一歩ずつ、階段をのぼって、まもなく世界は開ける。
上靴の底から伝わる廊下の床も、じめじめとした空気も、この学校に関わるものが今日で終わるのだ。
胸につけた造花のブローチから『卒業おめでとう』と書かれたリボンが下がっていて、この学校にいられる時間が終わることを示しているようだった。
この校舎を出た瞬間に高校生活は過去に変わる。
それは階段をのぼった先――屋上で待っている人との関係も。
重たい扉を開くと、鈍い金属の音と共に春の風が入りこんできた。それは肌にまとわりつくものではなく、胸の奥までしみこんでいって切なさを引き出す空気。
屋上の真ん中、その人物はいた。目が合うと同時に、私はいつものように微笑む。
「卒業おめでとう、九重くん」
九重くんは照れているのか視線を斜め下に外しながら「お前もな」と答えてくれた。
馴染みのある、低くて少し枯れた声。ここ半年ほど練習に出ていなかったのに、枯れた声はなおっていない。
毎日遅くまで練習して、たくさん声を出していたから枯れてしまったのだろう。それは高校三年生の夏まで続いた九重くんの努力がにじみ出ているようで、好きだった。
「引退したのに、髪は伸ばさないんだ?」
「坊主に慣れた。それに大学入っても野球を続けるから」
一歩ずつ九重くんに近づいて、距離が少しずつ縮まって。
でも、重なることのない三年間だった。数歩ほどの距離を残して、私は立ち止まる。
「そっか。大学に入っても野球はできるもんね」
「お前は? またマネージャーやるのか?」
「うーん……考え中かな」
本当は、マネージャーはしないと決めていた。それは大学を受験する前に決意していたけれど九重くんには言わなかった。
同じ学年だけどクラスは一度も同じにならず、野球部だけが私たちの接点だったから、もう野球に関わる気はないと伝えてしまうのが怖かったのだ。
私たちは別々の道に進む。違う大学、違うものを目指して歩く。きっとこんな風に顔を合わせることもなくなる。だから共通点が欲しかった。私たちの高校生活を繋いだ『野球』を残していたかった。
「それで、話ってなあに?」
私をここに呼び出したのは九重くんだった。卒業式の前日、話したいことがあるから屋上にきてほしいと連絡をもらったのだ。
普段あまり喋らず、チームメイトからも口下手だと笑われていた九重くんが、こうして私を呼び出す。それも卒業式に。
表には出さないようにしていたけれど、期待していた。三年間秘めていた気持ちが報われる時がきたのかもしれないと思っていた。
ずっと、九重くんが好きだった。
誰よりも野球が好きで、うまくなりたくて、練習が終わっても毎日遅くまで残っていた九重くん。そのひたむきな姿が気になって、目で追うようになった。
それだけじゃない。無愛想な人だけどとても優しくて、マネージャーの仕事を手伝ってくれる時もあったし、秋や冬は暗い道を女の子一人で帰るのは危ないからと家の近くまで送ってくれたこともある。
野球に打ち込む真剣な表情や優しい表情、様々な九重くんを知るうちに、好きになっていた。そして今日まで、私の片思いが続いている。
「ありがとう。お前がいたから頑張ってこれた。三年間、支えてくれてありがとう」
私に向かってお辞儀をする見慣れた坊主頭に、ずきりと胸が痛む。
募らせた片思いを打ち明けなかったのは、この関係を壊したくなかったから。
断られたらきっと辛くて、立ち上がれる自信がない。気持ちを伝えたいけれど、踏みこんでいく勇気がでなくて、私は『彼女』ではなく『マネージャー』として留まることを選んだのだ。
『マネージャー』の立場にいたからこそ、ここに呼び出されて、こうして向き合っている。九重くんが告げる感謝の言葉は、私が三年間我慢してきたものを讃えるようだった。
気持ちが報われるかもしれないなんて思っていたのが恥ずかしくなる。いつもの『マネージャー』の顔をして私は微笑んだ。
「私もありがとう。みんなや九重くんと過ごせてとても楽しかったよ」
「俺も楽しかった……約束を叶えられなかったことが心残りだけど」
そう言って、九重くんは空を見上げた。
夏の日。私たちの最終決戦。
こうして九重くんは空を見上げていた。あの日の視界にあるのは青空にあがった白球。私たちが追い求めてきた夢を、三年間を、奪っていったもの。
「……お前を甲子園に連れて行けなくて、ごめん」
私も、九重くんと同じように空を見上げる。目を細めれば、あの日の白球が私にも見える気がした。
***
『久瀬を甲子園に連れていく』
九重くんと約束をしたのは高校三年生の春。
部室に残ってユニフォームの補修をしていた時、九重くんがやってきて言った。
野球部らしい約束だと思う。友達のニナちゃんやカナデちゃんに話したら「ベタだな」なんて笑っていた
「約束を叶えたら……久瀬を甲子園に連れて行ったら、話したいことがある」
「その話したいことって、いまじゃだめなの?」
私の問いかけに、九重くんは迷っているようだった。でも最終的に頷いて「約束叶えたら」と繰り返した。
「俺はそういう約束とかご褒美がないと、だめだと思うから」
「にんじんを鼻先ぶらさげて走る馬みたいな?」
「だな」
そして隣に腰掛けて、私の仕事を手伝う。
人よりも手が大きいから縫い物は苦手だなんて言いながら針を持って、一生懸命縫っていく。
「大丈夫だよ。量少ないし、終わったら帰るから」
「外、暗いだろ。俺が手伝えば早く終わる」
「終わったら一緒に帰る?」
「…………おう」
照れを隠すように俯いて、でもちゃんと返事をしてくれる。
他のマネージャーの仕事も手伝うけれど、私が居残りをする時はいつも九重くんが様子を見に来てくれた。
部室で二人残って作業している時も、終わって一緒に帰る時も。
ぜんぶが幸せだった。もっと続いてほしいと願った。
「私たち、三年生になっちゃったね」
私が呟くと、九重くんの針が止まった。
「夏が終わったら、みんな引退しちゃう。私たちの生活から野球部が薄れちゃう」
「……かもしれないな」
「部室やグラウンドに集まることもない。ユニフォームも着ない。大学受験で勉強漬けの日々になる。きっと――」
こうして二人で、部室に残っていることもなくなる。喉元まであった言葉を、声にすることはできなかった。
もっと高校生が続いてほしい。この幸せな日々が永遠に続いてほしい。
「……甲子園に、行こう」
九重くんはそう言って、前を向いた。
私たちが高校生になる数年前から、数名高校は野球部に力を入れるようになった。元プロ野球選手を監督に迎えたことで知名度は上昇し、部員数は急激に増えた。
そして私たちの代は、数名高校野球部の歴史でも最高だと称されていた。二年生のピッチャーと、キャッチャーである三年生の九重くん。この二人のバッテリーは、練習試合でも負けなし。
それでも地区予選が始まった頃は甲子園なんて夢だった。憧れるけれど手が届くことはない空みたいなものだと思っていた。
一勝、また一勝と勝ち進んでいくたび、それは近づいていく。
厳しいかと思われた試合も奇跡のような逆転勝利、点数動かない試合も延長まで粘って勝利。
あの時の私たちは無敵で、数名高校野球部にできないことはないんだって思っていた。
でも――違った。
