日夏と呼ばれた女子生徒は心底残念そうに眉を下げながらため息をつきながら、部室を見渡して指差し確認を始めた。

「ビブスもちゃんと畳まれてる、脱ぎっぱなしの着替え無し、ゴミ無し、匂いもお弁当の匂い以外特に無し、その他諸々良し。うん、合格」

 私は満足そうに笑顔を浮かべる日夏さんに聞こえないように小声で伊織に尋ねた。

「何やってるの? あの人。もしかしてあの人が三年のマネージャー?」

「ああ、掃除とか整理整頓に厳しくて、引退したのにほぼ毎日部室に抜き打ち検査をしに来るんだ……あの人も真人とお前の事情は知ってるし、そもそも三年の元キャプテンと付き合ってるからお前に嫉妬とかしない、安心しろ」

 日夏さんはもう一度部室を見回した後、私たちが座っていない方の長椅子に座り私たちと向き合った。日夏さんが動くたびに豪快にポニーテールが動いてつい視線を奪われる。

「昼休みにご苦労様です」

「火曜日は塾があるから放課後来てる暇ないからね。それに千紗(ちさ)が伊織から昼休みに部室の鍵を貸して欲しいって頼まれたって言ってたから。女の子でも連れ込むつもりかー? って思ってね。まさか妹ちゃんを連れ込んで仲良くお弁当食べてるとは思わなかった。どういう風の吹き回し? ……まあ、だいたい想像つくけど」

「想像通りだと思いますよ。あ、詩織、この人は三年生でマネージャーだった日夏(ひかり)さん。俺たちに掃除とか整理整頓とかをきび……優しく教えてくれて、いつもサポートしてくれた……美人で有能な先輩。特進クラスにいて国立大学目指して今も受験勉強を頑張ってる……勉強もできるし、マネージャーとしても優秀だし、掃除、洗濯、料理も上手だし完璧な人」

 日夏さんが伊織に目線を向けるたびに伊織が日夏さんを褒め称える。大会などではサポートに回ることがほとんどの伊織は日夏さんと関わることも多かっただろうし、どんな関係だったのかは想像がついた。

 でも伊織の言葉は嘘ではなさそうで、国立大学を目指していて今も勉強を続けているということは、バスケ部なんて忙しそうな部活を十二月末くらいまで続けながら、一昨日と一昨昨日の共通テストも受験していることになる。

 それだけで私は日夏さんを尊敬してしまう。佐々木さんとはまた違う強さを持った人だと思う。

「すごいです……」

 つい言葉が漏れた。日夏さんはその言葉を聞き逃さず、私に笑みをくれた。

「ワンチャン推薦で行けないかなーって思ったんだけどね、残念ながらまだ勉強を続ける羽目になっちゃった。ちなみに伊織、アタシが目指してるのは国立じゃなくて公立ね。ていうか県立」

「何が違うんですか?」

「伊織はそんなことも知らないのか。あのね運営してるところが……まあ今はそんなこといいや。それよりせっかく渦中の妹ちゃんに会えたんだ。アタシの昔話でも聞いてもらおうかな」

「え?」

「あ、ちょっと面倒だなって思ったでしょ。でも聞いて損はないと思うよ妹ちゃん。あなたと真人の噂は三年のフロアまで到達していて、まあ、ほとんどの人があなたのことを知らないから悪口陰口はそんなにないけど。それでも真人は学校全体の人気者だから嫉妬してる子は少なからずいる。アタシも似たような状況になったことがあるんだ」

 日夏さんは昔のことを懐かしみながらも、明るく語り出した。彼女にとってそれはもうすでに乗り越えたことのようだ。

「アタシ、バスケ部のマネージャーがやりたくてこの学校に入ったんだ。うちは男子も女子も強くてどっちでも良かったしどちらかと言うと最初は女バスの方にしようかなって思ってた。でも、見つけちゃったの。背が高くて顔が整ってて爽やかで優しい、完璧な男。天海大悟(あまみだいご)。先月までバスケ部のキャプテンをしていて、一年生のときの六月十一日からアタシの彼氏。大悟に一目惚れして男バスのマネージャーやることにした」

 ちなみに桜高校男子バスケ部の女子マネージャーは一学年二名までと決まっていて、毎年希望者多数のため入部テストがあるらしいと伊織が補足してくれた。

 一次試験がバスケの基本的な知識を問う筆記テストと、監督立会いの下で先輩マネージャーたちとの面接、それをクリアした者が二次試験の一週間の体験入部に進める。

 日夏さんはバスケの選手としての経験があり、伊織の言う通り掃除とか洗濯も得意で、兄一人弟二人の男所帯で男子との接し方なども慣れていたため余裕で合格したそうだ。

「大悟は人気者でね、それこそ今の真人と同じくらい……客観的に見たら真人の方が規模はでかいかな、アタシにとっては大悟が一番だけど。大悟は一年のときからベンチ入りしてて、アタシはインターハイの県予選の開催前日に泊まっていた旅館で告白して付き合うことになった。部員皆で祝福してくれた」

