今度は怒りと悔しさで涙がこぼれた。その感情はぶつけどころがなく、私にできるのは静かに座っている美月を抱きしめることだけだった。抱きしめたはずが反対に美月に抱きしめられて、私は美月の胸の中で涙を流した。

 励ましに来たはずなのに優しく背中を撫でられて励まされてしまった。しばらく泣き続けて、やっと涙が収まって美月の隣に座り直すと美月はゆっくりと語り始めた。

「死ねって書かれているのを見て本当に死んじゃったらどうなるかなって思ったの。あの日の帰り、詩織たちと別れてから家に着くまでどうやって死んじゃおうかって考えながら歩いて、痛いのとか苦しいのはやだなぁとか、人に迷惑をかけない死に方ってどうすればいいんだろうとか考えていたら家に着いちゃった。自分の部屋に入ったら気が抜けて何も考えられなくなって何もしたくなくなって、死に方を考えることすら面倒くさくなって、トイレとお風呂以外で部屋から出られなくなった。その二つだけが私に残された普通の人間らしい行動だったと思う。誰かに相談する気力も、死ぬ勇気すらも私にはなかった。ご飯もほとんど食べられなくなって、眠ろうとしても眠れなくて、スマホにメッセージが来たら事務的に返すだけで、動画を見ても漫画を読んでも全然面白くなくて、勉強しようとしても集中できなくて頭に入らなくて、何もしないでただ時間が過ぎて行った。家族とも話したくなくて、こんなにしゃべったのは久しぶり。詩織が会いに来てくれたからこれでも昨日よりましになったんだよ」

「駄目だよ、死ぬなんて考えたら。美月が死んだら私も死んじゃうよ」

「そうだね、ごめんね。詩織のためにも死ぬのはなしだね」

 美月は一週間で死ぬことを考えるくらいに追い込まれていた。その短い期間にどれほどの悪意が美月に降りかかったのか想像したくもない。

 そして、様子の変化に気づいていながら今日このときまでなんの行動もできなかった自分はなんて愚かなのだろうか。

 先々週の水曜日の放課後の昇降口で、美月を問い詰めていれば良かった。少しでもおかしな様子があったら過剰なくらい心配して行動すれば良かった。後悔してももう戻れない。

 二人肩を寄せ合って、膝を抱えて座って、何もしない時間が過ぎた。何も言えなかった。頑張ろうも、学校に来ても、今の美月には重すぎると思った。

 一時間が過ぎた。右肩に美月の熱を感じる。シャンプーと汗の混じった匂いはもう十分に堪能した。美月はこの間何も話さなかったし、たまに瞬きをする以外微動だにしなかった。

 美月はこんな時間を一週間も続けていたのかと思うとまた後悔に襲われた。

 気づいたときには隣に美月はいなくなっていた。周りを見回すと窓の前に立って外を眺めているようだった。時計を確認するとさらに二時間以上が経過していて、私は眠ってしまっていたようだ。私の身体には薄い毛布が掛かっていて、暖かい。

「……美月」

「起きた? 外、雪降ってきたよ」

「いつから?」

「ん? 詩織が寝ちゃってからすぐかな」

 約二時間美月は立ったまま雪が降る様子を眺めていたのだろうか。一時間何もしないでいたり、私が来る前も何もせずにいたはずだ。

 私にとってさっきの一時間はとても長かったけれど美月は今、時間をどのように感じているのだろうか。空虚な時間にいったい何を考えていたのだろうか。

「寒くない? エアコンの温度上げようか?」

「ううん、毛布のおかげで大丈夫。ありがとう」

 美月の部屋は決して寒くはなったけれどそれほど暖かいわけでもなかった。ずっと部屋にいてエアコンをつけっぱなしだから電気代のことを気にして温度を低めに設定しているのだろう。寝てしまった私に毛布を掛けたこともだけれど、こんな状態になりながらも美月は底なしに優しい。

 私は毛布の半分を美月にかけながら隣に立って窓から外を眺めた。それなりの大きさの雪の粒がしんしんと、と言うには賑やかすぎるくらいに降っていてこのまま降り続けば積もるかもしれない。

「ねえ詩織、私、どうしたらいいかな?」

 十五分くらい振り続ける雪を眺めていたとき不意に美月が言った。

 きた。美月が初めてこれからの話をした。ここが分かれ道だ。私の言葉次第で美月を完全に壊してしまうかもしれないし、救うことができるかもしれない。失敗も沈黙も許されない。

 私は考えた末に言葉を選びながらも本心を伝えることにした。

「美月の部屋に来る前に美月のお母さんと少し話をしたんだ。美月がこのまま学校に行けない状態が続くなら転校も考えて話し合いたいって言ってた。私は嫌だけど、これは美月が決めることだから美月が決めた道を応援する。学校が変わっても友達でいることはできるし。でも美月がどうしたいか決めていないなら参考になるように私がどうしたいか話してもいいかな?」

