葉桜の並ぶお堀端(ほりばた)を男がひとり、提灯も提げずに歩いていた。
 青々とした月代(さかやき)が、月明かりに鈍く照らされている。
 ちよとあさってを向いた(まげ)を気にする素振りもなく、ゆっくり、音も立てずに歩を進めていた。

 風もないのに時折ふらつく男は、ふと歩を止めて(おとがい)を上げた。
 さらに仰け反ると、眠たげな両目を真上に向ける。

 縦縞の着流し姿。
 左腕を懐手(ふところで)に、右手で飴色の徳利をぶら提げ。
 大刀のみ一本落とし差しにして、足下は素足に草履。

(――満月かぃ。こいつぁいい塩梅だ)

 顔を上げたまま胸中で独りごちると、我知らず顔が綻んだ。
 じゃっじゃと小刻みに草履を鳴らすと、弾むような足取りで再び歩きだした。
 

☆☆

 
 やがて「××門」の先に、ぼんやりと行灯(あんどん)が灯る一角が目に入った。
 傍に、葦簀張(よしずば)りの小屋がひっそり佇んでいる。
 
 近付くにつれ、嗅ぎ慣れぬ香りが鼻腔の奥をくすぐり出した。
 鼻をひくつかせ、記憶を反芻する。
 答えが出ぬうちに、男は小屋の前に辿りついていたようだ。

(まあいいやな。丁度、小腹も空いて――)
 
 地面から生えたような小振りの行灯をちらと見やれば、淡く「うんとん」の文字。

(やれやれ、おいら江戸っ子だぜぃ。蕎麦じゃねえのかぃ……)

 男は、これまで「うんとん」を口にしたことがなかった。
 口にする理由がなかった。

(蕎麦食いのおいらが……)

 立ち止まって躊躇する男と、赤い顔をした痩せぎすの親爺(おやじ)とが、湯気を挟んで視線を交わした。

「ぃらっしゃい!」

 親爺が切れの良いひと声を投げると、男は腹を鳴らして返してみせた。


☆☆


 二人立てば一杯の店に、客はいない。

「親爺、蕎麦はねいのかぃ?」
「へい、うちは『うんとん』だけで――」

 言い終わらぬうち、男は鋭く舌打ちした。
 親爺は即座に微動し、喉奥で「ひっ」と小さく漏らした。

(……仕様がねぃ。空きっ腹で寝るのも敵わねぃ……)
「………………親爺。うんとんひとつ……」

 力なく囁くと、かくんと項垂れた。


 男は左に寄り立ち、台の隅に徳利を置くと、腕を組んで親爺を見据えた。
 と、丼が目の前に置かれる。

「お待ち!」
「早ぇえな!」

 うっすら湯気が漂う丼の中で、透き通る山吹色(やまぶきいろ)の汁が湖面のように凪いでいる。
 初めて目にする白く太い麺に、唐辛子がひと摘まみ載っただけ。
 一瞬、ぶよぶよに太った赤ら顔の筆頭与力――上役の姿が脳裡を(よぎ)った。

 男は黒く精悍な眉を八の字にすると、弱々しい溜め息をひとつ漏らし。
 両手でそうっと丼を持ち上げた。
 さして熱さは感じない。
 汁をひと口啜る。
 次いで目を見開いた。
 
(……ほう。こいつぁ……)

 淡い湯気の奥で、親爺がちらちら心配そうに窺っている。
 男は能面になると、威勢よく麺を啜り出した。
 汁は温目(ぬるめ)だが、うんとんは芯まで柔らかい。
 次第に額が照かり出す。


 あっという間に汁まで飲み終えた男は。
 丼に両手を添え、仔猫でも下ろすが如く、目の粗い木の台へそっと置いた。
 側へ銭を置き、

「ごっそさん」

 呟くと、親爺は何故か、言葉も無くその(おもて)を窺う。
 不安げな視線を寄越すのに、男はひと息吐いて、

「……親爺」
「へ、へい」

 頭に巻いた手拭いを、つるっと手にして俯く親爺へ向け、

「……有名になりすぎねぃようにな」※
「……………………へい?」
「頼むぜぃ」

 二の句が次げない親爺が憮然として口を開けると、男は口の端を上げ、やがて爽快に笑った。


 すっと歩きだし、あっという間に遠ざかる男に――。
 置きっ放しの徳利に気付いた親爺が、

「旦那ぁああー! お酒、お酒ーっ!」

 慌てて声を張り上げ、かの背中に浴びせた。
 男は振り返りもせず、懐から右腕を抜いて気怠るげに翳すと、ぶらぶら手を振ってみせた。

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※ 三島由紀夫が、山の上ホテルに宛てて認めた手紙の末文、
『ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに』より。