空は少しずつ近くなって、あと一勝。もうすぐ甲子園に届きそうなほど近づいていた地区大会決勝戦の日。
スポーツには目に見えない『流れ』というものがある。選手たちはもちろんのこと、ベンチや観客席にも伝わる無言の魔物だ。それは風のようなもので、追い風になる時もあれば向かい風もある。たとえ点差のある試合でも『流れ』を掴めば、ひっくり返すような奇跡だって起きる。
三年間、野球部と共にいた私もその存在を信じていた。ここまでの試合、流れがいいことばかりではなかった。向かい風の時もあったけれど、『流れが悪いかも』という予感みたいなものがあって。
でも。そういった予兆は感じなかった。
何もなかった。球場に潜む『流れ』はどちらにも味方せず、風は吹いていない。
スコアボードは0対0。両校共に投手戦。ヒットは出てもその後のフォローによって点数につながることはなく、これは延長もあるかもしれないと構えていた9回裏。
二年生のピッチャーは、九重くんのキャッチャーミットを目指して白球を放り投げる。普段通りの、何も変わらない投げ方。
でもその球は、甲高い音と共に視界から消えた。
「……あ」
風は吹いていなかった。延長戦に入るのだと信じていた。
晴れた空に突き抜ける金属音。練習や試合で、何度も求めてきたその痛快な音に、脳髄がびりりと痺れる。
見上げれば、宙に白球があった。球場を包む緊迫した空気から抜け出して、灼けつく太陽に近づかんとばかりに高くあがって飛んでいく。
流れていく。風が運んでいく。
ボールがフェンスを越えて視界から消えれば、対戦校の選手たちが大喜びでベンチから身を乗り出していた。サヨナラホームラン、と誰かが言っている。無得点試合のまま9回裏に起きたドラマティックな勝利。
それは私たちの目線になると姿を変えて、夏の終わりなんだ。たった一球で私たちの夢は途切れた。
「……九重くん」
自然とその名を呟いていた。九重くんは、キャッチャーマスクを外して、白球が消えた先を呆然と眺めていた。球場に響く歓喜の声も夏の終わりにすすりなく声も、九重くんには届いていないようだった。
今もはっきり覚えているのは、試合が終わってロッカールームに入った時のこと。三年生たちは悔し涙を流していたけれど、九重くんは泣いていなかった。ただ静かに、俯いているだけ。
「……お疲れ様」
どんな言葉をかければいいのかわからなくて、いつものように告げた。
「……久瀬……俺は、」
言いかけて、飲みこむ。
しばしの間を置いて、ようやく吐き出された言葉は後悔が混ざったもの。
「いつも大事な時に失敗をする。あと一歩のところで勇気がでなくて、憧れていたものを逃すんだ」
「……この負けは、誰かのせいじゃないよ」
「わかってる。わかっているけど――」
俯いた頬をきらめくものが伝い落ちる。
小学生の頃、『男の子だから泣かない』なんて言っている男子がいたけれど。私はそう思わない。男の子だろうが女の子だろうが泣いていい。この涙って綺麗なんだ。今しか流せないものなんだ。
胸が苦しくなって、締め付けられて。
この場所が私と九重くんの二人だけだったら、きっとその肩を抱きしめていたと思う。それぐらい心に響く姿だった。
青く、澄んだ空の日。野球に捧げた私たちの三年間が幕を閉じた。
その後、三年生は引退になってしまった。私は後輩マネージャーの手伝いがあったから何度か部活に顔を出していたけれど、九重くんは違った。部活に出ても後輩の様子を少し見る程度で、野球に触れようとしない。
野球だけじゃない。同じクラスだったから夏の後何度も話したけれど、九重くんは『約束』のことを口にしようとしなかった。
私と九重くんの関係は、一歩を踏み出すことができないまま、夏と一緒に終わった。
***
空を見上げて夏のことを思い出す。あっという間に寒くなって、気づけばもう春。
あの日のように泣いてはいないし、身に着けているのは泥汚れのユニフォームではなく、卒業記念の造花がついた制服だ。
高校の卒業式はどれほど悲しいだろうと思ったけれど、野球部の引退式の方が悲しかった。今日は悲しさよりも寂しさの方が強い。
九重くんがこちらを見た。
「あんな約束をして、後悔してる。甲子園に連れて行くなんて格好いいこと言っておいて、こんな結果なんてな」
「私は、あの約束がすごく嬉しかったよ」
「約束を叶えられなかっただろ」
「ううん。みんなで同じ夢を見ていたからいいの」
九重くんに言ったことは嘘ではない。
私にとって『甲子園に連れていく』は憧れの台詞で、さらに片思いをしている男の子からそれを言われるなんて、物語に出てくるヒロインのようだった。
九重くんの努力を知っていたから約束を信じていた。あの白球がフェンスを越える瞬間まで私はヒロインだったのだ。その時間を味わえただけで幸せだ。
「ねえ、聞いてもいい? 『約束を叶えたら話したいことがある』って、どんな話をするつもりだったの?」
しかし九重くんは「それは……」と言い淀んでしまった。逃げるように視線が泳ぎ、それからため息を吐く。
「内緒?」
助け船を出すと、九重くんはこくりと頷いた。
「じゃあ、いつか教えてね」
「……そう、したいけど」
九重くんはポケットからボールを取り出した。卒業記念にもらってきたのだろう、薄汚れた野球ボール。
「本当に、野球以外だめだな、俺は」
「そうかな?」
「最後かもしれないのに一番大切なことが言えない。勇気がでないんだ」
落ちこむ姿に、私は笑う。
そして数歩後ろにさがり、ボールを受け取れるよう手を構えて「投げて」と合図を送る。
時間を楽しむようにゆっくりとした速度でボールが届く。何度も触った野球のボールが、なぜか今日は重たく感じた。
「私も勇気がでなくて、一歩が踏み出せないの。一緒だね」
「難しいよな。キャッチボールなら簡単なのに」
「本当にね」
お互いを気遣って、素手でも取りやすいように。ボールが落ちてしまわないように。
優しいキャッチボールを交わせば、会話が繋がる。
あの夏、私たちの約束が叶っていたら。
私と九重くんは物語のヒーローとヒロインになれたのだろうか。
甲子園に辿り着いていたのなら、私は九重くんに告白する勇気を得られたのだろうか。
「お前に言いたかったことは、たった二文字なんだ。でもその二文字を言う勇気がなくて――」
そこまで言いかけて、九重くんの動きが止まった。手にしたボールをじっと見つめたかと思えば、今度はかばんに手を伸ばす。
取り出したのはサインペンだった。
「うまいこと言えないから、書いて、投げる」
「九重くんらしいね」
サインペンのふたを取り、いざ一文字目を――と書いたところで九重くんは「あ」と言ったきり手を止めてしまった。
「どうしたの?」
「……字が大きすぎた」
その不器用さが九重くんらしくて、屋上に二人分の笑い声が響く。
「ふふ。それでもいいよ。一文字でも受け取るから」
「それで伝わるのか?」
「たぶん、大丈夫。投げて」
そして九重くんの気持ちを乗せたボールが、屋上にふわりと浮かぶ。
春の風を纏いながらゆるゆると落ちてくるそれを、しっかりと受け止めた。
九重くんは気まずそうに、かばんを手に取る。
キャッチボールが終わった。これで九重くんと私の三年間も終わるのだ。それは名残惜しく、もっと九重くんの制服姿を見ていたくて、目で追ってしまう。
