鞭打ち回避の件から一週間が経った。
 相変わらず中庭の掃除に時間がかかっていた朱璃が、全ての落ち葉を片付け終えた頃。
 すでに日が傾いていて、西の空を赤く染めていた。

「やっと終わったー!」

 その間、貂々はいつもの木の上でのんびりうたた寝をしていたから、単独作業も寂しくなかった。
 すると尚華の侍女たちが、宮中を慌ただしく動いている様子が視界に入って、朱璃はあの情報を思い出す。

「そうだ貂々。実は今夜、伯蓮様が華応宮にくるの。いよいよ初夜を迎えるみたい。あのお優しい伯蓮様が、胡一族の尚華妃と……」

 この婚姻が政略的意味を持つということは、下女の朱璃にもわかっていた。
 だけど、先日初めて接した伯蓮の人柄や慈悲深さに触れた身としては、感情的になりやすい妃と皇太子の契りは素直に喜べなくて。

「こんなこと、下女の私が考えることじゃないかもしれないけれど」
「……」
「伯蓮様には、幸せになってほしいなって思うんだ」

 身分に関係なく、他者を思いやり手を差し伸べてくれる優しい心の持ち主だった。
 そんな皇太子がいつの日か皇帝陛下となられた時に、傍で支えてくれるような……。
 伯蓮を一番に想ってくれるような素敵な妃と、どうか結ばれて欲しいと願う。

「で、でも尚華妃は伯蓮様をお慕いしているはずだよね。お茶会に招待するくらいだもの!」
「……」
「伯蓮様も、柊安一美しいと評判の尚華妃には、すぐに心を奪われてしまうだろうし……」
「……」
「美男美女の夫婦誕生に、街も賑わっているのかな?」

 相変わらず話してくれない貂々を相手に、朱璃は様々な思考を吐露しては無意識に表情を曇らせる。
 興味なさそうにそっぽ向く貂々も、耳だけはしっかりと朱璃の方へ傾けていた。
 その時、廊下を走る侍女が朱璃の存在に気づいて、咄嗟に声をかける。

「ちょっとそこのあんた、お願いしたいことがあるんだけど!」
「え? 私ですか?」

 秋の夕焼け空の下、朱璃に初めての仕事が課せられた。


 ***


 夜を迎えた華応宮に、いよいよ皇太子の伯蓮がやってきた。
 前回の茶会時よりも少ない宦官を従えて、ゆっくり廊下を歩いてくる。
 しかしその足取りは重く、伯蓮自身も終始神妙な面持ちを浮かべていた。
 そして初夜のために用意された部屋の手前で立ち止まると、すぐに部屋へ入ろうとはせず。
 しばし沈黙したまま、静寂の中を立ち尽くしていた。
 すると、扉前で待機する二人の侍女のうち、見覚えのある人物を一人発見して伯蓮は目を丸くする。

「ッ⁉︎」

 肩が揺れた皇太子に気づいた宦官の一人が、そっと声をかけた。

「伯蓮様、どうされましたか?」
「……っなんでも、ない」

 伯蓮はそう答えて再び沈黙。
 用意された部屋の中には、尚華がまだかまだかと待ち侘びているはず。
 その扉を、伯蓮の合図で開ける役目を任されたのが、体調不良となった侍女の代理として急遽呼ばれた朱璃だった。

(……今、また伯蓮様と目を合わせてしまった……かも?)

 一週間ぶり。奇跡的に再び伯蓮に会える機会を与えられた。
 先日の言いそびれたお礼をしたい朱璃だが、初夜を目前に余計なことはできず。
 今は黙って自分の役目を果たすのみ。
 いつでも扉を開けられるように待機している朱璃は、頭を下げたまま伯蓮の指示を待った。

「…………開けてくれ」

 振り絞るような伯蓮の声を初めて聞いて、さすがの皇太子も初夜は緊張するものなのだと朱璃は思った。
 指示通りにゆっくりと扉を開けると、室内で待機していた薄着の尚華が姿を現した。
 艶やかで長い黒髪は後ろに束ねられ、初夜用の控えめなものではあるが、キラキラと輝く花の簪が飾られている。
 愛らしい目元と、ぷっくりとした唇が色っぽい美女。
 そんな尚華が、伯蓮を歓迎する喜びの声が部屋に響き渡った。

