今聞き取りが行われている小畑さんや秋野さんを廊下で待ってると言う蘭々たちと別れ、返却されたスマホを確認すると昼頃に伊織からメッセージが届いていた。
【優勝したよ】という簡素なメッセージとともにバスケ部の集合写真も添付されている。

 ユニフォームやジャージを着た大勢の大柄な男子が三列くらいに並んで、最前列の真ん中で伊織と同じジャージを着た女子四人が二人ずつトロフィーと賞状を持っている。この人たちが学年に二人までというマネージャーだ。

 マネージャーがどれだけの努力をしたのかは分からないけれど、努力の結晶であるトロフィーや賞状を持たせてもらえる関係というのは少し羨ましく思う。きっと選手の支えになって感謝される存在になったのだろう。

 来世でもう少し明るい性格に生まれることができたら、運動部のマネージャーになりたい。

 写真の中の真人君は一番後ろの列の端っこで控えめに笑っている。あの夜の電話を経て、真人君は活躍できただろうか。私の声で真人君は元気になれただろうか。私は真人君の支えになることができただろうか。

 今すぐに電話をかけて声を聞きたい衝動に駆られたけれど、試合が終わった後のスケジュールを把握していないし、忙しかったら迷惑だろうなと思い、今は簡単にメッセージを送るだけにして後で電話をすることにした。

 保健室に美月の様子を見に行くとすでに聞き取りは終わっていて荷物をまとめているところだった。久しぶりに料理部に顔を出すらしいが、今日もずっと聞き取りだった上に明日も続くということでかなり疲れた表情をしている。

 しかし、ちょうど私のスマホに届いた【今帰りのバスの中 多分六時半くらいに学校に着くっぽい】という伊織からのメッセージを美月にも見せるとすぐに笑顔になって「お菓子作って待ってようかな」なんて可愛く言い始めたので、心配はいらないみたいだ。

 伊織のメッセージには写真が添付されていて、バスの車内で眠りにつく真人君の穏やかな寝顔が写っている。昨日の夜私と長電話したから寝不足だったのだろうかと少しの罪悪感を覚えたが、初めて見る真人君の無防備な姿につい見とれてしまって、こんなに可愛いならなんでもいいかと罪悪感はどこかに行ってしまった。

 真人君が寝てしまっていて電話もメッセージもできないので私もバスケ部の凱旋を待って直接話をすることにした。料理部にくら替えするのも良いなと思ってはいるものの今日いきなり突撃する勇気はないので、美月と別れ、三学期になって初めて文芸部が活動している図書室に向かった。

 文芸部の名目上の顧問となっている司書の先生は私の顔を見るなり、宝くじで一万円当てたくらいの喜びの顔になった。お母さんが一万円当てたときと同じような表情だったので喜びも同じくらいだろう。私が文芸部の活動に参加するのは社会人が突然一万円もらうくらいの衝撃があるようだ。

 図書室を見渡すとおそらく文芸部だと思われる見覚えのある人が三、四人いた。顔を合わせれば挨拶くらいはする仲だが、集中して本を読んでいるときにわざわざ声をかけたりはしないので、部活に参加していても一度も会話をしないときもある。

 今日も皆飲食店のカウンター席のように壁際に設置された席に座って本を読んでいるようなので声はかけずに本棚の方に向かった。

 バスケ部が帰ってくるまであと三時間ほど。時間内に読み切ってしまいたい気分だったので分厚い本は無理だしそこまでページ数がない文庫本にしようか、それとも勉強でもしようか。

 考えているようで考えがまとまらないまま本棚の間をふらふらと歩き参考書コーナーに足を踏み入れると、女子としてはそこそこ大きな身長と大きく目立つポニーテール、そして体の色々なところが大きい、交友関係が狭い私にとって数少ない他学年の知り合いがいた。

