自室で勉強していると帰宅した伊織が私の部屋のドアをノックした。ドアを開けると少し不機嫌そうな顔をした伊織が立っている。
「おかえり。どうしたの? なんか、顔、変だよ」
「……ただいま。お前さ、真人の噂が流れてるのは知ってるだろ? ばれたくないならあんまり目立つことはするなよ」
「え、な、なんのこと?」
「試合終わった後、真人に手、振っただろ。あいつもテンション上がって嬉しそうに振り返しやがって、俺がちょうど近くにいたから誤魔化せたけど」
「あ、気づいてたんだ」
私の見立ては間違っていたようだ。
「真人にも注意しておいたから今後は気をつけろよ。明日も来るんだろ?」
てっきりしばらく見に来るなと言われると思った。だから伊織の言葉は意外で、私は呆然としてしまった。
「何驚いてるんだよ。来たいんだろ? だったら来ればいいだろ。それに……」
「それに?」
「真人が言ってたんだ。詩織が近くで見てると難しいシュートも不思議と全部入るってな。まだ今日の試合と真人の家の地下くらいしか例はないけど、一回もシュートを外してないって。明日はちょっと強いところとあたるから来てくれよ。真人も来て欲しいて言ってた」
私は真人君にとってジンクスのような存在になったようだ。どんな形であれ真人君に望まれる存在になれたというのは嬉しい。
「うん。美月と一緒に行く予定」
「土曜は人多いから頭に入れておけよ……そう言えばその美月って人だけど」
伊織が美月の話題を出すのは初めてだ。今日ほんの少し話してもしかして意識するようになったのだろうか。そうであれば私は大変嬉しい。
「美月がどうしたの? 可愛いでしょ。それにとっても優しくて……」
「変わってるよな。ゴミ拾ってくれた後に頑張ってねって言われたんだけど、ゴミ拾い頑張ってって言われてもな……」
言葉足らずな美月と鈍感な伊織。私がフォローしなければ。
「それはゴミ拾いのことじゃないと思うよ」
「じゃあなんだよ?」
「それは……」
伊織を応援しているから、と言ったら何でだよ?と聞かれて美月の気持ちをばらしかねない。それ以外には何も思い浮かばない。
ごめん、美月。つい最近やっと恋愛というものをし始めた私がフォローとかおこがましかった。
「分かんないけど、ゴミ拾いのことじゃないことは確か」
「……まあいいや。お前いつもその人と一緒、ていうかその人としか一緒にいるところ見たことないけど、仲良いんだろ?」
「うん。可愛くて、優しくて、勉強もできて、初詣のときも色々アドバイスくれて、楽しく過ごせたって言ったらすごく喜んでくれて」
「そっか、大事にしろよ。じゃあな」
伊織は少しだけ笑顔を見せて自分の部屋に入って行った。
伊織は高校生になってから優しくなった。
美月が伊織を好きになったきっかけを聞いたときも思ったが、中学生までの伊織は自分が悪くない限りは、わざわざ面倒ごとに首を突っ込んだり誰かを助けたりを積極的にするような性格ではなかった。
それが見ず知らずの美月を助けたり、私のことをこんなにフォローしてくれるなんて去年までなら考えられないことだ。
伊織が大人になるにつれて伊織の考えていることが分からなくなってきている。小学四年生くらいまではツーカーの仲と言っても過言ではないくらいだったのに、少し寂しい。
その日は真人君と数回メッセージを交換してお互い目立つことはしないように気をつけようということになり、次の日を迎えた。
観客席は伊織の言っていた通り満席に近い。私服の人もいれば桜高校の制服の人、他校の制服の人、ジャージの人など服装は様々。私と美月は学校で勉強するという言い訳を使って来ているので制服だ。
休日で時間があったので真人君が褒めてくれた初詣のときの髪型にして来ようとも思ったが、目立つことはしないと真人君とも伊織とも約束したのでいつも通り、目が隠れるくらい前髪を下ろして地味で端っこにいる私のままでいることにした。
観客は偵察に来ている他校のバスケ部や観客席から練習中の選手たちに声をかける三年生と卒業生っぽい人たちもたくさんいるがそれ以外には私たちのような女子高校生も多く見られる。
そのほとんどの目当ては真人君のようで皆スマホで勝手に写真を撮っている。
昨日は授業中だったし、そもそも桜高校では朝のホームルームでスマホは回収されて帰りのホームルームで返却されるシステムなので写真なんて撮ることはできなかった。
