観光客を乗せた舟が川をゆっくりと流れていくのを眺めながら、作戦会議をした。
「とりあえず、あいつ地獄に落としてやりたいよね」
高梁さんが怖いことを言う。
「どうやって?」
尋ねると、高梁さんはうーんとうなった。
「直接何かしてるわけじゃないから証拠がないんだよね。背中に『陰険教師』って書いた紙貼りつけて笑うとか?」
「それじゃ逆にいじめだよ」
「それくらいしてもいいと思うけどなあ」
高梁さんは不満そうに言う。
色々話し合った結果、朝の出欠確認を夏休みまで毎日スマホで録音しようということになった。
そんなことをして意味があるのかどうかはわからないけれど、たとえ小さなことでも、証拠の一つくらいにはなるかもしれない。
「明日から決行ね。名づけて『クズ教師を地獄に落とそう作戦』」
高梁さんが人差し指をたてて言った。そのままだった。
なんだか楽しそうだ。
これまで、自分のおかれた状況を変えようなんて思ったこともなかった。
教室はただの景色で、僕は透明人間で、それでいいと、はじめから諦めていた。
一人だったから。
集団の中でたった一人孤立するのは、まわりが思うよりずっと孤独なんだ。
自分から何かしようという気持ちを根こそぎ奪っていく。
声をあげる勇気なんて一ミリも持てない。
そしてそのうち、考えることすらしなくなる。
でも、いまは一人じゃなかった。
高梁さんの言葉で、何かが変わる気がした。
変わるかもしれない、そう思えた。
本当に何か変わるかどうかなんて、やってみないとわからない。
意味なんてないかもしれない。
でも、一人なら、絶対に考えもしなかった。
オレンジ色の空があたりを淡く包んでいた。
あのときと同じだった。
高梁さんが踏み込もうとした夕暮れの線路。
半透明の高梁さんの横顔からは、あのときの思い詰めたような気配は感じなかった。
それとも、強すぎるほどの夕焼けのせいで見えにくくなっているだけだろうか。
高梁さんは、どんな人なんだろう。
いつもやる気がなさそうだと思っていたら、笑ったり、怒ったり、戦おうと言ったり……
知らなかった、意外な一面を、たくさん知ったような気がしていた。
でも、知らなかった。
僕はまだ、高梁さんのことを何も知らなかった。
笹ヶ瀬くんが学校を休んだ。
予鈴が鳴っても空いている隣の席を見て不安になる気持ちを追い払う。
大丈夫。昨日、一緒に戦おうって約束したんだから。
でも……。
嫌な胸騒ぎがした。
もし笹ヶ瀬くんがこのまま来なくなったら……。
「高梁さんおはよー」
声をかけられて、音楽を止めた。
顔をあげて、あ、と思う。昨日見かけた子たちだった。
言おうとしていることは、聞かなくてもわかった。
「ね、昨日さあ……学校の帰りに見ちゃったんだけど」
やっぱり。
あのとき一瞬、目が合った。
こっちを見て何か言っているのもわかった。
「何してたの?」
「べつに何も。ただ散歩してただけだよ」
「……へえ」
二人が変人を見る目で私を見る。
ただ学校帰りにクラスメイトと歩いてただけで、どうしてそんな目で見られなきゃいけないんだろう。
この状況がおかしいとは思わないんだろうか。
「べつにいいけどさ。あんまり関わらないほうがいいよ。高梁さんも目つけられるよ……吉井さんみたいに」
久しぶりに耳にしたその名前に、胸がズキンと痛んだ。
一年のときクラスが違っても、知っている生徒はいる。
去年、学校に来なくなったーー吉井七菜のことを。
理不尽だと思う。
でも、ここで私が怒ったところで意味がないのもわかってる。
この子たちが私を心配して言ってくれているのだということも。
だから私は、喉まで込み上げた言葉を飲み込んで
「気をつけるよ」
とだけ言った。
「……もういいよ。行こ」
これでいいんだ。
昨日笹ヶ瀬くんと話し合って、学校では話さないようにしようということになった。
夏休みまでは、なるべく勘づかれないようにいままで通りに過ごそうと。
七菜とは家が近くて、中学から一緒だった。
