三週間も返信しなくてごめん。私は生きてるよ。
 新学期早々こんなに空けたら、君だって私の一年生の頃の惨状を思い出すだろうね。
 ここしばらく、私にとって衝撃的なことがあった。まだ混乱してて、自分でも訳がわからない。
 だけど話せるところから、君に伝えようと思う。



 事の起こりは、この一言から。
「メタル先輩、好きです。付き合ってください!」
 と、言われた。
 なんでこうなったのか、もうちょっと前から話すよ。
 四月の始めから、私の所属する自主ゼミに新しい仲間が加わった。
「メタルせんぱーい」
 それが今年私たちの大学院に入学してきた、既修者一年生のシバ君。
 このシバ君は実に熱い勉強家だ。
「教えて頂きたいことがあるんですけど。今お時間ありますか?」
「うん、いいよ」
 まだ正規の授業も始まっていない時期から自主ゼミに参加したり、夜遅くまで自習室で勉強していたり、見知った先輩を捕まえて質問をしたりする。
 その日も自習室の廊下でシバ君に質問されたから、私は渡された問題集を片手に首をひねった。
「たぶんマグロの判例が役に立つはず」
「ブリの判例じゃありませんか?」
「あ、そうだった」
 シバ君は極めて優秀でもある。私はこの大学院で既に二年間シバ君より長く勉強しているけど、あっという間に追い抜かれそうな予感がしている。
「シバ君を見てると、元気をもらえる気がする」
 これはお世辞じゃない。シバ君はきっと努力しているんだけど、明るさをまとっていて見ていて心地いい。
 シバ君は私の言葉に、はっと息を呑んだ。
「せんぱい……」
 時に彼は、柴犬に似ているからという理由でシバ君と呼ばれている。
 人懐っこい性格からか、すっと鼻筋が通って切れ長の綺麗な和風の顔立ちをしているからなのか、とにかく悪い意味ではない。
 もっとも、私はどうしてもその前に……「豆」とつけたくなるんだ。
 それは彼のうるうるしたつぶらな瞳が、あのもふもふした生き物を彷彿とさせるからでね。
「僕、これから一年先輩と一緒にいられるんですね」
「言わないで。胸が痛い」
「僕と一緒は嫌ですか?」
「そうじゃなくて。君と一緒ってことは、再履ってことなんだってば」
 私は一つ下の学年と一緒に履修しなくてはいけない科目がある。二年の時も再履はやったけど、自分ができないことを実感するから気が重い。
 しかし私の漂わせる陰鬱な空気を、豆柴君はさらっと通り越した。
「じゃあ僕ん家に来て一緒に勉強します?」
「いきなり何を言い出すのやら」
「先輩んちから歩いて三分ですよ」
 彼はなぜ大学院の誰にも教えていない私の住所を知っているんだろうと、この辺りで私の嫌な予感センサーは反応を示し始めた。
「いや……近所とかは関係なく」
「じゃあ一緒に温水プールとかどうです? 先輩、たまに行ってますよね」
「うん……?」
 だんだんと言葉に詰まる私を、豆柴君は例のうるっとした目で見てくる。
「だめですか?」
 そんな哀愁を誘う顔で言っても駄目なものは駄目だよ。
 でも愛くるしい瞳の前では、きつく言い返すことはできなかった。
「だめっていうか……そういうのは、もっと親しい人とすることなんじゃない……?」
 私がしどろもどろになりながら言ったら、豆柴君はなぜか眩しいほどの笑顔になった。
「そっか! そうですよね!」
 私は豆柴君が納得してくれたことにほっとしていて、あまり自分の言葉を考えていなかった。
 後から考えると私の優柔不断がいけなかったんだろうな。
 それでその会話の翌日。
 再履科目で新学期最初の授業の後、豆柴君が廊下で言ったんだ。
「メタル先輩、好きです。付き合ってください!」
 ……あ、駄目だ。二回も書いたらますます耐えられなくなってきた。
 話すのがつらくなってきたから、その後の経緯のことをすっ飛ばしてまとめに入りたいんだけど駄目かな?