古いスマホをダミーとして提出して隠し持っている人もいるらしいが大っぴらに使う訳もない。
「詩織は良いの? 写真撮らなくて」
美月に聞かれたが私は首を横に振った。
私は初詣の日に真人君の家の地下のコートでしっかりと許可を取って写真や動画を撮らせてもらっているし、試合の録画データを伊織が持っているのでその気になれば見せてもらえる。
盗撮まがいの行為をしてまで写真を撮る必要はないのだと、名も知らない人たちに対して少しだけ優越感を覚えていた。今は写真よりも生の声とか雰囲気とか音を味わいたい。
「すみません、隣座っていいですか?」
もうすぐ試合開始となったところで誰かに声をかけられた。私の右隣は空席だったので当然、了承した。どこかで聞いたような声だった気がすると思って右隣に座った人の顔を見ると、今一番会いたくない人だった。
「さ、佐々木さん」
もこもこのコートを膝の上に乗せて、冬なのに太ももとかおへそを出した気合の入っている格好をした佐々木さんが私の隣の席に座っていた。
いつも一緒にいる大石さんや他の取り巻きの人は今日は見当たらない。少し冷たいとも言えるくらい真剣な目でコートでウォーミングアップをする真人君を見つめている。
いつもは禁止されている化粧もしているし、染髪は禁止されているけれどほんのり薄く茶色のインナーカラーが入った長い髪もサラサラで綺麗だし、改めてみるとものすごく美人だと思う。それはもう私とはタンポポと薔薇くらいの違いがある。
観客席がほぼ満席だからとはいえ何故わざわざ私の隣に座ったのだろう。この機会に私を問い詰めるつもりだろうか。
左隣に座る美月が心配そうに私を見ている。席を代わってもらいたいところだがそんなあからさまなことをしたら余計に何を言われることか分からない。
「私ね、本気で真人君のこと好きなんだ。伊織君に告ったのも真人君と仲の良い伊織君と仲良くすれば真人君に近づけるかもって思ったから。言い方は悪いけど踏み台ってやつ。本命は常に真人君」
今までの佐々木さんのイメージからは想像もできないような優しくて、なおかつ情熱のこもった声色に私は呆気に取られてしまった。
きっとその言葉は私に向けられていたのだろうけれど、こんな言葉を向けられるとは思わなかった。調子に乗るなとか、真人君に近づくなとか言われると思っていた。
私が「うん」とだけ答えるとその後は佐々木さんは何も話さずにただただ試合を見ていた。私と美月もこの状況に緊張しながら試合を見守った。
試合は桜高校の圧勝で終わった。真人君は今日もシュートを一本も外さなかった。伊織の言うちょっと強いところとは午後からの準決勝であたることになっている。
次に行われる知らない学校同士の試合には興味がないので午後までどこかで時間を潰そうかと思い美月と席を立とうとすると佐々木さんに声をかけられた。
「ねえ、春咲さん。今日はどうして試合見に来たの? 伊織君の応援?」
「え、う、うん。そんなところ」
「でも伊織君ベンチに入ってないよね? 応援も何もないんじゃない?」
「そ、それは、そうだけど……」
「もう一回、顔、よく見せて」
佐々木さんは始業式の日と同じように私の前髪を優しくかき上げた。蛇に睨まれた蛙のように動くこともできず、冷たい視線で私を見つめる佐々木さんに目を、素顔を晒す。
「春咲さんって、前髪上げるか切っちゃって目出した方が可愛いと思う。体育のときの髪型にいつもすればいいのに。それか初詣のときみたいに。あのときの春咲さんすごく可愛かった。最初春咲さんだと気づかなかったくらい」
血の気が引いた。
やばい、もう疑惑なんてレベルではなく完全にばれている。真人君に好意を寄せている女子たちの大将みたいな存在の佐々木さんに真人君と初詣に行ったのが私だと気づかれてしまった。
「あ、あの」
目の前にいる佐々木さんへの恐怖とこれから何が待ち受けているかの恐怖、二つの恐怖で私は話すことも動くこともできなくなってしまっていた。
「付き合ってるの?」
私は首を横に振る。
「真人君のこと好きなの?」
少し考えたが首を縦に振った。
「春咲さんが誘ったの?」
首を横に振る。
「……私はそれでも私諦めないから。どんな手段でも使うから」
冷静で深い感情のこもった声でそう言って佐々木さんはその場を立ち去った。
