その異変に気づいたのは、ちょうど夕餉の準備が整いそうな頃だった。
公務を終え着替えた伯蓮は、椅子に座り食事が円卓に並んでいくのを眺めていた。
今日はいつもより疲労を感じていたから、たくさん食べて体力をつけなければ。
そんなことを考えていると、伯蓮のもとに侍従の関韋が小さな声で耳打ちしてくる。
「伯蓮様。朱璃殿がまだ戻っておりません」
「本当か?」
窓の外に視線を向けると、とっくに日は落ちている。
以前にも似たようなことはあったが、その時は無事に帰ってきた。
そして「今後は日没までに戻る」約束を守り続けていた朱璃が、再び遅れるとは。
伯蓮は胸のあたりに手を添えて、ざわざわする心を落ち着かせようとした。
「……と言いつつ、ひょっこり戻ってくるような気もしますが」
神妙な面持ちの伯蓮を気遣って、関韋がそんなふうに付け加えた。
以前、仲間の侍女が紛失した簪を一緒に探す、思いやりのある朱璃のことだから。
たとえば、迷子のあやかしを見つけて、送り届けたために遅れているのかもしれない。
そんなふうに思った伯蓮が、もう少し待ってみることに決めた。
前回は心配するあまり門まで出迎えにいってしまったから、今回はもう少し冷静に対応したい。
しかし、胸の奥ではもう一人の伯蓮が「本当にそれでいいのか?」と問いかけてくる。
(……っ)
皇太子として冷静でありたい自分と、感情のままにいきたい自分の狭間に立たされた。
伯蓮の食事の手は、もちろんピクリとも動かない。
前回と全く同じ状況に、関韋はもう驚かなくなった。
「伯蓮様、どうされたいですか?」
「……っどう、とは……」
「朱璃殿を、迎えに行きたいですか?」
関韋の問いかけは、包み隠すことなく真っ直ぐだった。
色々と思考が混雑していた伯蓮の、選択したい側の道を照らしてくれた。
本来ならば、侍女一人が戻らないことで皇太子自らが行動するのはありえない。
ただ、それをわかった上で関韋は伯蓮の意思を確認したかった。
その視線が、皇太子というよりも一人の男を見るように――伯蓮を試しているように思えた。
ガタッと椅子が音を鳴らし、伯蓮は勢いよく立ち上がる。
そして「食事は後にする」と他の侍女に説明して、身支度をはじめた。
察した関韋は、用意していた外套を伯蓮の肩に掛けて支度を手助けする。
「……関韋……」
「さあ、急ぎましょう」
いつも無表情で、滅多なことでは感情を表に出さない関韋。
しかしこの時は、まるで年の離れた弟を応援するような優しい目をしていた。
背中を押された気持ちになる伯蓮は、自分に仕える侍従が関韋で本当に良かったと改めて思う。
*
すっかり日が暮れた後宮の正門前にやってきた。
関韋以外の従者をつけずに伯蓮が現れ、門番の二人はかなり驚いていた。
「こ、皇太子殿下⁉︎」
ビシッと背筋を伸ばして拱手すると、そぐに伯蓮が用件を述べる。
「今朝、蒼山宮の侍女が後宮に訪れたはずなのだが、まだ戻っていない」
「すぐにお調べいたします!」
門番は急ぎ出入りを管理する記録帳に目を通した。
何度も何度も紙上で視線を行き来させ、首を傾げながら伯蓮に伝える。
「“朱璃”という侍女の入場記録はありましたが、退場記録が見当たりません」
「ではまだ後宮内にいるのだな。門を開けよ、連れ戻す」
「か、かしこまりました!」
記録帳を閉じた門番は威勢の良い返事をし、もう一人の門番は慌てて宦官を呼ぶために走った。
後宮内でも単独行動ができない伯蓮は、このあと宦官を引き連れて朱璃を探すことになる。
そして男子禁制の後宮への立入ができない関韋は、門前で待機するしかない。
「もしも朱璃が来たら、遣いをよこしてくれ」
「かしこまりました」
これで朱璃との行き違いも防止できる。