「二文字目は、今度会ったらちゃんと伝えるから」
「……もう、帰るの?」
「……おう」
帰らないで、って言えなくて。
でも『またね』と言うこともできない。だって次はいつ会えるのかわからない。私たちは別々の道に行くのに。
「……三年間ありがとう、久瀬」
勇気がだせず一歩を踏み出すことのできない私を残して、九重くんが去っていく。
屋上の扉が閉まる音は、私の涙腺を壊した。一人になった瞬間、ほたほたと涙がこぼれていく。
泣きながら、ボールを包んでいた両手を開いた。白球には黒いサインペンで『す』と不器用な文字が書かれていて――そのたった一文字で、伝わってしまったのだ。
あと一歩まで迫って、届かない。後悔が詰まった涙は止まらない。
***
「綾乃ー! 遅いよー!」
「二人とも待たせてごめんね」
大学生になって数ヶ月後。ニナちゃんに誘われて、母校に行くことになった。
土曜日の午後はグラウンドや体育館で部活動に励む生徒だらけ。せっかく来たのだからと校舎を見て回ることになった。
集まったのは仲のいい友達のニナちゃんとカナデちゃん。こまめに連絡は取っているけれどこうして会うのは久しぶりだ。数ヶ月前までは制服で通っていた場所に私服で来るなんて少し不思議な気分。
「……で。まずはどこに行く?」
「そりゃもちろん――ニナのカレピッピ観察でしょ」
カナデちゃんはにたりと笑って、ニナちゃんの肩を叩く。
ニナちゃんは、高校三年生の時に後輩くんの二見沢くんと付き合いはじめた。ニナちゃんは部活は違えどマネージャー仲間だったから、ずっと片思いしていた後輩くんと付き合ったと報告を受けた時は嬉しくてたまらなかった。
今日は男子バスケと女子バスケが体育館を使っていると聞いたので早速体育館へ。普段はシューズのこすれる音やバスケットボールの弾む音が聞こえていたのに、ちょうど休憩中だったらしく体育館は静かだ。
中に入ろうとすると、ちょうどバスケット部の男子部員が出てくるところだった。スマートフォンをいじりながら歩いていたので、先頭を歩いていたニナちゃんとぶつかってしまった。男子生徒は慌ててニナちゃんに手を差し伸べる。
「すみません――って西那先輩!? あれ、卒業したんじゃ」
「一ノ瀬くん久しぶり!」
一ノ瀬くん、って聞いたことあるかも。私が三年生だった時、一年のバスケ部にイケメンがいるって話題になった気がする。
「どう? 元気にしてる?」
「それなりに元気ですよ」
「とある筋からの情報だと、ついにクラス替えで願いが叶ったんだって?」
元バスケ部マネージャーってこともあって、ニナちゃんは一ノ瀬くんと親しいらしい。彼がクラス替えにどんな希望を抱いていたのかはわからないけど、一ノ瀬くんは少し照れた様子だった。
「……それ、どこ情報っすか? バスケ部みんな口軽すぎですよ」
「さて誰からでしょう」
「篠宮の兄貴……もありそうだけどやっぱふたみん先輩かなあ。あの人ほんと軽いからなあ」
一ノ瀬くんは困ったように頬をかいて、それから咳払いを一つ。
「それで。西那先輩たちはどうしたんですか? ふたみん先輩なら――」
「あ。違うの。ふたみんの様子も見にきたけど今日は別。母校探検してるの」
ニナちゃんが一ノ瀬くんと話している間に、私とカナデちゃんは体育館を覗く。たった数ヶ月で懐かしいと感じてしまうのだから不思議だ。私が卒業してしまったから、体育館が別の場所になったようだ。以前は平気で立ち入っていたのに、今は靴を脱ぐのに勇気がいる。
「あーあ。バスケしてるところ見たかったのになあ」
「タイミングが悪かったね。先に他の場所を見て、また後で来ましょう」
「次どうする? 美術部か吹奏楽部か」
すると一ノ瀬くんとの話を終えたニナちゃんが戻ってきた。合流したところで次の場所に向かう。今度は校舎だ。
私たちは卒業してしまったので生徒玄関ではなく来客用の玄関からになる。そういった違いも、卒業したのだと改めて実感する。
廊下を歩くと遠くの方から金管楽器の音が聞こえてきた。吹奏楽部の練習だろう。
「そういえば、」
突然カナデちゃんが切り出した。
「あたし、いま駅前のレストランでアルバイトしてるんだけど。数名高校の子が働いてるんだよね」
「へえ。後輩ちゃんと一緒なんだ」
相づちを打ちながら、確か制服がかわいいレストランだったかなと思い出す。カナデちゃんにもきっと似合うことだろう。今度ひやかしに行ってみよう。
「んで、その子の彼氏も同じところで働いててさー。格好いいんだけど、ありえないぐらい変な男なの」
「……変な人と付き合っているカナデちゃんが言えることではないと思う」
「うん。私もそう思う」
「ちょっと二人ともやめてよねー」
カナデちゃんが真面目な顔で変な男なんて言うものだから、どうしても五十嵐くんのことを思い出してしまう。五十嵐くんとカナデちゃんが仲いいのは知っていたけれど、まさか二人が付き合うなんて。高校時代に驚いたニュースの一つだ。
そんなことを話しているうちに音楽室の前に着く。
といっても私たちは吹奏楽部の知り合いもいないし、部活も入ったことがない。そっと音楽室の様子を覗くぐらいだ。
「あ……あの子、部活戻ったんだ」
カナデちゃんがぽつりと呟いた。
「トランペットの子でさ、親の反対食らって部活やめた子がいるって、八街から聞いたことがあって」
「カナデちゃん詳しいのね」
「ヒロと八街って仲がいいでしょ? その子に渡してほしいものがあるだの、八街の家を教えろだの、よく巻き込まれてたみたいで。八街が大学合格したからお礼もらわないとってヒロが張り切ってたよ」
トランペットを吹いている子といってもたくさんいるから、カナデちゃんの言う子が誰かわからないけれど、部活に戻れたのならよかったと思う。やりたいことをやるのが一番だもの。
中には部活をやめて、そのままちょっとずれた道に走ってしまう子もいる。私たちと同じ学年だった三崎くんがその例だった。
何が彼を変えてしまったのか噂でしか聞いたことないけれど。彼は部活をやめてからいわゆる不良生徒になってしまった。
でも、ある時をきっかけにして三崎くんは変わった。生活態度を改めて、ちょっとだけ真面目に変わって、学校もサボらなくなった。危ぶまれていたけれど卒業することもできて、卒業式の帰り道、後輩の子と二人で歩いているのを見た。前より落ち着いたのかなって思う。
そうして音楽室の前で話していると、中にいた吹奏楽部の子がこちらに気づいた。
「あ、あの……何かご用ですか?」
私たちの方へ駆け寄ってきて聞く。声は少し小さめの、小柄で可愛い女の子だ。
前にどこかで会ったことがあるようなないような。思い出そうとしてみるけれどなかなか答えにたどり着けない。
私が迷っている間に、ニナちゃんが答えた。
「ごめんね。見学していただけなの。私たち、OBで久しぶりに母校見に来たんだ」
「そうだったんですね……どうぞ気にしないで見ていってください」
もじもじとした喋り方で思い出す。そうだ。この子、去年の学年演劇で主役をやっていた子だ。確かシンデレラ役の。名札には『牟田』と書いてあった。
その牟田さんは柔らかく微笑んでお辞儀をし、音楽室へと戻っていった。
