慨深そうに誰にともなく呟いていた。

 草介に助けられ、シェアハウスを初めて訪れたあの日から、一週間が過ぎていた。

 結局、泉は根負けして、紅の言う通り、シェアハウスに
泊まることになった。

 紅のお節介を、強引だとか不快だとは思わなかった。

 それだけ、泉は不安を抱えていて、誰かと一緒に居たいと心のどこかでは願っていたのだろう。

 翌日、紅に付き添われて引っ越したばかりの自宅アパートへ行き、まだ片付けられていないダンボールだらけの部屋から必要な物を持ち出して、シェアハウスに戻った。

 それから、泉はずっとシェアハウスの紅の部屋の床を借り、寝泊まりしている。

 まずは薬をもらう必要があったため、紅に付き添うよう命令された草介と、精神科へ行き、処方してもらった。

 その間は、電車に乗る必要があったが、草介は怯えながらも、泉の左手を握りしめ、不安を感じさせないよう、必死に努力してくれた。

 しかし、電車に乗るのは、やはりハードルが高かった。

 すぐに動悸が始まり、冷や汗が首筋や額を覆う。

 怖い、という思いに支配されないよう、泉は無意識に草介の大きな手を握り返していた。

 草介の手は、どこまでも優しく、泉の緊張を解こうと必死な様子が伝わってくる。

 傍から見れば、自分たちは恋人に見えているだろうか、と馬鹿馬鹿しい考えが浮かび、泉はひとりで苦笑する。

 そんなことが考えられる余裕が、草介がいることで生まれたことに気づいたからだ。

 ちら、と横目で草介を窺う。

 長めの前髪で顔を隠し、うつむき加減で歩く、自分に自信がないことが一目でわかる頼りない恩人。

 どうしてそこまで自分に自信を持てないのだろうか。

 彼は、誇っていいところをたくさん持っているというのに。

 処方された薬が入ったカバンをぎゅっと抱きしめ、お守りに祈るように、泉は車窓の向こうに視線を投げた。
 

☆☆☆

 体調には波があった。
 
 5月に入り、泉は大学へ行ける日と行けない日を交互に過ごしていた。

 家から出ることが怖い。

 逃げ場がないところに行くのが怖い。

 外で発作を起こしたらどうしようと考えると一歩を踏み出せない。

 朝、恐怖に勝てず、紅とシェアハウスに残る日もあった。

 紅はそんな泉に、家事の分担を頼んでくる。

 ここにいても誰も責めないんだと、言外に知らせるように。

 泉が自分を責めないようにするための紅の気遣いなのだと理解していた。

 大学から帰ってきた草介に、その日の講義を教えられる日が増えた。

 リビングで向かい合って草介のつたない言葉で、講義を受ける。

 その様子を、キッチンから紅が目を細めて見ている。

「き、今日はこんなところかな」

 ノートを閉じると、草介が講義の終わりを告げる。

「わ、わかりやすかった、かな?」

 やはり自信なさげに訊いてくる草介に、泉は笑顔でうなずく。

「うん、草介くん、本物の先生みたい。
 すごく教えるの上手だよ」

 泉に絶賛された草介は、照れながらも、満更でもなさそうな表情を浮かべる。

「お疲れー、泉ちゃん。
 草介、教えるのうまいでしょ?
 あたしもね、高校のとき勉強教えてもらってたの。
 授業出ても何にもわからなかったのに、草介に教えられると不思議と理解出来ちゃうんだよね。
 わからないって言うと、わかるまでとことん教えてくれるし。
 初めて『将来先生になりたい』って聞かされたときには、驚いたけど向いてるんじゃないかなって、あたしは思ったんだけどね」

 ふたり分の炭酸飲料を注いだコップをリビングのガラステーブルの上に置いた紅が、泉の手元のノートを覗き込む。

「全然わかんないわ、やっぱあたしに大学は無理みたい。
 受験しなくて良かったわ。
 ま、どうせどこにも受からなかっただろうけどね」

 からからと笑う紅に、何と返していいものか泉が困惑の色を浮かべると、草介はぼそりと言った。

「紅はやる前から諦めすぎだよ。
 僕だって、何の自信もないのに頑張ってるんだから」

「あら、高校時代、あたしがあんなに褒めたのに、先生になることにまだ自信がなかったの?」

 目を丸くする紅の隣で、泉が思いついた疑問を口にする。

「草介くんは、どうして先生になろうと思ったの?」

 少し間を置いてから、草介はうつむきながら答えた。

「ぼ、僕、吃音でしょ。
 こんな僕でも、普通に生きて行けるんだって、楽しく暮らせるんだって、友達が、出来るんだって、子供たちに知ってほしくて。
 僕にしか、教えられることがあるんじゃないかって、おこがましいけど、思ったんだ」

