私、セシリー・スケルディングは、このたび『氷の侯爵閣下』と呼ばれるサディアス・グレンヴィル様に嫁ぐことになりました。

 実を言うと私たちは、今まで言葉を交わしたことはありません。
 結婚するというのに、お互いの初顔合わせは私が侯爵邸を訪れた当日でした。
 このような愛のない政略結婚は、貴族間においてはよくある事です。
 ただ、できることなら私はこの婚姻を拒否したいと思っていました。

 何故なら、お相手たるサディアス様は、その二つ名が示す通り、非常に恐ろしい軍人侯爵様だと聞き及んでいたからです。

 本来、この政略結婚は私ではなく、姉のエイリーンが受けるべきものでした。
 しかし、嫁いだ先で何をされるかわからないと、姉はヒステリックにそれを拒みます。
 それでも、縁談を無視するわけにはいかず、妹の私が代わりに嫁ぐよう命ぜられ、後日改めて輿入れがされることが決まりました。

 我がスケルディング伯爵家では、姉の意向が何よりも優先され、私の存在はほぼいないものとして扱われてきました。
 姉の容姿はとても優れ、その美しさは類を見ないものでした。
 対して私は、存在感の薄い平凡な外見。
 両親も姉ばかりを優遇し、父に至っては「(こいつ)は何かあった時のスペアだ」と、はばかることなく公言するくらいでした。

 そんな両親と姉でしたから、私が家を出ることは、むしろ望むところだったようです。
 婚姻を命じられた時、「こんなに有用な“使い方”はないな」と、名案を思い付いたように言う父を見て、私は本当にいらない娘だったのだと心が沈んだものです。

 そして私は、数少ない荷物とともに、馬車に乗せられ侯爵邸に向かわされます。
 一人の侍女も付けられず、ほとんど追い出されたも同然の輿入れ。
 実家と嫁ぎ先とではどちらがましなのだろう、侯爵様のお気に障らぬよう静かにしていれば、無事に過ごせるだろうか。馬車の中ではそんなことばかりを考えていました。



「──サディアス・グレンヴィルだ。何か必要なものがあれば、すぐに用意させる。遠慮なく言ってくれ」

 お屋敷についた後で。侯爵様はそんな短い言葉だけかけると、早々に部屋に籠ってしまいました。
 とはいえ、さすがの『氷の侯爵様』。ちらと拝謁したのみでしたが、銀の髪と青の瞳は輝いて見え、鋭い目つきは恐ろしくありながら、その美しさは目を見張るものがありました。

 ただ、ここに到着するまでの間に、私は奇妙なうわさを一つ耳にしていました。
 それは、「近頃の侯爵様は、人が変わったように朗らかになられた」というものです。
 そんなことがあるのかしらと不思議に思っていましたが、今の様子を見る限り、やはりそれは単なるうわさに過ぎなかったようです。

「あっ、お荷物お持ちいたしますね、セシリー様!」

 そこで私に駆け寄る一人の少女。
 彼女の名前はクレア・カーティス。これから私専属の侍女になってくれるのだそうです。
 私と同い年ぐらいで、背の低い栗色の髪の女の子。何故かとても嬉しそうに、私を笑顔で覗き込んできます。

 一方、侯爵様はやはり私に関心はないのでしょう。初日の夜は静かに夕食をともにして、それからあてがわれた部屋で早めに眠るよう──今夜は何もない旨を伝えられました。

 ちなみに私の寝室は、サディアス様とは別とのことでした。
 確かに、見知らぬ女が横にいては休まるものも休まりません。当然の処遇だと思います。
 ただ、それでも政略結婚──お互いの家の結びつきのためにも、私は彼との間に子を成さねばなりません。
 数日の後、クレアさんからそれとなくお渡りの予定を聞かされて、私はサディアス様と夜を共にすることになるのですが……


「……」

「……あの、旦那様……?」

 ベッドの上に腰かけた私を、サディアス様はにこりともせず見下ろします。
 何か知らないうちに粗相をしてしまったのかしら。そう思いながらおびえていると、彼は低い声で言いました。