「……練習の邪魔になりそうだから、次いこっか」
ニナちゃんの提案に頷いて、歩き出す。
音楽室の次は美術室――と思っていたけれど。
タイミングよく美術室の扉が開いて、女子生徒が出てくる。その子はカナデちゃんを見るなり声をあげた。
「後藤先輩!」
「四葉ちゃん久しぶり。元気にしてた?」
「今は私が部長になったので、毎日バタバタしてます。後藤先輩はどうですか? 五十嵐元部長と仲良くしてます?」
「うん。あたしもヒロも元気だよ。ヒロは相変わらず変わってるけど」
小首を傾げて可愛らしく問いかけるのは、美術部員で今は部長の平井四葉ちゃん。
カナデちゃんは五十嵐くんと話すためによく美術室に通っていたから、その時に四葉ちゃんとも知り合ったのだろう。
この四葉ちゃんは私たちの間でも有名で、同級生だった篠宮くんがこの四葉ちゃんを可愛がっていた。さらに二つ下の篠宮くんの弟も、四葉ちゃんにひっついて離れない。四葉ちゃんが歩けば、左右には篠宮兄弟がいる、なんて言われてたほど。
と篠宮兄弟のことを考えていると、再び美術室の扉が開いた。中から顔を出したのは、どういうわけか、卒業したはずの兄の方で。
「……篠宮くん?」
私が聞くと、篠宮くんはこちらを見て「うんうん、久しぶり」と手をあげた。
「篠宮くん、どうして学校にきていたの?」
「そりゃ後輩の様子が気になるからねえ。弟が部活に励んでいる間、僕は四葉の部活を応援しようかと」
その様子から、卒業してもちょくちょく顔を出しに来ているんだろうと想像してしまう。篠宮くんらしいというか。
すると、苦笑いをしている私たちの後ろで声がした。
「兄貴! また学校きてたのかよ!」
噂をすれば何とやら。四葉ちゃんがいれば篠宮兄弟あり。ここに篠宮くんがいるんだから、弟さんだって来るわけで。
弟さんは私たちには目もくれず、お兄ちゃんの方へと走っていく。
「大学生は! 家で勉強してろ!」
「ひどいなあ。僕は四葉の部活を応援しているだけだよ」
「そもそも兄貴は元バスケ部だろ!? 応援するなら体育館来いよ。休憩とっくに終わってるから!」
そんなやりとりに、四葉ちゃんが呆れてため息を一つ。
「……二人とも。そんなに喧嘩したいなら学校出てからにしてね。美術室近くで騒がないで」
きっとこの三人は、変わらずこのままなのだろう。仲がよさそうで何よりだ。
バスケ部、吹奏楽部に美術部。その他、校舎を見て回る。
一通り回り終えたところで、私たちは別行動を取ることにした。ニナちゃんは体育館へ、カナデちゃんも美術室に用事があるらしい。二人を見送ってから、私はグラウンドに向かった。もちろん、今の野球部を見るために。
グラウンドでは、今年こそ甲子園出場を目指す後輩たちが、汗を流して練習に励んでいた。その姿に、去年の野球部を思い出して頬が緩んでしまう。
打球音、ミットにボールが収まる時の音、部員たちのかけ声。
ぜんぶが懐かしい。
「みんな、がんばれ。応援してるからね」
今年こそは、みんなの夢が叶うことを願って。
しばらく練習を眺めていると、休憩に入ったのか後輩たちがぞろぞろと歩いてきた。
差し入れとしてジュースを用意してきたのでちょうどいい。部室前に集まったみんなに近づこうとして――ふと振り返った。
「……久瀬?」
低くて、枯れてて、私の好きな声。
毎日顔を合わせることがなくなっても、その声は消えていない。今も好きだから。
少し遠くに九重くんがいた。私と同じように、後輩たちの様子を見に来ていたのかもしれない。
「九重くん!」
本当は駆け寄りたいけれど――私は慌ててかばんから取り出す。
いつになるかわからないけれど、もしも九重くんに会えたなら。その時に渡そうと決めていたものがあるから。
「これ、受け取って!」
こっちに向かって歩を進めていた九重くんの動きが止まる。私は大きく振りかぶって、かばんから取り出した野球ボールを投げた。
白球が、飛んでいく。私の気持ちを乗せて九重くんの方へと。
投げた球を九重くんが受けとめる。そして、じっとボールを見つめていた。私には『俺が帰ってから読んで』なんて言ったくせに、九重くんはずるい。
白球に込めた想いは一文字。きっと次に会った時に九重くんが伝えようとするだろう、私たちの二文字目。
勇気を出して踏みこむのは怖くて、恥ずかしくて、少しくすぐったい。
九重くんが駆け寄ってきて、私たちの距離が近づくにつれて、顔が熱くなる。三年間何度も目を合わせていたのに、恥ずかしくなって視線を外した。
「……っ、お前! これ!」
息を切らせながらやってきた九重くんの手には、私が投げたボール。ボールには私が書いた『き』の文字が書いてある。
「私も同じ気持ちだよ。これが今度会った時に伝える二文字目、でしょ?」
そう告げた瞬間、体が引き寄せられた。
視界にあるのは私よりも背の高い九重くんの胸元。力強く抱きしめられて、私の首元に九重くんの頭がぽとりと乗る。
「こ、九重くん?」
「こんな伝え方、反則だろ。もっと好きになる」
触れた箇所から九重くんの温度が伝わって、それは私の頬で疼く熱と同じあたたかさをしていた。
高校生の間、勇気のでなかった私はこの腕に包まれて、触れてみたかった。
三年の片思いを経て叶った腕の中は、私が想像していたよりも幸せで優しいもの。
で、終わればよかったのだけれど。
「先輩! 何、いちゃいちゃしてんすか!?」
「よかったッスね、九重先輩。片思いだったもんなぁ」
私たちの様子を見ていた後輩たちの騒ぎで、現実に戻る。
そうだった。ここは母校のグラウンド。九重くんも我に返ったらしく、慌てて私から離れて後輩に叫んだ。
「いいから部室に戻れ! 休憩だろ!?」
「えー。九重先輩ののろけ話聞いてからにしましょうよー」
「六本木。お前なあ……」
騒ぎながらも後輩たちは部室に戻っていく。顔を赤くして恥ずかしそうにしている九重くんが面白くて、私はくすくすと笑いながらそれを見ていた。
そうしてグラウンドに残ったのが私たちだけになって、九重くんがこちらに向き直る。
「急にあんなことして、悪かった」
「ふふ。しばらくみんなにひやかされるね」
ひやかされるのは私よりも九重くんの方だろう。ちらりと見ると、無愛想な表情がわずかに緩んで、頬が赤らんでいた。
「高校生の時から、お前が彼女だったらよかったのにって思ってた。だから、両想いだってわかった瞬間、嬉しくて……止まらなかった」
「私もずっと九重くんに片思いしてたんだよ」
それを聞いて九重くんの足がぴたりと止まる。
「お前を甲子園に連れて行ったら、彼女になってほしいって言うつもりだった。……甲子園行ったらなんてルール作らないで、勇気出せばよかった」
九重くんが空を見上げる。
夏が近いからか空は高くて、雲は一つもない。あの日のような白球も見えない。
「ねえ……甲子園は叶わなかったけど、夏はやり直せる」
「そうだな。じゃあ、」
野球ボールを使わないと勇気を出せなかった私たちだけれど、今度はちゃんと伝えられる。だから私たちだけに見える透明な球に気持ちを込めて、投げ合った。
「俺の彼女になってください」
「私の彼氏になってください」
私たちの間に開いていた距離は、一歩ずつ詰まっていく。重なって、手を伸ばさなくても触れる距離まで。