運動部にも吹奏楽部にも入れなかった私は、消去法で人気のなさそうな手芸部に入った。
手芸部の部員は五人だけで、しっかり者で面倒見のいい七菜は部長だった。
不器用な私に、一から丁寧に糸の使い方を教えてくれた。
高校でも一緒に手芸部に入った。
私は相変わらず不器用で、裁縫というより小さい子供が針で遊んでるレベルだった。
おまけに人見知りで新しい友達もできなかったけど、七菜と一緒に何かをするのは楽しかった。
そんなとき、大島が七菜を無視するようになった。
流行り病みたいに、その空気はあっという間に教室を支配した。
気づけば私まで、飲み込まれてしまっていた。
七菜がクラス全員から無視されるようになったとき、私は、見ないふりをした。
夏休みが終わったら、前みたいに話しかけよう、そう思っていた。
でも、夏休みが終わってから、七菜は学校に来なくなった。
秋になっても、冬になっても。
七菜のいなくなった手芸部には自然と顔を出さなくなった。
あんなに教えてもらったのに、私一人では何一つまともに作ることができなかった。
そして二年生になったとき、全校生徒の名前から、七菜の名前が消えていた。
七菜は、もうこの学校にはいなくなっていた。
どうしてあのとき、手を差し伸べてあげなかったんだろう。
一人じゃないよって言わなかったんだろう。
クラスなんて、どうだっていいのに。
自分が無視されたってよかったのに。
どうせあと一年しかないんだから。
それなのに、私はまた同じ過ちを繰り返そうとしていた。
クラス中から無視されている笹ヶ瀬くんを、見てみないふりをした。
七菜が学校を辞めたとき、あんなに後悔したのに。
私には関係ないって、思ってしまった。
でも、他人に興味を持てなくなっていた私を変えたのも、笹ヶ瀬くんだったのだ。
大島が教壇に立って、わざとらしく教室を見回した。
「今日は目障りなのがいないから空気がいいな」
朝の挨拶と同じように、笑顔でそう言った。
そして演説するみたいに教壇に手をついて続ける。
「いい機会だから大事なことを言っておこう。お前たちはまだ学生だからピンとこないかもしれないけど、社会に出たら上の者には絶対に敬わなければならないんだ。そんな簡単なルールすら守れないような奴は必要とされない。ゴミ同然だ。当然罰が下る。どうなるかは、もうわかってるな」
教室は静まり返っていた。誰も、何も言わなかった。
何か言えば、自分も同じ目にあうのはわかっていたから。
何もしないことが、自分を守る、いちばん楽な方法だから。
ーーこんなの、やっぱりおかしい。
あまりに静かな空気に、私は全身がぞっと粟立った。
大島はまったく反省なんてしていなかった。
自分のせいで学校に来れなくなった生徒のことだって、自分に歯向かったから当然だと思っている。
その気分がよさそうな顔を見て、そう確信した。
何も変わってない。
変わるはずがなかった。
こんな奴の好きには絶対にさせない。
なんとかしなきゃ。
誰がやらなくても、私が。
笹ヶ瀬くんがいなくなってしまう前に。
放課後、バスに乗って病院に向った。
市内でいちばん大きな総合病院に、私は月に一度、定期検診に通っている。
大学生のお兄ちゃんが研修で来ているはずだった。
忙しそうだし、広いからきっと顔を合わせることはないだろうけど。
待合席のモニターに受付番号が表示されて、診察室に入った。
「おお、柚葉ちゃん。こんにちは」
砂川先生が顔をあげて言う。
砂川先生は、私が小学校に入る前からずっと担当してくれているおじいさん先生だ。しわだらけの顔に分厚い老眼鏡をかけている。
「学校はどうだい。もう柚葉ちゃんも高校二年生か。いやあ、大きくなったなあ」
先月も来たのに、砂川先生はしみじみと言う。
「学校は、まあ、普通です」
むかつく教師が一人いる以外は、と心の中で付け足した。
「そうかそうか。普通がいちばん」
砂川先生は笑いながら診察を始めた。
「うん、安定してるな」
砂川先生は言った。