 そう言いながら、顔を真っ赤にした。

 ほう、と嘆息してから、「立派だね」と泉は呟いた。

「草介くんにしか伝えられないこともあるよ、きっと。
 私は、先生になれるのかな……。
 普通の人にもなれないのに」

「『普通』?」

 草介が泉の言葉を復唱した。

 『普通』。

 それは、草介を始め、このシェアハウスに暮らす4人が目指してきた目標であった。


 いかに『普通の人』になるか。

 『普通』からかけ離れた4人が、常に意識してきた言葉。

 『男』になれない、『女』になれない、『座って』いられない、『吃音』が邪魔をする──。

 傍から見れば欠点ばかりで、傷を舐め合うように集った4人は、沈められた水中から顔を出して、酸素を貪るように『普通』を求めた。

 けれど、それは未だに達成されていない。

 4人は、未だに少数派なままだ。

「僕だって、『普通』じゃないし……」

 草介が眼を泳がせながら、言い募ろうとすると、今までに見たこともない、強い目つきで泉が言い放った。

「草介くん、『吃音』は、障害でも何でもないよ。
 草介くんは、『普通』だよ。
 外にも行けない、他の人と同じことも出来ない、私と比べたら、草介くんは何のハンデも持ってないのと同じだよ」

 力強い泉の言葉に、草介はたじろいでしまう。

「そ、そうかな……」
 
「そうだよ。
 私、大学にも通えないんだよ?
 草介くん、そんな心配ないでしょ?
 草介くんは、先生に向いてるし、事実教え方もうまい。
 もっと自信持っていいと思う」

「う、うん。
 ありがとう……」 

 草介は、やはり自信なさげに薄く笑うだけだった。

 璃来と灯名が帰ってきて、5人揃ってテーブルに着いた。

 今日も、紅がスマホとにらめっこしながら作った料理が並ぶ。

 灯名には、栄養を考えた特別メニューが用意されていた。

 紅は、灯名に献身的に尽くしている、という印象を泉は抱いていた。

 灯名は紅に特別な感情はなさそうだが、過去に何がふたりの間にあったのだろうかと、勘ぐってしまう。

「でね、今日の授業で……」

 夕食の席で、いつになくテンションが高い口調で、璃来が話し続ける。

 心底嬉しそうで、その顔は華やいでいて、泉には眩しいほどだ。

 ヘアメイクの専門学校に通い始めた璃来は、周りの同級生たちに、一瞬で『オネエ』だとバレた。

 しかも、学校には、璃来と同じような『男だけど心は女』という生徒が、決して珍しい存在ではなく、璃来はすぐに同級生と打ち解け、素性を隠さなくていい環境で、居心地がとても良いのだと言い毎日楽しそうに通学している。

 メイクアップアーティストになるため、美容師の国家資格を取得する必要があり、毎晩遅くまで勉強に明け暮れていた。

 寝不足でも、学校は楽しく、苦にならないと璃来はここのところ上機嫌だ。

 対照的に、灯名はどこか、むすっとしたような表情を見せることが増えた。

 灯名も、モデルになるためのレッスンは順調なはずだが、家では不機嫌オーラを全開に放っている。

 綺麗な顔が無表情になることが、こんなに恐ろしく見えるのだということを、泉は身を以て知ることになった。

 氷のような冷たさ、とでもいうのか。

 キッチンのテーブルでは、泉の隣は灯名の指定席なのだが、今にも灯名から冷気が漂ってきそうで、泉は首を縮こまらせた。

「……楽しそうだな。
 僕といるより、学校にいるほうが楽しいか?」

 灯名の絶対零度の声音に、喋り続けていた璃来が、はっと口を閉ざす。

「な、何よ、何で怒ってるの、灯名?
 灯名といてつまらないわけないじゃない。
 ただ、自分を偽らなくてもいい環境が、初めてだから、つい興奮しちゃって……。
 灯名はまだ隠さなきゃいけないのよね、灯名の気持ちも考えなきゃいけなかったわね、ごめんね、灯名」 

 璃来が眉を下げて謝ると、灯名はふいと顔を反らしてしまうが、背けられた横顔の口元に、笑みが刻まれたのを見て、泉はほっと胸を撫で下ろす。

 璃来に対する灯名の、単純なやきもちだったのだろう。

 仲間が、新しい環境で、知らないうちに変わっていくことに、不安を抱くことには納得が出来た。

 しかし、まるで恋人のような会話だな、と泉は思った。

 灯名がやきもちを焼き、璃来が慌てて謝罪する。

 お互いが一番大切なのだと、わざわざ言葉という形に落とし込まなくても、初めから決まり切った事実であるような、伝えなくても伝わっているような。

 灯名の機嫌もやや回復したところで、泉は、紅に視線をやる。

 いつも、璃来と会話の主導権を争っている紅が、やけに静かなのだ。

 他の人の話をにこにこして聞いている──ことは紅の性格上、中々想像出来ない。

 誰が話していても、紅は会話に割り込むし、茶化したりからかったり、とにかくいつも良くも悪くも口数が多い。

 泉も、正直、紅の明るさに助けられたこともあるが、騒がしいと思うこともある。

 そんな紅が誰の話にも口を挟まず沈黙していることは、泉から見れば異常事態だった。

 どうしたのだろう、と思いはしたが、尋ねる勇気が出なくて、結局夕食は終わり、キッチンを片付けた紅は風呂に行ってしまった。


 最後に風呂に入り、火照った身体を冷ますため、水でも飲もうとキッチンに向かおうとしていた泉は、リビングから聞こえる話し声に、ふと足を止めた。

 間接照明しか点いていない薄暗いリビングから、紅の涙声が聞こえた気がしたからだ。

 そうっと廊下からリビングを覗くと、ソファに座っている紅と灯名の姿が見えた。

 紅が力いっぱい灯名の身体を押す。

「嘘!
 みんな、あたしを置いてけぼりにして、ひとりにして、平気なんだ!
 みんなには夢があって、なりたいものがあって、みんな、どんどん進んでいって、あたしはひとり、誰の役にも立たなくて、いてもいなくても、灯名たちは構わないんでしょう?」

