やあ、君はまた一つ仕事を終えて、次に進んだね。
 私が大学院に入ってからと同じ時間、君は今の仕事をやりとげた。動きの多い職種だし、日々変化についていくだけで大変だろう。
 どんどん遠くに行ってしまう君に寂しさを感じる日もあるけど、それより嬉しさの方が大きい。
 確実に自分の夢へ向かって前進していく君は、いつだって私の憧れなんだ。



 さて私は一週間前から毎日、病院通いをしていた。
 君に怒られる前に弁解するけど、体調を崩したのは私じゃないよ。ネエさんが胃潰瘍で入院してたんだ。
 ネエさんは病院のベッドの上で、苦笑いして言う。
「悪いわねぇ、メタルちゃん。毎日来てもらって」
「近所だから寄ってるだけだよ。気にしないで」
 ネエさんは本名が姉原三太、男の人だ。背が高くて金に染めた長髪、小粋なファッションセンスを持つハンサムさんだ。
 でも見た目の派手さとは別に、責任感が強くて面倒見のいい、みんなに頼られるお姉さんのような存在なんだ。
 ……そんなんだから胃潰瘍になっちゃうんだよとは言っちゃいけない。
 人と交わるのが苦手な私でも、ネエさんには一年生の頃からお世話になってる。お見舞いに訪れた最初の日はもっと深刻な病気かと思って泣いちゃって、ネエさんに笑われた。
「メタルせんぱーい」
 ところで私がお見舞いに行く時間帯には、毎日豆柴君も訪れる。ネエさんは苦笑しながら豆柴君に言った。
「あら、失礼しちゃう。シバ君、ここは誰の病室だと思ってるのかしら?」
「もちろんネエさんの部屋です。でも、僕の目当てはメタル先輩です!」
 堂々とそんなことを言う豆柴君に、ネエさんは艶っぽく笑う。
「若いわねぇ。もっと器用にやらないと狙った魚は網にかからないわよ」
「う……っ。そんなのわかんないじゃないですか」
 後ずさる豆柴君とベッドの上から余裕たっぷりに彼を見上げるネエさんに、私はマークシートのコピーを渡して告げる。
「のんびりしてるとノルマ達成できないよ。さっさと始めよう」
 そうして三人で始めたのは、通称択一と呼ばれる過去問だった。
「はい、今から二時間半。用意スタート」
 択一問題は多くが知識問題なので、もぐら叩きのように地道な記憶と練習が肝要だ。とはいえ普段は授業が忙しいので、夏休みのような長期休みにまとめて択一を練習することになる。
 さすがに三人とも慣れてきて、制限時間ギリギリにはならない。二時間ほどで問題を解き終わったので、マークシートを交換して答え合わせをする。
 私は答え合わせをしながら驚く。
「すごいね、シバ君。商法も民訴も全問正解だよ。どうやって練習してるの?」
 私が素直にほめると、豆柴君は目をうるっとさせた。
「せんぱい……やっと僕に興味を持ってくれたんですね?」
 豆柴君は感激したようにうなずいて言う。
「先輩になら僕の個人情報を全面公開します」
「やめて、知りたくない」
 青ざめて私が首を横に振ると、ネエさんが助け舟を出してくれる。
「あたしもシバ君の健康管理は気になるわ。あなた、いつ見てもバリバリ勉強してるもの。何をしたらそんなに元気でいられるの?」
「そうそう。何か元気の秘訣とかある?」
 ネエさんの健康のためにも聞き出そうと、私も話題に乗った。すると、豆柴君はぽっと顔を赤らめて頬をかく。
「ご、ゴミ捨て場で寝起きのメタル先輩と鉢合わせしたら、朝から元気になります」
「いや君の願望じゃなくて」
 またも脱線しそうになったところで、ネエさんが話を切り返す。
「たとえば、ほら。シバ君はスポーツクラブに通ってるらしいじゃない」
「へぇ。体を鍛えることって大事だよね。どんなことしてるの?」
 そうしたら、なぜか豆柴君は目を逸らして答えた。
「ざっと一時間くらい泳いでます……」
「まあ、いいじゃない。そういう話が聞きたかったのよ、あたし」
「……待って」
 私は嫌な予感がして話を止める。
「それって駅前の温水プール? もしかして昨日の夕方も泳いでた?」
「メタルちゃん、知ってるの?」
「私が行く時間帯に必ず、競泳並みのハイスピードで泳いてる人がいるんだけど」
 キャップとゴーグルで顔がよくわからないけど、あのやたらガタイのいい男の子はもしやと思い当たる。
 横目で豆柴君を見たら、彼はちょっと涙目になって声を荒らげた。
「しょうがないでしょ! 一緒にプール行こうって言っても、メタル先輩乗ってくれないんですから。もう先輩の行くところに僕が行くしかなくて!」
「ちょっと、シバ君」
 私が青ざめていると、ネエさんはにっこりと笑って豆柴君を手招きする。
「……メタルちゃんにストーカー行為はやめろっつってんだろ」
 ネエさんが告げると、豆柴君はぷるぷると子犬のごとく震えながら上目使いで言う。
「ネエさん、僕に嫉妬してるんですね……? わかります。僕もネエさんの立場だったら僕に石を投げつけたくなりますよ」
「あんたもう帰りなさい」
 ぞんざいな感じで豆柴君を追い払った後、ネエさんはまだ硬直している私の頭をぽんぽんと叩く。
「よしよし、怖かったわねぇ。大丈夫よ、あの子はちょっと頭が残念なだけで女の子を襲う度胸はないわ」
「う、うん……」
 私はネエさんの優しい手に、まだ動悸がする胸を抑えながら言う。
「豆柴君が悪い子じゃないのは、知ってるよ……」
「豆柴?」
「あ」
 おもわず心の中での呼び名を口にして慌てた私に、ネエさんはぷっと笑う。
「なるほど。そうね、確かに豆柴ね」
 合点がいったようにうなずいて、ネエさんは少し黙る。
 ネエさん?と私が心配そうに問いかけると、逆にネエさんに諭すように言われた。
「ね、メタルちゃん。豆柴君のやり方はともかく、好きな人に近づこうとする気持ちは全然悪いものじゃないのよ」
「ごめん、今の私には悪いものなんだ」
 私は困り顔になって言葉を返す。
「ネエさんが気にかけてくれてるのは嬉しいけど、私は人と付き合うのは……特に恋愛をするには、泣きたくなるくらい重たい」
「まだ一年生の頃のこと、引きずってるの?」
 ネエさんは眉を寄せて言う。
「はっきり言うけどね。あたしも確かに、メタルちゃんと蛍君はうまくいかないだろうって思ったわ。あなたの特別な友達みたいに、メタルちゃんが傷つくだけだからやめなさいって言ったと思う」
 首を横に振って、ネエさんは続けた。
「でもそれは相性が悪かっただけで、メタルちゃんが悪いわけじゃないと思うわ」
 私はそれには答えられなかった。黙ってしまった私に、ネエさんはそっと言ってくれた。
「誰だって日々変わっていくの。それを忘れないで」
 ネエさんは優しい。孤立しがちな私にも気をかけてくれるのはとても嬉しい。だから私はネエさんの言葉を否定もできなかった。
 私はふいにネエさんのことに口を出した。
「ネエさん、そうやって人の心配ばかりしてないで。自分の体を最優先で労わってあげて」
「耳が痛いわ。ふふ、胃はもっと痛いけどね」
 ネエさんはシーツの上から自分の胃の辺りをおさえて苦笑した。私は首を傾けて問う。
「調子を崩したのって、何か悩み事があるから? 私でよければ聞くよ」
 ふいにネエさんはその目に力をなくして、しばらく黙りこくった。
 ネエさんはため息をついて、うつむいたまま言った。
「……「もうお前に遊んでる時間なんかない」って、親父に言われてね」
 はっと息を呑んだ私に、ネエさんは自嘲気味に続ける。
「「何をもたもたやってるんだ。本気で受かる気なら予備試験ってやつでも合格できるんだろ。うちに遊ばせておく余裕なんてない」って言われて、仕送りが止められそうになってね」
 私もうつむいて、返す言葉がなかった。
 才能、努力、運。どれかが突出することで、大学院に進むことなく合格する人もいる。ただ真面目に考えれば考えるほど、それは難しいと思ってしまう。
 私はぼそりとつまらない一言を告げる。
「みんな、がんばってるよ」
 私が言えるのは、それくらいの遠吠えだった。
「ネエさんもがんばってる。知ってるよ」
 誰も証明はできないけれど、私たちは仲間にそう言う。
 ネエさんは目を和らげて、ありがとうとつぶやいた。