上靴の底から伝わる廊下の床も、じめじめとした空気も、この学校に関わるものが今日で終わるのだ。
胸につけた造花のブローチから『卒業おめでとう』と書かれたリボンが下がっていて、この学校にいられる時間が終わることを示しているようだった。
この校舎を出た瞬間に高校生活は過去に変わる。
それは階段をのぼった先――屋上で待っている人との関係も。
重たい扉を開くと、鈍い金属の音と共に春の風が入りこんできた。それは肌にまとわりつくものではなく、胸の奥までしみこんでいって切なさを引き出す空気。
屋上の真ん中、その人物はいた。目が合うと同時に、私はいつものように微笑む。
「卒業おめでとう、九重くん」
九重くんは照れているのか視線を斜め下に外しながら「お前もな」と答えてくれた。
馴染みのある、低くて少し枯れた声。ここ半年ほど練習に出ていなかったのに、枯れた声はなおっていない。
毎日遅くまで練習して、たくさん声を出していたから枯れてしまったのだろう。それは高校三年生の夏まで続いた九重くんの努力がにじみ出ているようで、好きだった。
「引退したのに、髪は伸ばさないんだ?」
「坊主に慣れた。それに大学入っても野球を続けるから」
一歩ずつ九重くんに近づいて、距離が少しずつ縮まって。
でも、重なることのない三年間だった。数歩ほどの距離を残して、私は立ち止まる。
「そっか。大学に入っても野球はできるもんね」
「お前は? またマネージャーやるのか?」
「うーん……考え中かな」
本当は、マネージャーはしないと決めていた。それは大学を受験する前に決意していたけれど九重くんには言わなかった。
同じ学年だけどクラスは一度も同じにならず、野球部だけが私たちの接点だったから、もう野球に関わる気はないと伝えてしまうのが怖かったのだ。
私たちは別々の道に進む。違う大学、違うものを目指して歩く。きっとこんな風に顔を合わせることもなくなる。だから共通点が欲しかった。私たちの高校生活を繋いだ『野球』を残していたかった。
「それで、話ってなあに?」
私をここに呼び出したのは九重くんだった。卒業式の前日、話したいことがあるから屋上にきてほしいと連絡をもらったのだ。
普段あまり喋らず、チームメイトからも口下手だと笑われていた九重くんが、こうして私を呼び出す。それも卒業式に。
表には出さないようにしていたけれど、期待していた。三年間秘めていた気持ちが報われる時がきたのかもしれないと思っていた。
ずっと、九重くんが好きだった。
誰よりも野球が好きで、うまくなりたくて、練習が終わっても毎日遅くまで残っていた九重くん。そのひたむきな姿が気になって、目で追うようになった。
それだけじゃない。無愛想な人だけどとても優しくて、マネージャーの仕事を手伝ってくれる時もあったし、秋や冬は暗い道を女の子一人で帰るのは危ないからと家の近くまで送ってくれたこともある。
野球に打ち込む真剣な表情や優しい表情、様々な九重くんを知るうちに、好きになっていた。そして今日まで、私の片思いが続いている。
「ありがとう。お前がいたから頑張ってこれた。三年間、支えてくれてありがとう」
私に向かってお辞儀をする見慣れた坊主頭に、ずきりと胸が痛む。
募らせた片思いを打ち明けなかったのは、この関係を壊したくなかったから。
断られたらきっと辛くて、立ち上がれる自信がない。気持ちを伝えたいけれど、踏みこんでいく勇気がでなくて、私は『彼女』ではなく『マネージャー』として留まることを選んだのだ。
『マネージャー』の立場にいたからこそ、ここに呼び出されて、こうして向き合っている。九重くんが告げる感謝の言葉は、私が三年間我慢してきたものを讃えるようだった。
気持ちが報われるかもしれないなんて思っていたのが恥ずかしくなる。いつもの『マネージャー』の顔をして私は微笑んだ。
「私もありがとう。みんなや九重くんと過ごせてとても楽しかったよ」
「俺も楽しかった……約束を叶えられなかったことが心残りだけど」
そう言って、九重くんは空を見上げた。
夏の日。私たちの最終決戦。
こうして九重くんは空を見上げていた。あの日の視界にあるのは青空にあがった白球。私たちが追い求めてきた夢を、三年間を、奪っていったもの。
「……お前を甲子園に連れて行けなくて、ごめん」
私も、九重くんと同じように空を見上げる。目を細めれば、あの日の白球が私にも見える気がした。
***
『久瀬を甲子園に連れていく』
九重くんと約束をしたのは高校三年生の春。
部室に残ってユニフォームの補修をしていた時、九重くんがやってきて言った。
野球部らしい約束だと思う。友達のニナちゃんやカナデちゃんに話したら「ベタだな」なんて笑っていた
「約束を叶えたら……久瀬を甲子園に連れて行ったら、話したいことがある」
「その話したいことって、いまじゃだめなの?」
私の問いかけに、九重くんは迷っているようだった。でも最終的に頷いて「約束叶えたら」と繰り返した。
「俺はそういう約束とかご褒美がないと、だめだと思うから」
「にんじんを鼻先ぶらさげて走る馬みたいな?」
「だな」
そして隣に腰掛けて、私の仕事を手伝う。
人よりも手が大きいから縫い物は苦手だなんて言いながら針を持って、一生懸命縫っていく。
「大丈夫だよ。量少ないし、終わったら帰るから」
「外、暗いだろ。俺が手伝えば早く終わる」
「終わったら一緒に帰る?」
「…………おう」
照れを隠すように俯いて、でもちゃんと返事をしてくれる。
他のマネージャーの仕事も手伝うけれど、私が居残りをする時はいつも九重くんが様子を見に来てくれた。
部室で二人残って作業している時も、終わって一緒に帰る時も。
ぜんぶが幸せだった。もっと続いてほしいと願った。
「私たち、三年生になっちゃったね」
私が呟くと、九重くんの針が止まった。
「夏が終わったら、みんな引退しちゃう。私たちの生活から野球部が薄れちゃう」
「……かもしれないな」
「部室やグラウンドに集まることもない。ユニフォームも着ない。大学受験で勉強漬けの日々になる。きっと――」
こうして二人で、部室に残っていることもなくなる。喉元まであった言葉を、声にすることはできなかった。
もっと高校生が続いてほしい。この幸せな日々が永遠に続いてほしい。
「……甲子園に、行こう」
九重くんはそう言って、前を向いた。
私たちが高校生になる数年前から、数名高校は野球部に力を入れるようになった。元プロ野球選手を監督に迎えたことで知名度は上昇し、部員数は急激に増えた。
そして私たちの代は、数名高校野球部の歴史でも最高だと称されていた。二年生のピッチャーと、キャッチャーである三年生の九重くん。この二人のバッテリーは、練習試合でも負けなし。
それでも地区予選が始まった頃は甲子園なんて夢だった。憧れるけれど手が届くことはない空みたいなものだと思っていた。
一勝、また一勝と勝ち進んでいくたび、それは近づいていく。
厳しいかと思われた試合も奇跡のような逆転勝利、点数動かない試合も延長まで粘って勝利。
あの時の私たちは無敵で、数名高校野球部にできないことはないんだって思っていた。
でも――違った。
