美月の家に迎えに行くつもりでかなり早めに出たけれど、私と美月の通学路が交わる交差点を美月の家の方に曲がるとすぐに美月に出会った。聞けば美月も早めに出て私の家に来ようとしていたらしい。どうしても私と一緒に学校に行きたかったとか。

 美月の顔には少しの緊張が見える。それでも足取りは昨日の何倍もしっかりしていて、私が手を繋いで引っ張る必要はなさそうだ。

「伊織君は……?」

「かなり早く出たみたい。学校のどこかに潜んでるよ」

「そっか、やっぱりすごいね伊織君は。それに桜君が声をかけてくれた男子たちも昨日皆優しくしてくれたし、詩織だって被害者なのに私のこといっぱい考えてくれて、皆には感謝してもしきれないくらい」

「もうすぐだよ、もうすぐ終わる。そしたらチョコの作り方教えてね。一緒に作ってちゃんと気持ち伝えよう。助けてくれた人皆に作って渡そうよ」

「そ、そうだね。でも詩織はほぼ成功が決まってるようなものだけど私は……」

「大丈夫だよ。美月は可愛くて一生懸命で一途でいつも周りの人のことを考えてくれているくらい優しくてとっても可愛いから。私が好きな人のことはきっと伊織も好きになる」

「うん、ありがと……伊織君、どこにいるんだろうね。寒くないかな」

 美月の底なしの優しさを伊織はきっと受け入れてくれるはずだ。それがうまくいくためにも今日は私が美月を守らなければならない。

 それは私一人の力では難しいけれど、校門で待ってくれていた蘭々や小畑さんがいれば力強い。秋野さんや大石さんは電車通学なのでタイミングが合わないらしく四人で教室に向かうことにした。

 いつの間にかスマホに伊織からメッセージが届いていた。時間は七時三十分頃、私が家を出てすぐだったようだ。

【美月さんの下駄箱に変な手紙が入ってたから回収しておいた 見てた限りは誰も不審な動きはしてなかったから多分昨日帰った後に入れられたんだと思う そっちは頼んだぞ】

 いじめている側からするとせっかくおもちゃが帰ってきたのに教室では男子に守られていて手出しができないから面白くないのだろう。今日も絶対に何かする。確信できる。

 昇降口、下駄箱で靴を履き替えた。ここを重点的に監視すると言っていたからどこからか見ているはずだけれど伊織の姿は全く見えない。

 私たちに気づかれるくらいなら加害者たちにも気づかれて犯行を思い留まらせてしまうので、見えない方が都合が良いのだがとんでもないところに隠れているのではないかと心配になる。

 しかし伊織は今日はここにいないはずの人間。伊織を信じて私たちは普通に生活をする他ない。

「あ、え、えっと秋山君、おはよう」

 下駄箱から教室に向かおうとしていた私たちの前に一人の男子生徒が腕を組みながら立っていた。美月がおっかなびっくり挨拶をした秋山君は一年二組の生徒で、真人君から声をかけられていた四人のうちの一人だったはずだ。

 その四人は秋野さんのリクエストだったが確か秋山君は星野君が彼女持ちだから代わりに選ばれた言い方は悪いが補欠みたいな人だったと記憶している。

 本当に失礼なことだけれど私は彼らのことをほとんど知らないのでそんな印象しかない。数学の合同授業では同じクラスにいたはずだけれど当然一度も話したことはない。

 桜高校はサッカー部も強豪で体格の良い人がそろっているから、伊織よりも小柄で色白で細身の秋山君は言われなければサッカー部とは気づけないくらいに可愛らしい容姿をしている。

 そんな秋山君は律儀な性格のようで真人君に頼まれたからにはしっかりと美月を守るべくここで待っていたとのこと。

「よし、行こうぜ」

 秋山君を先頭に教室に向けて歩き出す。意外なことに秋山君は美月に積極的に話しかけていて、美月も一生懸命応答している。

 時折美月が笑顔を見せている辺り話はうまいのかもしれない。蘭々なら詳しく知っているかもしれないと思い、秋山君について聞いてみた。

「んー真人君とは違う意味で女子の憧れ的な感じ。私、小中も一緒なんだけどずっとサッカー続けてるのに全然日焼けしなくて羨ましいんだよね。ご飯もめちゃくちゃ食べてるのに細くて、髪も長くてサラサラで綺麗でしょ。シャンプーで洗うくらいで特にケアとかしてないんだって。そういう意味で憧れてる子は多いよ。あ、これ本人には内緒ね。なかなか男らしくなれないって気にしてるから」

「おい、蘭々。聞こえてんぞ」

「あ、聞こえてた? ごめーん、カカオ」

「おい、そのあだ名で呼ぶなって」

 蘭々はいたずらっぽく笑って誤魔化す。秋山君の下の名前は高雄(たかお)らしいが、小学校のときにバレンタインで女子からたくさんチョコをもらっていたらカカオというあだ名がいつの間にか付けられていたそうだ。

