私が家に入ってから思ったよりも早く伊織は帰ってきた。あの分かれ道から美月の家まで歩いて、それからこの暗さの中で自転車をどれだけ早く漕いできたのだろうかと心配になったが、どうやら美月の両親に自転車ごと車で送ってもらったらしい。

 私たちの両親と美月の両親が玄関でお互い頭を下げたり、私たちの両親が家の中に招こうとするが夕食の準備がしてあるということで美月の両親が遠慮したり、大人たちのやり取りがされていたので私は挨拶だけはして大人の話には加わらず、伊織の部屋で伊織と話をすることにした。

 美月のクッキーのこととか、帰り道どんな話をしたのかとか、加害者を退学にしたくないという美月の思いを本当はどう思っているのかとか、聞きたいことは山ほどある。

「クッキー美味しかった?」

「まだ食べてないよ」

「帰り道何話したの?」

「今日ずっと話を聞かれて大変だったこととか、泊まりのとき男子ってどんな話するのかとか」

「やっぱり美月も気になってたんだ」

「お前も気になってたのか?」

「うん、真人君に聞いたりした」

 私は自分の部屋から持ってきたクッションをお尻にひき、出入り口のドア付近に座って着替えや荷物の整理をする伊織と会話をしている。小学四年生の頃まではよくこうして話をしていたのを思い出して、なんとなく懐かしくてまたやってみた。

 あの頃の伊織はベッドに座って私と正面に向き合って良く笑いながら話をしてくれた。中学生の頃の伊織は着替えるから出て行けとか忙しいから後でとか私を邪険に扱っていたけれど、今の伊織は私の方を見ずとも出て行けとか言わないし聞いたことには答えてくれる。

「女子はどういう話をするんだ?」

「別に男子と変わらないよ。まあ、私はエッチな話はしたことないけど」

「俺だって……ないよ」

「何その間。ほんとはしてるんでしょ。日夏さんとかおっぱいおっきいもんね」

「ば、馬鹿言うな。部活の先輩のしかもキャプテンの彼女をそんな目で見ねえよ」

「ほんとかなぁ」

「ほんとだよ。あの人は俺らにとってそういうんじゃなくて、なんていうか……お母さんみたいな、あ、これ俺が言ってたって絶対言うなよ。しばかれるから」

 伊織の本気で焦っている様子を見るに冗談ではなさそうだ。学校で天海さんも言っていたし、きっと誰かしばかれた経験があるのだろう。

 もとより言うつもりはないけれどせっかくのチャンスだ。交渉に使わせてもらうことにしよう。

「じゃあ、私の質問に正直に答えてくれたら言わないであげる」

「さっきから結構答えてた気がするけど……まあいいや、何?」

 着替えも荷物の整理も終えた伊織はベッドに腰かけて私と正面に向き合う。

「久しぶりだな」

「何が?」

「いや、なんでもない。質問は何?」

 なんとなくすっとぼけてみたけれど、伊織も昔のことを覚えていたことが分かって少し嬉しかった。最近の伊織は気が利くし、優しいし、大事な思い出をちゃんと覚えているし、美月にふさわしい。

「美月の話を聞いてどう思った? 加害者を退学にしたくないって話」

 一応学校でチラッと聞こえていたけれど私が聞きたいのは美月への言葉ではなくて伊織の本心だ。本心で納得していなかったら美月のためにも伊織のためにも私が説得するしかない。

 伊織はベッドに腰かけたまま後ろに倒れこみ、反動で足が高く上がった。やがて伊織の足は床に戻ってくる。ハーフパンツから見えるふくらはぎはそれほど太くは見えないのに筋肉はしっかりとついていて、まるでスポーツ選手のようでもう小学生のときとは違うということを私に実感させる。

 冬でもハーフパンツが好きなのは小学生の頃から変わっていない。

 ベッドに寝っ転がったまま伊織は天井に向けて答えた。

「優しいなって思った。自分をいじめた人の人生を心配するなんて俺にはできない。詩織と仲良くしてくれるくらいだから優しい人だとは思っていたけど、それ以上に心配になるくらい優しい人なんだなって思った」