安定してる。
それは私の場合、安心していいということには全然ならない。
私の心臓は、つねに異常だから。
これ以上早くなることも遅くなることもない。
異常が起こっているのに、生まれたときからずっとそうだったから普通になってしまっている。
たまに、異常だってことすら忘れかけてしまう。
普通じゃないってことを思い出すために、毎月ここに来ているようなものだ。
「いつも言ってるけど、激しい運動はくれぐれも控えるように」
「はいはい、わかってます」
「それと塩分の取り過ぎにも気をつけるように」
「はいはい、わかってます」
まるで年寄りの診察みたいだ。
適当に返事をしていたら、砂川先生に呆れられた。
「……まったく。本当にわかってるんだか」
わかってるよ。心の中で答える。わかりすぎるくらい、わかってる。
体力が少しずつ削られるようになくなっていくのを、私がいちばん知っている。
だから、思うんだ。
どうせあと一年で終わる命なら、全力で走ったって思いっきり塩辛いもの食べたっていいんじゃないのって。
そんなの食べたこともないから、おいしいのかどうかすら知らないけど。
診察室を出て通路を歩いていると、見覚えのある背中を見つけた。
後ろからそろそろと近づいていって
「お兄ちゃん」
と声をかけた。
「わっ……ああ、柚葉か。今日は検診だったか」
目の下にクマが浮いている。
毎日の研修で疲れているんだろう。大学生も大変だ。
「ね、いま暇?」
「暇なわけないだろ」
「だよねー。じゃあ一人で行こうかな。そこのカフェの期間限定白桃パフェ」
「三十分後に休憩入ったらすぐ行く」
予想通りの返事に、私はにんまりと笑ってうなずいた。
持つべきものは大学生の兄だ。
病院の前にある喫茶店は、パスタやオムライス、サンドイッチなどの軽食もあるけれど、有名なのは甘党もうならせる巨大パフェだった。
三十分を少し過ぎてからお兄ちゃんが入ってきた。
きっと大急ぎでやることを終わらせてきたんだろう。
「お待たせ」
と言って向かいに座ったお兄ちゃんは、さっきよりもさらに疲れ具合が増しているようだった。
「お待たせしました。白桃パフェおふたつ」
店員がやってきて、テーブルに大きなパフェを置いた。
おお、とお兄ちゃんがため息を洩らす。
顔色がぱっとよくなったのを見て、私は笑った。
甘いものは正義だ。
ごろごろとした白桃が盛りつれられていて、その上にさくらんぼとみかんとマスカット、てっぺんではクリームが渦を巻いている。
グラスの下部分にはプリンが入っている。ザ・パフェという感じ。
これぞいま私が求めていたもの。
白桃はとろりと柔らかくて、一口食べるとみずみずしい味が口いっぱいに広がった。
甘酸っぱいフルーツと、思いっきり甘いクリームとプリンが絶妙なバランスだった。スプーンを動かす手が止まらない。
辛いものや刺激物、数えきれないほどある食事制限の中、唯一自由が許されているのが甘いものだった。
うちの家族が超がつく甘党だからだ。
そんな理由、と思うけど、何か一つでも逃げ道がないと息が詰まってしまう。
嫌なことがあったとき、甘いものを思いっきり食べるのが私のストレス解消法だった。
「学校はどうだ?」
お兄ちゃんがパフェを食べながら尋ねた。
「まあまあ」
「友達はできたか?」
始まった。お兄ちゃんの質問攻撃。
心配性でもとから過保護気味なところはあったけど、大学生になって研修が始まってから、さらにおじさんくさくなった気がする。
「できたよ」
スプーンでプリンを小さくすくって口に入れる。甘い。
「お、どんな子だ」
「男の子だよ」
「男だと……?」
お兄ちゃんの目の色が変わった。
医者を目指して勉強ばかりしていたお兄ちゃんは、見るからに恋愛には縁がなさそうだった。
「そういうのじゃないから。ただのクラスメイトだし」
「そうか……ほんとに友達なんだよな?」
「だからそうだってば」
明らかにホッとしているお兄ちゃん。
