二階にもいくつか部屋があるようだが木製の引き戸に同じく木製の名札が打ち付けられた部屋が三つある。

 階段から近い順に【みか】【みつき】【かざみ】という名札が付けられている。平仮名の名札の下には【美花】【美月】【風美】という同じ材質の名札も付けられていた。

 美月の部屋の引き戸をノックしても返事はない。まだ寝ているのかもしれないと思いつつも数秒おきにノックを繰り返すと四回目の後に引き戸が開いた。ゆっくりと開いた引き戸の隙間から淡い黄色のパジャマ姿の美月が見えた。

 最後に姿を見た一週間前と比べると少し痩せた、というよりやつれたように見える。目の下にはうっすらとくまができているし、寝癖がついていたりパジャマのボタンが一つ外れているなど今までの美月では考えられない姿だった。

 こんな風になってしまった原因が学校にあるのなら、転校させたいとお母さんが思っても仕方がないと思えてしまう。

「……詩織」

「美月、久しぶり。入っても良い?」

 美月は無表情のまま頷いた。

 美月の部屋に入ると一瞬だけさっきとは別の家に来たような感覚になった。

 一階の居間は畳だったのにこの部屋の床はフローリングで、出入口の引き戸もよく見ると壁との材質が違うというか雰囲気が合っていない。元は畳とふすまだったけれどリフォームをしたのだろうと想像できた。

 大きな家だけあって部屋も広く、勉強机とベッドと本棚で面積のほとんどが埋まってしまっている私の部屋の二倍くらいはありそうだ。

 床には淡い黄色とピンクの絨毯、掛布団のカバーも淡い黄色で、シーツも枕も同じ色。ベッドの上には数体、可愛い動物のぬいぐるみが置いてある。カーテンは水色で窓枠のすぐ下に置かれた本棚にかけられた薄い布のレースも淡い黄色。

 全体的にパステルカラーでまとめられたその部屋は私のシンプルで無機質な部屋と比べるととても女の子らしいという印象だ。

 その中で普通の勉強机はまだしもそれに向かい合うように置かれた黒々としてゴツイ椅子は色やデザインよりも頑丈さや機能で選ばれているようで異彩を放っている。

 美月はベッドの側面に寄りかかり、絨毯の上に膝を抱えるようにして座った。私も同じようにして隣に座る。

「どうしたの? 学校は?」

 私に尋ねる美月の目は虚ろに見えて、とても感情が薄いように思えた。当然だが今までの美月とは全然違う。ただ落ち込んでいるだけには見えなくて、私はどう対応したら良いのか困惑している。

「えっと、美月の顔が見たくなって……ご飯ちゃんと食べてる?」

「あんまり……」

「眠れてる?」

「あんまり……」

 そんなの美月の姿を見れば分かることだ。でも何を聞いたら良いのか分からなかった。

 美月は壊れかけていて、間違った対応をしてしまうと完全に壊れてしまうような気がして、学校から歩いている間にシミュレーションしていた言葉たちはかけることができなかった。

「ごめんね、余計な心配かけちゃってるよね。詩織も大変なのに」

 こんな状態でも美月は私のことを気遣ってくれている。その優しさに部屋に入る前には止まっていた涙がまた流れ出す。ティッシュ箱を持ってきていて正解だった。

 涙を拭くのと同時に持ってきていたチョコレート菓子を美月に差し出した。美味しいから一緒に食べようというよりもご飯を食べていないみたいで心配だから食べさせたいという気持ちが強い。

「食べよ?」

 いつもは嬉しそうに二個も三個も一気に食べてしまう美月だけれど、かすかに震える手でゆっくりと一粒を取ってゆっくりと口に含んだ。とてもじゃないが好きなお菓子を食べているようには見えない。

「詩織ってこんなに泣き虫だったの?」

 美月は私が拭い切れずにあごの辺りまで垂れてしまった涙をティッシュで拭いてくれた。

「美月が優しいから……こんなに優しいの、ずるいよ」

「だって、私それしかないから。昔から美月は優しいねって皆に言われてきて、それが唯一の自慢だったから。運動苦手だし、勉強もうちの学校で一番や二番でも全国で見たら全然だし、人見知りで友達も少ないし、料理だって先輩に教えてもらってなんとか形になってるくらいだし、音楽も中途半端だったし、嫌な思いをしても相談もできずにこうやって引きこもって、余計に心配されるって分かってるのに何もできなくて、詩織に迷惑かけて」

「迷惑なんて思ってないよ。私、美月にいっぱい助けてもらったから今度は私が美月を助けたいって思ってるだけ」

 チョコレートを口に含んだ後、だらんと垂れていた美月の手を取った。柔らかくて、私より少しだけちっちゃくて、二人の熱で温かくなった。でも美月はうつむいたままだ。

「伊織が美月のことすごく心配してて、ほんとは明日の放課後から大会に出発なんだけど行かないで私や美月に嫌がらせをしてる人たちを捕まえてくれるって言ってくれたの。美月のこと助けたいって伊織が言ったんだよ」