 男子からそう呼ばれるのは気にしていなかったようだけれど女子から呼ばれるのは恥ずかしがっている、と蘭々がこっそり教えてくれた。

 小学校から一緒だとこんな軽口を叩ける関係になれるのかと感心してしまう。私も中学校でも真人君と同じだったらこんな風に話せていたのかと考えてみたがすぐに無駄なことだと思い、考えるのをやめた。

 これは蘭々が明るい性格だから作ることができた関係で、私が真似できるものではない。

 こんなことを考えたのは真人君がいないからだ。一昨日以来たったの二日であるけれどまともに会話をできていない。たったそれだけなのに恋しくて、今何をしているのか気になって仕方がない。

 今日は開会式と練習だと言っていたはずだから、今頃は開会式が始まっているだろうか、それとも練習か、移動中か。私たちのことを気にして練習に身が入らなかったりしていないだろうか。

 学校にいない、ただそれだけで私はこんなにも心を乱されてしまうのかと改めて自分の中の真人君の存在の大きさを実感した。

 秋山君が周りを威嚇しながら歩みを進めてくれたので嫌な視線を感じたりひそひそ話をされることもなく、一年二組の教室までたどり着くことができた。

 教室に入ろうとしたところで秋山君は突然足を止めた。すぐ後ろにいた美月が秋山君の背中にぶつかったが秋山君は微動だにせず背中で美月を受け止めた。さすがはサッカー部と言ったところで体幹はしっかりとしている。

「ちょっとカカオ、いきなり止まらないでよ」

 秋山君に反応はなく、教室の一点を見つめているようだ。そのあだ名で呼ぶなという反応が返ってくると思っていた蘭々も私も小畑さんも不自然さを感じて秋山君の視線の先に自分の視線を移した。

 美月の席の周りに男子生徒が何人か集まっていて机の天板を何かでこすっているように見える。さらに男子生徒の一人が数人の女子生徒と口論をしているようだ。その声は出入口にいる私たちにまで聞こえてくる。

「お前らだろ、こんなことするの。いい加減にしろよな」

「はあ? 違うし、何言ってんの? あたしらが教室に来たときにはもうなってたって言ったじゃん。ねえ?」

「そうだよ、うちらがやるわけない。他のクラスの人でしょ。萩原さんって敵多いし」

「お前らの今までの行動見てたらお前らがやったとしか思えない。正直に言って萩原さんに謝れよ」

「今までの行動って、萩原さんと遊んでたあれのこと? あれはただの遊びだし、ていうか男子も皆見て見ぬふりしてたじゃん。あれが悪いことだって言うならみんな同罪だよね?」

「だよね。てか昨日から男子皆でいきなりかばい出してどうしたの? きもいんだけど」

「え、もしかして萩原さんのこと狙ってんの? やば、モテモテじゃん」

「星野も必死に机拭いちゃってさ、あんた彼女いるのに大丈夫なの? 浮気だ浮気」

 美月の机には粉のようなものが撒かれていて、男子たちはそれをティッシュなどで拭き取っているようだった。おそらくはチョークの粉だ。

 当然、嫌がらせのために朝早くに誰かが撒いたに違いないが、誰がやったかという確証は得られていないようだ。

 口論していた男子生徒は相手の勢いに押されて何も言えなくなってしまっていて、相手の女子生徒たちは勝ち誇ったようにその男子生徒と、美月の机を拭いている男子生徒たちを見ている。

 心配そうに見つめる他の男子生徒。にやにやと笑っている明るめの女子生徒たち。おとなしめの女子生徒たちはきっとどこか別の場所に逃げている。

 やっぱりこの教室は美月にとって地獄なのだ。助けてくれる人ができたとて、教室内の半分近くの人間が加害者で、自分に対して悪意を持っている。こんなところに美月を置いておくことなんてできない。

「蘭々、萩原さんをどこか別の場所へ……」

 秋山君は小さな体を精いっぱい大きく見せて、背中に隠れた美月が教室内の光景を見ないように、教室から美月の姿が見えないように壁となった。

「美月、保健室に行こう」

 その光景は見えてなくても聞こえた言葉で美月は起きた出来事を察しているのか、せっかく昨日少しだけ明るくなった表情が暗く逆戻りしてしまった。

 蘭々たちと一緒に美月を連れて一年二組の教室を後にする際にふと振り返ると、秋山君が悲しげな表情でこちらを見ていた。彼なりに頑張ってくれたのだろう。その表情からは無力感や後悔が見て取れた。

 でも彼の、彼らの頑張りも虚しく美月はきっと二度とあの教室に入ることはない。

 美月の目から零れ落ちた涙がそれを物語っている。