「……悪いが、君を妻として愛することは……」

「えっ……」

 ああ、そうか。
 言葉が途中で途切れてしまったけど、そうなのね、と納得してしまいました。
  
 当たり前です。私はもともと嫁ぐ予定もなかった身代わりの女。
 姉のように美しくもなく、殿方の情欲を刺激することはありません。
 子ができればおそらくそれでおしまい。
 ともすれば、抱かれることもなく捨て置かれるかもしれません。
 仕方のないこと。面と向かって罵倒されなかっただけでも、ありがたく思わなければ。
 そんなことを考えていると、サディアス様は何やら思いつめたような表情になり、背を向けて窓際へと歩いていきました。

 そして、勢いよく窓を開け放ち、深く息を吸い込まれると──こう叫ばれました。


「こんなアホな事、やってられっかーーーーーーーーっっ!!!」


「……………へ?」

 思わず私は間の抜けた声を出してしまいました。
 サディアス様はくるりときびすを返し、今度は部屋の入り口の扉を開きます。

「きゃあぁっ!」

 そこでドドッと室内に崩れ落ちてきたのは、侍女のクレアさん。
 扉の外側に張り付いていたのか、急にドアが開かれたため、前のめりに転んで顔をしたたかに打ち付けてしまいました。

「いったぁ~……サディアス様、何するんですか!」

「それはこっちの台詞だ。人の情事をのぞき見するメイドが、どこの世界にいるんだよ!」

「だ、だって、せっかくの初夜のシーンなんですよ!? あこがれてたセシリーちゃんとサディアス様の最初のステップなんだから、生で見なくちゃ! だいたい、本当にエッチするのはずっと後なんだから、別にいいじゃないですか!」

「いいわけないだろうが! 野次馬根性で出歯亀を正当化するな、この馬鹿! つーか、エッチとか言うな!」

「な、ひっど! ていうか、そっちこそ急に窓に向かって叫んだりなんかして! あれじゃムードも何もないじゃないですか! ちゃんと『サディアス様』演じて下さいよ!」

「お断りだ! なんで俺が白馬の王子様のフリしなくちゃいけないんだ! だいたいこんなの、シンデレラの劣化コピーみたいなもんだろうが!」

「ちょ、あのねぇ! いくらなんでもその言い方はないでしょう!?」

 ……どういうことなのでしょう。私は驚きと困惑で何度も目を瞬かせます。
 目の前で、まるで人が変わったかのように、サディアス様とメイドのクレアさんが言い争っていますが、どうにも要領を得ません。
 言っていることが理解できないといいますか……。
 ……シンデレラ? 劣化コピー? よくわからない単語が私を挟んで飛び交っています。

「ちょっと、サディアス様! セシリーちゃん、固まっちゃってるじゃないですか! おに……サディアス様がいきなりキャラ変えるから!」

「俺だけのせいじゃないだろ。それより、心配なら早く説明してやってくれ。俺よりもお前の方が適任だろうから、頼む」

「……ああ、うん。それはそうだね。ええと、でもどこから説明すればいいんだろ……。あ、あのね、セシリーちゃん、じゃなかったセシリー様! これだけはわかってほしいんだけど、あたしもサディアス様も、何があってもあなたの味方だから! そこだけは信じて欲しいの!」

「は、はぁ……」

 生返事で呆然とする私。クレアさんは言葉を詰まらせながらも、私の両手をきゅっと握りました。
 それからどこか興奮した様子で、私に説明をしていきます。
 ただ、その内容は、信じて欲しいと言われても、にわかに信じられるものではありませんでした。
 というより、まず理解するのが困難で。

 ──彼女が話したところによると、私たちが生きるこの世界は、なんと空想の産物に過ぎないというのです。

 タテヨミ・ウェブコミックの、シナリオ……? とかいうもので、つまりはもともと誰かが考えたお話の世界とのこと。
 しかも驚くべきことに、サディアス様もクレアさんも、別の世界からこの場所へと生まれ変わったらしいのです。
 もとはただのお話にすぎなかったこの世界へ、何故生まれ落ちることになったのか。それはお二人ともわからないそうなのですが。

