おはよう。ちょうど、君の試験が始まってる頃だね。
 中休み一日を挟んで五日間、君の健闘を祈る。
 君が僕に伝える言葉を考えていたように、僕も君に伝える言葉を考えていた。
 知っての通り、僕は話すことが苦手だった。けど君と出会ってからなるべく細かいことまで日記をつけて、自分の言葉を選ぶ練習を始めた。
 その日記を読み返して思う。
 君に届けたい言葉が、僕もようやくわかったよ。



 日記の最初の日付は、八年前の四月三十日。
 君と初めて会ったのは、お互い大学一年生の春。何かの飲み会の時、僕らは隣同士になって話すことになった。
 僕の君に対しての初印象は、苦手な子だった。君はやけに胸は大きかったけどそれ以外は何もかも小さい女の子で、扱いに困った。
 一緒に来ていた誰かは、僕のことを侮蔑的に紹介した。
「気にしちゃだめだよ。こいつ、女が駄目だから」
 僕がゲイであることを教えられても、君はきょとんとするばかりだった。
 当時の僕の信念は、「言葉なんかいらない」。他人に自分のことをわかってもらう必要はないと考えていた。
 だから隣同士になっても、君が話してばかりで僕はほとんど無口だった。
 けど君はそんな気まずい空気の中で、僕が将来ジャーナリストを目指していることを聞きとってみせた。君はうなずいて言った。
「言葉を考える仕事か」
 その言葉は僕を苛立たせた。僕は君に言い返した。
「言葉をいじる必要はない。僕は事実を報道する記者になるんだ。私見を挟んで人を惑わせるようなことはしたくない」
「うん。だからこそ言葉を選ぶ練習が必要なんだと思う」
 君はまんまるな目でじっと僕を見上げながら言った。
「私見を混ぜず、事実をそのまま伝える。けど事実はそのままでは文字にならない。事実をありのままに伝えるには、事実を文字に落とす作業、つまり言葉を考える練習が要るんじゃないかな」
 酔いに任せて適当な話に流れる周りの中で、君はゆっくり、理路整然と僕に話しかけた。僕はそれに純粋に驚いた。
 飲み会の後、君と携帯じゃなくパソコンのメールアドレスを交換した。それは女の子に対しては初めてのことだった。
 何度か会って話している内に、君がとても勉強熱心で、法律を学んでいることを知った。そのうちにお互いの家に遊びに行くようになって、一緒に暮らすようになって、僕らの関係は恋人に近くなった。
 けど六年前の秋、大学三年生の頃から、君は精神的な変調に悩まされるようになる。
「だめ、これじゃ。私、全然駄目だ」
 期待を背負って実家を出て、遠い大学まで来たのに成績が振るわなかった。そのことが、明るくてはつらつとしていた君を変えてしまった。
 それなのに僕は、君を励ます言葉をみつけられなかった。言葉を考える訓練をしてこなかった僕は、君に送る言葉がわからなかった。
 そうして君はすっかり痩せて精神的に落ち込んだまま、今度はさらに実家から遠く離れた大学院に行くことを決めた。
 本音をいえば、僕は完全に反対だった。大学院は学問を突き詰める生徒の集まりだ。君がなお劣等感に苦しまないかと思った。
 一方で、僕は念願の報道機関への就職を果たして、海外に転勤することになった。君はそれを自分のことのように喜んでくれたけど、僕はこれでよかったのか悩んでいた。
 その年の春には、思いついた言葉もあった。僕と結婚して一緒に行こうと言おうとした。
 けど、僕はその言葉を告げられなかった。僕がその提案をする前に、君は僕に言った。
「私は一人で立つ。君の手は借りない」
 君は僕に頼ってばかりだとよく言うけど、結局は僕の手助けを拒む。
 その時も、他人にすべてを委ねることなど認めない君のプライドを目の当たりにして、僕は引き下がった。
 僕にできた協力といえば、君の親代わりの祖父母のところへ君と一緒に行って、僕と結婚して海外に行くことになったと嘘をつくくらいだった。
 僕は君に悩みを打ち明けたことがあった。僕は、恋愛と友情の境界をどこに作っていいのかわからないと。
 僕は同性に対して恋愛感情を持つこともあるし、友情も持つことがある。正直、相手によるとしか言えない。
 でも思えばそれは、異性に対しても同じだった。君に対してもそうだった。君が友達なのか恋人なのか、僕自身にもわからなかった。
 ただその時は、僕はその感情を深いところまで覗き込むことをしなかった。
「わかった。じゃあ、僕らは友達として付き合っていくことにしよう」
 僕は、君の一番の友達になることにした。君が今必要としているのは、何でも相談できる親しい相手。楽しいことでも辛いことでも気軽に話せる友達だと思ったからだった。
「だから何でも話してほしい」
 僕がそう言ったら、君はやっと笑って僕に言った。
「うん。いっぱいメールする。君も、私にいっぱいメールしてね」
