蝉の鳴き声が響く竹林の中に、睡蓮の暮らす離れはあった。古い日本家屋だ。
夏の盛りが迫っている。まだそう暑くはないが、頬に当たる陽射しは日に日に濃くなっている気がした。
楪と別れて三ヶ月。
実家の敷地内にある離れでの暮らしにもずいぶん慣れてきた。
睡蓮は縁側に座り、とある人物から届いた手紙を読んでいた。
「睡蓮、それはなぁに?」
そう訊ねたのは、花柳家の離れの庭に棲みつくあやかし、紅である。
庭に咲く花たちの間を忙しなく飛び回っていた紅は、睡蓮の手にあるものに興味を示し、そばへ寄ってきた。睡蓮が顔を上げると、飛んできた紅はおもむろに紙に鼻を近づけ、ふんふんと嗅いでいる。
どうしたのだろう、と思っていると。
「……これ、ずいぶん上質な紙ね」
「そうなの?」
「うん。これ、ときが経っても文字が滲んだりしないように、妖力が込められてるみたい」
「そうなんだ……」
紅は赤蜂というあやかしだ。もとは西の地域の幽世に住んでいたらしいが、人間に興味を持ち、こっそりこちらへやってきたという。
「それ、ずいぶん大切そうにしてるのね」
「だって大切なものだもの」
紅は不思議そうにしながら、睡蓮の肩に止まった。
紅は手のひらほどの大きさで、長い赤毛と黄色と黒の縞模様の衣が特徴の可愛らしい女の子だ。黙っていると愛らしい容姿をした紅だが、存外気が強く自尊心も高いため、怒るとちょっぴり手がつけられなかったりする。気高いあやかしさまである。
「睡蓮、友だちなんていないって言ってたのに。ねぇ、それっていったいだれから……」
紅が手紙の差出人を訊ねようとしたときだった。
廊下の板が、みしりと軋んだ。その瞬間、紅は目にも止まらぬ早さで竹林の奥へと逃げていく。
あやかしは、基本的に現世へ来ることを禁じられている。そのため紅は今、東に不法渡航していることになっている。つまり、睡蓮以外に姿を見られるわけにはいかないのだ。
紅が逃げた直後のこと。
「睡蓮さま。洗濯、終わりました」
睡蓮は声をかけられ、顔を上げた。
「あ、桔梗さん」
縁側にいる睡蓮に声をかけてきたのは、実家に戻ってから雇い入れた使用人の桔梗だった。
仮面の奥の赤い瞳が、睡蓮をとらえる。
桔梗はいつも面を被って、素顔を隠しているのだ。狐の面である。
名前を呼ばれた桔梗は小さく頭を下げ、睡蓮の傍らにひざまずく。
「お休み中でしたか」
「すみません。桔梗さんを働かせておいてじぶんだけのんびりと……」
「とんでもない。無理を言って屋敷に置いていただいているのは、俺のほうですから」
睡蓮は紅が逃げていったほうをちらりと見て、なんでもないように桔梗へ視線を戻した。
紅がこの庭に棲みついていることは、桔梗には内緒にしている。ふつうの人間はほとんどあやかしを認識することはできないが、あやかしを見られる者と見られない者は、見た目では判別できない。
そもそも、桔梗は謎の多い人物だ。桔梗が人間かあやかしなのかも、睡蓮は未だに分かっていない。
桔梗の視線が、睡蓮が手に持っていた紙の束に落ちる。
「……それ、お手紙ですか?」
「あ……はい」
睡蓮は少し照れたように頷きながら、愛おしげに手紙へ視線を落とす。
「どなたから?」
桔梗の問いに睡蓮はただ小さく微笑み、手紙を丁寧な仕草で封筒の中へしまった。桔梗も、それ以上は聞かない。
「……そろそろ夏本番ですね」
のんびりとした睡蓮の声に、桔梗が「そうですね」と頷く。頷いた拍子に、耳にかけていた桔梗の長い銀髪がさらりと前に落ちた。まるで銀河の糸のような美しい髪が、仮面を静かに撫でる。
――きれい。
いつも狐の面を被っている桔梗の素顔を、睡蓮は知らない。それでも漂ってくる気品と色気に、睡蓮は未だ慣れず、どきどきしてしまう。
「どうかしましたか?」
桔梗が首を傾げる。
「あっ……いえ、なんでも」
どきっとしつつ、睡蓮はぶんぶんと頭の中の邪念を追い払った。
「そうですか」
屈んで睡蓮の顔を覗き込んでいた桔梗の気配が、すっと遠ざかる。