 そして、何より驚いたのが、私がその物語の主人公であるということ。
 意地の悪い両親と姉に追い出され、無理矢理嫁がされたのは、恐ろしい当主が治めると噂の侯爵家。
 けれど、侯爵様の本当の姿は、思いやりにあふれた紳士。
 物語での私は、口下手で人付き合いが苦手な侯爵様のために、己の殻を破って奮闘し、彼の評判を回復させてゆくのだそうです。
 そうやって、お互いの距離は徐々に縮まってゆき、最後には心から結ばれてハッピーエンド。
 ……そんな主人公夫婦が、私とサディアス様とのことなのですが……。

「でもな、悪いんだけど」

 と、一通りの説明が終わった後で、サディアス様は頭をかいて言いました。

「本当の俺は氷のようにクールでもないし、紳士でもない。この通り、ガサツで平凡なただの男だ。物語の通りに演技を続けるなんて無理なんだよ。だからこうして、ネタばらしさせてもらったってわけなんだ」

 そもそもサディアス様ご自身は、物語の内容をあまりご存じないそうです。
 「君を愛することはない」、先刻言いかけたその台詞も、すべてクレアさんから教えられたとのことでした。

「あたしは大好きなんだけどねぇ。そんなに長編でもないし、何度も読み返したから、台詞は八割方覚えちゃってるの」

 クレアさんは胸を張って誇らしげにおっしゃいます。

「こんなよくある話の、どこがいいんだか……」

「うるさいなぁ、よくあるでも何でも、好きなんだからしょうがないじゃない!」

 サディアス様の言葉に、唇を尖らせて反論するクレアさん。
 言葉遣いも敬語でなくなって、どうやらお二人の素の関係は、気の置けない仲のようでした。

「……ありふれたお話、なんですか?」

 ふと私が尋ねると、クレアさんは「まあ、そうね」と、うなずきます。

「それは……いいですね」

「いいって……どうしてだ?」

 思わず口をついて出た率直な感想に、サディアス様はきょとんとして尋ねました。

「いえ、あの……深い意味はないんですが……。だって、ありふれたお話ということは、望まれるからそういう結末が多いってことですよね。つまり、この世界を作られた人たちは、皆さん優しい結末を好まれるわけで……。それって、いい人が多い世界なんだなと」

「……」

「……」

 私の答えにサディアス様とクレアさんは、無言で顔を見合わせます。
 それからサディアス様は表情を隠すように手のひらで顔を覆うと、「あぁー……うん。よし、決めた」と、私に向かって言いました。

「あのさ、楽しいことだけしようよ。ていうか、俺はそうするから」

「……楽しいことだけ……ですか?」

「うん、クレア(こいつ)から聞いた話だと、俺ってどうも最初は君に辛く当たるみたいなんだよね。『あえて距離を取ることで、君をそれ以上傷つけないようにしたかった』とか。でも、そんなまどろっこしいことやってられないよ。せっかく意地悪な実家から離れられたんだ。もうここからは、好きなように生きていくべきだと思うんだ」

「はぁ……」

 まだ実際に辛く当たられたことはないので、内情を打ち明けられてもピンと来ません。
 返す言葉もぼんやりとして、首をかしげてしまいます。
 でも、これは、私のことを……受け入れて下さるということでしょうか。