「うん、聞かせて」

「私はこれからも美月と一緒がいい。一緒にお昼ご飯を食べて、楽しいこととか、将来のこととか話をしたい。伊織と一緒に自転車の練習にも行かないといけないし、真人君も加えて四人で遊びに行きたいし、今度は私が美月の恋をサポートしたい。勉強では競い合ってもっとできるようになりたいし、お菓子作りも教えて欲しい。蘭々、佐々木さんたちともきっともっと仲良くなれると思うし、四月から私たちは同じクラスだからもっと学校が楽しくなると思う。卒業までずっと一緒に過ごして、卒業後はお互い第一志望の大学に行って、それがどこかはまだ決まっていないけどたとえ離れてもずっと友達でいたい。やっぱり将来的には私のお姉ちゃんになって欲しい。だから明後日だけは一緒に学校に行きたいなって思ってる。伊織が必ずどうにかしてくれるから」

 一緒に学校に行きたいはいきなりすぎただろうか。でも、もう言ってしまった。言う前の時間には戻れない。美月はその場に膝を抱えて座り込んだ。毛布が引っ張られるのに合わせて私もその場に座った。

「私もほんの少しだけ考えたの。学校辞めちゃったら楽になるかなって。結局考えるのがすぐに億劫になっちゃって結論は出なかったけど、今の詩織の話を聞いたら学校辞めたくないって思えた。でも辞めたくないけど、行きたいとは思えない。自信がないの。詩織も伊織君もいないあの教室で、普通に生活する自信がない。私多分クラスの女子全員がいなくならないとあの教室には入れないと思う。教室にいることを想像するだけで怖いの」

 教室にいるのが怖い。もし蘭々がいなかったら私も同じだったかもしれない。そう思うと美月の思いを否定することも説得して考えを変えさせることも私には無理だと思った。私は運が良かっただけなのだ。

 でも私には別のアイディアがあった。教室に入りたくないのなら入らなければ良い。あと二日出席すれば進級のための出席日数は足りることを美月のお母さんが担任の先生と確認していたはずだから、どこかで二日だけ頑張ってあとはすべて欠席するという手段がある。

 二年生になれば私や真人君と同じクラスで他の人も比較的真面目でおとなしい性格の人ばかり。さらに一年二組の生徒は美月だけだったはず。それなら今まで通り学校に通える、教室に入ることができるはずだ。

 そのことを美月に話した。

「二日……」

 小さな声でそう呟いた。たった二日間学校に行って教室で過ごすだけ。十年近く当たり前のようにやってきたことが今の美月にとっては拷問のようなことなのかもしれない。

 美月が過ごした一週間がどれほどの苦痛だったのか私には想像がつかない。それでも私にできることは手段や可能性を提示することだけだ。

「私が美月を守るよ。授業中以外はずっと一緒にいよう。伊織や真人君も助けてくれるし、蘭々たちにもお願いする。明後日は真人君いないし伊織も隠れてるけど、真人君が二組の男子に美月のこと守ってくれるようにお願いしてくれるの。真人君が信頼してる人だからきっと大丈夫だよ」

「クラスの男子は……皆、見て見ぬふりだった。誰も助けてくれなかった」

「それは、そうかもだけど……」

「でも私も同じ。詩織の悪口をこそこそ言ってるのを聞いても止められなかった。男子のことは責められない」

 か細く震えるような声。今日ずっと無表情だった美月が初めて見せた苦しそうな表情。きっと美月の心は揺れている。教室への恐怖と私から提示された可能性の狭間で彷徨っている。

 私の思いは伝えた。あとは美月自身がどうするか決めるだけだ。

「……もう少し考えてみるね」

 美月が考えてみると言うのなら私は無理強いはできない。美月をいじめから救うことは大切だけれど、そのために今の美月を苦しめるようなこともしたくない。

 座って低くなった私たちの目線からは窓の外はかすかにしか見えない。それでも降りしきる雪の勢いが増していることははっきりと確認することができて、暖房はついているもののなんとなく寒さを感じて私は美月はさらにぴったりと体を寄せあった。

 視線を窓の下の本棚に移した。淡い黄色の薄いレースはよく見ると裏が透けて見えて、本棚には美月が好きな少女漫画や少女漫画以外でも恋愛系の漫画がたくさん並んでいるのが見える。

 美月は落ち込んだときはいつもこれらの漫画を読んで元気をもらうんだと言っていたのに、今は読んでも面白くないと言っている。もっと別の方法で元気づけられないかと思うけれど、今の私にはこうやって寄り添うことしかできない。