はやる気持ちを抑えつつ、伯蓮が深呼吸をした。そこへ宦官が五名、慌てた様子でやってきた。
「伯蓮様、後宮にいらっしゃるなら事前にご連絡をいただかないと……」
「緊急なのだ。悪いが手分けして人を探してくれ。私の宮で働く侍女を」
正門をくぐり、伯蓮はようやく後宮に入った。
後宮の敷地内に設置された灯籠の灯りが、通路を照らす。あとは宦官が持つ手持ち行灯の光が頼りとなる。
「探してもらいたい侍女は鴇色の衣に、髪は左右に分けお団子のように纏めている」
朱璃の外見の特徴を説明して、宦官を各方面へと捜索に向かわせる。
そうして一人の宦官だけが、付き人として伯蓮のもとに残った。
少しずつ奥へと進んでいく伯蓮に、宦官は戸惑いながらも従うのみ。
朱璃のような外見の侍女は、この後宮にもたくさんいるだろう。
捜索に向かわせた宦官たちも、きっと呆れながらも仕方なく捜索することは目に見えていた。
だから伯蓮は、朱璃を見つけられるのは自分しかいないと思っている。
後宮内の通路を歩きながら、慎重に周囲を見渡す。
あちらこちらにあやかしの姿が確認できるが、宦官がいる手前、朱璃の行方を尋ねることはできない。
宦官の注意を逸らし、あやかしに協力を得ることはできないかと伯蓮が考えていた時。
意外な人物に声をかけられた。
「まあ、伯蓮様ではありませんか」
「っ! ……尚華妃」
いつの間にか、華応宮の門前にきていた伯蓮。
その門から姿を現した尚華が、上機嫌な様子で微笑んでいた。
まるで、伯蓮が来るのを予測していたかのように尋ねてくる。
「そんなに急いで、どうされたのですか?」
初夜の日以降、会うことを避けていた彼女を目の前にして、伯蓮は少し気まずさは覚えた。
しかし今は一刻も早く朱璃を探し出さないと、気が収まらない。
ここは穏便に済ませたいと、伯蓮が丁重に断りを入れる。
「尚華妃。すまないが今急いでいる。初夜の件はまた日を改めて詫びに――」
「まあ、それは順序が逆ですわ」
伯蓮の言葉を聞いて、臆することなく尚華がニヤリと笑う。
その表情に、伯蓮は嫌な予感が芽生えた。
「先にわたくしと次の初夜について話し合いをしていただかないと、お探しのものは“見つかりませんよ”?」
上がった口角を維持する尚華は、伯蓮が後宮に訪れた目的をすでに知っているような口ぶりだった。
なぜ?と思うより先に、朱璃の安否が危険と隣り合わせだと伯蓮は悟る。
二人の間に、不穏な空気が流れはじめた。
(……朱璃は、尚華妃の手によって攫われ、帰ることができなくなった)
そう理解した伯蓮が、尚華に近づき冷ややかな目で見下ろす。
「朱璃はどこにいる」
「それも、一緒に夕餉を楽しんでくださればお話しします」
「無事なのだろうな?」
「伯蓮様次第ですわね」
伯蓮の圧力を物ともしない尚華が、華応宮の正門を開き「こちらへどうぞ」と招き入れる。
沈黙した伯蓮は拳を握って怒りを耐えるが、ここで従わなければ朱璃の居場所がわからないまま。
闇雲に探すよりは、尚華から情報を聞き出す方が確実。
伯蓮は覚悟を決めて招かれるままに門を潜ると、宦官と共にその敷地内に入った。
石畳の上を歩く足音がやけに響く中、伯蓮は中庭までやってきた。
そこで一本の木の上に視線を向ける。
貂々はいつもこの木の上を棲み家にしていると、朱璃から聞いていた。
しかしそこには貂々の姿はなく、伯蓮は頼みの綱が不在だったことに肩を落とす。
「こちらです」
通路で待機する侍女を横切って通された部屋は、夕餉の準備が整っていた。
円卓には二人分の席と、取り皿や筒杯が用意されている。
初めから、伯蓮をここに呼ぶためだったことが窺える。
(一体、尚華妃はなにを考えているんだ……?)
朱璃が攫われたのは、自分を誘き寄せて話し合いの場を設けさせるため?
