真人君はベンチから立ち上がり、座っている私の正面に立った。真人君が私をどう思っているかはすでに一度聞いているけれど、改めて聞くとなると背筋を伸ばして良い姿勢で聞きたくなる。

 心臓の鼓動が速くなって、真人君の言葉を今か今かと待ちきれないほどに興奮と緊張が高まってどうにかなってしまいそうな私を一瞬で冷静にさせて、その後に困惑させたのは、真人君が目を見張るほど綺麗に頭を下げて「ごめん」という言葉を口にしたからだ。

 時間に遅れそうになったときの「ごめん」とは違い、もっと大事な意味を持った謝罪の言葉だというのが頭の下げ方や声色で分かってしまった。

「……なんで謝るの? 何か悪いことしたの? ちゃんと教えて?」

 頭を上げた真人君は苦悶の表情をしている。似たような表情は今までに何度か見たことがあった。つらそうで悲しそうで、疲れているのかなと思っていた。

 でもそれは私のただの思い込みで、本当はこの言葉を言いたくても言い出せなかったからこんな顔をしていたのだ。

「俺は……今年の九月からアメリカの学校に通うんだ。八月になったらアメリカで生活し始める」

「留学?」

「編入するんだ。あっちで卒業して、そのまま大学に進んでプロを目指す。うまくいったら、引退まではたまにしか日本に帰ってこないと思う」

 私はあくまでも冷静にその言葉を受け止めた。だって真人君が将来アメリカに行くことなんて分かっていたから。でも冷静に考えようとすればするほど胸の辺りで黒いものが蠢くような感覚になって苦しくなる。

 そして気づいてしまう。ここ最近真人君や伊織が私に対して何か言いたげな表情をしては我慢しているようなそぶりを見せることがあったが、それはこのことを言わないようにしていのだ。今日この瞬間に伝えるために黙っていた。

「……伊織も知ってるんだよね?」

「うん、バスケ部は皆知ってる」

「どうして……」

 どうして最初に言ってくれなかったの? どうしてすぐにいなくなっちゃうのに私と仲良くなろうとしたり、私のことが好きだなんて言ったりしたの? どうしてこのタイミングで打ち明けたの?

 そんな疑問の答えはすでに分かっている。

 初詣に誘ってくれたときはそんなことを言えるような関係ではなかったし、来年の八月からアメリカに行くけど初詣に一緒に行ってくれる? なんて誘われ方をしたら行くわけがない。

 そして真人君はあくまで友達として私と仲良くなりたかっただけだったのだ。小学生のときに好きだった私と日本での最後の思い出が欲しかっただけだ。だから私が告白してくるであろうこのタイミングで打ち明けて、告白させないようにしたのだ。

 真人君の性格からして、中途半端な付き合い方はできないと思っているに違いない。

 伊織は親友である真人君に思い出を作ってあげるために私との仲を取り持ってくれたのだ。

 分かっている。頭では理解している。

 私の感情は納得していない。

「ずっと黙っていて、ごめん」

 申し訳なさそうに、つらそうに、悲しそうにするその顔はもう何度も見た。私を弄んでいたわけではないことも分かっている。

 それでも今まで黙っていたこと、私に期待させて舞い上がらせていたこと、その事実は変わることはなく私の心を落ち着かなくさせて、感情をぐちゃぐちゃにする。何を言えば良いのか分からない。

 少なくとも、伝えたかった気持ちを打ち明けるような感情にはなれない。

 私の中で何かが壊れて、狂ってしまったように回り出して冷静でいられそうもなくなる。

「あの、詩織さん……」

「ごめん、少し一人にして欲しい」

「……分かった。校門の近くで待ってる。もう暗いから送るよ」

「大丈夫、美月と一緒に帰るから。真人君は先に帰ってて」

「……女の子二人じゃ心配だよ」

「大丈夫だよ」

「そんなわけない……」

「……お父さん、もう仕事から帰ってるだろうから車で迎えに来てもらうよ。だから大丈夫」

 その声を聞くだけで安心した。その顔に見惚れていた。その考え方に、言動に憧れた。一緒にいるだけで幸せを感じた。そんな存在だったはずの真人君と今は同じ空間にいることが嫌だった。

 一緒にいるだけで考えがまとまらなくなり、冷静さを取り繕うことができなくなって、ぐちゃぐちゃな感情をそのままぶつけてしまいそうになる。

「またちゃんと話がしたい……ごめん。今日はこれで帰るよ」

「うん」

 真人君の大きな背中が闇に吸い込まれるように消えるのを見送ると私は座っていたベンチの背もたれに背中を預けた。そのまま空を見上げようとしたが、校舎の壁に阻まれてほとんど見えない。

 壁がない真上を見上げてみても、離れ桜の木の枝と辺りを照らすほのかな電灯と空をまだらに覆う雲しか目に入らない。

 二月の夜の寒空は人をつらく寂しくさせるものだけれど、今の私にはちょうど良い。大好きな人に隠し事をされていた上に逃げられてしまって孤独に悲しみや困惑を噛みしめる悲劇のヒロインぶることができる。