空は少しずつ近くなって、あと一勝。もうすぐ甲子園に届きそうなほど近づいていた地区大会決勝戦の日。
スポーツには目に見えない『流れ』というものがある。選手たちはもちろんのこと、ベンチや観客席にも伝わる無言の魔物だ。それは風のようなもので、追い風になる時もあれば向かい風もある。たとえ点差のある試合でも『流れ』を掴めば、ひっくり返すような奇跡だって起きる。
三年間、野球部と共にいた私もその存在を信じていた。ここまでの試合、流れがいいことばかりではなかった。向かい風の時もあったけれど、『流れが悪いかも』という予感みたいなものがあって。
でも。そういった予兆は感じなかった。
何もなかった。球場に潜む『流れ』はどちらにも味方せず、風は吹いていない。
スコアボードは0対0。両校共に投手戦。ヒットは出てもその後のフォローによって点数につながることはなく、これは延長もあるかもしれないと構えていた9回裏。
二年生のピッチャーは、九重くんのキャッチャーミットを目指して白球を放り投げる。普段通りの、何も変わらない投げ方。
でもその球は、甲高い音と共に視界から消えた。
「……あ」
風は吹いていなかった。延長戦に入るのだと信じていた。
晴れた空に突き抜ける金属音。練習や試合で、何度も求めてきたその痛快な音に、脳髄がびりりと痺れる。
見上げれば、宙に白球があった。球場を包む緊迫した空気から抜け出して、灼けつく太陽に近づかんとばかりに高くあがって飛んでいく。
流れていく。風が運んでいく。
ボールがフェンスを越えて視界から消えれば、対戦校の選手たちが大喜びでベンチから身を乗り出していた。サヨナラホームラン、と誰かが言っている。無得点試合のまま9回裏に起きたドラマティックな勝利。
それは私たちの目線になると姿を変えて、夏の終わりなんだ。たった一球で私たちの夢は途切れた。
「……九重くん」
自然とその名を呟いていた。九重くんは、キャッチャーマスクを外して、白球が消えた先を呆然と眺めていた。球場に響く歓喜の声も夏の終わりにすすりなく声も、九重くんには届いていないようだった。
今もはっきり覚えているのは、試合が終わってロッカールームに入った時のこと。三年生たちは悔し涙を流していたけれど、九重くんは泣いていなかった。ただ静かに、俯いているだけ。
「……お疲れ様」
どんな言葉をかければいいのかわからなくて、いつものように告げた。
「……久瀬……俺は、」
言いかけて、飲みこむ。
しばしの間を置いて、ようやく吐き出された言葉は後悔が混ざったもの。
「いつも大事な時に失敗をする。あと一歩のところで勇気がでなくて、憧れていたものを逃すんだ」
「……この負けは、誰かのせいじゃないよ」
「わかってる。わかっているけど――」
俯いた頬をきらめくものが伝い落ちる。
小学生の頃、『男の子だから泣かない』なんて言っている男子がいたけれど。私はそう思わない。男の子だろうが女の子だろうが泣いていい。この涙って綺麗なんだ。今しか流せないものなんだ。
胸が苦しくなって、締め付けられて。
この場所が私と九重くんの二人だけだったら、きっとその肩を抱きしめていたと思う。それぐらい心に響く姿だった。
青く、澄んだ空の日。野球に捧げた私たちの三年間が幕を閉じた。
その後、三年生は引退になってしまった。私は後輩マネージャーの手伝いがあったから何度か部活に顔を出していたけれど、九重くんは違った。部活に出ても後輩の様子を少し見る程度で、野球に触れようとしない。
野球だけじゃない。同じクラスだったから夏の後何度も話したけれど、九重くんは『約束』のことを口にしようとしなかった。
私と九重くんの関係は、一歩を踏み出すことができないまま、夏と一緒に終わった。
***
空を見上げて夏のことを思い出す。あっという間に寒くなって、気づけばもう春。
あの日のように泣いてはいないし、身に着けているのは泥汚れのユニフォームではなく、卒業記念の造花がついた制服だ。
高校の卒業式はどれほど悲しいだろうと思ったけれど、野球部の引退式の方が悲しかった。今日は悲しさよりも寂しさの方が強い。
九重くんがこちらを見た。
「あんな約束をして、後悔してる。甲子園に連れて行くなんて格好いいこと言っておいて、こんな結果なんてな」
「私は、あの約束がすごく嬉しかったよ」
「約束を叶えられなかっただろ」
「ううん。みんなで同じ夢を見ていたからいいの」
九重くんに言ったことは嘘ではない。
私にとって『甲子園に連れていく』は憧れの台詞で、さらに片思いをしている男の子からそれを言われるなんて、物語に出てくるヒロインのようだった。
九重くんの努力を知っていたから約束を信じていた。あの白球がフェンスを越える瞬間まで私はヒロインだったのだ。その時間を味わえただけで幸せだ。
「ねえ、聞いてもいい? 『約束を叶えたら話したいことがある』って、どんな話をするつもりだったの?」
しかし九重くんは「それは……」と言い淀んでしまった。逃げるように視線が泳ぎ、それからため息を吐く。
「内緒?」
助け船を出すと、九重くんはこくりと頷いた。
「じゃあ、いつか教えてね」
「……そう、したいけど」
九重くんはポケットからボールを取り出した。卒業記念にもらってきたのだろう、薄汚れた野球ボール。
「本当に、野球以外だめだな、俺は」
「そうかな?」
「最後かもしれないのに一番大切なことが言えない。勇気がでないんだ」
落ちこむ姿に、私は笑う。
そして数歩後ろにさがり、ボールを受け取れるよう手を構えて「投げて」と合図を送る。
時間を楽しむようにゆっくりとした速度でボールが届く。何度も触った野球のボールが、なぜか今日は重たく感じた。
「私も勇気がでなくて、一歩が踏み出せないの。一緒だね」
「難しいよな。キャッチボールなら簡単なのに」
「本当にね」
お互いを気遣って、素手でも取りやすいように。ボールが落ちてしまわないように。
優しいキャッチボールを交わせば、会話が繋がる。
あの夏、私たちの約束が叶っていたら。
私と九重くんは物語のヒーローとヒロインになれたのだろうか。
甲子園に辿り着いていたのなら、私は九重くんに告白する勇気を得られたのだろうか。
「お前に言いたかったことは、たった二文字なんだ。でもその二文字を言う勇気がなくて――」
そこまで言いかけて、九重くんの動きが止まった。手にしたボールをじっと見つめたかと思えば、今度はかばんに手を伸ばす。
取り出したのはサインペンだった。
「うまいこと言えないから、書いて、投げる」
「九重くんらしいね」
サインペンのふたを取り、いざ一文字目を――と書いたところで九重くんは「あ」と言ったきり手を止めてしまった。
「どうしたの?」
「……字が大きすぎた」
その不器用さが九重くんらしくて、屋上に二人分の笑い声が響く。
「ふふ。それでもいいよ。一文字でも受け取るから」
「それで伝わるのか?」
「たぶん、大丈夫。投げて」
そして九重くんの気持ちを乗せたボールが、屋上にふわりと浮かぶ。
春の風を纏いながらゆるゆると落ちてくるそれを、しっかりと受け止めた。
九重くんは気まずそうに、かばんを手に取る。
キャッチボールが終わった。これで九重くんと私の三年間も終わるのだ。それは名残惜しく、もっと九重くんの制服姿を見ていたくて、目で追ってしまう。