本人に直接訊ねたことはないが、桔梗はおそらくあやかしの類だろうと睡蓮は思っていた。思っていた、というのは、睡蓮には人間とあやかしの区別がつかないのである。
なら、なぜ桔梗をあやかしと思うのか。それは、高貴なあやかしは桔梗のように顔を隠すことが多いからだ。多いというだけで、必ずしもそうとは限らないが。
しかし、そんなひとがなぜじぶんのもとを訪ねてきたのか、睡蓮はずっと疑問に思っていた。
そもそも、あやかしは余程のことがなければ人間に関わろうとしない。
あやかしを見ることができる人間はほとんどいないし、見ることができたとしても、人間はあやかしを恐れているからだ。
にも関わらず、桔梗は睡蓮を訪ねてきた。
名家とはいえ、こんな出戻り女のところに。
睡蓮は、あやかしを見、触れることができる特殊な体質だ。だが、それを知っているのは、ほんの一部のひとだけ。
しかし……。
桔梗が本当にあやかしなら、桔梗は始めから、睡蓮があやかしの存在を認知できるということを知っていて訪ねてきたことになる。
紅もそうだが、あやかしにはそういうことが分かるのだろうか。
考えていると、ふっと夏色の風が吹いた。みずみずしい匂いに顔を上げると、睡蓮のとなりで桔梗も顔を上げた。
「睡蓮さまは、夏はお好きですか?」
「うーん……あんまり」
桔梗の問いに、睡蓮は苦笑した。
「暑いのは苦手ですか?」
「いえ。なんというか……きらいというわけではないのですけど。ただ、夏は華やかな行事が多いから」
海水浴、七夕祭り、スイカ割り……。
睡蓮はひとつもやったことがないし、行ったこともない。
行く友だちなどいなかったし、だからといって家族とも行けなかった。町でなにかあると、両親はいつも妹だけを連れていったから。
睡蓮は決まって、家で留守番の役目だった。
口の中に、じんわりと鉄の味が広がる。
知らず知らずのうちに、唇を噛み締めていたらしい。
現人神の楪と離縁して、花柳の家に戻ってきた睡蓮は最初、離れでひとりひっそりと暮らすつもりだった。
実家とはいえ、睡蓮に居場所はなかったからだ。
睡蓮がこの花柳家へやってきた経緯も、その理由のひとつだった。
夏の盛りが迫っている。まだそう暑くはないが、頬に当たる陽射しは日に日に濃くなっている気がした。
楪と別れて三ヶ月。
実家の敷地内にある離れでの暮らしにもずいぶん慣れてきた。
睡蓮は縁側に座り、とある人物から届いた手紙を読んでいた。
「睡蓮、それはなぁに?」
そう訊ねたのは、花柳家の離れの庭に棲みつくあやかし、紅である。
庭に咲く花たちの間を忙しなく飛び回っていた紅は、睡蓮の手にあるものに興味を示し、そばへ寄ってきた。睡蓮が顔を上げると、飛んできた紅はおもむろに紙に鼻を近づけ、ふんふんと嗅いでいる。
どうしたのだろう、と思っていると。
「……これ、ずいぶん上質な紙ね」
「そうなの?」
「うん。これ、ときが経っても文字が滲んだりしないように、妖力が込められてるみたい」
「そうなんだ……」
紅は赤蜂というあやかしだ。もとは西の地域の幽世に住んでいたらしいが、人間に興味を持ち、こっそりこちらへやってきたという。
「それ、ずいぶん大切そうにしてるのね」
「だって大切なものだもの」
紅は不思議そうにしながら、睡蓮の肩に止まった。
紅は手のひらほどの大きさで、長い赤毛と黄色と黒の縞模様の衣が特徴の可愛らしい女の子だ。黙っていると愛らしい容姿をした紅だが、存外気が強く自尊心も高いため、怒るとちょっぴり手がつけられなかったりする。気高いあやかしさまである。
「睡蓮、友だちなんていないって言ってたのに。ねぇ、それっていったいだれから……」
紅が手紙の差出人を訊ねようとしたときだった。
廊下の板が、みしりと軋んだ。その瞬間、紅は目にも止まらぬ早さで竹林の奥へと逃げていく。
あやかしは、基本的に現世へ来ることを禁じられている。そのため紅は今、東に不法渡航していることになっている。つまり、睡蓮以外に姿を見られるわけにはいかないのだ。
紅が逃げた直後のこと。
「睡蓮さま。洗濯、終わりました」
睡蓮は声をかけられ、顔を上げた。
「あ、桔梗さん」
