「きゃっ……!」
無理矢理口付けしてきた尚華の体を、伯蓮はやっとの思いで突き飛ばした。
呼吸は乱れていても、拒否できる意識を保てている。
ただ、体中が未だに熱くクラクラするのは、いつになれば治るのか見当がつかない。
円卓に置かれた筒杯に手を伸ばした伯蓮は、中に入っていた水を一気に飲み干した。
(これで少しは、体内の薬が薄まると良いのだが……)
伯蓮が対策を講じているその隙に、突き飛ばされた尚華が起き上がる。
特にショックを受けている様子もなく、懲りずに伯蓮の背後から抱きついた。
突き飛ばされようとも拒否されようとも、伯蓮に催淫効果があるうちが好機と思って果敢に攻める。
「まだまだ、効果はこれからですわ」
「っ離れて、くれ……!」
「伯蓮様は何もしなくて良いのです。全てわたくしにお任せください」
ふらついた伯蓮が再び床に手をつくと、そのまま尚華に押し倒されてしまった。
馬乗りになる尚華は企み顔で伯蓮を見下し、屈辱ともいえる状況に伯蓮の心を引き裂いていく。
「服を脱がせていきますわね」
「っ、触るな……!」
襟元に伸びてきた尚華の腕を、伯蓮は咄嗟に掴んで睨み返した。
しかし、尚華にとっては何の効果もない。
今まで興味さえ持たれなかった皇太子が、やっと自分を見てくれる。
その上、感情を露わにしている様が尚華にとっては褒美そのものだった。
「ふふ。そろそろ抵抗する気力もなくなる頃でしょう」
「っ……⁉︎」
言われた途端、徐々に指先に力が入らなくなる。
伯蓮は、尚華と睨み合うことを無意味だと思いはじめてしまった。
この思考さえも催淫効果だとしたら、本当に汚い手法だと改めて憤りを感じる。
(……私は随分と、舐められた皇太子だな……)
人の気持ちを無視し、力尽くで事に及ぼうとする尚華。
尚華を利用して完全に操り、己の野心と策略を優先する宰相の豪子。
皇太子なのだからと一線を引いて接し、かといって自由は奪っていく周囲の従者たち。
そんな人間はみんな伯蓮にとって敵同然だった。
しかし一番の敵は、それでも何も変えられない自分自身。
だから、せめて今から変わろうと動きはじめた矢先に、その決断はまたしても豪子と尚華の手によって阻まれる。
目の前が真っ暗になった伯蓮は瞼を閉じ、抵抗していた腕は尚華から静かに離れた。
「あら? やっと諦めてくださいました?」
何も言い返してこない伯蓮の襟元に、尚華は手を伸ばしてゆっくりと侵入させていく。
苦しそうに呼吸する伯蓮を楽にさせるためには、昂る欲望の解放しかない。
そう思うと、尚華は自然と笑みをこぼした。
これで子ができれば、胡一族の地位も確約される。母体となった尚華は、永遠に敬われる存在となる。
婚姻解消を望んでいた伯蓮も、子ができた以上は解消を認められなくなるだろう。
今後は正妻として、尚華を扱わなければならない。
全ては豪子の計画通りに事が運び、慕う伯蓮と夫婦関係を継続できることを尚華も安心した。
露わになった伯蓮の胸元目掛けて、尚華が唇を寄せた時。
ようやく、伯蓮が沈黙を破る。
「…………私は、もうどうなっても良い」
「まあ、このまま身を委ねるという事ですね」
それは全てを諦めたような弱音に聞こえて、尚華がにんまりと微笑む。
しかし、伯蓮の言葉には続きがあった。
「その代わり、朱璃の身に何かあったらその時は……」
言いながら伯蓮が目を開き、まるで全ての憎悪が凝縮されたような瞳で尚華を睨む。
あの優しい穏やかな性格の伯蓮からは想像できない、冷たく残酷な言葉が言い放たれた。
「お前も豪子も、胡一族全員……この世から葬ってやる」
「……っ……!」
「それが、のちに皇帝となる私の最初の仕事となろう」
自由のない皇太子を、伯蓮は辞めたいと思っていた。
はずなのに、今は皇帝に即位した未来の話をする矛盾。
胡一族を滅亡させるほどの非道を行えば、二百年続く鄧王朝の歴史に傷がつく。
それどころか元下女の命一つと、二代連続で皇帝に仕える宰相とその一族の命が同等のはずない。
