日夏さんは腕を組みながら首をかしげて「どうしようかな」と呟く。その目は真剣で優しい。

 しばらく考えたあとスマホを操作し始め、画面を私に見せてくれた。

 画面に映し出されているのは日本地図。私たちが住んでいる県と他にもう一つ、とても遠い県に印がついている。

「これは……?」

「四月からアタシは隣町とはいえ地元の大学に自宅から通うことになる。大悟はこの印がついているところにある大学に通うんだ」

 そこはとてもじゃないがここから日帰りで行って帰ってこれるような距離ではない。

「とてつもない距離だよ。アメリカと日本の距離には程遠いけど、一人の人間からしたら途方もない。ちょっと会いたいから、とかで会いに行ける距離じゃない」

「天海さんは色んな大学から誘いが来てたって言ってたと思うんですけど、なんでわざわざこんなに遠い大学を選んだんでしょうか?」

「大悟はプロを目指しているから。大悟に声をかけた大学の中で一番レベルが高くて環境が良いところを選んだ。それだけ」

「夢のため……」

 夢のために遠い地に行くことを選んだ天海さんと地元の大学に通うことになった日夏さん。真人君と一緒に見に行った映画を思い出す。

「今日が八日でしょ。大悟が引っ越すのが二十日だから一緒にいられるのはあと十二日」

「……寂しい、ですよね?」

「まあね。部活やってるときとか、受験勉強してるときはそれを忘れていられたんだけど、昨日私の合格が決まって安心したら大悟とはもうすぐ離れ離れになっちゃうのかっていう現実から逃げられなくなっちゃって」

 日夏さんは何かを懐かしむように目を細め、おへその前あたりで指を絡め始めた。少し恥ずかしそうに頬を赤らめ、とても綺麗な思い出を脳裏に浮かべているように見える。

「昨日詩織ちゃんも含めて色んな人に合格報告をしたあと、大悟の家に行って色々話したんだ。大悟がどこの大学にするか悩んでいるときにアタシはプロに一番近づけるところにしなよって言ったのに、やっぱり寂しい、行かないでって言って困らせた。わがままだね」

「日夏さんもわがままとか言うんですね」

「アタシだってまだ十八の女の子だからね。後輩どころか同級生、いや先輩からもお母さんみたいって言われることもあったけど」

 日夏さんは「それを言った奴はたとえ先輩だろうとしばき倒してたけどね」とおどける。

「天海さんの家で、他にどんな話をしたんですか?」

「思ってることをわがままにぶちまけたあとは、大悟の胸の中で恥ずかしいくらいにわんわん泣いた。ひとしきり泣き終えて、少し冷静になって今後のことを話し合ったよ。暇があれば顔を見に帰ってくるし、将来必ずプロになって迎えに来るから待っててくれって言われちゃった」

「それって……」

「お嫁さん予約されちゃった」

「わあ……」

「ちなみにそのあともう一回言ってもらってしっかり録音したんだ。聞く?」

 日夏さんは再び私にスマホの画面を見せる。録音した音声の再生画面だ。ファイル名は【プロポーズ】

「駄目ですよ。それは日夏さんだけのものですから。あの、それでなんて返事したんですか?」

「もし浮気したら大事なところちょん切っちゃうからって」

「……え?」

「アタシらの中ではそれはOKっていう意味なんだよ」

 三年近く付き合っていると二人の間だけで伝わるような感覚もあるのだろうか。確かに十六年一緒にいる伊織との間にはそういう感覚もあったりなかったりするような気がするので、そういうものなのだろう。今はちょっと微妙だけれど。

「そのあとにも言葉以外にも色々なものをもらったから、離れ離れになる決意はできたよ。大悟を信じてアタシはアタシにできること、アタシがやりたいことを頑張る。詩織ちゃんに足りないのはその決意かもしれないね」

 そうだ。私は離れ離れになるのが怖いんだ。猶予期間が二年から半年以下になって、迎えに来てもらう約束ができるだけの関係になる自信がなくなってしまったのだ。

 日夏さんと天海さんには三年近くの交際していた時間があるが私と真人君はそもそも付き合っていないし、仮に付き合っていたと同じくらいの関係だったとしてもあの日から今日までを含めてもたったの三ヶ月程度しかない。

「アタシたちと詩織ちゃんたちの関係は似てるようで違うから、アタシと同じようにしても上手くいくかどうかは分からないんだけど、私がどうやって不安な気持ちを拭い去ったかって言うと何もしないっていう選択をしたんだよね」

「何もしないをしたんですか?」

「うん。大悟を信じたんだ。不安なこととか思ってることを全部言って、大悟のことが好きだっていう気持ちを最大限伝えて、そしたら大悟がなんとかしてくれるって。そうしたら言葉や行動でなんとかしてくれた。ごめんね、先輩風吹かせておいて的確なアドバイスができないや」

「私も、真人君を信じて……」

 でもそれは日夏さんと天海さんの関係だからできたこと。三ヶ月程度の付き合いの私が真似をして、何かが少しでもずれてしまったら関係が一生壊れてしまう気がする。

「今日はこのあとバスケ部の三年生のお別れ会。いつも卒業式の日にやってるのにわざわざアタシのために日程ずらしてさ。言い出したのは伊織なんだよ。真人が同調して他の三年生にわざわざ頭下げて了解を取って計画した。馬鹿な奴らだよねほんとに」

 日夏さんの目にはうっすらと涙が溜まっている。

「でも良い奴らなんだ。素直で一生懸命で思いやりがあって優しくて。詩織ちゃんは知ってたと思うけど」

「……はい」

「ごめん、いきなり何言ってるのか分からないよね。大人ぶってもアタシもまだ十八歳の小娘だから、うまく考えがまとまらなくて……ただ、アタシはあいつらと八ヶ月間一緒に過ごしてきたから。あいつらがこのまま何もせずに終わるわけがない、詩織ちゃんを悲しませたまま放っておくわけがない。それだけは信じてる」

「私も、信じたいです」

「情けない先輩でごめんね。なんの役にも立てない」

「そんなことありません。頑張れそうって思えましたから」

「……それなら良かった」

 日夏さんは私の頭をひと撫でして立ち上がった。

「アタシはずっとこの町にいるから、また会いに来るよ。良い報告を聞けることを祈ってる。じゃあね、真人と伊織にはしっかりしろって活を入れておくよ」

「……ありがとうございました」

 大きなポニーテールを揺らしながら図書室を去る日夏さんを見送って一息ついた。

 真人君を信じる。それは十二月、私たちの関係が再開してからずっとしてきたことだ。それでもこんな風になっているのだから、私はさらに真人君を信じる必要がある。

 誰もいない図書室で物思いにふける。それから帰りを待っていてくれた美月が心配して来てくれるまで一時間たっていた。