こんばんは。昨日で学期末テストは全部終わった。
 卒業できるかは結果次第だけど、今回は大丈夫と思える。
 君にいい報告ができるように祈ってる。



 学生にとって大きな山場で、気が重いのがテスト期間だ。
 今年は卒業がかかっている。必修科目を一つでも落としたら留年で、今年の司法試験の受験資格が得られない。
 ネエさんは毎日胃薬を飲んでるし、いつも明るい豆柴君でさえ少し気落ちしているように思えた。
 でも試験は学生の常だから、今さら逃げる気も諦めるつもりもない。食欲は全然なかったけど野菜ジュースだけは飲んでテストを受ける日が続いた。
 何とか例年よりはうまく進んでいたと思う。
 だけどテスト最終日、再履科目で必修の民法が午後に迫った時、爆弾に出会ってしまった。
 休憩室で部屋を出て行こうとしたとき、私は蛍君と出くわした。
「あれ、メタル?」
 私たちの学年幹事でムードメーカー、特技はあだ名をつけること。我が院のゴッドファーザーとささやかれるのが、蛍君だ。
「……う」
 君に容姿までは伝えていなかったっけ。蛍君は均整のとれた長身、猫目に大きな瞳が独特の印象を持たせる男の子だ。
 大学院に入ってまもなく彼のことが好きになったことは既に書いた。
 蛍君はにこっと笑って私に言う。
「ああ、やっぱりメタルだ。最近あんまり顔を合わせなかったよね」
 一年生の初めの頃、私は彼につられて彼の所属するゼミに入った。
 けれど私は彼を避けるようにしてゼミを抜けて、その後蛍君は別の同級生の女の子と付き合い始めた。
 私は後ずさってすぐに逃げようとしたのだけど、蛍君は私より歩幅の広い足ですぐに前に回り込んできた。
「ねえ、なんで俺のこと避けるの?」
 蛍君は猫目を細めて問いかけてくる。その仕草だけでも、足元から震えが這いのぼってきた。
 私はしどろもどろになりながら言った。
「……蛍君のことが、苦手なんだ」
「嫌い? 好き?」
「そういうんじゃなくて、怖い……」
「どっち?」
 蛍君は二者択一で答えを選びたがる。きっと彼には、私はひどい優柔不断に映るのだろう。
「わからない。じゃあ、俺のどこが怖いのさ?」
「それは……」
 最初は彼のことが好きだったのは、間違いない。
――じゃあさ、メタルってどう? いつも素早くてせかせかしてる。学校にあんまりいない、レアなところもぴったりだよね。
 私にメタルというあだ名をつけたのも彼だ。一人でいた私に、気軽に声をかけてくれた。
――俺、蛍で。君がメタルで。そっくり。
 にっこり笑った彼に吸い寄せられるように好意を抱いたんだ。
 けれどある時から、我に返るように私は彼の言葉すべてが怖くなった。
 私はそのきっかけを言葉にして伝える。
「たとえば、メタルって名前をつけたところ」
「でもそれ、メタル自身喜んでたじゃない」
 私は珍獣なのだろうか。早く帰宅して皆と一緒に勉強しない私のことを、皆は密かに疎んでいるんじゃないか。
 メタルというあだ名をきっかけにして、急激に臆病になった。そしてがんばらないと顔を上げられず、人の目を見ることができなくなった。
 その時、休憩室の別の入口から豆柴君が入ってくるのが視界の隅に映った。
 豆柴君は一瞬こちらを見たけど、すぐに背を向けて椅子にかけるなり、昼食を食べ始める。
 蛍君は豆柴君には気づいていないようで、なお問いかける。
「意味もなく怖がられるのは不愉快だよ。はっきりして、メタル」
 蛍君ははっきりした答えを好む。だけど私は、はっきりした答えを伝えられない。
 それは私に負い目があるからだった。私は人との接触に過度に怯えて、悪意のない何気ない言葉にすぐ傷つく人間だから。
 私は自分が情けなくて、蛍君のような堂々とした人間の前だと萎縮して何も言えなくなってしまう。
 蛍君はあきれながら言う。
「ほら、また泣く。歩み寄ろうとしてるのに、なんでメタルはいつもこうなの」
「ご、ごめ……」
 きっと蛍君に私をいじめる悪意はない。私は勝手に怯えて勝手に傷ついている。
 ふいに蛍君はきょとんとして言った。
「……メタルって、病気なの?」
 そんな時だった。
 席を立つ音がして、足音が近づいてきた。私と蛍君の間に、誰かが割り込んでくる。
「やめてください、蛍先輩」
 豆柴君は何かをこらえるような低い声で、蛍君に言った。
 蛍君はいらっとしたように豆柴君に返す。
「シバ、後にしてくれる?」
「だめです。邪魔します」
 豆柴君はちょっと考える素振りをして言う。
「……僕とメタル先輩が相思相愛なら話は簡単なんですけど、さすがにそれはねつぞうですね」
 ぼそっと呟いて、豆柴君は気を取り直すように言う。
「メタル先輩には蛍先輩以外の好きな人がいるんです。だから放っておいてあげてください」
 私はまだ喉を詰まらせたままだったけど、一瞬だけその言葉に反応してしまった。
 蛍君は少し豆柴君の敵意に気づいたようで、目を細めて言う。
「ふうん? そうだとしても、シバに言われる筋合いはないよ」
「あります」
 豆柴君は蛍君に語気を強めた。
「蛍先輩より僕の方がずっと、メタル先輩のことが好きですから」
 休憩室で他にも聞いている人はいそうだけど、豆柴君はきっぱりと言った。
「僕だったら、好きな子が泣いてるのにそれ以上責めたりしません。蛍先輩は自分のことばっかりで、ちっともメタル先輩の気持ちを思いやってない」
 そこで蛍君はむっとした顔をした。心外とばかりに冷たく言う。
「思いやってるよ。だから歩み寄ろうとしてるんだ」
「メタル先輩は現に嫌がってるじゃないですか。怖がってるのが見てわからないんですか」
 蛍君は面倒になってきたのか、肩をすくめて一歩離れた。
「はぁ、なんかわかんないけど……まあ、もういいよ。メタルの病気に振り回されるよりは」
 私はびくっとしたけど、豆柴君は眉間にしわを寄せた。
「わからないことは相手のせいって決めつけるんですか!」
「いいんだ、シバ君」
 私はどうにか言葉を喉から振り絞る。
 私は蛍君をまっすぐ見て告げた。
「……今までありがとう。さよなら、蛍君」
 その言葉に、蛍君は少しだけ驚いたようだった。私がはっきりと断りの言葉を告げたのは初めてだった。
 一瞬だけ何か言いかけてから、蛍君は踵を返して休憩室を出て行った。
 豆柴君は途端にあせあせしながら言う。
「メタル先輩、あんな人の言葉気にしなくていいですよ。ほら涙拭いて、何か飲んで」
 豆柴君はハンカチを貸してくれたり、飲み物を買ってきてくれたりした。
 私はそれに力を借りながら、うん、うん、とうなずく。
 豆柴君は心配そうにたずねた。
「これから試験ですよね。大丈夫ですか?」
 あと十分後に迫った最後の試験に、私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で行くことになる。
 だけど、今は迷わずうなずくことができる。
「大丈夫」
 この院の人たちは、一緒に勉強しようとする人を決して拒まない。
 数分後に訪れた教室でも、みな私の顔を一瞬眺めるものの、何も言うことはなかった。
 席につくと、担当教員であるマナティも入ってくる。
「全員来ていますね」
 確認するように、マナティは言った。涙の跡が残っている私の顔も見たけど、先生は安心させるようにうなずいただけだった。
 マナティは祈るように告げた。
「さて、最終日です。自分の持てる力を最大限、出してください」
 マナティはそう言って、問題用紙を配り始めた。