 私の気配に気づいた彼女が振り返るとポニーテールも大きくなびき、その軌跡が美しく見える。

「お、伊織の妹ちゃん。詩織ちゃんだっけ? 久しぶりだね」

 日夏さんは地元の県立医科大学の過去問題集を持ちながら私に手を振った。その大学は美月のお姉さんが通っている大学だ。

「こんにちは。あの、日夏さんって医学部目指していたんですか? やっぱりすごい」

 日夏さんは再び手を振る。今度は挨拶の意味ではなく否定の意味のようだ。

「ちょ、そんなに目を輝かせて言わないで……残念ながら違うよ。大学は医大だけど学部はリハビリテーション学部。理学療法学科を目指してるの。家から通えるし、学費安いし、大きい付属の病院もあって実習の環境とか良さそうなんだよ。お金があんまりなくて医療系に興味あるならおすすめ。その分ちょっと難しいけどね」

「理学療法……学部の名前の通りリハビリ関係の資格ですよね。どうして目指そうと思ったんですか?」

「え? あー……」

 日夏さんの顔が曇り、私から目をそらした。天井の方を見つめて何か嫌なことを思い出しているようだ。

「アタシが受かったらいくらでも昔話してあげるから今はやめとこ。推薦の面接のこと思い出しちゃう。いや、まあ面接は割と上手くできたつもりだったんだけどなぁ、小論文か学科試験が駄目だったのか……あ、いかんいかん、落ちた試験のこと思い出してもどうにもならん」

 受験を間近に控えた三年生はとてもデリケートでどこに地雷があるか分からない。私は少し失敗してしまったみたいだ。

「すみません。配慮が足りなくて……」

「いやいや、謝らなくていいよ。別に普通の質問だし、アタシが勝手に思い出しちゃっただけだから。むしろごめんね、この時期の受験生ってナイーブで面倒くさいんだ。細かいこと気にせず勉強しろよって思ってるんだけど、人生がかかってると思うとどうしても色々気にしちゃう」

「人生……」

 意味合いは全く違うけれど人生がかかっているという言葉を聞くのは今日だけで二回目だ。

 私たち高校生を始めとした学校に通う者にとってどこの学校に通っているかは人生を大きく左右する。

 私は桜高校に通っているから美月に会えたし、真人君と再会できたし、伊織と一緒に通うことができた。そしていじめにあった。違う学校に通っていたらこうはならなかった。

 この学校に通っていることは間違いなく私のこの先の人生に大きな影響を与えるはずだ。

 もちろん私たちをいじめていた人たちにとってもそれは同じ。この学校にいるから経験できることはこの先の人生に影響を与える。美月はその可能性を守ろうとした。

 私は大好きな美月の思いだから賛成しただけで、客観的に見てその判断が正しいのかどうかは分からない。違う学校に通った方がもしかしたら幸せかもしれないし高校を卒業しなくても成功する人はいる。 

 それでも自分の意志とは反して学校を去るようなことになればそれは良いことではないはず。

「人生ってなんなんでしょうね……」

「おお? なんか哲学的。急にどうした?」

「いえ、私たちのような年齢の人間にとっての学校って人生のほとんどを占めているんだなって思って。どこの学校に通うかってすごく大事なんですよね」

「そうだねー、仲良かった人とも学校別になったら疎遠になっちゃったってこともあるし、周りの人間に助けられることも邪魔されることもある……ねえ詩織ちゃん。律儀な君の兄が逐一報告してくれるから先週の金曜日までの出来事は把握しているんだけど……」

 日夏さんは私をじっと見つめた。優しいけれどどこか私を試しているような目は私のことを思いやりつつも絶対に逃がさないという意思を感じる。

 見つめ返すと、奥二重で左目の目尻に小さなほくろがあることに気がついた。自然と目線がそこに吸い込まれて目を離せなくなる。

「この学校は好き? 入学して良かったと思う?」

 良かったとは思う。何故なら大切な人たちに出会うことができたから。

 でも好きかと問われると、好きだと即答はできない。

 十ヶ月過ごしてみて、授業の進度の遅さやレベルの低さ、私は守ってはいるものの服装や頭髪などに関する校則の厳しさ、人の悪口を平気で言ったり嫌がらせをするような人が大勢いるところなど、学校に対しては色々と不満を持っていたので好きになりきれない。