「だから、物語の流れとか、そういうの全部無視! 俺は俺のやりたいようにやって、君に幸せになってもらう。これ決定な」

「私が、幸せに……」

 いいんですかと聞き返そうになった時、クレアさんがパンと手を叩いて言いました。

「いいわね、それ! 私も賛成! じれじれも良いけど、目の前に本物のセシリーちゃんがいるのに、手を差し伸べないのはおかしいものね!」

「ただし、俺は女の子が好むような振舞いとかできないから。これからの生活は、すべて俺なりのやり方でやらせてもらう」

「サディアス様なりの……?」

「エスコートとかダンスとか無理ってこと。価値観も現代日本人基準になるけど……そこは勘弁してほしい」

「ニホンジン……?」

「えぇー、そこは勉強して、セシリーちゃんをエスコートしてあげようよー」

「つーか、『傷つけないように最初に辛く当たる』って、(サディアス)、ずいぶんと屈折してないか? 幸せにしたいなら、最初から大事にするべきだろうが」

「そういう身も蓋もないこと言わないの! こういうのは、だんだんと距離が近づいていくのがいいんだから!」

「あー、わかったわかった。でも、これはシナリオ書いた奴が、絶対にヘタクソだと思うぞ」

「余計ひどいこと言ってるって、それ!」

 ポンポンと飛び交う軽妙な言葉。けれど、その楽しげな様子と雰囲気に、私は思わず笑みを漏らしてしまいます。
 私が笑うと二人はこちらに振り返り、安心した様子でこうおっしゃられました。

「じゃ、異論がないならオッケーってことで。これからよろしくな、セシリー。ふつつかな夫ではあるけれど、ま、そこは大目に見てくれ」

「……それ男の人が言うの、間違ってない? あ、私もよろしくね!」

「こちらこそ、どうぞよろしくおねがいします。上手に言えないのですけど……とても嬉しくて、光栄です」

 ……なんだか久しぶりに心の通う会話ができたような。
 お二人の温かい気持ちに触れて、私は自然と頬が緩んだのでした。







 それからの生活は、新鮮で、少し奇抜で、とても楽しいものでした。
 サディアス様は普通の貴族とは異なる発想で、お屋敷を少しずつ変えて行かれます。
 それは前世であるニホンジンの記憶と価値観によったもの。今の環境を快適だった前世に少しでも近づけたいとのことでした。
 ただ、クレアさんを除くお屋敷の方々は、その変わりように戸惑われます。
 というのも、クレアさんともども、前世の記憶を思い出したのはつい最近のこと。
 それまでのサディアス様は、噂通りの強面(こわもて)の侯爵様だったからです。

 けれど、私が思った通り、ニホンジンの方々は優しい人が多いのでしょう──サディアス様はどの方に対しても誠実に接し、前以上の信頼を勝ち取っていきました。



「──あそこの廊下も階段も。全部手すりを付けることにしたんだ。あと可能ならスロープも」

「手すりと、スロープ……ですか?」

「階段じゃなくて傾斜にするってことな。うちは年配の使用人も多いから、あった方がいいと思ってさ。多少景観が悪くなるけど、我慢してくれ」

「……いいえ。そのお心遣い、素敵だと思います」





「執事長のエバンスには強制的に休暇を取らせた。昨日から一週間、旅行に行ってもらってる」

「何か……問題を起こされたのですか? エバンスさん、優秀な方だとお聞きしていましたが……」

「逆だよ。うちの使用人たち、年間の有給休暇はきっちり与えてるのに全然休もうとしないんだ。エバンスに率先して休んでもらえば、皆も取りやすいんじゃないかなと」

「……素晴らしいお考えですわ、旦那様」





「ご自身で、学校を運営される……旦那様がですか?」

「そんな大したものじゃないよ。まずは手始めに学習塾程度のものをね。この世界って識字率がヤバいというか……皆が読み書きできないってこんなに不便だったのかと、最近色々と痛感するんだよ」

「確かに、皆さん文字が読めれば、お仕事の効率も上がりますね……」

「とりあえず、使用人の家族、子供たちをそこに預けて授業を受けさせようと思うんだ。親が世話する時間も浮くし、一石二鳥! ……なんてのは、はは、都合よすぎかな?」

「……いいえ。名案だと思いますわ、本当に」





 それは本当に、今までの日々が嘘だったように充実した毎日でした。
 侯爵家の運営だけではありません。サディアス様は私へ言われた通り、『楽しいこと』を率先して行われ、惜しむことなくそれを私と分かち合ってくださいました。
 演劇鑑賞、ちょっとした小旅行、時には彼の前世の食べ物を再現して、それを私に振舞って下さる……なんてことも。
 また、サディアス様だけでなく、お屋敷の方々、皆さん真摯に私と向き合ってくださいます。
 後で聞いた話なのですが、サディアス様は引っ込み思案だった私の性格をかんがみて、それを踏まえて応対するよう皆さんに言い含められていたそうです。
 「シナリオなんか知らない」と言いつつ、そのお優しい心遣い……本当に嬉しくて。
 前世の記憶のせいでムードがないなんて自虐されますが、私にとってはそんなサディアス様こそ、お慕いしたい本当の旦那様でした。