「伯蓮様! お待ちしておりました!」

 しかし、それに応えようとする伯蓮の声はなく、無言のまま更に部屋の奥へと進んでいった。
 その背中を見届けた朱璃は、先日会った時よりも遥かに寂しそうで可哀想な印象の皇太子に心を痛める。

(……だけど、これが皇太子としての務めなんだ……)

 侍女や宦官が外で待機する中での初夜。
 好きでもない相手と結婚、初夜なんて自分だったら絶対嫌だと考えた。
 伯蓮の苦悩を少し理解した気になった朱璃は、複雑な感情を抱えたまま。
 それでも自分にはどうすることもできないとわかっていて、静かに扉を閉めようとしたその時。

「ギャウゥゥ!」
「え! 貂々⁉︎」

 突然、近くの柱に隠れていたあやかしの貂々が、威嚇の鳴き声を叫びながら飛び出してきた。
 扉が閉まるわずかな隙間を滑り、伯蓮がいる部屋の中に侵入する。
 それを目撃できたのは朱璃だけで、咄嗟に呼び止めたけれど間に合わず。
 反射的に扉を再度開けた朱璃は、部屋の中に向けて片腕を目一杯伸ばした。
 その手は貂々の長くもふもふした尻尾を、がっしり掴むことに成功する。

「っ捕まえ、……た…………⁉︎」

 捕獲することだけに夢中だった朱璃は今、自分が何をしでかしたのかすぐに理解した。
 滑り込んだ体は、甘い香の匂いが立ち込める部屋に横たわっている。
 恐る恐る顔を上げると、目の前には呆然とした伯蓮。
 そして、その体にピッタリと抱きついていた尚華が、驚愕の表情で見下ろしていた。
 扉の前には騒ぎを聞いた宦官らが集まってきたが、部屋への立ち入りを躊躇している。
 なぜなら、皇太子の許可なく部屋へ入ることはできないから。
 幸い二人はまだ衣を纏っていたし、直接的な場面でなかったことに朱璃はホッとした。
 しかし、己の体がこれから初夜を迎えようとしている神聖な部屋に侵入したことは、紛れもない現実。
 先日よりももっと重大な妨害を犯してしまったと、後悔したところで後の祭り。

「ああああんた! 一体どういうつもり⁉︎」
「す、すみません! この子が急に……」

 言いながら貂々に視線を向けるも、尚華にあやかしの姿はもちろん視えていない。
 ふざけていると思われた朱璃は、初夜を妨害された妃の怒りをますます買ってしまう。

「やっと伯蓮様と結ばれるという時に、雰囲気ぶち壊しよ!」
「す、すぐに退散いたしま――」
「誰か! 今すぐこの女を肉刑にして!」
「……え⁉︎」

 肉刑とは身体の一部を切断するという、死刑の次に重い刑罰。
 主に足や鼻がその対象だが、入れ墨も含まれている。
 いずれにしても、大事な身体を深く傷つけられることには変わりなく、鞭打ちよりも深刻だ。
 すると尻尾を捕まれていた貂々がさらに尚華を威嚇して、大きな鳴き声を上げた。
 いつもと様子が違う攻撃的な貂々に、朱璃も戸惑いを隠せない。
 しかしあやかしが視えない者は、その鳴き声を耳にすることもできず。
 周囲の人間の目には、錯乱した下女が皇太子の初夜部屋に侵入し妨害したようにしか見えない状況が続く。

「絶対に許さないわ。下女の分際で!」
「っ!!」

 怒りが頂点に達した尚華は、懐に挿していた扇子を手に取り朱璃に向かって振り翳す。
 飛んでくる!と思った朱璃が固く目を閉じた――が、当たる感覚がすぐにやってこない。
 ゆっくり目を開けると、そこには尚華の腕を掴み、扇子が投げ飛ばされるのを阻止した伯蓮の姿。
 少し怒りを滲ませ眉根を寄せていても綺麗な顔が、じっと妃を睨みつける。

