慌ただしい前夜が明けて命日を迎えた。
 毎年のことながらこの日は雨が降り、空は灰かぶったように仄暗い。

 シルト家とスワード一行は馬車に揺られること1時間、さらに徒歩で曲がりくねった山道を登ってここまでやって来た。
 そこは小さな丘で、野花に囲まて白い墓石が建っている。その前に皆が集った。


 ──イリス・シルト、愛すべき想い出と共に。


 墓石にそう刻まれたイリス・シルトこそ、侯爵の妻であり、シャルロッテとベルナールの母だった。

 ミルクティー色の細くて柔らかな髪の毛、ミルク色の肌に、陽の光を含んだ菫色の瞳が煌めく。イリスは見る者の心を奪う、それは美しい女性だった。
 かく言うシルト侯爵も心を奪われた1人で、彼女と婚約が決まった侯爵は、まるで紅葉したようだったという。

 この丘は2人の想い出の場所だ。結婚式前夜のこと、侯爵は夜景を理由にイリスを誘った。そして茂みに薔薇の花束を隠してサプライズで愛を誓う……予定だった。

 しかし夜闇で花束を見失った侯爵は必死で探し、ようやく見つけた時には全身土塗れだった。イリスはその姿を見ては声を出して笑い、こう答えたのだった。


 ──「これからもずっと薔薇をくれる?」


 侯爵はありし日の妻に微笑みながら、墓に薔薇の花束を供え、土の下で眠る妻にそっと語りかけた。

「イリス、今年はお客様が来てくださったぞ」
 
 その一言でシャルロッテの側にいたスワードが前に出た。傘の下で凛と背筋を伸ばすスワードは、何かの式典のように厳かな空気を纏っている。

「久しいな、侯爵夫人」

 スワードはそう言って、あろうことかその場で跪き瞳を閉じた。ぬかるんだ土がスワードの膝にみるみる染み渡っていく。シャルロッテはスワードの側によると耳元で言った。

「殿下お膝がっ……」
「構わない。それに、こうでもしなければ夫人に示しがつかないだろう?」
「は、はい……?」

 目を白黒させるシャルロッテを他所にスワードは立ち上がると、ペリースの内からあるものを取り出した──花だ。スワードはそれをシャルロッテに手渡した。
 その花は深海のように青いような、しかし僅かな明かりで紫色に転ずるような。雨天でも鮮やかな花。

「菫……ですか?」
「いや。これは──」

「アイリス、ですね?」

 侯爵が2人の会話に割って入った。そして一歩、また一歩と、スワードの方へ吸い寄せられるように向かってくる。

「ああ。夫人が君に返礼できず無念だろうと思ってな。律儀な女性だったろう?」

(お母様が薔薇のお返しにアイリスを贈っていたということ?全く知らなかったわ)

 シャルロッテは手に持つアイリスをじっと眺め、それはベルナールも同様だった。そして彼はふと顔を持ち上げて探るように、しかし確信に満ちた面持ちで口にした。

「母上の名と……瞳の色?」

(あら本当ね。つまりお母様は、薔薇のお返しに自分色をプレゼントしていたの?何だかそれって……)

「ああ知らないのか。シルト夫妻は所謂『熱々夫婦』で有名だったんだ」

 ──熱々夫婦!?

 シャルロッテとベルナールの心の声がリンクした。
 ここにきて母親の知られざる一面を知ってしまったことに、シャルロッテはほんの少し罪悪感を感じた。
 目の前で眠る母も自分の愛の形を知られてさぞ赤面していることだろう。ごめんなさいお母様。
 そうして姉弟が黙り込むと、紅潮した侯爵にスワードが言った。
 
「これは夫人の代理だ。受け取ってくれ」
「あっありがとうございます……ううっ……」
「そう泣くな。君と夫人には悪いが、私の下心でもあるからな」
「へ?下……心?」
「男が女性の親御に挨拶するとなれば目的は1つだろう?」
「「え゛」」

 侯爵とベルナールの声と思考が和音する。2人の首が軋轢音を立ててシャルロッテの方へ視線を運んだ。

「なっなによ。2人とも変な顔しちゃって」

((あぁ、鈍い……))

 シャルロッテは怪訝な顔で2人を見返した。侯爵もベルナールも、眉間に皺を寄せ、まるで徹夜明けのような人相だ。
 そうして彼らが悠長なシャルロッテにげんなりすると、スワードが言った。

「先ずは外堀を埋めようと思ってな」
「外堀?王宮を増築されるのですか?」
「いいや?いずれ分かるかもな」

 スワードの言葉に検討もつかず、シャルロッテは侯爵もベルナールに視線をやるが、しかし目を逸らされるのでそれ以上の追求を諦めた。
 代わりに近くて遠い母に心で語りかける。

(お母様。シャルロッテは今、人生の転機の真っ最中です。わたしの怪力に初めて理解を示してくださった人がいて……)

 シャルロッテは横目でベルナールと楽しげにやいのやいの言い合うスワードを見た。
 シャルロッテの怪力と向き合ってくれる人、家族を知ろうとしてくれる人。
 笑いかけてくれて、思いやってくれて、それから、それから──。


「シャルロッテ」
「はっ!はい!!」

 背後から肩に触れられてシャルロッテは我に帰った。そして光を浴びるスワードが一等優しく微笑む。

「雨が止んだぞ」
「え?」

 シャルロッテは恐る恐る傘を下ろす。
 だってあり得ない。母の命日は必ず雨だったから。あの日の涙が繰り返されるように、毎年必ず雨だった。だから──、

 黒い傘で遮断していた空が現れた。
 澱みない、晴れ渡る青空。
 雨は去り、ただ地面の水たまりを残しただけで、それでさえ蒼穹を映す鏡となっていた。それらは隣で微笑むスワードの瞳に似ているようにも思えた。

 天を仰ぎ見るシルト一家。
 墓石を見やれば大きな雨粒もすでに流れ落ち、その跡を眩い日光がヴェールとなって拭っていく。

「……姉上何かした?」
「わたしは怪力なだけで祈祷師じゃないわ」
「こっこんなこと初めてだ。まさか……」

 そしてシルト家3人がスワードを凝視した。彼は悠々としていてこちらに構わず肩の雫を手で払っている。
 それからスワードがシャルロッテの熱視線に気がつくと花咲くように微笑んだ。


「帰ろうか。私達の王宮へ」


 柔らかな風がシャルロッテの頬を撫でた。
 手に持つアイリスが揺れ、若葉の青い薫りが遠く遠く運ばれていった。