 ……ただ、そんなサディアス様のお心は、時に私を不安にもさせます。
 こんなことがありました。
 夏のとある日、その年はいつもより降雨量が多かったため、かねてから水害が懸念されていました。
 その予想は的中し、領内の山林区域では大規模な洪水が発生します。


「それはつまり──川の氾濫が起こったっていうのか、クレア?」

「いいえ、まだよ。現在上流で山崩れが起こって、水がせき止められた状態になっているそうなの。でも、そのせいで水が限界までためられて、おそらくそれが大水となって押し寄せてくるだろうって。もう、現地の人たちはこっちに移動を始めてるそうよ」

「なるほど、了解した。今の話をそのまま騎士隊にも報告しに行ってくれ。例年の訓練通り、避難民の受け入れにあたらせる」

「あの、閣下。かねてより準備していた防護結界を使われてはどうでしょうか? 洪水を防ぐために、ずっと開発を進められていたではないですか」

「無理だ、エバンス。あれはまだ研究段階、今使っても焼け石に水だ。自然の力はそうたやすく覆せるもんじゃない」

「ですが……」

「それよりもクレア、わかってるよな?」

「ええ、もちろん! どんなことより人命が最優先。あらゆる物資を出し惜しみしない! 全隊員に念押しするから!」

「賠償その他の責任は、すべて俺が引き受ける。あとは食事と寝床の用意だ。備蓄もあるだけ出して、炊き出しの準備を急いでくれ」

「了解! あ、エバンスさん、先に行ってますね!」

「え、ちょっと、待ちなさいクレア君!」

 クレアさんは、勝手知ったる様子で部屋を出て行かれます。
 執事長のエバンスさんよりも息ぴったりなやり取りは、まるで長年連れ添ったパートナーのよう。
 その様子に、何故だか私の胸がズキンと痛みました。

(……あれ、どうしたのかしら、私……。今、すごく不安な気持ちになってる……?)

 この不安な感情は、災害の心配とは別のもの。
 非常時に、無関係のところで戸惑いを覚えるのは何故なのか。
 その時はわかりませんでしたが……豪雨の中、無駄のない連携で避難の指揮と事務処理をこなしていくお二人を見て、私は不意に気付いてしまいました。

(そうか……そうなんだわ。これは……)

 間違いない。
 この気持ちは……おそらく、嫉妬の感情。
 自分が決してあのお二人のようには……同じような関係にはなれないということに、思い至ってしまったのです。

 思えば、サディアス様は最初から私に一歩引いて接しておられました。
 もちろん、待遇に不満があるわけではありません。
 いつも気さくで、思いやりをもって私に話しかけてくださることには、本当に感謝しています。
 けれど、旦那様は最初の晩を含めて、一線を越えようとしたことはありません。
 私たちは夫婦なのに。
 大事にはしてくれるけれど、妻として触れることは──そう、愛してもらったことは、今まで一度もないのです。

 私に対してそんな姿勢を崩さないのは、多分私の容姿のせいだけでなく、クレアさんという──もっとふさわしい方がそばにいるからだと理解した時、私の瞳から大粒の涙があふれて落ちていきました。

 次の瞬間、私は走って雨の救護現場へと駆け出します。
 泣いていると悟られないように。
 醜い心を隠すために皆さんのお手伝いをするなんて、軽蔑されるべき行いだと思います。
 でも、その時はそうするしかなかったのです。


