「誰にも言わない?」

「う、うん」

「真人にもだぞ」

「うん」

 伊織は再び天井を見上げて話を始める。私もクッションに座り直してしっかりと話を聞く姿勢になる。

「四月の末頃の放課後、俺は学校の外周を一人でランニングしていたんだ。俺の少し前をサッカー部の一年生が集団で走ってて、校門の近くでその中の誰かが下校途中の女子とぶつかるのが見えた。その子は転んじまったけど誰も止まらなかった」

 美月だ。一月の模試の日、美月が話した伊織との馴れ初めの話だ。伊織も覚えていたんだ。

「助けようって思った。中学までの俺なら俺は悪くないからって無視したと思う。でも詩織に優しくするのと同じくらい他の人にも優しくしようって真人のおかげで考えるようになってたから、躊躇せずに駆け寄って手を差し伸べることができた。保健室に付き添おうって思ったけどその人すごく泣きそうで足を痛そうにしてたから、肩を貸して思いつく限りの優しい言葉をかけて励まして保健室に連れて行った。消毒とかしてもらって保健室を出て、俺がランニングに戻ろうとしたとき……」

 再び伊織が間を取った。

「この先も聞きたい?」

「当たり前でしょ。こんなところで焦らさないで」

 伊織はまた照れているようで言い淀んでいる。でも私はこの先を聞くまで今いるドア付近の場所から離れるつもりがないので、もう伊織は言わないと部屋から出られない。

「誰にも言うなよ。反応するなよ。俺と話すときも話題にするなよ」

 念入りに口止めして私が了承すると、ようやく伊織は話してくれた。

「優しくしてくれてありがとう。部活頑張ってねって声をかけてくれたんだ。少しは優しい人間になれたんだって思えてすげえ嬉しかったし、家族とか友達とか部活仲間以外から応援されるのって初めてだったから、これもものすごく嬉しくて、つらい時期も乗り越えられた。あの声で色々救われたんだ」

 このとき美月は伊織のことを好きになった。

 そして伊織は美月に救われて、きっと……。

「詩織のことが少し心配だった。全然仲の良い友達がいなくてほとんど一人でいたから。小学校のときみたいに俺の友達の中に入れてやることなんてできなかったから学校でたまに話し相手になるくらいしかできなかったけど、中間テストが終わったら美月さんと詩織が仲良くしていて、安心したし嬉しかった」

 伊織がベッドから降りて立ち上がった。話はここで終わりという合図だろう。結局美月のこと好きなのかどうかはっきりとさせたい気持ちもあったけれど、この件に関しては反応しないと約束したので何も聞かなかった。

 話をしている最中の伊織の声色や話し終えた今の表情を見れば、その答えは容易に察することができた。きっと私が望む答えだ。

「そろそろ夕飯だし自分の部屋に戻って着替えとけよ」

「あ、うん」

 私も立ち上がって伊織の部屋を出ようとドアノブに手を伸ばしたところで唐突に尋ねられた。

「そういえば、学校で大悟さんと何か話してたよな? どんな話してたんだ?」

 ちょうど良い。私も気になっていたことだ。

「二学期に見たときより雰囲気変わったなって言われた。明るくなった気がするって。伊織もそう思う?」

 伊織は私の頭のてっぺんから足元まで目線を動かし、再び足元から私の顔まで目線を戻してから言った。

「そう言われてみればそんな気もするな。二学期まではあんまり笑わなかったし、楽しくなさそうだったけど、今はなんか楽しそうな感じはする」

「そう、かな。確かに二学期と比べれば楽しみなことはいっぱいあるかも」

 いじめの問題もこれ以上広がることはない状態になり心配事はない。バスケを見るのも楽しいと思えるようになったし、蘭々たちのような新しい友達もできた。

 来年のクラスも楽しみだし、何より美月と伊織がついにくっついてくれそうだし、私の恋も叶いそうなところまで来ている。

 真人君たちを応援して、たまに二人で遊びに行ったり四人で遊びに行ったりして、美月と励まし合って競い合って勉強も頑張って、楽しく過ごす未来が見えている。それはもう楽しくて仕方がないことが待っているはずだ。