 涙まじりの甲高い声で、紅が感情的に叫び続ける。

「落ち着けよ、紅。
 紅がよくやってることくらい、みんな、わかってるよ」

 自分に伸ばされた紅の手を掴み、灯名は抱擁するように紅の身体を包み込む。

「だから、嘘!
 みんな、あたしのことなんかどうでもいいんでしょう!
 夢を叶えたら、忘れちゃうんでしょ、あたしのことなんて。
 あたしだけ、何者にもなれなくて、置いてけぼりで……。
 ねえ、灯名」

 そのとき、泉は目を見開き、口元を押さえた。

 紅が、灯名にキスしていた。

 唇を離すと、呆然とする灯名の胸に顔を埋めて、紅が悲痛な声で打ち明けた。

「……好きなのよ、あたし、灯名のことが……。
 女が女を好きだなんて、あたしにもわけがわからないけど、そうなの。
 止められないの、理屈じゃないのよ……気づいてよ……」

 いやいやをするように首を振りながら、紅は弱々しく灯名に抱きつく。

「ごめん、紅。ごめん」

「謝らないでよ、あたしが惨めじゃない……」

 灯名が身体を受け止めると、紅は声を上げて泣き出した。

 その丸まった背を、灯名の手が優しく撫でていく。

 泉は縫い留められたように、その場から動けなかった。

 紅の泣き声をしばらく聞いていると、「泉ちゃん」と灯名の声がして、びくりと身体を震わせた。

「いるんでしょ。
 平気、もう紅、寝ちゃったから」

 泉は、気まずい表情でリビングへと入って行く。

「盗み聞きとは感心しないね」

「す、すみません。
 聞くつもりじゃなかったんですけど……」

「わかってる。
 誰にも言わないでよ、僕がファーストキスを奪われたなんて」

 灯名は苦笑しながら、泣き疲れて寝息を立てる紅を慈しみを込めた視線で見つめると、そっと手を離す。

「悪いけど、ちょっと見ててくれる?
 毛布持ってくるから」

「……はい」

 灯名がリビングから姿を消すなり、「振られちゃった」と紅の声がして、泉は飛び上がるほど驚いた。

「紅ちゃん、起きてたの?」

「まあね」
 
 暗がりの中でもわかるほど、目を充血させた紅が起き上がる。

「わかってるんだけどね。
 灯名は、璃来を好きなんだってことくらい」

「え、灯名さんが……?」

「自覚はないだろうけど。
 あのふたりには、あたしが立ち入れない絆がある。
 恋人とか、そういうわかりやすい名前はつけられないけど、特別な関係。
 だから、灯名を好きなことは言わないつもりでいたのに……。
 ダメだね、みんなが眩しく輝いてるから、置いていかれるって、怖くなっちゃって、焦っちゃった、あたしらしないなあ、本当に」

 紅には、すっかりいつもの明るい表情が帰ってきている。

「わかります……。
 私も、草介くんとか、灯名さんとかが、輝いて見えて、手が届かないところに行っちゃうんじゃないかって、不安になりますから」 

「ふふ、だよね」

 紅が屈託なく笑うので、泉もつられて笑ってしまう。

「私と、草介くんの関係にも似てますね。
 友達とか仲間とか、そんな単純な言葉で言い表せない」

「確かに、そうだね。
 あーあ、何で人を想う気持ちって、こんなに複雑なのかね。
 形に出来ない関係ばかり。
 誰を好きになるのが正しいなんて、決まってないかもしれないけどさ。
 苦しいものは、苦しいよね。
 あたしって、本当、とことん『普通』からかけ離れてるな。
 灯名も言ってたけど、今夜のこと、璃来たちには言わないでね。
 明日からは、いつも通り灯名に接するつもりだし、振られたなんて知られたら恥ずかしいし。
 璃来に何て言われるかわららないし」

「わかりました」

「じゃ、おやすみ」

 ひらひらと手を振ると、紅はリビングを出て行った。 

 灯名は戻って来なかった。

 紅が寝たふりをしていることに気づいていたのだろう。

 物思いに浸りそうになった泉を、睡魔が訪ねてきた。

 それに従い、泉は一歩遅れて、間借りしている紅の部屋へと向かった。


☆☆☆

 翌朝、宣言通り、灯名と紅は昨夜のことなど、なかったかのように変わらず顔を合わせ、朝の挨拶をし、5人で朝食を摂って、家を出ていく3人を笑顔で見送る──つまり、いつもの朝と、何ら変わらない一日の始まりを迎えたのだった。

 リビングで教科書を広げ、勉強をしようとしていた泉は、紅に声をかけられ、振り向いた。

「お祝い……?」

「そう。
 今日ね、所属モデルとして事務所のサイトに灯名の宣材写真、ていうのかな、それが載るんだって。
 レッスンを終えて、プロのモデルとしての第一歩の、めでたい日なの。
 で、さ……。
 昨日のお詫びもあるし、今夜はパーティーしようかなって。
 嫌でなければ、リハビリだと思って、スーパーに一緒に買い出しに行かないかなって」

