◇◇◇

 ── 8年前。

 母親のシルト夫人が逝去した。元から病弱な体だったことに加えて、流行り病に罹ったことが原因だった。

 ベルナールはこの日のことを今でも夢に見る。

 暮相時、部屋の中が朱に染まった部屋。母の亡骸を抱きしめる父の嗚咽、握り潰された薔薇の花束。それから、小さな小さな姉の背中。
 葬儀の日は大雨だった。黒い傘に大粒の雨が叩きつけ、耳元で煩く鳴っていた。

 それからひと月程経った頃、夜の屋敷で悲鳴が響いた。
 屋敷の皆が聞きつけて声の方へ向かうと、そこにいたのは腰が抜けたメイドと、壁に拳をめり込ませてボロボロ泣くシャルロッテだった。

「…そっその人が、お母様の部屋に勝手に入って宝石を盗もうとしててっ…!そしたらわたし…すごく力が入って…それでっ…」
「姉上、怪我はない?」

 ベルナールは姉の小さな拳をそっと取った。不思議なことに手に傷はなく、その代わりに屋敷の壁に深くて大きな穴が開いていたのだった。

 それがシャルロッテ初めての怪力だった。

 それからシャルロッテは時と場所を選ばず、感情が昂るたびに怪力発動するようになった。
 お茶会に行けば高確率でティーカップを割るので、一部の貴族間で「怪力令嬢」と囁かれ始めた。そうしてその異名が水彩が滲むように広がっていくと、シャルロッテはあえなく社交界を去ることとなった。

 しかし行き場を無くした嘲笑は、弟のベルナールに向けられた。「怪力令嬢の弟」と馬鹿にされ、幼き次期侯爵はお茶会に出席する度にいじめられた。その内容の殆どが姉のシャルロッテを虐げる内容で、ある日ベルナールの怒りがとうとう爆発した。腹を抱えて笑う令息に掴みかかって、それから──、

 その後のことはよく覚えていない。

 激痛で目が覚めると、ベルナールは屋敷の自室にいた。シャルロッテはベルナールの目覚めに気がつき、とうに腫れあがった瞼と赤い目を彼に向けた。それは足首の痛みなどよりも、ベルナールの胸をずっと痛め続けることとなった。

「わたしのせいで…本当にごめんね…」



◇◇◇



「自分は馬鹿にされてもひとつも泣かなかったくせに」

 ベルナールはそう呟いて灰色の記憶に幕を下ろし、目をいからしてスワードに言った。

「だから姉上を弄ぶなら、たとえ王太子殿下だろうと僕が許しません」
「私が前の婚約者のようにシャルロッテを捨てるとでも?」
「あの《《モーヴ公爵のバカ息子》》ですら最初は良い顔をしてましたから。今の貴方のように」
「……そのバカと同等とは心外だな」

 スワードが手を止めた。残りのボールはどれも容易にはいかないポジションに残っていた。さすがのスワードも目を細めて慎重にキューを構える。ベルナールはさらに追い詰めるように問うた。

「どこが好きなんですか?姉上のこと」

 ベルナールの変声期真っ只中の掠れた声がカコン、とボールの落下音と重なった。スワードはそれを簡単なことのように見せて、容易く明瞭に返答した。

「全てだな」
「え」

 スワードの表情は至って真面目だ。ベルナールは回答に拍子抜けし、体が弛緩して久しぶりにキューの重さを感じた。そしてその言葉の真意を、目を輝かせたスワードが口にする。

「嘘が下手で、前向きなくせに小心者で、誰よりひた向きで、それらを怪力が引き立てる。控えめに言って最高だと思わないか?」
「はい…?」