 あんなことやこんなこともいつかきっと……。

「なんだよそのだらしない顔」

「おっと」

 しまった。美月みたいに妄想に更けてとんでもない顔をしてしまっていたかもしれない。

 急いで表情を元に戻して視線を伊織に戻すと、伊織は何かを言いたそうでつらそうな、悲しそうな顔をしていた。

「そっちこそ何、その顔。なんでそんなに悲しそうな顔してるの?」

「いや、別に……楽しそうで良いなって思って」

「伊織だって楽しみなことあるでしょ?」

 美月のこととか。

「ないわけじゃないけど……詩織、もう何回も聞いたかもだけどお前は真人のこと好きなんだよな?」

「うん」

 もう今更の質問だ。今更聞く意図はよく分からないけれど、否定したり誤魔化したりする意味はないので正直に答えた。

「素直で良いな」

「それがどうかしたの?」

「告る予定は?」

「……来週、バレンタインだからそこで。応援してね」

「応援しなくても結果は分かってる。お前らの気持ちは知ってるから」

「じゃあもっと嬉しそうにしてよ。大切な妹と自慢の親友が、その、お付き合いすることになるんだから」

「……大切な妹、ね。あんまり良い兄貴になれなくてごめんな」

「何言ってるの? ちゃんと優しくて良いお兄ちゃんだったよ。感謝してる」

 一階から私たちを呼ぶお母さんの声が聞こえた。美月の両親が帰り、夕飯の準備もできたようだ。

「俺は詩織のことを……いや、なんでもない。引き留めてごめん、早く着替えて降りて来いよ」

 伊織はドアを開けて部屋を出て行ってしまった。

 パタンと音を立ててドアが閉まると私は伊織の部屋に一人取り残される。

「電気点けっぱなし……」

 ドアの近くにある電灯のスイッチで部屋のライトを消そうとするとふと伊織の勉強机が目に入った。日夏さんに教育された成果なのか小中学生の頃よりもずいぶんと整理整頓がされた机の上には美月から貰ったクッキーが置いてある。

 帰り道では手に持っていなかったから鞄にしまっていたはずだが、私と話しながら荷物の整理をしているときには勉強机に近づく様子は一切なかった。

 つまりは伊織が家に帰ってから私が美月の両親に挨拶をして伊織の部屋に来るまでのわずかな時間に鞄からクッキーを取り出して机の上に置いたことになる。

 鞄の中に入れっぱなしで他の荷物とぶつかって崩れるのが嫌だった。ただそれだけのことだとしても、伊織が美月の気持ちを大事にしてくれているみたいで嬉しかった。

 悲しげに見えた伊織も真人君と同じように疲れていたのだろう。美月特製のはちみつレモン入りのクッキーを食べれば明日には元気になっているに違いない。

 翌朝、バスケ部は昨日までの疲れもあるだろうから朝練も含めて練習は休みということで珍しく伊織がまだ家にいた。家を出るところまでは一緒だったものの、もう私を守る必要はないと判断したのか自転車に乗って先に学校に行ってしまった。

 昨日の良い兄貴がどうたらとかいう話はなんだったのかと思ったが、美月と合流してすぐに私と一緒に行ってくれなかった理由は明らかになる。

「伊織君がね、昨日の夜にね、美味しかったよ、ありがとうってメッセージくれたの。また作って良い? って聞いたら楽しみにしてるって。もう私、すごく嬉しくて……」

 私と一緒に登校すると必然的に美月と合流するから、美月とのやり取りを私に見られるのが恥ずかしかったのだ。意外と初心な奴。

「……それで今度の土曜日はバスケ部休みだから一緒にエプロン買いに行くことになったんだ。詩織も桜君のこと誘ってみたら? 部活休みなら遊びに行けるんじゃない? 日曜と月曜は練習だって言ってたからここしかチャンスないよ」

「た、確かに」

 初詣のときにまた一緒に遊びに行く約束はしたものの真人君は部活で忙しかったし、そうでなくても遊びに行くような気分になれない出来事があったので一ヶ月以上約束は放置されたままだった。真人君が都合の良い日に誘って欲しいと言っていた気がするけれど私から誘っても別に良いだろう。

「お互い頑張ろうね」

「うん」

 色々なことを乗り越えた私たちの行く手を阻むものは何もない。そんな気持ちで前を向けている。天海さんや伊織に言われたことはあながち間違っていないと自覚できるくらいに、これからのことが楽しみで自然と笑顔になれている。

 いつもの通学路なのに足が軽やかで心が弾んでいる。今学校は重苦しい雰囲気に包まれていることなんて忘れてしまうくらいに、私の視界は希望で溢れている。