やあ、こっちはもう雪降ってるよ。
 ここに越してから三年目になるけど、未だにこのどっさりとした雪には驚く。実家にいた時は雪さえみたことがなかったもんね。
 そうだ、君とネエさんとのメールのやり取りは順調なんだってね。
 顔を見たことがなくても友達になれるなんて、あこがれるよ。
 なんだかばれていそうだから言うけど、私はまたへこんでるんだ。
 そろそろ本題を話すよ。



 私は民法の再履の授業前、聞き覚えがあるようで微妙に違う言葉を聞いた。
「メタル先輩、あなたが嫌いです。シバと別れてください」
 私は何を言われたかわからないまま振り返って、そこで静止した。
「……かわいい」
 思わずそう言ってしまった私を責めないでほしい。
 その子は私より背が低くて、細身で色白、卵型の顔に星が五個くらい入っているようなきらきらした目を持つそれはもう愛らしい……男の子なんだ。
 彼は憤慨したように立ち上がって、きっと私を見下ろす。
「その言葉は品性を疑います」
 うん、二十歳過ぎた男の子をそう呼ぶのは失礼なんだろうけど、その愛らしさに逆らえなくて思わず言っちゃうんだよ。
 ところで繰り返しになるけど、今は民法の再履の授業前。
 ホワイトボードの前に立っていた教授が、冷静に一言告げた。
「授業です。座りなさい、古地君」
 通称プリティ、既修者一年生の古地君は渋々席に座り直した。
 実はこういうことは今に始まったことじゃない。プリティは前々から、私の顔を見るたび嫌いだ憎いうんぬんと言ってくる。
 でも彼みたいに可愛い子に言われると、なんだか微笑ましいような気持ちになってしまう。
 ……そういうのが失礼だと、彼に言われてしまうんだろうけどさ。
 授業を終えると、プリティは繰り返した。
「シバと別れてください。あなたが邪魔なんです」
 私は首を傾げて問いかけた。
「シバ君と私は付き合ってないよ?」
「でもシバはメタル先輩に告白したでしょう」
「お断りしたよ」
 その辺りから、プリティの目がだんだん泳ぎ始めた。私がいじめてるみたいでかわいそうになってくる。
 プリティはぼそりと言葉を続ける。
「けどメタル先輩があいまいな態度ばっかりだから、シバが期待してつきまとってるんじゃないですか」
 私は、それは的を射た言葉だと思った。こくっと頷いて言う。
「わかった。私、もうシバ君とはゼミ以外では話さない」
「……え?」
 そうしたら、プリティは不意を衝かれたように目を丸くした。そういうところもかわいかった。
 私は自分に誓うようにして言った。
「本人にはっきり言っておくよ」
 その日の夕方は、民法の真鍋教授のところに用事があった。
 何度か話したように、私は今年民法の演習科目で再履となっている。今度こそ単位を落とさないため、先生に答案を見てもらっている。
「ああ、見ましたよ。これですね」
 真鍋先生は四十ほどの比較的若い男性の教授で、大学院においては最前線で私たち生徒と接する先生だ。
 声がやすりがけしたようにけばだっていて、目が肉食獣みたいに鋭い。いつも思うのだけど、なぜこの先生は民法担当なんだろう。犯罪学とか刑事学とか、少なくとも刑事法向きの人だ。いや、顔で判断しちゃいけないんだろうけどさ。
 でも中身は怖い人じゃなくて、真面目で優しい先生だ。
 赤でびっしり直しの入ったレポートを渡しながら、真鍋先生は言う。
「こうも直すところが多すぎると楽しいですね」
 一部撤回しよう。中身もちょっと怖い先生だ。見た目も舌なめずりしている猛獣なので文句なく怖い。
 真鍋教授とは茶目っ気のあるドSなのである。
 教授は我々院生には、「マナティ」と呼ばれ親しまれている。真鍋ティーチャーの略だろうけど、人魚らしい儚さとは皆無だ。教授はいつでも臨戦態勢の取れるワイルドな肉食獣である。
 教授はしみじみと言う。
「とはいえ、直す方法さえ浮かばなかった君の一年生の頃よりはましですけど」
「はは……」
 今でこそ月に二回程度教授の元を訪れるが、一年生の頃の私はそうじゃなかった。
 以前、教授は私に言った。
――まるで地下室で、一人で作ったレポートですね。
 マナティが酷評を下したことにどうしても納得がいかなくて、一年生の秋頃に私は初めてこの教授室を訪れた。私はむっとして思わず返した。
――レポートは一人で作るものでしょう。
 でもマナティは譲らなかった。
――私が危惧しているのは、君が誰からも影響を受けていないのではないかということです。
 マナティはそのときも淡々と、自分の言うべきことを告げる冷静さを持っていた。
――法曹はたくさんの人とかかわらないといけない。でも察するに、君は同級生や先輩と議論も拒絶しているんじゃありませんか?
