「あっ」
「星乃さん」
向かい側から来た水無月くんと鉢合わせてしまい、頭の回転が急ストップ。
「あれ、教科書とかは?」
「え? ……そうだったね」
そういえば、また図書室で教えてもらう約束をしていたんだった。
先に図書室に行ってもらって、私は後から理科の教科書やワークを持って、いつもの定位置に駆け足で向かった。
図書室は相変わらず閑散としていて、勉強スペースも奥にあるから、人目が気にならなくて楽だ。
「そういえば、お花にお水はあげたの?」
窓の向こうから、雨音のノイズが通り抜けてくる。
「あー、今日はいいかなって。ただ、あれ週に一回上げないと、すぐ枯れちゃうらしいから、早めにはやらないといけないんだけどな」
「結構シビアだね」
「ずっと密かに育てられているらしいから、俺で途絶えさせるわけにはいかないんだよな」
また私が花を利用する姿が想起された。
「……」
「どうかしたか?」
「な、何でもないよ。えっと、じゃあ始めよ」
昼休みは長くはない。頭を振りかぶって、理科のワークを開いて、勉強を始めた。シャー芯と紙の摩擦音が、軽快なスピードで奏でられていって。
「うーんとここは……こうだよね」
「そう。結構出来ているな」
自分でも驚くように、問題がスラスラ解けていた。まるで、潤滑油でもあるかのように引っかかることがなくて。
「才能が開花された……的な」
実は天才で、これから高得点取りまくって、皆から尊敬されてしまうストーリーを思い描いた。
「それはわからないが、今まで苦手意識が強すぎて、上手くいっていなかった可能性はあると思う」
「なるほどー」
すごく納得したと同時に私が無双する物語は砕け散った。
「でもでも、私が天才の可能性もまだ残っているよね」
「まぁ、うん」
「すっごい目が泳いでますけど」
可能性は無いと顔に書かれていた。
「よーし、もうちょっと進めよっと」
「頑張れ」
「うんっ!」
水無月くんの言う通り前よりは確実に苦手意識は無くなっている。けれど、まだ多少は残っていて、一緒に勉強しないとモチベーションは保てそうにもなかった。だから、ただ隣にいてくれるだけで、助かっていて。
「あ……」
彼といる時間は一つの癒やし。そうやって今の状態を客観視すると、記憶の奥からチリチリとした痛みが走って、書く手が止まる。そして、勉強をしたことで温まった思考が、痛みの原因の方に向けられた。
「……っ」
考えれば考えるほど、じわじわと傷口が広げられるように痛みが強まっていく。それを止める術はなくて、深く深くえぐる。
「あれ……ないよね」
そうやって自分の内面に入り込んでいると、外からの微かで確かな小声で意識が引きずり出される。
「つり合って……ないというかそれで……」
後ろを振り返ると少し離れた本棚の辺りで、本を抱えながら二人の女子がこちらを見て話していた。
「やばっ」
目が合うとそそくさと、カウンターの方へ逃げて行く。声を潜めきれていなくて、多少言葉が理解できてしまった。
「……」
水無月くんにも聞こえたのか、眉をひそめていて。
「ああいうのって、わざと聞こえるようにしているんだろうな」
絶対零度の低い声に感情の圧力が籠もっていた。
「ど、どうだろうね」
怒っている姿にたじろいでしまう。
「星乃さん、何かされたり言われたりしていないか?」
「ううん。さっきのが初めて」
「ごめん、俺のせいで」
「いや、水無月くんのせいじゃないよ!」
思わず声が大きくなってしまい、口を手で覆った。
「もし何かあれば言って欲しい、力になる。……絶対に」
すごく熱い眼差しで見つめられる。その瞳には優しさと力強さがあって、私は合わせ続けられず目を逸らしてしまう。
「あ、ありがと」
それから、勉強の続きをしたのだけど、私の心に渦巻く二つの黒いモヤモヤが残り続けて注意力は散漫に。それによって気分は落ち込み、進みも悪くなって、解決の糸も見つからず時間になってしまった。
「……今日はここまでにするね」
「ああ」