私と美月は呆然と見送ることしかできなかった。
「おかえり。どうしたの? なんか、顔、変だよ」
「……ただいま。お前さ、真人の噂が流れてるのは知ってるだろ? ばれたくないならあんまり目立つことはするなよ」
「え、な、なんのこと?」
「試合終わった後、真人に手、振っただろ。あいつもテンション上がって嬉しそうに振り返しやがって、俺がちょうど近くにいたから誤魔化せたけど」
「あ、気づいてたんだ」
私の見立ては間違っていたようだ。
「真人にも注意しておいたから今後は気をつけろよ。明日も来るんだろ?」
てっきりしばらく見に来るなと言われると思った。だから伊織の言葉は意外で、私は呆然としてしまった。
「何驚いてるんだよ。来たいんだろ? だったら来ればいいだろ。それに……」
「それに?」
「真人が言ってたんだ。詩織が近くで見てると難しいシュートも不思議と全部入るってな。まだ今日の試合と真人の家の地下くらいしか例はないけど、一回もシュートを外してないって。明日はちょっと強いところとあたるから来てくれよ。真人も来て欲しいて言ってた」
私は真人君にとってジンクスのような存在になったようだ。どんな形であれ真人君に望まれる存在になれたというのは嬉しい。
「うん。美月と一緒に行く予定」
「土曜は人多いから頭に入れておけよ……そう言えばその美月って人だけど」
伊織が美月の話題を出すのは初めてだ。今日ほんの少し話してもしかして意識するようになったのだろうか。そうであれば私は大変嬉しい。
「美月がどうしたの? 可愛いでしょ。それにとっても優しくて……」
「変わってるよな。ゴミ拾ってくれた後に頑張ってねって言われたんだけど、ゴミ拾い頑張ってって言われてもな……」
言葉足らずな美月と鈍感な伊織。私がフォローしなければ。
「それはゴミ拾いのことじゃないと思うよ」
「じゃあなんだよ?」
「それは……」
伊織を応援しているから、と言ったら何でだよ?と聞かれて美月の気持ちをばらしかねない。それ以外には何も思い浮かばない。
ごめん、美月。つい最近やっと恋愛というものをし始めた私がフォローとかおこがましかった。
「分かんないけど、ゴミ拾いのことじゃないことは確か」
「……まあいいや。お前いつもその人と一緒、ていうかその人としか一緒にいるところ見たことないけど、仲良いんだろ?」
「うん。可愛くて、優しくて、勉強もできて、初詣のときも色々アドバイスくれて、楽しく過ごせたって言ったらすごく喜んでくれて」
「そっか、大事にしろよ。じゃあな」
伊織は少しだけ笑顔を見せて自分の部屋に入って行った。
伊織は高校生になってから優しくなった。
美月が伊織を好きになったきっかけを聞いたときも思ったが、中学生までの伊織は自分が悪くない限りは、わざわざ面倒ごとに首を突っ込んだり誰かを助けたりを積極的にするような性格ではなかった。
それが見ず知らずの美月を助けたり、私のことをこんなにフォローしてくれるなんて去年までなら考えられないことだ。
伊織が大人になるにつれて伊織の考えていることが分からなくなってきている。小学四年生くらいまではツーカーの仲と言っても過言ではないくらいだったのに、少し寂しい。
その日は真人君と数回メッセージを交換してお互い目立つことはしないように気をつけようということになり、次の日を迎えた。
観客席は伊織の言っていた通り満席に近い。私服の人もいれば桜高校の制服の人、他校の制服の人、ジャージの人など服装は様々。私と美月は学校で勉強するという言い訳を使って来ているので制服だ。
休日で時間があったので真人君が褒めてくれた初詣のときの髪型にして来ようとも思ったが、目立つことはしないと真人君とも伊織とも約束したのでいつも通り、目が隠れるくらい前髪を下ろして地味で端っこにいる私のままでいることにした。
観客は偵察に来ている他校のバスケ部や観客席から練習中の選手たちに声をかける三年生と卒業生っぽい人たちもたくさんいるがそれ以外には私たちのような女子高校生も多く見られる。
そのほとんどの目当ては真人君のようで皆スマホで勝手に写真を撮っている。
昨日は授業中だったし、そもそも桜高校では朝のホームルームでスマホは回収されて帰りのホームルームで返却されるシステムなので写真なんて撮ることはできなかった。