 伊織が言うにはバスケ部の監督は恋愛に寛容、というか積極的に恋愛をしろと言っているらしい。バスケしかない人生にしないためだとか。

「部内では良い感じだったんだけど、大会終わってオフの日に手を繋いで遊びに行ってるのを同じ学年の人に見られちゃって、あっという間に噂になっちゃった。色々言われたよー、ブスとか泥棒野郎とか調子乗ってるとか、男目当てでバスケ部入ったとか、あ、これは言われてもしょうがないか。あはは」

 日夏さんは自嘲気味に笑う。最後のはともかく、私が言われたり書かれた言葉と同じだ。

「他に、何かされたりしたんですか?」

「んーとね、呪いのお手紙をいっぱい貰ったかな。SNSの裏垢使ってアタシの悪口大会開かれてたし、上履きは学校の色んなところ旅してたし、弁当箱開けられて外に放置されてたこともあった。虫とか鳥とか集まってきてたなぁ。あとはね……」

「あの、それでどうしたんですか? 今はそんなことされてないんですよね?どうやって……」

「二週間、何もできなかった。さっさと大悟とか先生とかに相談すればいいのになんでか分からなくて言えなくて、つらいの隠して我慢して部活だけが安息の地だった。でも、アタシの様子がおかしいことにバスケ部の皆は気づいていて、優しくしてくれて救われてた。最後に、大悟が私の上履きを隠そうとした人たちを現行犯で捕まえてくれて、生徒指導の先生に引き渡して、余罪がどんどん出てきてその人たち皆退学になった。アタシ、手紙は全部取ってあったしSNSもスクショ撮ってたから特定できた人は皆退学処分。うちの学校っていじめの加害者は加害者であることが確定したら即退学なんだよ。それでいじめは収まった。まあ手紙やSNSとかその他諸々運良く特定されずにもうすぐ卒業できそうな人もいると思うけど、肩身の狭い思いをしながら過ごしてきたんだろうなって思うと少しは溜飲が下がるかな」

 日夏さんは一度私を見て微笑んだ。

「結局こういうのって周りが気づいて助けてやらないといけないのかもね。本人は言いたくても言えないもんなんだよ。少し強引でも行動した方が良い。大悟だって仮病で練習サボって昇降口で張り込んでたって言うし」

 話し終えた日夏さんは私と伊織を交互に見て立ち上がった。もうすぐ昼休みが終わる時間だ。

「さ、戻ろうか。鍵はアタシが千紗に返しといてあげる」

「あ、すみません。ありがとうございます」

「こんな感じで良かった? 伊織」

「なんのことですか?」

「アタシが三年生になってから塾に通い始めて火曜日は部活に出てなかったのは知ってたよね。だから昼休みに部室に来ること、先週の火曜日の昼休みに体育館で自主練してたから見てたよね。こんな偶然装わなくても言ってくれればいくらでも話したのに」

「……受験生にお願いなんてできませんよ。でも先輩なら詩織に会ったらきっと助けになってくれるって思ってました。すみません、利用したみたいで」

「別にいいよ。伊織が可愛い妹ちゃんのためならどんな手段でも使うシスコンお兄ちゃんだってことはアタシ含めてバスケ部みんな知ってるし」

「ちょ、日夏先輩、それは勘弁してくださいよ」

 後輩として先輩に弄ばれている伊織は新鮮で面白い。ほんの少しだけれど、ごくわずかだけれど私の心が元気になった気がする。

「ありがとうございます、日夏さん」

「いやいや、たいしたことしてないよ。昔話をしただけだし」

「いお……お兄ちゃんもありがとね」

「……ああ」

「あー、伊織ったらお兄ちゃんって呼ばれて照れてる。おもしろ」

 伊織は少し顔を赤くしてうつむいている。

 しばらく笑顔で伊織の顔を突っついていじっていた日夏さんの顔が急に真剣な表情になった。

「伊織、この先のことは……?」

 伊織も照れを捨てて真剣な表情で答える。

「もっとしっかり考えるべきだったと反省してます。自分が未熟なことも痛感してます。でも、なんとかして丸く収めますよ」

「修羅の道だよ、それは……」

「自分で始めたことなので」

「親友も妹もなんて贅沢だね……」

「先輩、詩織もいるのでその辺で……」

「ああ、悪いね、もうあんまり話す機会がないからつい」  

 何の話だろうか。親友は真人君で妹は私のことだろう。修羅の道とか私にあまり聞かせたくないみたいだし、伊織が手伝ったから私と真人君の関係ができたわけだし、もしかして伊織はこの件を解決するために何か大きなやろうとしているのだろうか。

「伊織……無理はしないでね?」

 伊織は「ああ」と言って頷くだけで、詳しくは教えてくれなかった。