深々と雪が降り積もりはじめた、三日後の夜。
 本日の業務を全て終えた朱璃は、侍女の専用部屋に帰るため一人雪道を歩いていた。
 肩こり解消のために腕を伸ばすと、白い息が空を舞う。

「はー、毎日忙しいけど充実してる」

 ついこの間まで下女として働いていたのに、皇太子宮の侍女に昇進したり、あやかし捜索係に任命されたり。
 突然攫われて監禁されたり、あやかしの秘密が明かされたり……。
 色んなことが朱璃の身に起こったけれど、蒼山宮の侍女に昇進してからまだ一月も経っていなかった。
 時の流れが早すぎて少し恐怖を覚えていた時、門前で待ち伏せしていた関韋に声をかけられた。

「朱璃殿、少しよいか?」
「関韋様! どうされましたか?」

 業務を終えたというのに、疲れた表情を見せない朱璃は関韋に駆け寄った。
 それを申し訳なく思いつつ、関韋は用件を述べはじめる。

「勤務時間外に悪いのだが、ついてきてほしい場所がある」
「わかりました。大丈夫です」

 朱璃の返事を聞いて、歩き出した関韋の様子はいつも通り。
 しかし、仕事を終えた後にわざわざ呼ばれることがなかった朱璃は、若干の違和感を覚えていた。

「関韋様、一体どちらに行こうと……?」

 朱璃の問いかけは聞こえているはずなのに、関韋は答えなかった。
 何か仕事を任されるものだと思っていた朱璃は、何の疑問も持たずに関韋の後ろをついて行く。
 すると向かった先は、伯蓮の生活する蒼山宮だった。
 朱璃が三階建ての宮を見上げていると、関韋が扉を開けて中へと誘導する。

「これより先は朱璃殿お一人で向かってください」
「え? どちらに向かえばいいのですか?」
「伯蓮様のお部屋です」

 そう言われた瞬間、今まで冷静だった朱璃が突然慌てふためきはじめた。

「ええ! でも伯蓮様はもうお休みになられる頃ですよね⁉︎」

 朱璃の問いかけに、関韋は無言のまま頷いた。
 そして見て見ぬふりをするように、朱璃を置いて立ち去ってしまった。
 就寝前だとわかっていて、それでも伯蓮の部屋に朱璃を向かわせようとする。
 侍女一人を皇太子の部屋に行かせるなんて、本来あってはならないことだ。
 それを関韋が許すということは、伯蓮の命令なのかもしれないと悟った。

『朱璃に伝えたいことがある』
(……もしかして、この前の?)

 豪子の件が片付いたら、伝えたいことがあると宣言されていた。
 それが今夜なのかもしれないと思い、一気に緊張が走る。
 朱璃は意を決して宮の扉を開け、薄暗い階段を上っていく。
 程よいドキドキ感と期待を胸に抱き、ついに三階へと到着した。
 伯蓮の私室前までやってきた朱璃は、すぐに違和感に気づいた。
 部屋の中は明かりが灯っておらず、伯蓮が待っているはずなのに物音すらしない。

「伯蓮様、朱璃です……」

 呼びかけたが返事がなく、すでに伯蓮は就寝しているのではと不安がよぎる。
 聞こえてなかっただけかもしれない。そんな心配もあって、朱璃は扉をそっと開け室内を覗き込んだ。
 その瞬間、室内に設置されていた燭台全てに火が灯り、パッと目の前が明るくなる。
 まるで妖術のような不思議な現象に、朱璃は声が出ないほど驚いた。
 そして落ち着く間もなく視界に入ったのは、円卓を埋める点心や果物の数々と、甘い香りを放つ果酒。
 お馴染みの三々に、渋々呼ばれた様子の貂々は窓辺でそっと眠っていた。
 架子牀には流と星の姿もあり、仲睦まじく寄り添っている。
 それらに囲まれて、嬉しそうに微笑む伯蓮が中心に立つ。