そう思うと、巻き込んでしまった朱璃に対して、伯蓮は申し訳ない気持ちを抱いた。
大人しく部屋に入った伯蓮は、尚華との食事を想像して表情を曇らせる。
続いて宦官が部屋の中で待機しようと足を踏み入れると、侍女らに制止された。
「ごめんなさい。伯蓮様と二人きりにしてほしいの」
上目遣いでお願いしてくる尚華に、さすがの宦官もドキリと心臓を鳴らして躊躇する。
「……伯蓮様、いかがなさいますか?」
「部屋の外で、待機していてくれ」
「か、かしこまりました」
尚華の希望通りに事を運ぶ伯蓮は、外套を脱ぎ宦官に渡して退室させた。
そして何も言わずに着席すると、扉は静かに閉じられてついに二人きりとなる。
いつもより遅い夕餉。料理の匂いが部屋中に漂うのに、食欲がわかない。
正面の椅子には笑みを浮かべた尚華が腰掛け、満足げに会話を楽しもうとする。
「ようやく、ゆっくりとお話しできますね」
「……なるべく手短に頼む」
「例の“元下女”がそんなに心配ですか? 妻のわたくしには二度の初夜見送りに対して、未だ謝罪もないというのに」
筒杯を持ってゆっくりと水を飲む尚華は、余裕たっぷりの様子だった。
たしかに謝罪をしないまま今日まで来てしまったのは、伯蓮も反省する。
それに以前、関韋が『尚華妃は伯蓮様を慕っている』と言っていた。
関韋の読みが真実なら、尚華を深く傷つけてしまう行為の数々。
こうなる前に、すぐに謝るべきだったと伯蓮が頭を下げた。
「その件は……本当にすまなかった」
ただ、尚華は宰相である胡豪子の娘。
父親に何を指示されているかもわからない妃の言動を、簡単に信じてはならないと思っていた。
だから伯蓮は、ありのままの“尚華”と対話がしたかった。
「しかし、尚華妃は本当に私との婚姻を望んでいたのか?」
「もちろんです。伯蓮様の人気は父上から常々聞いておりましたし、お顔立ちもわたくしの好みですし」
その言葉の真意がわからず、伯蓮は食卓の下で拳をぎゅっと握った。
どんなに美しい女性に好意を持たれようと、それに応えるだけの思いと余裕がない。
朱璃の笑顔を知った、今の伯蓮には。
「すまない。私が尚華妃を慕うことは、この先もずっとない」
「…………何が、おっしゃりたいのですか?」
筒杯を静かに置いた尚華は、その笑顔を崩さずに伯蓮に尋ねた。
しかし、筒杯を掴む手を離さず、必要以上の力が加わっているように見受けられる。
感情を揺さぶられていると感じた伯蓮が、尚華の目を見てさらに語りかけた。
「尚華妃の人生は尚華妃のものだ。父、豪子のものではない」
「……そんなことは、わかっておりますわ」
もしも父に利用されて、自分の意思を制限されているのなら。
同じ境遇の自分であれば、尚華を救えるかもしれないと伯蓮は考えた。
「互いのことをよくも知らないままの婚姻は、やはり断るべきだった」
「……い、今更遅いですわ」
「ああ……当時の私は、断ることを恐れてしまった」
言いながら、伯蓮の表情が苦悩で歪む。その様子を尚華は深刻な顔でじっと見つめた。
突然舞い降りた婚姻話を、伯蓮は悩んだ末に承諾した。
豪子の後ろ盾がなければこの国を支えられないという、皇太子としての決断だった。
しかし、いざ尚華が入内し初夜を迎えようとした時、どうしてもその足取りは重く。
二度目はいよいよ部屋に入り妃を前にした途端、自分という存在の無意味さ、虚無感に襲われた。
今すぐこの世から消えてしまいたい衝動に駆られた。
そんな絶望の中、突然部屋に乱入し全力で威嚇していたのは、あやかしの貂々。
その貂々を止めようと現れたのが、朱璃だった。
「あの乱入騒動で、私は目が醒めた」
「……どういう意味ですか」
「私の人生は私のものだ。豪子と対立することになっても、人生を共に歩む妻は、私自身で選びたい」
皇族に生まれた者として、そんな考え方をしてはいけないのかもしれない。
それでも伯蓮は、心を許し分かり合える者と生きていきたいと思いはじめた。
「尚華妃も同じではないのか?」
「そ、それは……」
「気づけば恋に落ち、互いに想い合い、一生添い遂げたいと思わせる相手との婚姻を望むだろう?」
説得しようとする伯蓮の強い気持ちが、尚華の心に絡まる鎖を緩めていく。
互いに望まぬ婚姻関係となり、その心と体までも脅かされようとしている。
そのことを尚華にもわかって欲しかった。
「次期皇帝として生まれた者の宿命。そんなこと、誰が決めたのだ」
「わ、わたくしだって、胡一族の娘として生まれたからには……」
その務めを果たせと言い聞かせられて育った記憶を、尚華も蘇らせた。
戸惑う尚華の様子を見て、伯蓮は少し安心する。
尚華も自分と同じ、理解に苦しむ宿命とやらに縛られていただけの犠牲者なのだと。