 紅の顔は、どこか恥ずかしそうだ。

 泉は笑顔になり立ち上がった。

「行かせてもらいます。
 足手まといにならないように頑張ります」

 すると紅が、からからといつものように笑った。

「気負わなくていいよ。
 無理しなくていい。
 軽いノリで大丈夫」

 相変わらず紅は、気遣いの出来るひとだ。

 たとえば、学校に紅のようなビジュアルのひとがいたら、目を合わせないようにして、絶対関わりを持たないだろう。

 しかし、ひとは見かけによらない。

 打たれ弱くて『普通』になれなくて人知れず悩んでいる、繊細な心をギャルの外見で武装して隠している紅。

 紅に内包された優しさに触れて、泉は考えを改めさせられた。

 彼女から与えられた優しさに、何をしたら返せるだろう。

 泉は紅とともに、近所のスーパーへと買い出しに出掛けた。


☆☆☆

 主役の灯名がテーブルにつき、ささやかなパーティーが始まった。

 テーブルには、スーパーのお惣菜と紅のアシスタントとして、泉が調理を手伝った料理も、堂々と並んでいる。

「お祝いまですること……?」

 灯名は目の前の豪勢な料理にやや面食らっている様子で呟いた。 

「決まってるじゃない!
 みんなの中で、一番最初に夢を叶えたのよ、すごいことじゃない!
 じゃ、乾杯しよ、乾杯!」

 紅は自分のことのように喜んで、グラスを頭上にかかげた。

 やれやれといった様子ながら灯名もグラスをかかげ、全員でカチン、とぶつけ合うと、自然と笑い声が生まれた。

 仲間に見せる屈託のない灯名の笑みに、泉は同性ながらどきりとさせられてしまう。

 同時に、紅の言葉に違和感を抱いた。

 灯名の顔に、浮ついた色はなく、あくまで淡々とした表情だった。

 それはつまり、灯名は夢を叶えたのではなく、あくまで一番近くにあった目標を達成しただけであり、彼女の本当の『夢』は、まだまだその先にあるのだろう。

 自分も、と泉は密かに灯名に憧れを抱く。

 先生になるという夢を叶えるため、大学受験という目標を突破した。

 夢に繋がる次なる道は大学への通学と、卒業だ。

 自分も灯名のように自信に満ち溢れ、ひたと目標を見据えてぶれない日々を過ごしたい。

 そうした日々を超えてこそ、自分の夢は叶うのだろう。

「モデルかあ……。
 灯名、本当にすごいわよね」

 紅がスマホを取り出し、今日何回目かの事務所のサイトを表示する。

 所属モデルとして灯名の写真が載ったサイトを、午前中から何度も眺めては、にやにやと笑いを浮かべている。

 変わり映えのしないスクリーンショットを、もう何回撮っただろう。

 食事中ですよ、と見かねた泉が注意しようとすると、突然紅が眉を寄せた。

「なにこれ……?」

 不穏な気配を孕んだ紅の声音に、隣の璃来がスマホを覗き込む。

「やだ、誰が……」

 璃来も口元を押さえて動揺を隠せないでいる。

 にわかに泉の胸にも不安が押し寄せる。

 どうしたんですか、と尋ねようとしたとき、紅がスマホを灯名に手渡し、泉は隣から遠慮がちに覗き込み、息を呑んだ。

『モデルの《Hina》は性同一性障害』
『モデル仲間のみなさん、気をつけて!みなさんの着替えを《Hina》はエロい目で見ていますw』

 SNSへ書き込まれた匿名の投稿を読んで顔面蒼白になりながら、灯名の顔を恐る恐る見上げると、灯名はいつもの無表情で、スマホの画面を睨んでいた。

「これって……」

 灯名は《Hina》という名前でモデル活動をしている。

 書き込まれた名前が、灯名を指すことに、間違いはないようだ。

 しかし、一体誰がこんなことを……。

 灯名の足を引っ張るのが目的のような悪意のある書き込みに、泉にもどす黒い怒りが湧き出す。

「……高校の同級生か、他の学年の誰かだろうな。
 顔をさらす職業に就いたときから、こうなることは覚悟の上だ」

 灯名は冷静そのもので、わたわたと慌てているのは、紅たち周りの人間だけだ。

「こんなのが拡散されたら灯名の将来はどうなるの?」

 不安顔の紅に、やはり灯名は淡々と答える。

「わからない。
 社長が僕をクビにするかどうかだ。
 僕に決定権はない」

「灯名……灯名、ごめん。
 本当にごめんね……」

 見ると、璃来が両手で顔を覆って、絞り出すように謝ったままテーブルに突っ伏して泣き崩れていた。

 そんな璃来に言葉をかけようとした灯名のスマホが着信を告げた。

「社長だ……」

 画面を見て、灯名が小さく呟く。

 絶妙なタイミングでの着信に、びくりと肩を震わせた泉の中で不安の種が急速に育っていく。

 超能力は持ち合わせていないが、この電話は決して楽しい報せをもたらすものではないと、泉の第六感が警鐘を鳴らしていた。
 

「はい……はい、わかりました」

 短い通話を終えると、灯名が立ち上がった。

「社長も書き込み見たみたい。