「よくきてくれた、朱璃」
「は、伯蓮様⁉︎ こ、これは一体……」

 状況が飲み込めずに戸惑っている朱璃を、伯蓮が優しく椅子に誘導する。
 着席した朱璃の様子を窺いながら、眉を下げて丁寧に説明をはじめた。

「驚かせてすまない。実はずっと、朱璃に礼がしたくてこのような場を用意した」
「え……?」
「流を搜索してくれた礼。発見してくれた礼。せっかくだから顔見知りのあやかしにも参加してもらったぞ」

 あやかしみんなの顔に視線を送りながら、伯蓮が楽しそうに話す。
 その気持ちだけで充分嬉しい朱璃は、胸を熱くさせて感謝を伝えた。

「……こちらこそ、お招きありがとうございます。なんだか秘密の集会みたいでワクワクしてきました」
「それはよかった。……それと、もう一つ理由があって」

 言いながら、伯蓮自ら筒杯に果酒を注いだ。
 それを静かに朱璃の手元に置くと、照れたように頬を赤く染めて呟いた。

「……朱璃と初めて出会った日から、一月が経った」
「あの中庭で出会ってからですか?」
「ああ。あっという間だな」

 自分の席に座った伯蓮は、自分の筒杯に果酒を注ぎながら懐かしむ。
 今にも溶けてしまいそうな甘い微笑みを浮かべるので、朱璃の心臓がキュッと音を鳴らした。
 鼓動が速くなっていき、伯蓮を直視できなくてそっと俯いてしまう。

(やっぱりこれが恋なのかな……)

 込み上げる感情を抑えて、朱璃は冷静を装うことで精一杯だ。
 けれど、せっかく伯蓮が用意してくれた秘密の集会。
 深呼吸した朱璃はいつも通りを心掛け、伯蓮との会話を楽しんだ。

「あの時は本当にヒヤヒヤしましたぁ」
「私のことになると、見境がなくすぐに下の者を怒鳴りつけるからな……」

 貂々を追いかけて、伯蓮の通過を妨害してしまった最初の出会い。
 あの時の宦官が朱璃を鞭打ちに処そうとしたところを、伯蓮に助けてもらった。
 あれから一月しか経っていないのに、色々なことが起こりすぎて遠い昔のように感じる。
 伯蓮と同じ記憶を懐かしむこの瞬間も、朱璃にとっては夢のような時間だ。
 すると、朱璃の手元に見かねた三々が円卓まで飛んできて、二人を仕切りはじめる。

「ほら二人とも、乾杯しろよ」
「え?」
「じゃないと集会が始まらねぇだろ? ほらほら」

 早く筒杯を持てと強引に促してくる三々。
 それもそうかと思った朱璃と伯蓮が、どちらからともなく目を合わせ自然と笑みをこぼした。
 互いに恥じらいを感じつつ、だけど確実に信頼感は抱いている不思議な関係。
 促されるまま円卓の上でコツンと当たった筒杯は、「乾杯」と発せられた口元に運ばれる。

「ん! とっても美味しいですね!」
「葡萄酒だが酒の成分はごく僅かだ。大丈夫だったか?」
「はい! こんな美味しい物を飲んだのは初めてです」

 今日のために宮廷料理人にお願いして作らせた、飲みやすさ重視の葡萄酒。
 初心者の朱璃にも好評で、伯蓮は胸を撫で下ろす。
 円卓に並ぶ豪勢な食事にも朱璃のワクワクが止まらず、瞳を輝かせている。

「食べ物もこんなにたくさん……」
「朱璃の好物がわからなかったから、多めに用意してしまった」
「ふふ、全部大好物なので嬉しいです。ありがとうございます」

 立案から準備までしてくれた伯蓮に、朱璃は心から感謝した。
 好きなものを食して良いと言われ、迷った朱璃は目の前の皿に手を伸ばす。
 白くて丸みを帯びた体に、桃色が華やかに色づけられた桃饅頭(ももまんじゅう)だ。
 ふわふわした感触を楽しみながら、朱璃は幸せそうな表情を浮かべて頬張った。