 その試験の後、みんなが飲み会に流れていく時に豆柴君をつかまえた。
「ありがとう、シバ君」
「お礼言われるところじゃないですよ」
 自習室の窓ごしに積もる雪を見ながら、私たちは二人で並んで座った。
「蛍先輩の言いぐさがあんまりだったから、思わず割って入っちゃっただけです。なんですあの人、病気だの何だの。ふざけてるんですか」
 頭から湯気を出しながら怒る豆柴君に、私は答えた。
「……本当のことだよ」
 それから私は豆柴君に、一年生の頃にあったことのてんまつを話した。
 明るくて快活な蛍君に惹かれたことから、メタルという呼び名をきっかけに疎外感と恐怖感を抱いて、蛍君も周りの人も怖くなってしまったこと。それで勉強も手につかなくなって、一年生の頃たくさん単位を落として、劣等感に拍車がかかったこと。最後に、そうやってガタガタになったのを離れて暮らす大事な友だちに、メールで全部ぶつけてしまったことを。
 豆柴君は聞き終わって、そっと問いかけた。
「それで全部ですか?」
「うん」
 相槌を挟みながら聞いていた豆柴君に、私はうなずいた。
「蛍君はおおらかなのに、私が神経質すぎたんだ」
 豆柴君は首を傾げて言った。
「違いますよ。メタル先輩が繊細で、蛍先輩が無神経なんです」
 ものは言いようだと私が苦笑すると、豆柴君は続けた。
「それにうちの大学院ではみんな多かれ少なかれ、精神的に追い詰められてます」
 豆柴君はちょっと笑って言った。
「一度転んだくらいで怯えなくて大丈夫です。今立ち上がっていることの方が大事でしょう?」
 私はようやく気持ちを落ち着けて、深く息をついた。
 改めて豆柴君を見て、私はぽつりと言う。
「約束破っちゃった。ゼミじゃないのに、シバ君に話しかけた」
「いいですよ、そんなことは」
 豆柴君はむすっとして、恨めしげに横目で私を見た。
「わかってるんですよ。メタル先輩って結局、その「友達」が一番好きなんでしょ?」
 私はちょっと黙った。
 それは私にとって当たり前のことすぎて、今まで言葉にしたことがなかった。
 少し高い丘に登って辺りを見回したみたいに、なんだかいろんなものが見えてくる気がした。
 豆柴君の言葉も耳を通り抜けていく。
「……ほら、やっぱり。好きなんだ」
 私は何度もその言葉を心の中で繰り返していた。



 そうなんだよ。私が一番好きなのは、君なんだ。
 あんまりに単純すぎる答えで、でもそれがすべて。
 その気持ちをちゃんと胸に収めれば、ようやく君に伝える言葉がみつかりそうだ。
 それじゃ、またね。