 話があるから今から事務所に来いって。
 ちょっと出てくる」

 さっさと玄関へ向かう灯名を追いかけながら、「大丈夫なの?」と紅が今にも泣き出しそうに表情を歪めて尋ねる声が泉にも聞こえる。

「わからない。
 社長が何て言うかは、行ってみないと」

 鍵を開閉する音が聞こえて、肩を落とした紅がダイニングへと戻ってくる。

 璃来は呼吸困難に陥りそうなほど泣きじゃくっている。

「どうしよう……。
 灯名がクビになったら……。
 あたしのせいで、あたしのせいで……」

 ダイニングを、消灯した暗闇より濃い密度の沈黙が支配する。

 深刻で重苦しい空気に泉が溺れかけたとき、紅が困ったように疲れた笑みを見せた。

「何か、ごめんね、泉ちゃん。
 わけわからないわよね」

 どう答えていいかわからず、曖昧にうなずく。

 遠い目をしながら、紅が代表して話し出した。

「灯名と璃来は、性同一性障害だってこと、家族にも黙ってたって話はしたっけ?
 その秘密を知ってるのが、あたしと草介だけだってことも、話したかな。
 それでね、高2のとき、璃来の『オネエ』がバレちゃって、いじめのターゲットになっちゃったの」

 紅の言葉に、草介が消え入りそうな声で割り込む。

「ぼ、僕のせいなんだ。
 僕がいじめられてて、それを璃来が助けてくれて……」

「そう。
 璃来ね、高校時代は『王子様』なんて言われて学校中の女子の憧れの的だったの。
 あ、ついでに灯名は『姫』って呼ばれてて、こっちもアイドル並みの人気でさ。
 スクールカースト上位の璃来にいじめをとがめられた連中が、璃来を逆恨みして、璃来の『オネエ』を暴いたの。
 周りの人間も、手のひらを返すっていうのかな、璃来をいじめだして……」

 ため息を挟むと、険しい表情になった紅が意を決したように続きを話し始める。

 泉は息を呑んで次なる言葉を待った。

「璃来はあたしたちを、特に灯名を巻き込まないために、自分をかばうなって灯名に命令してたの。
 でも、耐えかねて、クラス全員の前で、灯名が『自分も性同一性障害だ。心は男だ。璃来をいじめるなら、自分もいじめろ』って、璃来を助けるために自分から暴露しちゃって……。
 結果、家族にも学校にも知れ渡って、ふたりはどこにも居場所を失ってしまった。
 地獄みたいな日々だった高校を卒業して、実家を出て、秘密を共有してきた4人で暮らし始めて、ようやく、あたしたちは自由に息が出来るようになったの。
 璃来は専門学校に居場所を見つけて、灯名はモデルになるために努力して……。
 でも、ひどいわよね、灯名は悪いことをしたわけじゃないのに、ううん、逆よね、灯名は璃来をひどいいじめから救った、それだけなのに、夢を叶えようとしている、それだけなのに、悪意を持って邪魔してくる人間がいる……。
 本当、悔しいわ。
 他人(ひと)の人生なんだと思ってるのかしら」

 憤慨したように、紅はグラスの炭酸飲料を飲み干した。

「結局は、あたしたちには、どうにも出来ない問題なのよね。
 今は、灯名が帰ってくるのを待つことしか出来ない」

 紅の言葉を最後に、ダイニングには沈黙が満ちた。

 並べられた料理は冷め、誰も箸をつけようとしない。

 静かな璃来のすすり泣きを聞きながら、時間だけが変わらず過ぎていくばかりだった。 


 日付をまたいだ頃、灯名が帰宅した。

 飾り気のないシャツにデニムという、いつものスタイルで、やはりいつもの無表情で待ち構えていた紅たちを見た瞬間、少しだけたじろいだように見えた。

「僕を待ってたのか?
 寝てて良かったのに」

 テーブルの料理は片付けられていたが、ひとりも席を立とうとはせず、紅の淹れたコーヒーを飲みながら、ひたすら灯名の帰りを待っていたのだ。

「で、どうだったの、灯名」

 紅が真っ先に立ち上がって灯名に問いただす。

「うーん、どうっていうか」

 灯名は煮えきらない返事をして、指定席に腰を下ろす。

「さすが生方(うぶかた)社長って感じだな。
 転んでもタダじゃ起きないっていうかさ」

「ごめん、あたしのせいで本当にごめんね、灯名……。
 モデル、クビにならなかったの?」

 再び瞳に涙を溜めた璃来が、上目遣いで灯名に尋ねる。

「璃来……。
 ずっと言ってるだろ。
 璃来をいじめから助けたこと、後悔はしてないって。
 自分を責めるのは、いい加減にやめてくれよ」

 一拍置いて灯名は続ける。

「クビにはならなかったよ。
 さすがに社長も性同一性障害だって知ったときには驚いたらしいけど、本当なのかって訊かれて、本当だって答えたら、じゃあ、公表しましょうって」

「公表?」

 全員の視線が集まり、居心地が悪そうに身じろぎしながら、灯名がうなずいた。

「男の心を持つ女性のモデル。
 その事実を公表して、社会に一石を投じましょうってさ。
 話題も集められるし、名前を売るのには、ちょうどいい機会かもしれないって言われた」