「は、伯蓮様……!」
「少々感情的になりすぎだ。落ち着かれよ」
「ですが……!」
「それに自分の宮の下女ならば、皇太子に対しての無礼は妃にも責任があるのでは?」

 伯蓮の言葉に息を詰まらせた尚華の恨みは、ますます下女の朱璃に蓄積される。
 確かに華応宮の下女として働いていた朱璃だが、尚華が抜擢したわけではない。
 それに面識もない下女のせいで、妃に責任が問われることも面白くなかったのだろう。

「こんな下女、わたくしは知りませんわ!」

 そうして朱璃を見捨てる発言をした尚華は、ふん!と顔を背けた。
 そんな妃の対応に、朱璃は今更がっかりしない。
 常日頃から、自分勝手で感情の起伏が激しい妃の素性は充分知っていた。

(ああ、私の後宮人生、終わったぁ……)

 借金を全て返済する前に、不自由な体になってしまう。
 両親からもらった大事な体を、できればそのままの状態で故郷に帰りたかったけれど、叶いそうにない。
 朱璃は生まれて初めて、何もかも捨ててしまいたい衝動に駆られた。
 貂々の尻尾を掴んでいた手から、力が抜けていったその時。

「……え?」

 朱璃の目の前に屈んだ伯蓮が、他の者には視えないはずの貂々を躊躇なく抱き抱えたのだ。
 呆然とする朱璃はもちろん。皇太子に突然抱っこされた貂々も、驚愕した表情で体を硬直させている。
 そうして優しく背中を撫でられた貂々は、やがて落ち着きを取り戻す。
 先ほどまでの威嚇態勢が、嘘のように平常時となった。
 その様子を見ていた朱璃は、先日も感じていた伯蓮に対しての違和感を呼び起こす。
 やはり間違っていなかった。
 この国の皇太子である伯蓮も、あやかしが視える人だったのだ。
 部屋の外で待機する宦官らも、側にいる尚華も何が行われているのか視えない中。体を起こしてその場に正座した朱璃だけが、伯蓮の行動に理解を示す。

「……あり、がとうございます……」
「……名を、何と申す?」
「名? え……と、貂々です」

 戸惑い混じりに答えると、なぜか伯蓮はクスッと笑ったように口元を手で隠した。
 そしてもう一度、次はわかりやすく質問してきた。

「そうではない。お前の名だ」
「私……? 朱璃、と申します」
「では朱璃。早速だがお前に頼みがあるのだが、聞き入れてくれるか?」

 伯蓮の柔らかい声に絆されて、考える間もなく朱璃の首が縦に動いてしまった。
 何でも手に入るであろう一国の皇太子が、下女の自分に頼み事とは一体何だろう。
 思いながらも、必要とされたことに朱璃は喜びを感じ、鼓動はいつもより強く脈打つ。
 そんな二人の意味不明な会話に苛立ちを覚えた尚華は、悔しさを滲ませた。

「伯蓮様! コソコソと何の話を――!」

 荒々しい足音で向かってくる尚華の前に、伯蓮が立ちはだかった。
 そして、思いもよらないことを口にする。

「この下女は今日から、私の宮で働いてもらうことになった」
「は、何ですって⁉︎」
「問題ないだろう。何せ妃も存じていなかった下女なのだから」

 何も言い返すことができない尚華は、先ほど投げ損ねた扇子を今にもへし折りそうなくらいに強く握る。
 険悪な雰囲気は、部屋の外で待機する宦官にも届いていた。
 これはもう初夜どころではなくなったと、心の中で嘆いているだろう。
 しかし伯蓮だけがそれを良しと考えていて、抱っこしていた貂々を肩に乗せる。
 自由になったその両手で、今度は朱璃の腕を掴んで立ち上がらせた。

「今から私の宮にきてもらうぞ」
「い、今からですか⁉︎」
「できるな?」

 どこか楽しげに妖しく微笑む伯蓮が、無茶振りしてくる。
 朱璃は従わないわけにはいかないから、何度も大きく頷いた。
 すると、今度は目尻を下げて優しく笑みを浮かべた伯蓮。
 高貴な身分でありながら、全てを包み込むような温かい空気を纏う。
 朱璃は改めて、伯蓮の人間性そのものに尊敬の眼差しを向けた。