 それは私に友達や先輩の類がいないことを言い当てられたような気がした。
 その頃、成績が振るわなくて焦っていたこともあって、私は短気を起こした。
――いいですよ、別に! 私はどうせ司法試験なんて通りませんから!
 かっとなって立ち上がった私を、マナティは座ったまま見上げていた。
 今のままじゃそりゃ通らないだろう。そう言われると思った私の成績のことを把握している先生なら、まさか頑張れば何とかなるなんて楽観的なことは口にしないと考えた。
 でも、そうじゃなかった。
 今同じ席で向かい合いながら、私は問いかける。
「先生。私の成績、相変わらず悪いですけど。まだ答案見てくださるんですね」
「当たり前です」
 マナティは刃物のようなとがった目で私を見て、さらりと言う。
「私は君たちが全員卒業して、試験に合格できると信じて教えています」
 一年生の頃と変わらない言葉を聞いて、私はくしゃりと顔を歪める。
 卑屈になって、自信をなくして、もう自分なんてと自棄になっていたあの頃、マナティは当たり前のようにその言葉をくれた。
「君たちは全員、私たち教師が選んだ生徒なんです。出来が悪いわけがないでしょう」
 先生の強い自信に、私は自分の卑屈さから抜け出すきっかけをもらえた。
 先生はたしなめるように言う。
「ちゃんと交流して勉強しなさいよ。もったいない」
 今は迷わずその言葉にうなずくことができる。
 いくつかレポートについての指導をした後、マナティが何気なく言った。
「まあでも、私にだって迷う時はありますよ」
 マナティはふいに苦笑した。二年以上見てきたから苦笑だとわかるだけで、一見するとどうやって獲物を仕留めようか見極めているようにしか見えないけども。
「教師は期待をかけるのも仕事ですけど、いざとなったらあきらめさせるのも仕事の内ですから。君のように心身共にやつれていた生徒には特にね」
「ですね。ご心配をおかけしました」
 一年生の頃の惨状を思い出して私も苦い笑みを刻む。
 大学院の生徒はえてして貧弱な体である上、精神状態も追い込まれてしまう人が多い。マナティなどは勉強だけでなく、そういった生徒たちの心のケアもしているのだった。
「最近は周りとはどうですか?」
「はい。ネエさんが誘ってくれた今のゼミではうまくやっています」
 マナティは心配そうに、見た目は殺人犯のように目を光らせる。
「人付き合いくらい好きにさせておきたいのですけどね。……それで転ぶ生徒を見るたび、惜しいと思ってしまうんです」
 マナティの言葉は重く響く。
 私たちはちょっと狭すぎる空間にいる。その中で関係がこじれると、とても居づらくなる。
 私がまさにそうだったから、全然笑えない。
 マナティは先生らしく指摘もした後、褒めることもする。
「君は踏みとどまりましたがね。それはよくできました」
「ありがとうございます」
 周りの人たちは、みんな私と蛍君がもめたのは知っていたのに、私を敬遠することなく淡々と一緒に勉強を続けてくれた。
 ……忙しい君まで、私のところに来てくれた。ありがとう、本当に。
 私は今日二度目の誓いを口に出す。
「だからもう失敗はしたくないんです」
 そう言ったら、マナティは少し不思議そうな顔をした。
 私は深く頭を下げて、その日もマナティの教授室を後にした。
 それで自習室に寄ったら、修了生のネッシーさんに声をかけられた。
「待ちかねたよ、メタルちゃん」
 私は学校にいる時間が短い。私をつかまえられるのはネッシーさんかネエさん、はたまた認めたくないけど豆柴君くらいだ。