「ちょうどいいって……。
 あの女社長、やるわね」

 紅は、一度会ったきりの、生方俊子(うぶかたとしこ)の顔を思い出しながら、不敵に笑った。

「でも、マイナスに働くことはないのかしら?」

 目元を拭いながら、不安げに自分を見つめる璃来を見つめ返しながら、灯名は少し首をかしげる。

「どうだろうな。
 モデルって、あくまで服の引き立て役だろ。
 雑誌でもショーでも、主役は洋服。
 そのつとめさえ果たせば、モデルの心が女だろうが男だろうが、関係ないのかもしれない」

 誰からともなく安堵の吐息が洩れる。

「ただ……考えがあるから、明日からはしばらく休みでいいって言われたのは気になるな。
 何をするつもりなんだか」

「生方社長が、何かするってこと?」

「うん、何かよからぬことを考えてるみたい」

 灯名はやり手と噂の、生方俊子のいたずらを企む子供のような笑顔を思い出して渋い表情になる。

「紅、せっかく料理作ってくれたのに、悪かったな。
 何か、僕のせいでみんなに迷惑かけちゃったみたいで、ごめんな」

 心底申し訳なさそうにうつむいた灯名に、紅は殊更明るく言葉を踊らせた。

「なに言ってるのよ、最悪の結果にならなくて、本当に良かったわ。
 みんな、遅いし、簡単にシャワー浴びて寝よっか」

 紅の言葉につられるようにして、全員が席を立つ。

 泉は、少し迷いながらも、草介に声をかけることにした。

 誰も見ていないことを確認して、草介へと近づく。

「草介くん、ちょっといいかな?」

 神妙な表情を固まらせたままの草介が、泉を振り向く。

「部外者の私が言うことじゃないことは、わかってるんだけどね……。
 その、あまり自分を責めないでほしいなって」

 ここ数時間、草介は思い詰めた表情で、一言も言葉を発していない。

 灯名が自分の秘密を暴露するに至ったきっかけは、草介へのいじめを璃来がとがめたことだという。

 であれば、当然、灯名が陥ったこの窮地は、自分のせいだと、草介が自分を責めるのは目に見えている。

 自分は、4人が過ごしてきた地獄にも似た過去を知らない。

 口を出す資格がないのは承知の上だ。

 それでも、厚顔無恥のふりをして草介に告げる。

 草介の悩みを、苦悩を、少しでも和らげてあげたい。

 苦しんでいるのなら、分かち合いたい。

 負担させてほしい。

 草介は優しい。

 自分を助けてくれた彼が、傷つく姿を見ていることは、何よりも苦痛だった。

 草介が沈んでしまいそうになったら、その手を掴んで、引っ張り上げなくてはならない。

 多少強引であろうとも、草介がそんなこと望んでいなくとも、それが自分の役目なのだと、泉は勝手に確信していた。

「ね、ひとりで背負い込まないで。
 つらかったら、その、私がいるから。
 話聞くことくらいしか出来ないけど、草介くんの味方だから、草介くんがどう思おうが、私は草介くんの味方だから」