 それから三日後の早朝、自習室の裏を通りかかったら、聞きなれた軽快な音楽を耳にした。
 その音楽に合わせて力強く、楽しそうに踊ってるのはネエさんだ。私はそれを、涼しくなってきた外気の中で目を細めて見ていた。
 ネエさんは大学の頃、ダンサーを目指していたらしい。それでクラブに入り浸ったり留年したり、いろいろと親に迷惑をかけたと話してくれたことがある。
 音楽が終わってネエさんがテープレコーダーを止めると、私はぱちぱちと拍手をした。
 ふと見上げると、自習室のベランダから見下ろしていた同級生たちも拍手を送っていた。
 ネエさんはそれに小粋なウインクを返すと、私に気づいて歩いてくる。
「世話をかけたわね」
「私は全然。体はもういいの?」
「ボロボロよ」
「えっ」
 私が慌てたら、ネエさんは艶っぽく首を傾ける。
「冗談よ。すっかり治ってるわ」
「もう……」
 顔をしかめた私に、ネエさんはくすくすと笑った。
「メタルちゃん。一個だけ訊いてもいい?」
「うん?」
「あたしもメタルちゃんの特別な友だちになれる?」
 私は考えて、そっと答えたよ。
「……ごめんね。それは、たった一人って決めてるから」
「そう。やっぱりね」
 ネエさんは私を冷やかしたり茶化したりしなかった。だから私は答えたことに後悔せずに済んだ。
 ネエさんは明るく笑って宣言する。
「あたし、もし仕送りが切られても卒業はしてみせるわ。決めたの」
「うん。応援してる」
 それがネエさんの選ぶ未来なら、私も応援したいと思った。
 卒業まであと半年。それまで、私たちは一緒に勉強し続ける。



 ところで、今回はネエさんとの内輪の会話をたくさん書いてしまった。
 ネエさんが自分のことを君に紹介してほしいって言ってたからなんだ。それで、自分の連絡先を君に伝えてほしいんだって。
 だから、下記にネエさんのメールアドレスを書いておく。「豆柴がむかついたらメールちょうだい」って言ってた。なんでだろう?
 それじゃ、今日はこの辺りで。