 僕はうなずいて、僕らはメールでつながっていく約束を交わした。
 日記を辿ると、四年前の三月二十七日が現れる。君と僕がそれぞれの新天地に出発した日のことだ。
 君はくしゃりと目じりを下げて、僕に言った。
「それじゃあ、行ってくるよ」
 空港で君が僕から背を向けて歩き出した時、その背中が君らしくもなく丸まっていることに気づいた。
 僕はその背中をみつめて思った。
 ……思い出して。君は自分で思うほど弱くも、劣っているわけでもないよ。
 けれどそれは君が自分で気づくしかなくて、ただもどかしかった。
 その背中がまた自信に満ち溢れることを願って、君の背中を強く叩いた。
 搭乗口に君が消えた後、顔を覆って僕は泣いた。
 それから僕は海外に出て、君とのメールのやり取りを始めた。君は大学院でますます成績不振に悩んで、対人関係に恐怖を感じて、つらそうだった。
 けどその中でも君は学問を進めることを選んで、少しずつでも前進していたように思う。
 そんな中で、君は蛍君という男の子が好きになった。
 僕はそのことに、嫉妬も抱いたのだと思う。気分屋で人を振り回しがちな蛍君の話を聞いていると、ようやく回復し始めた君が心配になった。
 だから君を引き留めた。彼と付き合ってはいけない、君は恋愛をするにはまだ未熟だからと言ってしまった。
 君は僕の言葉を受け入れなかった。次第に僕の悪い癖が蘇って、僕は口をつぐむようになった。
 そのうち君からもメールが途絶えて、心配でいても立ってもいられなくなった。
 三年前の二月十日の日記が現れる。君が大学院一年生の学期末試験を終えてまもない頃、僕は君のアパートを訪ねた。
 君は布団の中で小さくなっていた。部屋の中には物が散乱して、ろくにものも食べていないのがわかった。
 僕は君を見送った時からずっと心にためていた言葉を、告げようと思った。もうこんなことはやめなよと。
 君は勉強も大学院も恋愛からも遠ざかって、ゆっくり休養するんだと勧めたかった。
 でも君の周りは学部生だった頃よりももっと、勉強道具で埋め尽くされていた。ボロボロの精神状態になってもこれだけは諦められないのが伝わってきた。
 譲れない夢に対しては誰だってそうなるんだと、僕も知っていた。
 だからぎゅっと、布団ごと君を抱きしめただけだった。この卵の殻のような重圧から、君が自力で出てこられるように祈った。
 体調にも成績にも人間関係にも苦しんだ、君の一年生はどうにか終わった。
 仲間意識を軸に少しずつ先輩や友達との人間関係を広げて、劣等感と折り合いをつけ始めた二年生も終わった。
 三年生になると、僕と出会った頃の明るさと毎日への楽しさも取り戻した。
 それを助けてくれた人たちに、僕も感謝したい。
 今年の三月二十七日、君と離れてちょうど三年後。君は自力で大学院を卒業して、目標だった試験を受けることになった。
 僕から君に、最大の喝采を。
 よく、殻を破ったね。



 僕もそろそろ殻を破ろう。メールではなく、君に直接伝える。
 そんな僕に、向かい側に立っていた男が言う。
「何してるんですか?」
 僕が君のアパートの前でパソコンのメールボックスを閉じたら、彼は僕の手元を覗き込んでいた。
 うるうるしたつぶらな瞳を一目見て、なるほど彼が豆柴だと納得した。どうやら試験を終えて帰ってくる君を待ち伏せしているらしい。ちっとも懲りないなと苦笑いしたくなる。
 豆柴、むかつくなこいつは。ネエさんと意気投合したのは間違っていなかった。
 僕は豆柴とくだらない言い合いをする。
「そろそろ帰ったらどうだ」
「嫌ですよ。そっちこそ帰ってください」
 夜も更けてきた頃、ふいに階段を上ってくる足音が聞こえた。
 僕は肩を緊張させてそちらに全身の意識を向ける。
 足音と共に、スカイプで声を聞いたネエさんの声も重なる。
「メタルちゃん。がんばって、あと少し」
 先に階段を上って、ネエさんが君を振り返った。
 そういえば、君はネエさんが女性のことを好きだと知っているのかな。言葉づかいで判断しちゃいけない。院の人もほとんどが知っている公然の事実だそうだ。
 ぜえぜえという疲れ果てた呼吸と共に、誰か上ってくる気配がする。
 僕は一度深呼吸して、それから口を開く。
 五日間の試験の全日程を終えた、階段をのぼりきった君に、僕は声をかける。
「おかえり、果穂」
 君の本名を呼ぶと、君はびっくりしたように顔を上げた。
 まんまるな目が見開かれる。そしてすぐに泣き顔になる。
 でもそれは僕が何度も見た、悲しみや苦しみの涙じゃなかった。やり遂げた人間だけが落とせる、嬉し涙だった。
 荷物を放り捨てて飛びついてきた君を、僕はようやく直接抱きしめる。
 わんわん泣いている今の君に、言葉はいらないのかもしれないけど。
 僕は君の耳に口を寄せて、ずっと考えてきた愛の言葉を告げた。