「ならば、そんな古いしきたりや因習は我々の代で断ち切らないか?」
ふと優しい目になった伯蓮が、尚華に微笑んで提案する。
思わぬ状況に、尚華も困惑しながら首を傾げた。
「断ち切る? まさか婚姻を取り消すというのですか?」
「私はそうしたい。尚華妃にとっても、その方が良いと思っている」
豪子の言われるがままに利用されている尚華を、救いたい気持ちは本当。
同じ境遇のもとで間違った選択をした二人は、きっと話せば分かり合えると伯蓮は思った。
すると、深いため息と共に立ち上がった尚華は、近くに用意されていた茶壺にお湯を注いで呟く。
「……わたくしは、伯蓮様を本当にお慕いしておりました」
「それは豪子にそう思わせられて――」
「妃として入内したのは父上の指示です。しかし、今は本当に……」
茶壺をゆっくりと空中で回し、二つの茶器に注いでいく。
周囲にはほのかに甘い匂いが立ち込めた。
今までの余裕の笑みから一転、尚華は寂しげに微笑んで伯蓮の言葉の意味を理解する。
「わたくしの気持ちは、一生伯蓮様には届かないということですね」
「……ああ」
「父上を敵に回しても、わたくしとの婚姻を解消したい――と」
伯蓮の断固たる決意を理解した尚華は、茶器を運んで伯蓮の目の前に置く。
そして自分の椅子に着席すると、ようやく朱璃について言及する。
「……あの元下女を使って伯蓮様を呼び寄せるのが目的でした。ですが、お話を聞いて諦めがつきました」
瞳を潤ませながらも、尚華は懸命に笑顔を絶やさなかった。
そんな健気な姿に、伯蓮の心もしっかりと痛む。
しかし、全ては自分が招いたこと。
尚華を傷つけてしまうことも、この心痛も乗り越えなくてはいけない。
その覚悟で、伯蓮は尚華に話をした。
「わたくしと“最後”のお茶にお付き合いいただけますか? そうしたら居場所をお教えいたします」
観念したように肩の力を抜いた尚華が、無理に笑顔を作る。
正直に打ち明けてくれた尚華に、今だけは寄り添えると思った伯蓮。
“最後”と言ったお茶は望み通り付き合うべきだと、片手で茶器を掴んだ。
甘い香りと波紋の立つ薄茶色の眺め、伯蓮はゆっくりと口に含む。
ごくりと喉が動いた様子を、尚華はじっと見ていた。
そして口角がニヤリと吊り上がった事を、伯蓮は知る由もなく。
甘い香りに似合わず、舌がピリつくような初めての刺激を感じて瞠目する。
「……不思議な茶だな」
「はい。遠い異国の茶葉をいただきました。……父から」
「豪子から?」
最近、豪子とやりとりでもあったのか?と、伯蓮が疑問に思ったその時。
体の奥から燃えるような熱を感じ、伯蓮は眉根を寄せて胸を掴んだ。
血流が一気に加速していくように体温が上昇し、汗とともに呼吸が荒くなる。
「……っ、なんだ……?」
伯蓮の体が明らかに異変を起こしていて、服を脱ぎたくなるほどの熱と衝動を感じた。
そんな状況で尚華に目を向けると、彼女は茶を飲んでいなかった。
「……毒か⁉︎」
「ふふ。毒ではありませんのでご安心ください、ただ……」
言いながら尚華がふと目にしたのは、茶壺付近に置かれた鶸色の小さな巾着袋。
それは先日、豪子の指示で初老の侍女が預かり持っていたものだ。
「血行促進と身体感覚が研ぎ澄まされて、催淫効果も期待できる“お薬”ですわ」
「っ……尚華妃、何を……考えて……」
「わたくしは胡一族のために皇后にならなくてはいけないのです。それには、伯蓮様とのお子を産まなくてはなりません」
尚華は妖しく笑みを浮かべると、ゆっくり席を立って伯蓮に腕を伸ばした。
身の危険を感じて避けようとした伯蓮は、バランスを崩して椅子から落ちる。
すぐに立ちあがろうと床に膝をつけて踏ん張るが、うまく力が入らず立つことができない。
(……朱璃は、本当に無事なのか……?)
皇太子の伯蓮に対しても、恐れる事なく媚薬を盛る尚華。
そんな彼女に捕まった朱璃の安否を、何より心配した。
早く助けに行かないと――と思う反面、その居場所を知っている尚華にはもう話が通じそうにない。
絶望を感じながら上体を起こそうとする伯蓮の隣に、いつの間にか尚華が屈んでいた。
「いずれ理性を失い、わたくしのことを欲しくなりますわ」
「……これも、豪子の、指図か」
「はい。これでお子ができたら、きっと父上も喜びます」
父親に完全支配された娘の尚華は、自分の意思や他人の意見よりも父親の言葉が絶対優先なのだ。
説き伏せることができなかった上に、伯蓮の油断が尚華に好機を与えてしまった。
後悔してももう遅く、何の躊躇もなく伯蓮の火照った頬に尚華が触れて来た。
そうして、蕩けた顔と紅で色づく口唇が近づいてくる。
「さあ伯蓮様。二度も見送りにした初夜を今からやり直しましょう」
抵抗する力も無く、伯蓮の意思に反してそっと唇が重なった。