 泉の言葉に、草介が顔を上げて、目を見開く。

 そのまま、呆然と泉を眺める。

 こんなに長い時間、目が合うなんて初めてだな、と思いつつ、泉は微笑みを草介に返した。
 
 ──気持ちが、伝わっていればいいけど。

「ありがとう」

 静かな部屋でしか聞き取れない小さな声で、草介がささやいた。

 思わず泉の顔が綻ぶ。

「うん、また明日ね、おやすみなさい」

 草介を見送り、照明のスイッチを落とすと、泉も自室へと戻っていった。


☆☆☆

 翌日から、男の心を持つ美貌の新人モデル《Hina》の話題で、ネットは持ち切りだった。

 理由は、《Hina》を発掘した事務所の社長、生方俊子がネットの配信番組に次々出演したからだ。

 生方俊子は、《Hina》がいかに優れたモデルであるか語り、社会に向けて、問題提起して回った。

 他人のプライバシーをネットに書き込み、拡散させて、名誉を傷つけておきながら、投稿者は匿名で、何の責任も負わされない矛盾。

 性同一性障害であることを理由に、望んだ職業に就くことが出来ない社会の構造の問題。

 世界中で多様性が叫ばれる中での、理解と認識のズレ。

 そんな世の中にあって、《Hina》は社会の象徴であるということ。

《Hina》をどう扱うかで、今の日本の成熟度がわかると、生方俊子は熱弁を振るった。

 パソコンの前で、生方俊子が出演した番組を見ながら、灯名と泉、紅は苦笑するしかなかった。

 生方俊子の読み通り、《Hina》には、配信番組への出演や雑誌からのインタビューのオファーが相次いだ。

 しかし、生方俊子は、その全てを蹴った。

《Hina》はあくまでモデルであり、話題を集めるための道具ではない、と。

《Hina》が表舞台に出てこないことで、《Hina》の神秘性が高まり、《Hina》の容姿が注目されるようになった。

《Hina》の名前は売るけれど、一過性のタレントとして安売りはしない。

 それが生方俊子の戦略だった。

 無名の新人モデル、《Hina》は、早くも雑誌の専属モデルとして紙面に登場し、洗練された美しさで読者を魅力した。

《Hina》はどんな服も着こなした。

 その凛とした佇まいは涼しげで、他者を寄せ付けないカリスマ性に溢れていた。


☆☆☆

 雑誌を閉じると、ほう、と泉は息をついた。

 灯名の活躍は目覚ましい。

 同じ家に住んでいることが信じられないほど、手の届かないひとになってしまったようだ。

 今だって、家に帰れば、飾り気のない灯名がいるというのに、まるで実感が湧かない。   


 もちろん、今も灯名を取り巻く環境は、無風ではない。

 男の心を持っていることを揶揄する人間は絶えないし、色眼鏡で見る人間もいなくなったわけではない。

 けれど、そんな世間の逆風に対して、一本軸を持って立ち向かっている灯名に憧れる同性の女性も確実に増えてきている。

 泉も、困難な中、好奇の目に潰されることなく自分を貫いている灯名に感化されたひとりだ。

 灯名から、数え切れないほどの勇気を与えてもらっている。

 灯名のように、自分も頑張りたい。

 『夢』に近づきたい。

 パニック発作は、未だに治まらないが、草介に手を握られ、電車に乗って大学に通う日が増えた。

 薬も定期的にもらい、完治は期待していないが、この厄介な病気と気長に付き合う決意を固めたばかりだ。

 それでも、『普通になれない』自分に、負けてしまいそうなときは、草介の手を頼ってしまう。

 草介の優しい手を握ってしまう。

 草介は、泉の手を握り返し、一生懸命不安を取り除こうと、彼なりの誠意で、言葉ではなくやんわりとした力で励ましてくれる。

 泉の病気を、完全には理解出来ないだろうが、寄り添うようにそばにいてくれる。

 自分たちを形容する言葉はなんだろう。

『友達』『仲間』『恋人』。

 どれも当てはまりそうで、でもどこか違う。

 言葉より深いところで手を繋ぎ合っている。

 自分を拒否することが、見捨てることが絶対ないと断言出来る『理解者』。
 
 それが、一番自分たちを表すのに的確な表現のように思われる。

「泉ちゃん、もう駅に着くよ」

 草介に言われて、泉は雑誌をカバンにしまい、席を立つと、手を繋いだまま、大学の最寄り駅で電車から降りた。

 もうすぐ夏休みだ。

 遅れてしまった勉強と、出席日数を補うために長い休み期間を有益に使わなければならない。

 電車を降りる際、目に入った雑誌の中吊り広告の見出しが蘇る。

『マイノリティ──少数派であるということ』

 最近、こういう特集を目にする回数が増えた。

 灯名の件があってから、特に急増した印象だ。

 カバンにしまった雑誌に、目を落とす。

 灯名は確実に社会を変えている。

 『マイノリティ』の希望として、矢面に立ち、闘っている。

 認められようともがいている。

 シェアハウスに暮らす、自分を含めた5人は、間違いなく『少数派』だ。

 以前なら、その事実に萎縮していただろう。

 でも、今は違う考え方が出来るようになっている。

 マイノリティだって、いいじゃないか。

 それだって個性で『偽らざる自分』だ。

 生き方に優劣とか、正しさや間違いもない。

 一番重要なのは、自分が自分を認めてあげられるかどうかだ。

 自分や誰かを愛する心が持てるかどうかだ。

 それだけで、ゆとりも心の平穏も生まれてくる。

 もう一歩、踏み出そうという勇気が湧いてくる。

 手を繋いだまま、半歩先を歩く草介の背中を眺めながら、泉は「草介くん」と声をかけた。

 「うん?」と彼が振り向く。

 つい最近、長い前髪を潔く切った草介に、泉は微笑みかけた。

「草介くん、いつもありがとう。
 で、ね、ちょっとわがままなんだけど」

 泉の要領を得ない言葉に、草介がじっと泉の目を見つめる。

 少し前まで、草介が真っ直ぐ目を合わせてくれることはなかった。

 泉は、はにかみながら一息に言う。

「もうちょっとでいいの。
 あと少しでいいから、手を繋いでいてくれる?」

 泉をひたと見据えた草介は、少し不思議そうに首をかしげた。

「大学までってこと?」

「あの……そうじゃなくて……」