 そして、水害も過ぎ去り、夏から秋へと季節も移る頃──私は一つの決心をします。



「なになに、セシリーちゃん。私に話って?」

「クレアさん。あの……聞いていただきたいことがあるんです」

 女二人だけの秘密の会話。そのお誘いにわくわくした表情を見せていたクレアさんでしたが、私の目つきが真剣だと気付くと、すぐに姿勢を正されました。

「クレアさん……私、サディアス様から身を引こうと思っているんです」

「ど、どういうことっ!?」

 単刀直入な告白に、彼女は今までにないくらい眼を見開いて、私の両肩をつかみました。

「何かあったの!? 嫌なことでもされた!?」

「いいえ、逆なんです。私の方が旦那様にご迷惑をかけて──お邪魔な存在になっていると思うので、このあたりがお(いとま)する時だと思いまして」

「い、意味わかんないよ!? 迷惑だなんて全然ないと思うけど……わかんないけど、もう少し詳しく教えてくれない? 何か協力できること、あるかもしれないからさ!」

「……ありがとうございます」

 たとえ何も変わらなくても、そのお心遣いだけで十分です。
 そんな思いとともに私は一礼して、クレアさんにこれまでのいきさつを打ち明けました。
 どうして自分が身を引こうと思ったのか。そこに至るまでの思いと、私の醜い感情を。
 それから……お二人を恨むつもりなどなく、とても感謝していること、私に気兼ねせずお二人が結ばれてほしいことも。

 そして、話を終え、これから自分はどうするか──離婚でも構わないし、お飾りの妻としてやっていくのも異議はないと伝えようとした時、しかしクレアさんは怒ったように声を上げました。

「って、ちょっと待てえええぇい!」

「は、はい?」

「ああっ、ごめんねセシリーちゃん。セシリーちゃんに怒鳴ったわけじゃないの! まあ確かに、ちょっと勘違いがベタすぎるというか、『マジで?』って思っちゃったところはあるけど……あたしが怒ってるのは、むしろおにいに対してだから!」

「お……おにい?」

 聞きなれない言葉が飛び込んできて、私は思わず復唱してしまいます。
 一方、クレアさんは頭を抱えて、さらなる奇声を響き渡らせました。

「あたしが出しゃばると仲が進展しないと思って遠慮してたら、逆効果じゃないのおおお、あの馬鹿おにい! もう、信じらんない! 結婚してから今の今まで何もしないなんて!」

 続いて、そのままの体勢でバタバタと足踏みをしたかと思うと、がばっと顔を上げ、こう尋ねられました。

「セシリーちゃん。おにい……じゃなかった、サディアス様のこと、好きなのよね!? その言い方だと!」

「え、えっと……はい」

「だったら、遠慮しないで! ためらわないで! あたしとサディアス様の前世での関係はね、兄と妹! ただのそれだけであって、恋愛感情なんかこれっぽっちもないんだから!」

「……え?」

 思わず耳を疑いました。
 兄と妹、つまりは兄妹(きょうだい)
 息ぴったりの深い関係のように見えたそれは……実のところ、肉親関係だったから?
 確かに、それなら……今までの気安い会話も、なるほどとうなずけますが……。

「で、ですが、前世ではそうでも、今は違うのですよね。転生して、兄妹(きょうだい)じゃなくなって、サディアス様がクレアさんを愛する気持ちを自覚したから、なんてことは……」

「ないないない。絶っ対にない! あのおにいが手を出さないのは、単にビビリなだけだから!」

「び、びびりって……」

「それこそ何年も妹やってたからわかるのよ。アレはね、大事にするってことを奥手の言い訳にして、後で後悔するタイプなの! やっぱりこっちから押さなきゃダメなのよ!」

 その勢いに、私は身を引くくらいに圧倒されてしまいます。

「それにね、セシリーちゃん、すっごく可愛いんだから! もっと自分に自信を持って! むしろ、可愛すぎるから気後れして、手を出せないんだと思う! おにいは!」

「そ、そうでしょうか……」

「そうよ! 少なくともセシリーちゃんの可愛さは絶対!」

「で、ですが、サディアス様がそうだとしても、クレアさんが結ばれた方が、クレアさんも……」

「それも違うの。あたしはねぇ、セシリーちゃんこそが推しなのよ! おにいとセシリーちゃんが結婚してくれたら……もうしてるんだけど、そしたらあたしが義妹で、ある意味家族になるわけじゃない? そういう意味でも結ばれてほしいというか……むしろ、なってくれなきゃ困るんだけど!」