 そもそも入学して良かったと思えるのもいじめが解決しかけていて私の心情が上向きだからかもしれない。

 そんな私の思いを日夏さんは苦笑いしながら聞いてくれた。これが正直な気持ちとはいえ残念そうな顔をさせてしまったのは忍びない。

「まあ真面目で勉強が得意な人はそう思って当然だよね。アタシも中学ではそこそこ勉強できたし、校則破ってまでおしゃれがしたい人間でもなかったから一年生の一学期くらいは同じようなこと考えてたよ。ましてや詩織ちゃんと似たような経験もしてるわけだし」

「今の日夏さんはどうなんですか?」

「今は良かったと思ってるよ、心から。やっぱりバスケ部のマネージャーやれたことが一番大きいかな。何回も全国大会に連れて行ってもらって、大変なこともつらいこともあったけど皆で乗り越えて、この経験は一生の宝物だなって思う。他の高校じゃ絶対に経験できなかったから……ま、受験に失敗したら後悔するかもだけどね」

 明るくおどける日夏さんにつられて私も笑みが漏れた。

 日夏さんとは初対面のとき以来会えば挨拶をする程度の関係でこんなに長く会話をするのは初めてだ。それなのに人見知りしがちな私でも話しやすく感じるくらい、日夏さんには不思議な魅力と言うべきか魔力と言うべきか、そんな力がある。

 だから日夏さんが受験生であることを忘れてずっと話をしていたいと思ってしまうがそうはいかない。名残惜しいけれどこれ以上は勉強の邪魔になってしまう。

「す、すみません、話を広げてしまって……勉強の邪魔でしたよね」

「ああ、いいよいいよ。休憩ついでに過去問探してただけだし。それに詩織ちゃんと喋ってるとよく分からないけど落ち着くから良いリフレッシュになる。詩織ちゃんが良ければもう少しお話ししようよ」

「そういうことなら、日夏さんが良ければお付き合いします」

「お、なんかその言い方、伊織に似てる。さすが兄妹……それじゃあ話を戻すけど、この学校に入って良かったかとかこの学校が好きかって話だったよね。アタシは、最初こそ色々あったけど、今はこの学校が好きなんだ」

 そう言い切る日夏さんの表情に曇りはなく、目に迷いもない。美月が伊織のことを好きだと言うときではなく、伊織がバスケが好きだと言うときに似ている。恋焦がれて近づきたい、手に入れたいというよりもすでに自分の手の中にあって愛でているような、そこにあるのが当たり前のように思っているみたいに見える。

「部活を本気で頑張っていてエネルギーに満ちている人が多いし、校舎が綺麗で設備も良いし、先生たちも面倒見の多い人が多い。やりたいことに打ち込める環境が揃ってる」

「……なんだか真人君みたい」

「そう、この見方は真人の受け売り。真人に、あんたは不平不満とか言わないよねって言ったら教えてくれたんだ。このおかげでなんとなく好きだったこの学校がはっきりと好きだって思えるようになった。もちろん嫌なところもそりゃあったけど、何より三年間過ごして色んな思い出が詰まった大切な場所だから。詩織ちゃんもいつか好きになれると良いね」

「なれますかね……?」

「真人の影響をたっぷり受けた詩織ちゃんなら大丈夫。学校を好きになれればもっと楽しくなるし、色んなことへのモチベーションも上がる……そうしたらつらいことや悲しいこともきっと乗り越えられるから」

 日夏さんの声のトーンが落ち込んだ。私たちと同じようにいじめを受けていた経験を思い出しているのだろうか。私を見つめる悲しげな瞳は過去の自分と私を重ねてみているのだろうか。

「真人と言えば……詩織ちゃんは真人のこと好き?」

「はい」

「あら、素直で可愛いこと。真人は良いよね、きっと大物になる。一年間マネージャーとして支えてあげられたことを一生自慢できるくらいの大物になる。アタシにとって一、二年生の部員は皆平等に弟みたいなもんだと思ってるけどさ、それでも真人は特別。何かすごいことをしてくれるって期待しちゃう」

