一時間目の授業を終えて私と伊織は急いで保健室に向かった。ベッドを隠すように閉められていたカーテンは今は開いていて、美月はベッドに腰かけて白雪先生と話をしている。登校直後よりも落ち着いているように見える。

「ごめんね、せっかく一緒に連れてきてくれたのに。でも、もう大丈夫」

 美月は胸の辺りに両腕を持ってきてグッと力を入れた。空元気のようにも見えるけれど、美月が頑張ると言うのならば止める余地はない。美月の選択を支えるだけだ。

「またいつでもおいで」

 白雪先生が美月に軽く手を振って私たち三人を見送った。先頭を伊織、後ろを私と美月が並んで歩き、視線や声を浴びながらも一年二組の教室までたどり着いた。教室の入り口には真人君や蘭々たちも待ってくれている。

 二組の生徒たちが美月の到着に気づくと、教室内の空気が一変した。誰かが伊織の後ろにいる美月に視線をやったことを合図として騒然としていた教室の中の音が一斉に止んだ。それこそシーンという音が聞こえるくらいに静かになった一年二組の教室に美月はゆっくりと足を踏み入れる。

 そのゆっくりとした歩みを教室内の全員が見守り、美月が自分の席に着席するのを見届けた。

 何か言いたげな女子生徒たちもいたが、教室の出入り口で私たちが大勢で見ているので何も言い出せないようだった。

 代わりに動いたのは男子の方で四人ほどの男子が美月に話しかけている。あれが真人君からお願いされた運動部の四人だろう。

 今までほとんど会話したことがなかったのか人見知りを発動してまともに話すことができていない美月だけれど、彼らはきちんと役割を果たしてくれそうだ。

 そして誰かが行動に出れば今まで傍観者だった人間も動き出す。いつの間にか多くの男子が美月の席の周りに集まって、まさしく美月を守る壁となっていた。私たちはその光景に安堵して、それぞれの教室に戻った。

 休み時間ごとに美月の様子を皆で見に行ったが特に異変はなく、この日は視線を感じたり多少のひそひそ話が聞こえたくらいで、大きな出来事もなく一日を終えた。いや、視線もひそひそ話も普通はないものだ。

 少し感覚が麻痺してしまっているのかもしれないが、それでも一時間目以外の授業を美月がすべて受けることができたという事実が私は嬉しかった。伊織と三人の帰り道では笑顔も増えたように感じた。

 美月や真人君と軽くメッセージのやり取りをして、勝負の明日に備えて寝ようとしたとき私の部屋の扉を伊織がノックした。もう音で伊織だと分かる。私が返事をするのとほぼ同時に伊織は扉を開いた。

「明日、俺は早めに学校に行っておくから美月さんのことよろしくな」

「うん。でももし何も起きなかったら……そっちの方が良いのかもだけど、なんか中途半端なことになっちゃいそう」

「いや、必ず何かやるはずだ。さっき佐々木さんが教えてくれたんだ。今日美月さんが学校に来たことで裏垢の動きが活発になったらしい。悪口から始まって、明日何かやるっていう仄めかしもあったらしい。誰だか分からないけど俺も確認した……お前は見るなよ」

「見ないよ。わざわざ自分たちの悪口なんて見に行きたくない……でも明日本当に」

「必ず現行犯で捕まえて、退学にしてやる。詩織や美月さんが胸を張って学校に通えるようにしてやる」

 その瞳はまっすぐで決意に満ちている。

 こんなこと恥ずかしくて言ったことはないけれど最近は心の中で思っている。カッコ良くて頼りになる、私の自慢のお兄ちゃん。

 どうか私と私の大好きな美月を救ってください。私にできる最大限のお礼をするから。

「いつか約束してたよね。私の友達から伊織の彼女になれそうな人を紹介するって」

「え? ああ、そう言えばそんなこと言ったことがある気がするな」

「うまくいったらとびきり可愛い子を紹介するからね。頑張って」

 伊織は優しく微笑んで自分の部屋に戻っていった。

 私はその背中に祈りを込めて両手を合わせた。
 

 翌朝、朝食を食べようと伊織の姿はすでになく、お父さんが食卓に着いて新聞を読みながらコーヒーをすすっていて、お母さんも朝食の準備を終えて席に着こうとしていた。

「おはよう、詩織」

「おはよう」

 少しだけ空気に重苦しさを感じながら自分の席に着くと、お父さんが読んでいた新聞を畳んだ。

「食べながらでいいから聞いてくれ」

 お父さんは私の目をしっかりと見ながらそう言った。これはきっと大事な話の合図。食べながらでいいと言われたけれど、私はトーストを持とうとする手を引っ込めて、かしこまった。

「最近詩織の様子がちょっと変だなって思うときがあって、元気がないと言うかつらそうと言うか。伊織に何か知らないかと聞いても後でちゃんと話すからしばらくそっとしておいてと言うし。一昨日は突然萩原さんの家に泊まるとか言い出すし、伊織も伊織で大会に遅れて行くとか言って今日は朝早くから学校に行っているし。大丈夫なのか? 何か困ってたりしないか?」

 過保護なお父さんが今まで何も言わなかったのは伊織が止めていたからか。

 私がいじめられたなんて知ったらお父さんはきっと学校に乗り込んだりするだろう。もしかしたら、初期段階だったらそうしていた方が美月が苦しむこともなくスムーズに解決できていたのかもしれないと今になって思う。

 私たちを本気で心配してくれているお父さんの表情を見るときちんと相談しなかったことを申し訳なく思うし少しだけ後悔もしてしまう。
 
 でも今は駄目だ。伊織の作戦が動き出した今は、お父さんに行動してもらうわけにはいかない。現行犯でなければいじめ認定には時間がかかる。

 そんなに長い間美月を苦しめ続けたくない。もし今日伊織が失敗したら、お父さんにもお母さんにも先生たちにも全てを話すつもりではあるが、今日だけは伊織を信じて誰にも邪魔をさせたくない。

「今日が終わればちゃんと話すから。伊織が全部解決してくれるから……どうしたの? そんな顔して」

 私の言葉に目を見開いたお父さんに、つい聞いてしまった。

「いや、今朝早くに家を出て行こうとする伊織にも同じことを聞いて、同じことを言われたんだ。俺が全部解決するって。やっぱり兄妹なんだなって思って」

 お父さんはそう言うと立ち上がって自分の部屋に入って行きすぐに戻ってきて、私に小さな封筒を差し出した。

「学校で伊織に会うんだろう? 今朝は俺は起きたばっかりで渡しそびれてしまったから詩織から渡してくれ」

「良いけど、何これ? ……お金じゃん」

 封筒を光に照らして中を透かして見てみると一万円札が二枚ほど入っているのが見えた。

「大会にはバスか電車を乗り継いで行くって言ってたけど、まだ道路には雪が積もっているし一人で行かないといけないこととか疲労を考えると新幹線で行った方が色々と都合が良いだろう。伊織が重大な役割を果たしたご褒美だよ……二人を信じて今日はもう何も聞かない。でも明日になったら詩織が話すまでしつこく聞くし、お父さんにできることはなんでもするからな」

「うん、ありがとう」

「しっかりな」

 何も聞かないと言ってくれたお父さんと、もともと何も聞かずにいつも通りに接してくれるお母さん。余計な心配をかけていることを申し訳なく思いつつも、私たちを信じてくれることに感謝をしながら私は家を出た。