「伊織君が……?」

 うつむいていた美月の顔がほんのわずかに上を向いた気がした。私の愛が伊織への恋に負けてしまったと思うと少し複雑だけれど今はそれでもいい。

 美月は押し黙って何かを考え始めた。次の言葉を待つのに焦る必要はない。私は優しく美月の手を握りながら静かに待った。

「私ね……」

 美月が小さく呟いた。

「いじめられていたんだ、二週間前の水曜日から。放課後、下駄箱に手紙が入っていて、それから毎日のように……見る? 机の大きい引き出しの中に全部取ってあるよ。いつか証拠として提出して仕返ししてやろうと思っていたけど、結局何もできなかった」

 見たくはなかったけれど、美月を助けたいのなら目を背けてはならないと思った。美月が何をされたのか、どんな気持ちだったのか、痛みを分かち合いたい。

 美月に言われた引き出しを開けるとA4サイズの紙が何枚か入っているクリアファイルがあった。

 最初の数枚は日付の付箋が貼られていて本当にいじめの証拠として保管していたことがうかがえる。ただ最後の方は付箋はなくて、ただ惰性で保管していただけのようだ。一番日付の古いものを見た。

 私の机に入っていたものと同じようなことが書かれている。こんな紙がもっとたくさんあることを思うと胸の奥から悲しみが込み上げて来て、また涙が溢れそうになる。

「根暗とかどんくさいとか当たってるのもあるけど、金魚の糞なんて笑っちゃうよね」

 そう言う美月の顔は笑っていない。

「最初はあんまり気にしていなかったけど、次の日もその次の日も同じことをされると笑っていられなくなっていった」

 それから美月は自分が受けたいじめの内容を話してくれた。怒るでもなく悲しむでもなく淡々と無感情にただ事実を述べていた。

 クラスの女子全員から基本的に無視されていたこと。掃除の時間には毎日チョークの粉を制服に付けられたこと。わざとらしく謝って女子たちで笑いものにしていたこと。朝教室に入ると机と椅子が逆向きにされていて直す様子をやはり笑いものにされていたこと。

 その様子を見ていた男子には急に仲の良いふりをして仲間内での罰ゲームだから手を出さないでと言い、無理やり同意させられたこと。トイレから戻ると男子にも聞こえるように大きな声でトイレからおかえりと言われること。

 荷物を置いたまま教室から出ると机や鞄の中身を机の上にばらまかれるので常に鍵のかかる個人ロッカーに入れるか持ち歩かないといけないこと。

 空になった机の中に気持ち悪い虫のおもちゃや誰かのロッカーの中で眠っていた腐ったパンを入れられたこと。入学当初にメッセージアプリで作られたクラスの女子のグループからすでに美月は追い出されていること。

 一番後ろの席の美月には前から配られるプリントは絶対に回ってこないこと。足をかけられて転びそうになったことが何度もあること。先生の前では良い子ぶって決して行わないこと。

 他のクラスの女子も大勢加担していること。

 最後に登校した先週の水曜日にはお弁当をロッカーにしまい忘れて教室を離れてしまい、戻ると空になったお弁当箱が机の上に広げられていたこと。

「誰にも相談できなくて、でも心配かけたくないから学校には行かなきゃって思ってたんだけど、先週の水曜日のお昼休みの後、教室の机の中に入ってた紙を見たら、自分の中の何かが切れちゃった感じがしたの……一番最後のやつね」

 美月に言われた通り、クリアファイルに入っている紙の一番最後のものを見た。A4の紙が【死ね】という文字で埋め尽くされている。見ただけで吐き気がするようなこれを美月はどんな気持ちで見てしまったのだろう。

 どうしてこんなことができるのだろう。

 毎年のようにいじめが苦で自殺した子供のことがニュースになるし、小学校でも中学校でも高校でもいじめはいけませんという指導を受けてきたはずなのに、他人の権利や財産を踏みにじったり、嫌がることはしてはいけないと分かっているはずなのに、どうして最も大事な権利である生きる権利まで踏みにじるような言葉を書くことができるのか。美月が死んで何を得するのか。

 どうして美月がこんな目にあわないといけないのか。そもそもどうして私があんな目にあわなければいけなかったのか。私は真人君と仲良くしただけ。美月は私と仲が良かっただけ。

 たったそれだけなのに、私たちが地味でおとなしいから? イケてるグループじゃないから? 何も悪いことはしていないのに、つらくて、涙が出るような思いをしなければいけない理由はいったい何なのだろう。