「おいひいれす!」
「そうか。良かった」

 口いっぱいに桃饅頭を詰め込んだ朱璃の言葉も、伯蓮は正しく聞き取って返事をした。
 ただ、準備中に少しだけ反省することがあり、情けなさを滲ませる。

「……私は、思ったほど朱璃のことを知らなかった――」
「え? 私のこと、ですか」
「好物もだが、酒が苦手ではないか、嫌いな食べ物はないかと悩んだ」

 好きな色。出身地。得意なこと。
 一番知りたい朱璃の気持ちさえも未だ聞けずにいる伯蓮が、寂しげな目をした。
 そんな伯蓮の気持ちは、朱璃もよく理解できた。
 噂にはよく聞いていたけれど、それは伯蓮の表面上の姿にすぎなかった。
 こうして伯蓮に出会わなければ、彼があやかし好きであることも、一生知ることがなかった真実。
 そんな伯蓮のことを、朱璃はもっと知りたいと思ってしまうのは――。

「恋だな」
「な、三々⁉︎」

 朱璃の思考を盗み見たように、今旬の言葉を発した三々。
 不意を突かれて顔を真っ赤にする朱璃は、円卓で桃饅頭をくちばしでつまむ三々を睨んだ。
 危険を察して窓辺へと飛び立った三々だが、伯蓮は朱璃の変化を逃すわけがない。

「恋?」
「今のはなんでもありません! 忘れてください! 桃饅頭美味しいです!」

 話題を変えようと、朱璃は必死に桃饅頭を頬張る。
 しかしその脳内では、あらゆる記憶が蘇ってきた。
 廟から助け出された帰り道で、「妃になればいい」と伯蓮に言われた。
 そんな恐れ多いことを即答できるはずがなく、誤魔化すように振る舞ってしまった。
 いっそ「妃になれ」と命令してくれた方が、迷わずに済んだのかもしれない。
 けれど、そうしない伯蓮を思うと、大切に想われていることが実感できた。
 そうして朱璃の中で芽生えたのが、恋かもしれないという心情。
 それを疑いはじめてから、伯蓮のことを考えるだけで胸の奥が騒がしくて熱っぽくて、幸福感に包まれた。
 すると伯蓮が、筒杯に入る果酒を突然飲み干して沈黙を破る。

「……朱璃と出会う一月前までは、宿命に抗う力さえ湧いてこなかった」
「伯蓮様?」
「尚華妃との婚姻も初夜を迎えることも。皇太子だから仕方がないのだと――」

 記憶を振り返って話す伯蓮は、哀愁を帯びた瞳をしていた。
 その姿もまた繊細な美しさを纏っていて、朱璃は引き込まれるように息を呑む。

「そんな時、貂々を捕まえるため自身の危険を顧みない朱璃に出会ったのだ」

 あやかしが視える人間に初めて出会い、伯蓮は驚きと喜びの感情がグッと湧いた。
 それだけでなく、自分の立場が危うくなることより思ったまま行動する朱璃に、伯蓮は心動かされた。
 茶会の時と初夜の時。あの瞬間に決まって、二度も朱璃に出会えたのは、宿命から抗えと通知されているようで。
 実際には、それらは貂々の作戦にまんまと嵌められていたわけなのだが、それでも朱璃には感謝している。

「あの時、朱璃を助けられるのは自分しかいないと思った選択が、宿命と戦う結果に繋がった」
「……それは、伯蓮様にとって良かったことなんでしょうか?」
「もちろん。私が一番、私らしく生きたがっていたのだから……」

 朱璃の問いかけに、伯蓮は満足感たっぷりの微笑みで応えた。
 その様子に、朱璃も自然と嬉しくなって笑みがこぼれる。

『伯蓮様には、幸せになってほしいなって思うんだ』

 朱璃がまだ下女を務めていた頃、貂々に向けて何気なく口にしたセリフを思い出した。
 心優しい皇太子の幸せを陰ながら願っていたのは、後宮の下女をしていた頃から変わらない。
 その伯蓮が、これからは伯蓮らしく生きられる。
 それに少しでも自分が力添えできたのなら、朱璃にとってこの上ない喜びだった。