「分かります。私も真人君がバスケをしている姿を見るとワクワクして、試合でもつい真人君ばっかり見ちゃいます」

「それは詩織ちゃんが真人のこと好きだからでしょ……ともかく真人のこと、これからも好きでいて、応援してくれると私も嬉しい。あいつ完璧なように見えて意外と欠点もあるからさ。試合で調子悪いと結構落ち込むところとか」

「服のセンスが心配なところとか……」

「あはは、知ってたの? 普段は制服かジャージばっかりだからあんまり気づかれてないけど初めて見たときはびっくりしたよ。詩織ちゃんとの初詣のときは伊織が絶対にお母さんに服を決めてもらえってきつく言い聞かせたんだって」

「でも、そういうところもちょっと可愛いです」

「……欠点含めて好きになっちゃったか。ほんとに詩織ちゃんは良い子だね。真人も喜ぶよ」

 そう言う日夏さんは憂いを秘めたな表情をしている。そもそも真人君の話を始めてからずっと同じ表情だ。

 私が「もうすぐ卒業で真人君やバスケ部の皆と会えなくなっちゃうから寂しかったりしますか?」と尋ねると、日夏さんは虚を突かれたように慌てふためいた。また地雷を踏んでしまったのかと思い後悔しかけたがそうではなかったようだ。

「え? あ、いや、その、うん、まあ……そうだね。寂しい」

 やがて落ち着いた日夏さんは私を見ながら私を見ていない。何か別のことを考えているようにも、大切な思い出を脳裏に浮かべているようにも見える。

「詩織ちゃん、連絡先交換しようよ」

 少しの間の沈黙の後、日夏さんは制服のポケットからスマホを取り出して言った。

「は、はい。もちろん。光栄です」

「光栄って……そんなにたいした人間じゃないよ、アタシは」

「いえ、勉強も部活もすごくて尊敬してますから」

「ま、悪い気分はしないね。君たち兄妹はアタシを持ち上げるのが上手いねぇ」

 以前の部室でのやり取りを見るに、伊織には無理やり持ち上げさせていたように思えるけれど、私は心からそう思っている。そんなすごい先輩と連絡先を交換できたのはなんだか貴重な宝物を手に入れたような感覚になって、伊織に自慢してやろうと思った。

 ちなみに私が上級生と連絡先を交換するのは高校に入学してから初めてのことだ。文芸部にも上級生はいるがそこまでの仲ではない。

「バスケ部以外の後輩の連絡先ゲットするの初めてだからなんか嬉しいな。卒業前に良い思い出が増えたよ。ありがとう」

「そんな……私の方こそ嬉しいです」

「お礼に受験が終わったらなんでも相談に乗ってあげる。悩み事とかあったらいつでも連絡して? 先輩風吹かせてアドバイスしちゃうから」

「なんでも、ですか?」

「うん。例えば……真人や伊織に意地悪されて泣かされたりしたらすぐに言うんだよ。どこからでも飛んできてとっちめてやるからね」

 日夏さんは両手で拳を作ってシャドーボクシングを始める。結構強そうに見えて、本当にとっちめてくれそうだけれど、そういう事態にはならないだろう。

「真人君も伊織もそんなことしないですよ」

「……ふふ、例えだよ、例え。それじゃあ詩織ちゃんと話して癒されたしそろそろ受験勉強に向き合おうかな。ありがとね、付き合ってくれて」

「私の方こそ色々なお話を聞けて楽しかったです。あ、もし日夏さんが良かったらなんですけどあと……二時間半くらいでバスケ部の皆が学校に帰ってくるって伊織から連絡があったので一緒に会いに行きませんか?」

「いいねぇ。バスも綺麗に乗ってきたか抜き打ちチェックしてやるか。汚かったらどうしてやろうかな……」

 少し悪い顔をしてにやける日夏さんはとても楽しそうで、本当にバスケ部が大好きだったのだと思わせる。そういう存在があることを羨ましく思い、改めて来世では運動部のマネージャーをやることを決意した。

 時間になったら知らせると約束をして私も日夏さんが使っている席から離れた席で自習をすることにした。

 自分以上に頑張っている人を見るだけでやる気や集中力は自然と出るもので、伊織から【あと五分くらいで着く】という連絡が来るまではあっという間だった。