 もちろん、そんなことで気が晴れるわけはない。

 得体の知れない不安やもやもやが私の心を覆い尽くして、じわじわと涙が溢れてくる。

 自分が何をしたいのか、何をすべきなのかも分からずにただベンチに座って、涙がこぼれないように月の見えない夜空を見上げて十五分くらいたっただろうか。

「詩織」

 心配そうな表情で私の顔を美月が覗き込んだ。私が空を見上げるのをやめると同時に美月は私の隣に座る。

「校門で待ってたら桜君と会って、あんまり遅いから迎えに来たよ」

「ごめん」

「もう遅いし、帰ろう?」

 美月は優しく私の手を取って、立ち上がらせてくれた。手袋をしていてもそのぬくもりが伝わってきて、美月の優しさが心に染みて申し訳なさがさらに増す。

「ごめん」

「謝られるようなことされてないよ」

 私たちは手を繋いだまま校門の方向へ歩き出した。

「だって、私がこんな風になることが分かってたから伊織は美月と……」

「大丈夫だよ。伊織君に好きだって言ってもらえたから私はいつまでも待てる」

「待つって、何を? いつまで?」

「伊織君が言ってたんだ。詩織は桜君の話を聞いたらどうしていいか分からなくなるだろうから、詩織が答えを出すまでは私と付き合えないって」

「美月も納得したんだよね……?」

「うん。詩織は私にとっても伊織君にとっても特別だから、詩織が悩んでるのにお付き合いできることになっても心の底から喜べないもん」

「そっか……」

「それに伊織君、詩織に謝らなくちゃって言ってた。ほら、あそこで待ってるよ」

 私と美月の視線の先には校門の側で自転車を傍らに佇む伊織がいる。今は顔を合わせたくなかったけれど家に帰るには校門を通過しないといけないので伊織の側を通らざるを得ない。

「詩織」

 声をかけられても無視をして通り過ぎた。美月は少し困ったような顔をしていたけれど何も言わずに手を繋いだまま並んで歩いてくれた。伊織は私たちの話声は聞こえないが姿は見えるくらいの距離を取って自転車を押しながら後ろをついてきている。

「真人君がアメリカに行くつもりなのは知ってたから覚悟はしてたし、なかなか言い出せなかった気持ちも分かってる。でも、怒ってるんだか悲しんでるんだか自分でもよく分からなくて。どうしたらいいか分からない」

「やっぱり早く言って欲しかった?」

「うん、言い出せない気持ちが分かるって言っても今まで黙ってたことには少し怒ってるかも」

「悲しいって思うことは何があるの?」

「真人君がアメリカに行くのは大学からで、あと二年はあるって思ってたからそれがいきなりあと半年になっちゃって、もうすぐ会えなくなっちゃうんだって思ったら悲しくなったのかも。あとは、今日真人君に告白して私の気持ちを受け入れてもらえるって思い込んでいたから、その落差もあるかな」

「伊織君のことは?」

「高校生になってからすごく優しくなって私のこと大切に思ってくれてたから、やっぱりこれも落差を感じちゃう。真人君もだけど、大事なことは言ってくれないんだって」

「うん、そうだよね」

「分かってるんだよ。早く聞いたからってどうにかなることじゃないし、今まで二人ともそれ以上に私に優しい言葉をくれたって。それなのに今は二人と顔を合わせたくない」

「何を言ったらいいか分からないから?」

「それもあるし、感情に任せて何を言うか分からなくて怖い」

「詩織らしいね。いつもすごくよく考えてから話したり行動したりしてる。たまには思ったことそのまま言っても良いと思うけど、そこが詩織の良いところだよね」

「今は頭の中がぐちゃぐちゃで考えがまとまらないから何も話そうと思えなくて」

「うん」

「ちょっと時間が欲しい」

「大丈夫。さっきも言ったけど私はいつまでも待つから。桜君も伊織君もきっと同じだよ。詩織の言いたいこと、やりたいこと、ゆっくり考えよ?」

「うん」

 それからは美月が伊織から聞いた話を聞かせてもらった。

 ほとんどは私が真人君から聞いた話と同じ内容だったが、このことは今のところバスケ部の関係者と教頭先生と校長先生しか知らず、四月になったら公表するのでまだ他の人には言わないで欲しいと言っていたことや去年の九月か十月には話がほぼまとまっていたことを新たに知ることができた。

 美月と話して考えているうちにいつもの分かれ道までたどり着いてしまった。美月が伊織の話以外は聞き役に徹してくれたおかげで少しは頭の中が整理できた気がするが、それでもしっかりとした考えがまとまるには程遠い。

「ありがとう、美月。少しだけ楽になった」

「これくらいなんてことないよ。私で良いならいつでも話聞くからね」

「うん……」

 少しの間立ち止まり、伊織が追いつくのを待った。ここから美月の家はまだ遠く、こんな遅くに一人で帰らせるわけにはいかない。

「伊織に送ってもらいなよ。もう暗いし」

「大丈夫。近くのコンビニの駐車場でお父さんが待っててくれてるから」

 分かれ道となる交差点から見えるコンビニの駐車場には何台かの車が停まっている。私は美月のお父さんの車を見たことがないが、車に乗せてもらったことがある伊織が納得しているような表情をしているので間違いないのだろう。