テンションが低いまま二人で図書室を出る。色々なことが積み重なって頭に重くのしかかってきて、俯きながら歩いた。
階段まで来て登ろうとすると、上から人が降りてくる足音が聞こえて、ぱっと顔を上げると、そこにはリュックを背負って帰ろうとしている青葉さんだった。
「ひ、日向。どうしたんだ? まさか」
それを見た水無月くんは、血相を変えて駆け寄った。
「違うわよ……。熱が出たから早退するだけ」
「そ、そうか」
青葉さんの顔色は悪くて、いつものような強気な様子はまるでなかった。今にも折れてしまいそうな彼女はどく既視感があって、あの日と重なって見えた。
「青葉さん大丈夫? 一人で帰るの?」
「問題ないわ。家も離れているわけじゃないし」
「帰りまで保健室で寝てから一緒に――」
一歩一歩、階段を下る足は覚束なく不安になってくる。
「心配し過ぎ。本当に大丈夫だから、気にしないで。それに、もうお昼の時間終わりそうでしょ」
私と水無月くんの間を抜けて、下駄箱に向かおうとする。私は背を向けた青葉さんにまた声をかけた。
「後でお見舞いに……」
「そんなのいい。それに、連絡とかしなくていいからね。その、迷惑だから」
それだけ言い残して昇降口から姿を消した。
「めい……わく」
迷惑、迷惑、迷惑。彼女が発した言葉があの日の声と重なって記憶の堺で反響し続ける。目の前がグラグラして、意識が半歩下がってしまう。
「星乃さんどうしたんだ? 早く戻らないと」
「迷惑……。また余計なこと言っちゃった」
口元の筋肉は麻痺しているみたいで、小さな声が勝手に漏れ出した。
「星乃さん?」
水無月くんのその呼びかけではっと意識がもとに戻った。
「ううん何でもない。行こう」
階段を踏みしめる足音が廊下に響いては消えていく。それと同じように彼女の残響が何度も聞こえてくる。それは、かさぶたになっていた傷が表層に上り詰めている音でもあった。
三階に登って水無月くんと別れ、教室へ向かう。ふと廊下の窓を見ると、灰色の雲に黒い墨が染み込みつつあり、雨は止みそうになかった。
「星乃さん」
向かい側から来た水無月くんと鉢合わせてしまい、頭の回転が急ストップ。
「あれ、教科書とかは?」
「え? ……そうだったね」
そういえば、また図書室で教えてもらう約束をしていたんだった。
先に図書室に行ってもらって、私は後から理科の教科書やワークを持って、いつもの定位置に駆け足で向かった。
図書室は相変わらず閑散としていて、勉強スペースも奥にあるから、人目が気にならなくて楽だ。
「そういえば、お花にお水はあげたの?」
窓の向こうから、雨音のノイズが通り抜けてくる。
「あー、今日はいいかなって。ただ、あれ週に一回上げないと、すぐ枯れちゃうらしいから、早めにはやらないといけないんだけどな」
「結構シビアだね」
「ずっと密かに育てられているらしいから、俺で途絶えさせるわけにはいかないんだよな」
また私が花を利用する姿が想起された。
「……」
「どうかしたか?」
「な、何でもないよ。えっと、じゃあ始めよ」
昼休みは長くはない。頭を振りかぶって、理科のワークを開いて、勉強を始めた。シャー芯と紙の摩擦音が、軽快なスピードで奏でられていって。
「うーんとここは……こうだよね」
「そう。結構出来ているな」
自分でも驚くように、問題がスラスラ解けていた。まるで、潤滑油でもあるかのように引っかかることがなくて。
「才能が開花された……的な」
実は天才で、これから高得点取りまくって、皆から尊敬されてしまうストーリーを思い描いた。
「それはわからないが、今まで苦手意識が強すぎて、上手くいっていなかった可能性はあると思う」
「なるほどー」
すごく納得したと同時に私が無双する物語は砕け散った。
「でもでも、私が天才の可能性もまだ残っているよね」
「まぁ、うん」
「すっごい目が泳いでますけど」
可能性は無いと顔に書かれていた。
「よーし、もうちょっと進めよっと」
「頑張れ」
「うんっ!」