「二文字目は、今度会ったらちゃんと伝えるから」
「……もう、帰るの?」
「……おう」
帰らないで、って言えなくて。
でも『またね』と言うこともできない。だって次はいつ会えるのかわからない。私たちは別々の道に行くのに。
「……三年間ありがとう、久瀬」
勇気がだせず一歩を踏み出すことのできない私を残して、九重くんが去っていく。
屋上の扉が閉まる音は、私の涙腺を壊した。一人になった瞬間、ほたほたと涙がこぼれていく。
泣きながら、ボールを包んでいた両手を開いた。白球には黒いサインペンで『す』と不器用な文字が書かれていて――そのたった一文字で、伝わってしまったのだ。
あと一歩まで迫って、届かない。後悔が詰まった涙は止まらない。
***
「綾乃ー! 遅いよー!」
「二人とも待たせてごめんね」
大学生になって数ヶ月後。ニナちゃんに誘われて、母校に行くことになった。
土曜日の午後はグラウンドや体育館で部活動に励む生徒だらけ。せっかく来たのだからと校舎を見て回ることになった。
集まったのは仲のいい友達のニナちゃんとカナデちゃん。こまめに連絡は取っているけれどこうして会うのは久しぶりだ。数ヶ月前までは制服で通っていた場所に私服で来るなんて少し不思議な気分。
「……で。まずはどこに行く?」
「そりゃもちろん――ニナのカレピッピ観察でしょ」
カナデちゃんはにたりと笑って、ニナちゃんの肩を叩く。
ニナちゃんは、高校三年生の時に後輩くんの二見沢くんと付き合いはじめた。ニナちゃんは部活は違えどマネージャー仲間だったから、ずっと片思いしていた後輩くんと付き合ったと報告を受けた時は嬉しくてたまらなかった。
今日は男子バスケと女子バスケが体育館を使っていると聞いたので早速体育館へ。普段はシューズのこすれる音やバスケットボールの弾む音が聞こえていたのに、ちょうど休憩中だったらしく体育館は静かだ。
中に入ろうとすると、ちょうどバスケット部の男子部員が出てくるところだった。スマートフォンをいじりながら歩いていたので、先頭を歩いていたニナちゃんとぶつかってしまった。男子生徒は慌ててニナちゃんに手を差し伸べる。
「すみません――って西那先輩!? あれ、卒業したんじゃ」
「一ノ瀬くん久しぶり!」
一ノ瀬くん、って聞いたことあるかも。私が三年生だった時、一年のバスケ部にイケメンがいるって話題になった気がする。
「どう? 元気にしてる?」
「それなりに元気ですよ」
「とある筋からの情報だと、ついにクラス替えで願いが叶ったんだって?」
元バスケ部マネージャーってこともあって、ニナちゃんは一ノ瀬くんと親しいらしい。彼がクラス替えにどんな希望を抱いていたのかはわからないけど、一ノ瀬くんは少し照れた様子だった。
「……それ、どこ情報っすか? バスケ部みんな口軽すぎですよ」
「さて誰からでしょう」
「篠宮の兄貴……もありそうだけどやっぱふたみん先輩かなあ。あの人ほんと軽いからなあ」
一ノ瀬くんは困ったように頬をかいて、それから咳払いを一つ。
「それで。西那先輩たちはどうしたんですか? ふたみん先輩なら――」
「あ。違うの。ふたみんの様子も見にきたけど今日は別。母校探検してるの」
ニナちゃんが一ノ瀬くんと話している間に、私とカナデちゃんは体育館を覗く。たった数ヶ月で懐かしいと感じてしまうのだから不思議だ。私が卒業してしまったから、体育館が別の場所になったようだ。以前は平気で立ち入っていたのに、今は靴を脱ぐのに勇気がいる。
「あーあ。バスケしてるところ見たかったのになあ」
「タイミングが悪かったね。先に他の場所を見て、また後で来ましょう」
「次どうする? 美術部か吹奏楽部か」
すると一ノ瀬くんとの話を終えたニナちゃんが戻ってきた。合流したところで次の場所に向かう。今度は校舎だ。
私たちは卒業してしまったので生徒玄関ではなく来客用の玄関からになる。そういった違いも、卒業したのだと改めて実感する。
廊下を歩くと遠くの方から金管楽器の音が聞こえてきた。吹奏楽部の練習だろう。
「そういえば、」
突然カナデちゃんが切り出した。
「あたし、いま駅前のレストランでアルバイトしてるんだけど。数名高校の子が働いてるんだよね」
「へえ。後輩ちゃんと一緒なんだ」
相づちを打ちながら、確か制服がかわいいレストランだったかなと思い出す。カナデちゃんにもきっと似合うことだろう。今度ひやかしに行ってみよう。
「んで、その子の彼氏も同じところで働いててさー。格好いいんだけど、ありえないぐらい変な男なの」
「……変な人と付き合っているカナデちゃんが言えることではないと思う」
「うん。私もそう思う」
「ちょっと二人ともやめてよねー」
カナデちゃんが真面目な顔で変な男なんて言うものだから、どうしても五十嵐くんのことを思い出してしまう。五十嵐くんとカナデちゃんが仲いいのは知っていたけれど、まさか二人が付き合うなんて。高校時代に驚いたニュースの一つだ。
そんなことを話しているうちに音楽室の前に着く。
といっても私たちは吹奏楽部の知り合いもいないし、部活も入ったことがない。そっと音楽室の様子を覗くぐらいだ。
「あ……あの子、部活戻ったんだ」
カナデちゃんがぽつりと呟いた。
「トランペットの子でさ、親の反対食らって部活やめた子がいるって、八街から聞いたことがあって」
「カナデちゃん詳しいのね」
「ヒロと八街って仲がいいでしょ? その子に渡してほしいものがあるだの、八街の家を教えろだの、よく巻き込まれてたみたいで。八街が大学合格したからお礼もらわないとってヒロが張り切ってたよ」
トランペットを吹いている子といってもたくさんいるから、カナデちゃんの言う子が誰かわからないけれど、部活に戻れたのならよかったと思う。やりたいことをやるのが一番だもの。
中には部活をやめて、そのままちょっとずれた道に走ってしまう子もいる。私たちと同じ学年だった三崎くんがその例だった。
何が彼を変えてしまったのか噂でしか聞いたことないけれど。彼は部活をやめてからいわゆる不良生徒になってしまった。
でも、ある時をきっかけにして三崎くんは変わった。生活態度を改めて、ちょっとだけ真面目に変わって、学校もサボらなくなった。危ぶまれていたけれど卒業することもできて、卒業式の帰り道、後輩の子と二人で歩いているのを見た。前より落ち着いたのかなって思う。
そうして音楽室の前で話していると、中にいた吹奏楽部の子がこちらに気づいた。
「あ、あの……何かご用ですか?」
私たちの方へ駆け寄ってきて聞く。声は少し小さめの、小柄で可愛い女の子だ。
前にどこかで会ったことがあるようなないような。思い出そうとしてみるけれどなかなか答えにたどり着けない。
私が迷っている間に、ニナちゃんが答えた。
「ごめんね。見学していただけなの。私たち、OBで久しぶりに母校見に来たんだ」
「そうだったんですね……どうぞ気にしないで見ていってください」
もじもじとした喋り方で思い出す。そうだ。この子、去年の学年演劇で主役をやっていた子だ。確かシンデレラ役の。名札には『牟田』と書いてあった。
その牟田さんは柔らかく微笑んでお辞儀をし、音楽室へと戻っていった。