「失礼な……でも私はそういう美月が大好き。伊織は?」

「俺さ、優しくなりたかったんだ」

 さすがに美月のことが好きかどうかは答えてくれなかった。

 でも、伊織が自ら語った話の続きはその答えを確信させるものだった。そして、高校に入ってからの伊織の変化を物語っていた。

「去年の高校入試で詩織が第一志望の高校に落ちたと知ったとき、泣いてただろ? 
 小学校高学年からすっかりおとなしくなって感情を露わにすることなんてほとんどなかった詩織が、初めて見るくらい大泣きしてた」

 忘れるわけがない。

 リビングのパソコンで、受験した高校のホームページの合格発表のページをお母さんとお父さんと一緒に見て、自分の受験番号がないことを確認して、それまでの努力がすべて無駄になったような気がして、応援してくれたお母さんとお父さんに申し訳なくて、力を発揮できなかった自分が情けなくて、お母さんの胸の中で、二人の慰めの言葉も耳に入らないくらい大泣きした。

 真人君や美月と出会えたから今となっては結果的に良かったと思っているけれど、この悔しさを忘れたことは一度もない。

「俺はそのときに何も声かけられなくて、泣いてる詩織を見るのがつらかった。あんな詩織を見たのは初めてでどうしたらいいか分からなくて、この部屋で気づいていないふりをしてた」

「見てたんだ、あのとき」

「ああ、それで詩織がもう泣かないように優しくしてやろうかなって思ったんだ」

「何それ、同情?」

「最初はそうだったかも。でも中学を卒業した後の春休みにバスケ部の練習に参加することになって、真人と再会したら変わった。まだ中学生のくせに即スタメンレベルの実力があって、それに驕ることなく練習で一切手を抜かないどころか家でも練習してるって言うし、普段はめちゃくちゃ良い奴でマネージャーの手伝いとか積極的にやってて、本当にすごい奴だった。それで真人みたいになりたいと思ったんだ」

「真人君みたいって?」

「真人くらいバスケが上手くなって、詩織だけじゃなくて誰にでも優しくできて、皆を助けられるような人間になりたいって思ったんだ。ほんとは身長も真人くらいになりたいけどそれはもうどうしようもないかな」

「確かに、伊織は中学の頃より頑張ってる感じするし、優しくなった感じはしてたよ」

 伊織は未だにベッドに仰向けに寝っ転がって天井を見つめているため表情は見えないけれど、私の言葉に照れくさそうに笑ったのは分かった。

 立ち上がって顔を覗き込むこともできるけれど伊織がこんなに自分のことを語ってくれるのは珍しいことで、機嫌を損ねたくないのでやめておいた。私も同じことはされたくない。

「一ヶ月以上俺なりに頑張った。朝練は俺か大悟さんと日夏先輩が一番早かった。今思えば部活ではなかなか二人きりになれないから二人にとって大事な時間だったのかもしれないけど、そんなことには気づかないで大悟さんにドリブル教えてもらったり日夏さんに用具の整理とか掃除の仕方をかなり詳しく教えてもらったりしたんだ」

「ドリブルか、真人君言ってたよ。伊織はドリブルが上手いんだって」

「まあ大悟さんに鍛えてもらったから、今はな。入学当初はたいしたことなかった。ドリブル以外も全部だけど」

「そうなの?」

「俺みたいな一般入部生と真人みたいな特待生とかスポーツ推薦の人を比べると力の差は歴然って言うか、俺は練習についていく体力すらギリギリだった。中学の頃は俺がチームで一番上手かったのに全然通用しなかった。四月と五月の連休前に、連休中は合宿があって一日中練習したり試合をしたりするって聞いて正直不安で、この時期一般入部生の中には辞める奴もいるって聞いてたから、俺もそうしようかなって少し思ってた」

「知らなかった。伊織がバスケ辞めたいなんて思うことあるんだ」

「そのときはそれくらいつらかったんだよ」

「じゃあなんで今こうして続けてるの?」

 これまで私の質問にテンポ良く答えてくれていた伊織はここで大きく間を取った。てっきりバスケが好きだからとか即答するものだと思っていたので不思議に思い、つい立ち上がって伊織の顔を覗き込んでしまった。

 伊織は首を少しだけ動かして私を目を合わせ、いつもの伊織からは考えられないくらい小さく弱々しい声で私に言った。