水無月くんの言う通り前よりは確実に苦手意識は無くなっている。けれど、まだ多少は残っていて、一緒に勉強しないとモチベーションは保てそうにもなかった。だから、ただ隣にいてくれるだけで、助かっていて。
「あ……」
彼といる時間は一つの癒やし。そうやって今の状態を客観視すると、記憶の奥からチリチリとした痛みが走って、書く手が止まる。そして、勉強をしたことで温まった思考が、痛みの原因の方に向けられた。
「……っ」
考えれば考えるほど、じわじわと傷口が広げられるように痛みが強まっていく。それを止める術はなくて、深く深くえぐる。
「あれ……ないよね」
そうやって自分の内面に入り込んでいると、外からの微かで確かな小声で意識が引きずり出される。
「つり合って……ないというかそれで……」
後ろを振り返ると少し離れた本棚の辺りで、本を抱えながら二人の女子がこちらを見て話していた。
「やばっ」
目が合うとそそくさと、カウンターの方へ逃げて行く。声を潜めきれていなくて、多少言葉が理解できてしまった。
「……」
水無月くんにも聞こえたのか、眉をひそめていて。
「ああいうのって、わざと聞こえるようにしているんだろうな」
絶対零度の低い声に感情の圧力が籠もっていた。
「ど、どうだろうね」
怒っている姿にたじろいでしまう。
「星乃さん、何かされたり言われたりしていないか?」
「ううん。さっきのが初めて」
「ごめん、俺のせいで」
「いや、水無月くんのせいじゃないよ!」
思わず声が大きくなってしまい、口を手で覆った。
「もし何かあれば言って欲しい、力になる。……絶対に」
すごく熱い眼差しで見つめられる。その瞳には優しさと力強さがあって、私は合わせ続けられず目を逸らしてしまう。
「あ、ありがと」
それから、勉強の続きをしたのだけど、私の心に渦巻く二つの黒いモヤモヤが残り続けて注意力は散漫に。それによって気分は落ち込み、進みも悪くなって、解決の糸も見つからず時間になってしまった。
「……今日はここまでにするね」
「ああ」
テンションが低いまま二人で図書室を出る。色々なことが積み重なって頭に重くのしかかってきて、俯きながら歩いた。
階段まで来て登ろうとすると、上から人が降りてくる足音が聞こえて、ぱっと顔を上げると、そこにはリュックを背負って帰ろうとしている青葉さんだった。
「ひ、日向。どうしたんだ? まさか」
それを見た水無月くんは、血相を変えて駆け寄った。
「違うわよ……。熱が出たから早退するだけ」
「そ、そうか」
青葉さんの顔色は悪くて、いつものような強気な様子はまるでなかった。今にも折れてしまいそうな彼女はどく既視感があって、あの日と重なって見えた。
「青葉さん大丈夫? 一人で帰るの?」
「問題ないわ。家も離れているわけじゃないし」
「帰りまで保健室で寝てから一緒に――」
一歩一歩、階段を下る足は覚束なく不安になってくる。
「心配し過ぎ。本当に大丈夫だから、気にしないで。それに、もうお昼の時間終わりそうでしょ」
私と水無月くんの間を抜けて、下駄箱に向かおうとする。私は背を向けた青葉さんにまた声をかけた。
「後でお見舞いに……」
「そんなのいい。それに、連絡とかしなくていいからね。その、迷惑だから」
それだけ言い残して昇降口から姿を消した。
「めい……わく」
迷惑、迷惑、迷惑。彼女が発した言葉があの日の声と重なって記憶の堺で反響し続ける。目の前がグラグラして、意識が半歩下がってしまう。
「星乃さんどうしたんだ? 早く戻らないと」
「迷惑……。また余計なこと言っちゃった」
口元の筋肉は麻痺しているみたいで、小さな声が勝手に漏れ出した。
「星乃さん?」
水無月くんのその呼びかけではっと意識がもとに戻った。
「ううん何でもない。行こう」
階段を踏みしめる足音が廊下に響いては消えていく。それと同じように彼女の残響が何度も聞こえてくる。それは、かさぶたになっていた傷が表層に上り詰めている音でもあった。
三階に登って水無月くんと別れ、教室へ向かう。ふと廊下の窓を見ると、灰色の雲に黒い墨が染み込みつつあり、雨は止みそうになかった。