「いつまでだって、泉ちゃんが、もう僕なんていらないって言うまで、ずっと繋いでるよ?
 僕には、それくらいしか出来ないから、申し訳ないけど」

 草介は、なんてことのないように淡々と告げるが、泉は決壊しそうな涙腺を抑えるのに必死だった。

 涙なんか見せたら、また心配をかけてしまう。

 ぱたぱたと顔をあおいで涙を誤魔化す。

「ありがとう、草介くん」

 お礼を言われた理由がわからないらしく、草介の首はどんどん傾いていく。

「……感謝されるようなこと、僕、何かしたかな?」

「うん、いいの。
 草介くんは、変わらないで、ずっとそのままでいてね」

 泉は草介の手を握り返し、大学までの短い道を歩き出した。

 草介をいらなくなる日など、きっと来ないだろう。

 泉が帰る場所が、あのシェアハウスであることも、しばらく変わらないと思う。

 草介が迷惑だと言うまで、甘えさせてもらおう。

 燦々と照りつける太陽を仰ぎ、微笑んだ泉は、草介の背中に、そっと頬を寄せた。


☆☆☆

 数千人の観客が集まった会場は、熱気で満ちていた。

 目立つのは、お洒落に敏感な若い女性だ。

「変じゃないかな?」

 最前列に座った草介は、自分の服を見下ろしながら不安げに隣の泉に耳打ちした。

 泉は苦笑いして、「大丈夫だよ」とうなずいた。

 紅は、金色だった髪をブラウンに染め、ギャルメイクもだいぶ落ち着いている。

 泉と草介は、この春大学を卒業し、小学校の新人教師として勤務することが決まっていた。

 就職前の最後の休みに彼らが訪れているのは、若い女性をターゲットにしたファッションショーの会場だった。

 お目当ては、モデルとして、ランウェイを歩く《Hina》だ。

 波乱の幕開けだった灯名のモデルとしての活躍は目覚ましく、逆風をものともしない凛とした佇まいで、強い女性の象徴として、同年代の若者から支持を集めている。

 性同一性障害だと公表したことも、多様性を重視する現代の風潮に合致して、《Hina》は唯一無二の存在感を放っていた。

 会場の照明が落とされ、レーザーが乱反射し、軽快なBGMが鳴り、ショーは開幕した。

 トレンドの、季節先取りの服に身を包んだ人気モデルたちが、ランウェイを歩くたびに歓声が上がる。

「来るわよ、灯名!」

 会場の誰より興奮した声で紅が叫び、拍手しながら目を輝かせた。

 一際大きな声援を受け、《Hina》がランウェイに登場した。

 人気ブランドの新作を着こなした灯名は、ランウェイを颯爽と歩き、ロングスカートを翻しながら最前列の前を通り過ぎるとき、泉たちに気づくと、いたずらっぽい微笑みでウインクし、堂々と役目を終えて去っていった。

「きゃあ!ウインクした!
 泉、見た?
 あたしたちにウインクしたのよね!?」

 立ち上がらんばかりに興奮した紅を宥めながら、泉は苦笑した。

「近くに座ってる人は、みんな、そう思ってるよ」

 実際、泉たちの付近に座る観客たちは、「Hinaと目があった!」「Hina、あたしたちにウインクしたよね!?」と大興奮していた。

 草介が、「恥ずかしいから」と紅を座らせる。

 灯名が出演するイベントを見に来たのは、これが初めてというわけではないし、家に帰れば灯名本人がいるにも関わらず、紅はイベントのたびに推しているアイドルのライブに来たかのように興奮する。

 そんな紅を落ち着かせるのが、いつからか泉の役割りになっていた。

 
 
「灯名、お疲れ!」

 舞台裏に帰ってきた灯名を、満面の笑みの璃来が迎えた。

 人目も憚らず、灯名にぎゅうっと抱きつく。

 灯名は目を白黒させながら、璃来を引きはがそうとする。

「璃来、みんな見てるから」


「なによ、やっと夢が叶ったのよ、余韻に浸らせてよ。
 プロのモデルになった灯名をメイクしてランウェイに送り出す……まだアシスタントだけど、こんなに早く夢が叶うなんて思わなかったわ……。
 感無量よ、本当に。
 かっこよかったわ、灯名」

 潤んだ璃来の瞳を、灯名は呆れたように眺めるが、目元は優しく笑みの形になっている。

「僕たちの夢は、まだまだ続くだろ、今から満足されちゃ困るよ。
 早く一流のヘアメイクになって、僕に追いついてよね」

「むー、言うわね、灯名。
 ま、確かにまだあたしはアシスタントだからね。
 プロの灯名を担当させてもらうには、しばらくかかりそうだし……。
 でも、待ってなさいよ、すぐに追いついて、引っ張りだこのヘアメイクになって、灯名の方からメイクしてくださいって言わせるんだから!」


「楽しみに待ってるよ」

 灯名は不敵に笑ってみせる。

「とにかく、今日はお疲れ様。
 客席にいた紅が、興奮してたから、帰ればまたうるさそうだけど」

「仕方ないわね、紅は。
 イベントのときは、ただのいちファンになるのよね。
 ひとつ屋根の下に住んで、毎日一緒にいるのにね」

「本当、不思議だよな」

 ふたりは顔を見合わせて噴き出す。

「でもそこが、あたしたちの帰る家なのよね」

「そう、ちょっと賑やかな僕たちの居場所だ」

 きらびやかなステージを舞台裏から眺めながら、灯名が感慨深そうに言った。

「どんなことがあっても、僕たちが帰る場所だ」

 明滅する照明に照らされた灯名の横顔を見て、「そうね」と璃来が笑った。


 ファッションショーが無事幕を下ろし、観客は雪崩れるように出入り口に殺到している。

 はしゃぎ疲れたのか、紅はしばらく観客たちをのんびりと眺めていたが、気怠そうに立ち上がりながら、泉と草介に声をかけた。

「じゃ、帰ろっか、あたしたちの家に。
 今日も、灯名のお疲れ会するわよ。
 腕によりをかけて夕飯作るんだから」

 泉が苦笑する。

「またパーティー?
 紅は本当、灯名が好きだよね」

「決まってるでしょ、あたしは灯名の一番のファン。
 それは永遠に変わらないの。
 買い出しして、灯名と璃来が帰ってくるの待つわよ」

 「私も手伝うよ」と言いながら泉も立ち上がる。
 
 

 そして、それが当たり前であるかのように、草介が泉に手を差し出した。

 泉がその手を握り、ふたりは手を繋いだ。

 それを見た紅が、微笑ましそうにくすりと笑う。

 3人は肩を並べて会場の外へ歩き出した。

 自分たちの、帰る場所に向かって。