「え、えええぇ……?」

「けどまぁ、そっか……二人はまだそういう関係なんだね。ということは……あたしも良いシーンに立ち会える見込みがあるってことなのかな」

 けれど、そう言った後で、クレアさんは頭を振り、ご自身に言い聞かせるようにつぶやきました。

「……ま、やめとこ。のぞき見なんかして、ムード壊しちゃったら最悪だし」

「あの、クレアさん……」

「さて、そういうわけだから! セシリーちゃん、あたしのことは気にしないで、告白してきなよ! 馬鹿おにいが馬鹿だってことはよくわかったわ。てことはもう、前進あるのみよね!」

「クレアさん……」

 その表情はすがすがしく、何の偽りもないことがわかるくらいに澄んでおられました。
 同時に私は、彼女の思いに気付きます。
 自分は、この方からもこんなに大事にされていたのだと。
 何の見返りも求めない、ただ純粋な好意。それがどれだけ得難いものか。
 言葉は軽いけれど、私の幸せを願ってくれていることに変わりはない。
 その気持ちが、とても嬉しくて、愛おしくて。

 きゅっと胸が詰まりそうになり、なんとかこらえてクレアさんを見つめ返し、私は言いました。
 
「……ありがとうございます。私……頑張ってきますから」

「うんっ」

 素敵な笑顔でうなずき返してくれた後、クレアさんはいたずらっぽい笑みでこう付け加えました。

「あ、でも、結果は教えてね。一番最初に」

「はい、それはもちろん」

「絶対オッケーだと思うけど……万が一、おにいが拒否ったら、あたしが縄で縛ってでも受け入れさせるから。安心して」

「ありがとうございます……頼もしいお言葉、嬉しいです」

 顔を見合わせ、二人で和やかに笑い合います。
 そうやって軽やかな冗談に緊張をほぐされて、私は涼やかな心持ちで、サディアス様のお部屋へ向かったのでした。






 そして──サディアス様と私が、本当の意味で結ばれてから。

「そういえばさ、クレア。こういう話だと大抵『ざまぁ』があると思うんだけど……この世界だとどうなるんだ?」

「うん、ちゃんとあるわよ。今から三か月後くらいだったかな……王宮の夜会で、セシリーちゃんの実家の奴らが王族の不興を買って、没落しちゃうの。こっちも巻き込まれそうになるんだけど、そこは二人の機転で逆に王様からの覚えが良くなるってエピソードね」

「……なんだそれ、めんどくさい。どうせ向こうが勝手に没落するなら、その夜会は出席しなくてもいいよな? で、セシリーには害が及ばないように、先に実家と縁を切らせてもらおう。うん、セシリーをうちの侯爵家の親戚の養子にでもさせてもらえばいい」

「え」

「手切れ金を多めに払って、適当に言いくるめれば何とかなるだろ。もともと俺は怖い侯爵って設定なんだし。あっちも関係を続けるのは本心では嫌がってるはずだ。もし、そこでごねるようなら……ま、ちょっとだけ、脅してやるかな」

「あ、あの、サディアス様。そんなこと……できるんですか?」

「できるっていうか、やるんだよ。大丈夫、何も心配することはないよ、セシリー」

「……おにい、よくそんなこと思いつくわね。本当に、このシナリオの知識ないの?」

「ないよ。けど、この世界で生きてきた知識はあるからな。一応俺は、サディアス・グレンヴィルなんだし」

「はー……すご。生まれて初めておにいを尊敬しそうだわ……」

「それ、転生後初めてって意味じゃないよな……さすがにひどくない?」

 感心して息を吐くクレアさんに、サディアス様はあきれたように眉を寄せられます。
 私はそんなお二人を見て、「ふふっ」と笑みがこぼれるのでした。


<おわり>