 でも今日はネッシーさんと一緒に一度も話したことがない先輩がいて、私に言った。
「ちょっと話したいんだけど、いいかしら」
 彼女はモデルさんみたいな抜群のスタイルに、冷凍光線を放っているような目力を誇るアンドロイドじみた美女だった。高嶺の花、ハイパービューティと呼ばれていた。
 私はどぎまぎしながら問いかける。
「なんでございましょう……?」
 ネッシーさんを含めた三人で休憩室の椅子に座って、私は切り出した。ハイパー先輩とは全く接点がなかったから何の理由で呼ばれたのかさっぱりわからなかった。
 そうしたらハイパー先輩はかくんと首を垂れた。バッテリーが切れたのかと本気で思ったほど唐突な動きに、私はびくっとする。
 ハイパー先輩は案外優しく私に言う。
「ごめんなさい。愚弟が要らんことを言ったわね」
 頭を下げたのだと私が気付く頃に、そういえばハイパー先輩はプリティのお姉さんだということも思い出した。
 ハイパー先輩はさばさばと言葉を続ける。
「あの子、また私とシバをくっつけたいらしいわ。シバに兄さんになってもらいたいそうなの」
 硬直して何も言えないでいる私の前で、ハイパー先輩はため息をつく。
 ネッシーさんは眠そうに言葉を挟んだ。
「ハイパーって、だいぶ前にシバと付き合ってたよね?」
「三年くらい前ね。シバがまだ学部生の頃」
「はは。趣味わるーい」
 ネッシーさんは無遠慮に笑った。この二人、高校の頃からの付き合いだと聞いたことがある。
 私は失礼かと思いつつ手を挙げる。
「あの」
「よし、メタルちゃん。発言を許す」
 ネッシーさんが先生風に指をさしたので、私は口を開いた。
「……プリティってシバ君が好きなんですよね?」
「それもあるよねぇ」
 ネッシーさんは頷いたけど、ハイパー先輩は大真面目に首を横に振る。
「でもあの子、無類の巨乳好きよ」
 聞かなくていい性癖を聞いてしまったと思いながら、私は明後日の方向を見る。
 ハイパー先輩はそんな私には頓着せずに言った。
「愚弟はほっときなさい。それより、メタルちゃんは今まで通りシバに接したらいいの」
 うわさに違わずハイパービューティな先輩だと思った。
 ただ私はそれに、苦笑しか返すことができなかった。
 次の日、私は学校で豆柴君と会った時に言った。
「私、これからはゼミ以外ではシバ君に話しかけない」
 そうしたら豆柴君は一瞬黙って、そっと訊いた。
「僕がつきまとうの、迷惑ですか」
 私は唇を噛んでうなずいた。
「うん」
「わかりました」
 豆柴君のうるうるした目が悲しそうに伏せられるのを、私は見ていた。
 それから今日までの間、豆柴君とは一言も話してない。


 君には白状するよ。豆柴君はいい子で、このままだと好きになるかもしれなかった。
 でも私は豆柴君と付き合う気はなくて、それも彼に悪いと思った。
 私が豆柴君にかけた言葉は、私の自己満足に違いないんだろう。
 人と関わりたいけど、私は恋愛事に関わるには不安でたまらない。
 最近、よく考えるよ。
 ずっとメールを送り続けてくれた君が、私が恋に破れた一年生のとき、私にメールを送らなかった理由のこと。
 私がどれだけ君にわめいても、逆に私が悪かったからもう許してほしいと頼んでも、君は私に何も言わなかった。
 言いたいことがある時ほど、君は無口になる。
 私も今ようやく、君がそうする気持ちがわかったよ。
 だけど黙ってしまっていいのか、私はまだ考えてしまう。豆柴君に対しても、君に対しても。
 少し待ってほしい。もうちょっとで、君に伝えたい言葉がみつかる気がするから。
 それじゃ、またね。