縁側にいる睡蓮に声をかけてきたのは、実家に戻ってから雇い入れた使用人の桔梗だった。
仮面の奥の赤い瞳が、睡蓮をとらえる。
桔梗はいつも面を被って、素顔を隠しているのだ。狐の面である。
名前を呼ばれた桔梗は小さく頭を下げ、睡蓮の傍らにひざまずく。
「お休み中でしたか」
「すみません。桔梗さんを働かせておいてじぶんだけのんびりと……」
「とんでもない。無理を言って屋敷に置いていただいているのは、俺のほうですから」
睡蓮は紅が逃げていったほうをちらりと見て、なんでもないように桔梗へ視線を戻した。
紅がこの庭に棲みついていることは、桔梗には内緒にしている。ふつうの人間はほとんどあやかしを認識することはできないが、あやかしを見られる者と見られない者は、見た目では判別できない。
そもそも、桔梗は謎の多い人物だ。桔梗が人間かあやかしなのかも、睡蓮は未だに分かっていない。
桔梗の視線が、睡蓮が手に持っていた紙の束に落ちる。
「……それ、お手紙ですか?」
「あ……はい」
睡蓮は少し照れたように頷きながら、愛おしげに手紙へ視線を落とす。
「どなたから?」
桔梗の問いに睡蓮はただ小さく微笑み、手紙を丁寧な仕草で封筒の中へしまった。桔梗も、それ以上は聞かない。
「……そろそろ夏本番ですね」
のんびりとした睡蓮の声に、桔梗が「そうですね」と頷く。頷いた拍子に、耳にかけていた桔梗の長い銀髪がさらりと前に落ちた。まるで銀河の糸のような美しい髪が、仮面を静かに撫でる。
――きれい。
いつも狐の面を被っている桔梗の素顔を、睡蓮は知らない。それでも漂ってくる気品と色気に、睡蓮は未だ慣れず、どきどきしてしまう。
「どうかしましたか?」
桔梗が首を傾げる。
「あっ……いえ、なんでも」
どきっとしつつ、睡蓮はぶんぶんと頭の中の邪念を追い払った。
「そうですか」
屈んで睡蓮の顔を覗き込んでいた桔梗の気配が、すっと遠ざかる。
本人に直接訊ねたことはないが、桔梗はおそらくあやかしの類だろうと睡蓮は思っていた。思っていた、というのは、睡蓮には人間とあやかしの区別がつかないのである。
なら、なぜ桔梗をあやかしと思うのか。それは、高貴なあやかしは桔梗のように顔を隠すことが多いからだ。多いというだけで、必ずしもそうとは限らないが。
しかし、そんなひとがなぜじぶんのもとを訪ねてきたのか、睡蓮はずっと疑問に思っていた。
そもそも、あやかしは余程のことがなければ人間に関わろうとしない。
あやかしを見ることができる人間はほとんどいないし、見ることができたとしても、人間はあやかしを恐れているからだ。
にも関わらず、桔梗は睡蓮を訪ねてきた。
名家とはいえ、こんな出戻り女のところに。
睡蓮は、あやかしを見、触れることができる特殊な体質だ。だが、それを知っているのは、ほんの一部のひとだけ。
しかし……。
桔梗が本当にあやかしなら、桔梗は始めから、睡蓮があやかしの存在を認知できるということを知っていて訪ねてきたことになる。
紅もそうだが、あやかしにはそういうことが分かるのだろうか。
考えていると、ふっと夏色の風が吹いた。みずみずしい匂いに顔を上げると、睡蓮のとなりで桔梗も顔を上げた。
「睡蓮さまは、夏はお好きですか?」
「うーん……あんまり」
桔梗の問いに、睡蓮は苦笑した。
「暑いのは苦手ですか?」
「いえ。なんというか……きらいというわけではないのですけど。ただ、夏は華やかな行事が多いから」
海水浴、七夕祭り、スイカ割り……。
睡蓮はひとつもやったことがないし、行ったこともない。
行く友だちなどいなかったし、だからといって家族とも行けなかった。町でなにかあると、両親はいつも妹だけを連れていったから。
睡蓮は決まって、家で留守番の役目だった。
口の中に、じんわりと鉄の味が広がる。
知らず知らずのうちに、唇を噛み締めていたらしい。
現人神の楪と離縁して、花柳の家に戻ってきた睡蓮は最初、離れでひとりひっそりと暮らすつもりだった。
実家とはいえ、睡蓮に居場所はなかったからだ。
睡蓮がこの花柳家へやってきた経緯も、その理由のひとつだった。