心配性というか、妹の私から見てもかなり、シスコン気味だと思う。
「俺はまた戻らないとだけど、一人で帰れるか?」
店を出てバス停まで見送ってから、お兄ちゃんが心配そうに言った。
「大丈夫だよ。何年この病院通ってると思ってんの」
「そうだな。じゃ、気をつけて」
忙しそうに言って横断歩道を渡る背中に、私は手を振ってバスに乗り込んだ。
ガラス越しの空が水色から濃い青に変わっていく。
グラデーションの境目あたりにアーモンド型の月が浮かんでいる。
窓際に頬杖をついて流れていく景色をぼんやりと眺める。
『なんで、そこまでしてくれるの』
笹ヶ瀬くんはそう言った。
自分のために何かしようと思う人がいるなんて、一人もいないと思っているような言い方だった。
『私が嫌なの』
私はそう言った。
私が何かしたところで、もうやめてしまった七菜が学校に戻ってくることは、きっとないけれど。
これは、私のため。
でも、それだけじゃない。
笹ヶ瀬くんが、いなくなってしまうかもしれない。
本気で、そう思った。
いまならまだ、間に合うかもしれない。
そして、もし未来が変わったら……
会いに行こうと思った。
七菜に会って、もう一度話がしたかった。
8時28分。机の下でスマホを操作して録音を開始する。
8時30分。チャイムが鳴るのと同時に大島が教室に入ってくる。
「おはよう。全員席についてるな」
わざとらしく明るい声でそう言って、生徒の顔をぐるりと見回してから、名簿を開く。
生徒の名前を一人ずつ呼んでいく。
『クズ教師を地獄に落とそう作戦』開始初日から、僕は風邪をひいて学校を休んでしまった。
緊張で体調を崩してしまうのは昔からだ。
風邪薬を飲んで一日寝ていたら、朝にはすっかり治っていた。
改めて、今日から作戦開始だ。
「幸田ー」
「はい」
「里見ー」
「はい」
「下村ー」
「はい」
当たり前のように僕の名前は呼ばれない。
だけどいま、僕が机の下で自分の声を録音しているなんて、読み上げている本人は思ってもいないだろう。
高梁さんが、これは笹ヶ瀬くんがやらなきゃ意味がないって言った意味がわかった。
僕が僕の携帯でこの瞬間を録音していることが、この教室にいることの証になるから。
高梁さんは今日も相変わらず半分透明だった。
肩までの髪も制服もイヤホンも全部、透けている。
でも、透けていようがなんだろうが、高梁さんは隣にいる。
名前だって呼ばれる。
一人じゃない。
ただそのことだけが、うつむきそうになる僕に、前を向かせてくれていた。
大島が全員の名前を呼び終わった。
僕を除いて全員分。
高梁さんが前を向いたまま親指を立てていた。
それを見て僕も、小さく親指を立てた。
とりあえず一日目、作戦成功だ。
学校で話をしない、手紙のやりとりもしない。
そう決めたはずだったけれど……。
さっそく物理の授業中に、高梁さんが机の下から手を伸ばしてきた。
あれ、決めたはずだったよな……?
何か大事なことだろうか。
緊張しながらメモを開いて、一気に脱力した。
『大島、鼻毛出てない?』
全然大事なことじゃなかった。
自分で言ったルールをさっそく破る高梁さん。
条約は破るためにある、というスターリンの名言を体現している。
『出てるね。寝癖もついてるね』
僕は適度なことを書いてメモを返した。
本当に鼻毛が出ているかどうかなんてことは、この際どうだっていいのだ。
隣で高梁さんが笑いを堪えて震えていた。
夏休みまであと三週間か。
休み時間、いつものように夏休みまでの日数を数えながら、この教室で前よりずっと息がしやすくなっていることに気づいた。
いままで、ずっと呼吸を止めていたみたいだった。
誰にも気づかれないように。物音を立てないように、気配を消していたのだ。
でも、そんなことしなくてもいいのだと思った。
普通にしていればいい。
そう思えるようになったのは、高梁さんのおかげだった。
“ありがとう”
そう書こうとしたとき、チャイムが鳴った。
結局、お礼は言えなかった。