「……練習の邪魔になりそうだから、次いこっか」
ニナちゃんの提案に頷いて、歩き出す。
音楽室の次は美術室――と思っていたけれど。
タイミングよく美術室の扉が開いて、女子生徒が出てくる。その子はカナデちゃんを見るなり声をあげた。
「後藤先輩!」
「四葉ちゃん久しぶり。元気にしてた?」
「今は私が部長になったので、毎日バタバタしてます。後藤先輩はどうですか? 五十嵐元部長と仲良くしてます?」
「うん。あたしもヒロも元気だよ。ヒロは相変わらず変わってるけど」
小首を傾げて可愛らしく問いかけるのは、美術部員で今は部長の平井四葉ちゃん。
カナデちゃんは五十嵐くんと話すためによく美術室に通っていたから、その時に四葉ちゃんとも知り合ったのだろう。
この四葉ちゃんは私たちの間でも有名で、同級生だった篠宮くんがこの四葉ちゃんを可愛がっていた。さらに二つ下の篠宮くんの弟も、四葉ちゃんにひっついて離れない。四葉ちゃんが歩けば、左右には篠宮兄弟がいる、なんて言われてたほど。
と篠宮兄弟のことを考えていると、再び美術室の扉が開いた。中から顔を出したのは、どういうわけか、卒業したはずの兄の方で。
「……篠宮くん?」
私が聞くと、篠宮くんはこちらを見て「うんうん、久しぶり」と手をあげた。
「篠宮くん、どうして学校にきていたの?」
「そりゃ後輩の様子が気になるからねえ。弟が部活に励んでいる間、僕は四葉の部活を応援しようかと」
その様子から、卒業してもちょくちょく顔を出しに来ているんだろうと想像してしまう。篠宮くんらしいというか。
すると、苦笑いをしている私たちの後ろで声がした。
「兄貴! また学校きてたのかよ!」
噂をすれば何とやら。四葉ちゃんがいれば篠宮兄弟あり。ここに篠宮くんがいるんだから、弟さんだって来るわけで。
弟さんは私たちには目もくれず、お兄ちゃんの方へと走っていく。
「大学生は! 家で勉強してろ!」
「ひどいなあ。僕は四葉の部活を応援しているだけだよ」
「そもそも兄貴は元バスケ部だろ!? 応援するなら体育館来いよ。休憩とっくに終わってるから!」
そんなやりとりに、四葉ちゃんが呆れてため息を一つ。
「……二人とも。そんなに喧嘩したいなら学校出てからにしてね。美術室近くで騒がないで」
きっとこの三人は、変わらずこのままなのだろう。仲がよさそうで何よりだ。
バスケ部、吹奏楽部に美術部。その他、校舎を見て回る。
一通り回り終えたところで、私たちは別行動を取ることにした。ニナちゃんは体育館へ、カナデちゃんも美術室に用事があるらしい。二人を見送ってから、私はグラウンドに向かった。もちろん、今の野球部を見るために。
グラウンドでは、今年こそ甲子園出場を目指す後輩たちが、汗を流して練習に励んでいた。その姿に、去年の野球部を思い出して頬が緩んでしまう。
打球音、ミットにボールが収まる時の音、部員たちのかけ声。
ぜんぶが懐かしい。
「みんな、がんばれ。応援してるからね」
今年こそは、みんなの夢が叶うことを願って。
しばらく練習を眺めていると、休憩に入ったのか後輩たちがぞろぞろと歩いてきた。
差し入れとしてジュースを用意してきたのでちょうどいい。部室前に集まったみんなに近づこうとして――ふと振り返った。
「……久瀬?」
低くて、枯れてて、私の好きな声。
毎日顔を合わせることがなくなっても、その声は消えていない。今も好きだから。
少し遠くに九重くんがいた。私と同じように、後輩たちの様子を見に来ていたのかもしれない。
「九重くん!」
本当は駆け寄りたいけれど――私は慌ててかばんから取り出す。
いつになるかわからないけれど、もしも九重くんに会えたなら。その時に渡そうと決めていたものがあるから。
「これ、受け取って!」
こっちに向かって歩を進めていた九重くんの動きが止まる。私は大きく振りかぶって、かばんから取り出した野球ボールを投げた。
白球が、飛んでいく。私の気持ちを乗せて九重くんの方へと。
投げた球を九重くんが受けとめる。そして、じっとボールを見つめていた。私には『俺が帰ってから読んで』なんて言ったくせに、九重くんはずるい。
白球に込めた想いは一文字。きっと次に会った時に九重くんが伝えようとするだろう、私たちの二文字目。
勇気を出して踏みこむのは怖くて、恥ずかしくて、少しくすぐったい。
九重くんが駆け寄ってきて、私たちの距離が近づくにつれて、顔が熱くなる。三年間何度も目を合わせていたのに、恥ずかしくなって視線を外した。
「……っ、お前! これ!」
息を切らせながらやってきた九重くんの手には、私が投げたボール。ボールには私が書いた『き』の文字が書いてある。
「私も同じ気持ちだよ。これが今度会った時に伝える二文字目、でしょ?」
そう告げた瞬間、体が引き寄せられた。
視界にあるのは私よりも背の高い九重くんの胸元。力強く抱きしめられて、私の首元に九重くんの頭がぽとりと乗る。
「こ、九重くん?」
「こんな伝え方、反則だろ。もっと好きになる」
触れた箇所から九重くんの温度が伝わって、それは私の頬で疼く熱と同じあたたかさをしていた。
高校生の間、勇気のでなかった私はこの腕に包まれて、触れてみたかった。
三年の片思いを経て叶った腕の中は、私が想像していたよりも幸せで優しいもの。
で、終わればよかったのだけれど。
「先輩! 何、いちゃいちゃしてんすか!?」
「よかったッスね、九重先輩。片思いだったもんなぁ」
私たちの様子を見ていた後輩たちの騒ぎで、現実に戻る。
そうだった。ここは母校のグラウンド。九重くんも我に返ったらしく、慌てて私から離れて後輩に叫んだ。
「いいから部室に戻れ! 休憩だろ!?」
「えー。九重先輩ののろけ話聞いてからにしましょうよー」
「六本木。お前なあ……」
騒ぎながらも後輩たちは部室に戻っていく。顔を赤くして恥ずかしそうにしている九重くんが面白くて、私はくすくすと笑いながらそれを見ていた。
そうしてグラウンドに残ったのが私たちだけになって、九重くんがこちらに向き直る。
「急にあんなことして、悪かった」
「ふふ。しばらくみんなにひやかされるね」
ひやかされるのは私よりも九重くんの方だろう。ちらりと見ると、無愛想な表情がわずかに緩んで、頬が赤らんでいた。
「高校生の時から、お前が彼女だったらよかったのにって思ってた。だから、両想いだってわかった瞬間、嬉しくて……止まらなかった」
「私もずっと九重くんに片思いしてたんだよ」
それを聞いて九重くんの足がぴたりと止まる。
「お前を甲子園に連れて行ったら、彼女になってほしいって言うつもりだった。……甲子園行ったらなんてルール作らないで、勇気出せばよかった」
九重くんが空を見上げる。
夏が近いからか空は高くて、雲は一つもない。あの日のような白球も見えない。
「ねえ……甲子園は叶わなかったけど、夏はやり直せる」
「そうだな。じゃあ、」
野球ボールを使わないと勇気を出せなかった私たちだけれど、今度はちゃんと伝えられる。だから私たちだけに見える透明な球に気持ちを込めて、投げ合った。
「俺の彼女になってください」
「私の彼氏になってください」
私たちの間に開いていた距離は、一歩ずつ詰まっていく。重なって、手を伸ばさなくても触れる距離まで。