古いスマホをダミーとして提出して隠し持っている人もいるらしいが大っぴらに使う訳もない。
「詩織は良いの? 写真撮らなくて」
美月に聞かれたが私は首を横に振った。
私は初詣の日に真人君の家の地下のコートでしっかりと許可を取って写真や動画を撮らせてもらっているし、試合の録画データを伊織が持っているのでその気になれば見せてもらえる。
盗撮まがいの行為をしてまで写真を撮る必要はないのだと、名も知らない人たちに対して少しだけ優越感を覚えていた。今は写真よりも生の声とか雰囲気とか音を味わいたい。
「すみません、隣座っていいですか?」
もうすぐ試合開始となったところで誰かに声をかけられた。私の右隣は空席だったので当然、了承した。どこかで聞いたような声だった気がすると思って右隣に座った人の顔を見ると、今一番会いたくない人だった。
「さ、佐々木さん」
もこもこのコートを膝の上に乗せて、冬なのに太ももとかおへそを出した気合の入っている格好をした佐々木さんが私の隣の席に座っていた。
いつも一緒にいる大石さんや他の取り巻きの人は今日は見当たらない。少し冷たいとも言えるくらい真剣な目でコートでウォーミングアップをする真人君を見つめている。
いつもは禁止されている化粧もしているし、染髪は禁止されているけれどほんのり薄く茶色のインナーカラーが入った長い髪もサラサラで綺麗だし、改めてみるとものすごく美人だと思う。それはもう私とはタンポポと薔薇くらいの違いがある。
観客席がほぼ満席だからとはいえ何故わざわざ私の隣に座ったのだろう。この機会に私を問い詰めるつもりだろうか。
左隣に座る美月が心配そうに私を見ている。席を代わってもらいたいところだがそんなあからさまなことをしたら余計に何を言われることか分からない。
「私ね、本気で真人君のこと好きなんだ。伊織君に告ったのも真人君と仲の良い伊織君と仲良くすれば真人君に近づけるかもって思ったから。言い方は悪いけど踏み台ってやつ。本命は常に真人君」
今までの佐々木さんのイメージからは想像もできないような優しくて、なおかつ情熱のこもった声色に私は呆気に取られてしまった。
きっとその言葉は私に向けられていたのだろうけれど、こんな言葉を向けられるとは思わなかった。調子に乗るなとか、真人君に近づくなとか言われると思っていた。
私が「うん」とだけ答えるとその後は佐々木さんは何も話さずにただただ試合を見ていた。私と美月もこの状況に緊張しながら試合を見守った。
試合は桜高校の圧勝で終わった。真人君は今日もシュートを一本も外さなかった。伊織の言うちょっと強いところとは午後からの準決勝であたることになっている。
次に行われる知らない学校同士の試合には興味がないので午後までどこかで時間を潰そうかと思い美月と席を立とうとすると佐々木さんに声をかけられた。
「ねえ、春咲さん。今日はどうして試合見に来たの? 伊織君の応援?」
「え、う、うん。そんなところ」
「でも伊織君ベンチに入ってないよね? 応援も何もないんじゃない?」
「そ、それは、そうだけど……」
「もう一回、顔、よく見せて」
佐々木さんは始業式の日と同じように私の前髪を優しくかき上げた。蛇に睨まれた蛙のように動くこともできず、冷たい視線で私を見つめる佐々木さんに目を、素顔を晒す。
「春咲さんって、前髪上げるか切っちゃって目出した方が可愛いと思う。体育のときの髪型にいつもすればいいのに。それか初詣のときみたいに。あのときの春咲さんすごく可愛かった。最初春咲さんだと気づかなかったくらい」
血の気が引いた。
やばい、もう疑惑なんてレベルではなく完全にばれている。真人君に好意を寄せている女子たちの大将みたいな存在の佐々木さんに真人君と初詣に行ったのが私だと気づかれてしまった。
「あ、あの」
目の前にいる佐々木さんへの恐怖とこれから何が待ち受けているかの恐怖、二つの恐怖で私は話すことも動くこともできなくなってしまっていた。
「付き合ってるの?」
私は首を横に振る。
「真人君のこと好きなの?」
少し考えたが首を縦に振った。
「春咲さんが誘ったの?」
首を横に振る。
「……私はそれでも私諦めないから。どんな手段でも使うから」
冷静で深い感情のこもった声でそう言って佐々木さんはその場を立ち去った。
私と美月は呆然と見送ることしかできなかった。