しかし、伯蓮にとって朱璃の存在が、それほどの人物であることが充分窺えた。
誰かに愛されることを実感できない尚華には、それがとてつもなく悔しくて疎ましい。
そして何より、猛烈に羨ましかった。
そんなふうに思っていると、尚華の意図とは関係なく、突然涙が溢れ出てきた。
「…………わたくしは、一体なんのために生きているのでしょうか」
胸が押しつぶされているように、うまく息ができない尚華が小さく呟いた。
豪子の望みを叶えようとすれば、伯蓮に一族の命を脅かされる。
伯蓮をここで解放すれば、豪子に失望されて一生蔑まれる。
父親からの愛も感じられず、伯蓮を慕ったところで絶対に愛されることはない。
そんな人生に、尚華本人の心も擦り減り限界を迎えていた。
「認められたい、愛されたいだけなのに……誰もわたくしを見てくれない……」
ぼたぼたととめどなくこぼれ落ちる涙が、伯蓮の胸を濡らした。
その反応を見て、徐々に落ち着きを取り戻していく伯蓮は責任を感じて視線を逸らす。
尚華も可哀想な立場なのだとわかっても、今の状況を簡単に許すことはできない。
「……こんなやり方は、間違っている」
「っそれでも、父上の指示には逆らえません……!」
「実の娘を者のように扱い傷つける行為を繰り返す父親など、父親ではない」
ハッとして目を見張る尚華は、伯蓮を見下ろしながら沈黙する。
「もしも私に子がいれば、子の気持ちを一番に考え、世界一幸せになって欲しいと願う」
「……ですが、政略結婚を繰り返してきたからこそ、鄧王朝が続いたのではありませんか!」
尚華の言う通り、皇族と官僚一族の間で繰り返されてきた政略結婚。
古いしきたりや因習がこの国を大きくし、平和を維持できたことは間違いない。
そして夫婦となる本人同士の気持ちを無視し続けてきたことも、間違いない。
「だから私は尚華妃と共に、断ち切りたいと言ったであろう」
茶を飲む前の会話を思い出した尚華は、ようやく父親の呪縛から目が覚めそうな状況にいた。
父に認められたくて従ってきた尚華だが、そんなものは愛ではない。
伯蓮の言葉でそう悟ることができた途端、背負っていたものが落ちていくのがわかった。
先ほどまで殺気立っていた両者が、嘘のように沈黙して静かな時間だけが流れる。
その時、部屋に見知らぬ声が響き渡った。
「伯蓮!」
「っ……?」
名前を呼ばれた伯蓮は、初めて聞く声に戸惑いながら周囲を見渡す。
しかし、突然キョロキョロし始める伯蓮を、尚華は不思議そうに眺めていた。
どうやら今の声を尚華は聞いていない。その様子から、相手はあやかしだということを伯蓮は理解する。
「伯蓮、上だ!」
もう一度聞こえてきた声に、伯蓮は天井に目を向けた。
すると天井板をずらして、ひょっこりと顔を覗かせていたあやかしを発見。
黄色い毛に覆われ、長い尻尾を垂れ下げた貂々だった。
初夜妨害の日以降、会うことがなかった貂々がくるりと回って床に着地する。
(貂々! どうしてここに⁉︎)
伯蓮は一瞬驚いたものの、今の状況にハッとする。
妃に馬乗りされている光景を貂々に見られてしまい、急に羞恥心に駆られた。
しかし、そんなことはお構いなしの貂々は、話せないはずの言葉を使って、流暢に情報を伝えてくる。
「朱璃を見つけた。北の廟だ」
「っ⁉︎」
「急げ!」
朱璃を見つけたという言葉で、伯蓮は力が漲ってきた。
そして今までの催淫効果を吹き飛ばすように、体を起こして立ち上がる。
馬乗りになっていた尚華は再び飛ばされ、「きゃ」と言って尻餅をついた。
「尚華妃……」
しかし、伯蓮は尚華の行為を許したわけではなく、手は差し伸べなかった。
扉前で待たせていた貂々と共に、急ぎ部屋を出た。
伯蓮が部屋から出てきたことで、外で待機していた宦官が慌てた様子で駆け寄ってくる。
「伯蓮様⁉︎ ど、どこか具合でも悪いのですか?」
「だ、大丈夫だ……」
伯蓮の顔色と額の汗を心配して、宦官がオロオロする。
深呼吸をして気をしっかり持った伯蓮は、尚華への処遇を言い渡した。
「尚華妃を部屋から出さず、見張っていてくれ」
「へ?」
「謹慎を申し立てる!」
状況が把握できていない宦官の手から、外套を奪った伯蓮。
それをバサっと音を立てて羽織り、先に走り出した貂々の後ろを追う。
未だに動悸は激しく、呼吸もすぐに乱れてしまう。
相変わらず体の奥は熱いし、掻き立てられる感覚も残っていた。
それでも貂々を追う伯蓮は、早く朱璃の無事をこの目で確認したい一心だった。
夜の後宮を北に向かいながら、伯蓮は貂々に問いかける。
「貂々! どうやって朱璃の居場所がわかった⁉︎」
「北の廟から助けを求める声を、たまたま通りかかったあやかしが聞いていた。その連絡を受けたのだ」
あやかし同士の交流や伝達方法でもあるのだろうかと、伯蓮が意外そうな顔をした。
ただ、あやかしも万能ではない。
「人間でなければ扉は開けられないし、あの廟の格子窓は高く侵入もできない」
だから貂々は、伯蓮に助けを求めにやってきた。
朱璃の今の状況を知って、伯蓮は胸を痛める。
もっと早く尚華と対話ができていたら、朱璃が攫われることはなかったかもしれない。
巻き込んでしまったことに顔を歪めた時、まるで経験者のように貂々が語った。
「後悔しているのなら、同じ過ちを繰り返さなければ良いだけのこと」
「っ……」
「それでも人は、また別の後悔をして成長する生き物だ」
生きている限り、後悔することからは逃れられない。
ただし後悔した経験を財産にして、繰り返さないように生きることはできる。
そう教えられた伯蓮は、人間のような考え方ができるあやかしの貂々を尊敬した。
*
全力疾走した伯蓮と貂々は、北にある廟に到着した。
建物自体はそれほど大きくはない。ただ、手入れが行き届いていないから、かなり年季が入っている。
壁の木材は腐り剥がれ落ちていて、屋根の瓦も破損したまま修復されていない。
忘れ去られたように静かで寂しげな場所に佇む、古びた廟が二人を出迎えた。
「……後宮内に、こんな建物があったとは」
「なんだ知らなかったのか。皇太子のくせに」
廟の外観を眺める伯蓮に、貂々が嫌味っぽく声をかけた。
「それは……後宮自体来ることがないのだ」
「十歳までは住んでいただろう」
「……貂々、やけに詳しいな……」
催淫効果が完全に抜けていない伯蓮にも厳しい貂々は、ヒョイと露台に飛び乗る。
そして観音開きの板扉前に立ち、「早く開けろ」と言わんばかりの視線を伯蓮に送った。
「わ、わかっている……!」
慌ててあやかしの指示を聞く、この国の皇太子。
その姿に少しだけ将来を不安に思った貂々は、伯蓮とともに建物内に入る。
廟内は長方形に空洞が広がっているように思えたが、窓が閉め切られているせいで暗く、鮮明には確認できない。
何より息を吐けば白く、まるで屋外と同じくらいの冷たい空気が漂っていた。
伯蓮は初めて訪れる場所で、間取りも不明。
どこに朱璃が閉じ込められているのか、見当もつかない状態だった。
しかし、閉じ込められそうな部屋が一つだけあることを知っていた貂々が、伯蓮に指示を出す。
「壁をつたって右に向かえ」
「右?」
「角を曲がった奥に書庫がある」
「わ、わかった」
暗闇の中、壁に手をついて進む伯蓮。
少しずつ暗闇に慣れてきた目が、物の輪郭を認識するようになってくる。
すると、扉らしき部分に手が引っかかり銅製の錠にも触れた。
「鍵が、かかっている」
貂々に状況を報告した伯蓮は、今から鍵を探している暇などないとわかっていた。
だから少し後ろに下がり、ふうと静かに息を吐く。
(……後日、必ず修復いたします)
心の中でそう宣言して、思い切り走り出した伯蓮が渾身の体当たりを扉にお見舞いする。
バキバキィ!と板が割れる音が響いて、木の粉や破片がパラパラと舞った。
飛び散った木片に気をつけながら、伯蓮と貂々は書庫の中に侵入する。
「っ朱璃! どこだ!」
棚がいくつも並んでいるだけで、朱璃の姿をすぐには確認できなかった。
まさか別の場所だった?と焦りはじめる伯蓮が、さらに奥へと進んだ時。
信じ難い光景が視界に飛び込んできた。