 しっかりしろっていう君の叱責が聞こえてきそうだから、もうちょっとがんばってみよう。
 その場で私はどうしたのかというと、逃げた。一目散に走って女子トイレに駆け込んだ。
 もうどうしようっていう思いで何もできなくて、トイレの個室で授業一コマ分くらい悩んでいた。
 二十代も半ばになってと人は笑うだろうけど、私は本当にこういうことは駄目なんだ。君も知ってる通り、対人関係をどうしたらいいかさっぱりわからない。
 特に恋愛は一年生の頃に大失敗をしたから、大学院では二度と近付かないようにと決めている。
 一時間超悩んだ後、青ざめながらトイレを出て、そろそろと廊下を歩いていた。
「せんぱーい」
 でも豆柴君は再登場してきた。いつもと変わりない朗らかな様子で手を上げて近付いてきた。
「お返事聞かせてください」
 にこにこしながら寄ってきた豆柴君が、モンスターのようにしか見えなかった。
「ふぇ……」
 情けないけど私は廊下の真ん中で泣き始めた。豆柴君はそれに大慌てだった。
「せ、先輩!?」
「ご、ごめ……ほ、ほんと駄目だから……付き合うとか恋愛とか、そういうの……!」
「え、なんで! いや、わかりませんけど、泣かないでください!」
 私は結局その日はそれ以上何もできないまま、家に帰った。
 私はすぐに君にメールで相談しようかと思った。うろたえちゃって、君と一緒にいた頃のように君に丸投げしようとした。
 でも相談したら君がどうするかも、大体想像がついたんだ。
 君はいつも怒りながら、叱りながら、最後には私を甘やかしてしまう。
 私は君に甘えたくなくて、何か自分でやりたくて、ここに来た。メールで泣き事をつづってばかりだけど、君から自立しようと決めたはずだった。
 君から優しい言葉をもらったら、私はまた君に甘えきってしまうと思ったから、その時はどうしてもメールを送ることができなかった。
 それであんまり眠れなかったけど一晩休んで、ちょっと落ち着いた。頭を冷やすと、豆柴君に人前で恥をかかせてしまったと気づいた。
 豆柴君に謝ろう。そう思ったけど、直接会うのはまだ怖かった。
 だから自習室に行って、私が大学院で一番親しい人、自主ゼミのリーダーであるネエさんに相談することにした。
「ああ、話は聞いてるわよ。泣いちゃったって」
 私の大学院は人数が少ないからあっという間に噂が広まる。これは豆柴君も気まずい思いをしているだろうと、私はますます申し訳ない気持ちがした。
「まだ直接話せないけど……シバ君にごめんって伝えておいてほしいんだ」
「ふむ」
「えと。それで、私は自主ゼミやめるから……」
 豆柴君が気まずくなってうちのゼミを抜けちゃう前にと、私はネエさんに自分が抜けることを伝えようとした。
 だけどネエさんはきっぱりと私に言い返した。
「それは駄目」
「でも」
「駄目ったら駄目。あたしたちはいろんな道にいくけど、卒業までは一緒だって言ったでしょ」
 私が落ち着きなく視線をさまよわせていると、ネエさんは一息ついた。
「もうちょっとがんばってみない?」
 不安げに見上げた私に、ネエさんは諭すように言ってくる。
「がんばりやのあなたなんだから、対人関係でももうちょっとがんばれるんじゃないかしら」
「勉強とは全然違うよ……」
「シバ君に、しばらくあなたをそっとしておくように言っておくから。少し今のままやってみなさいよ」
 大学院で一番頼りにしているネエさんに言われると、私も考え直すしかなかった。
 それからの毎日は、情けないくらいに落ち着かなかった。
 授業でも自主ゼミでも自習室でも、豆柴君とはしょっちゅう出くわした。私はそのたびにおろおろしていた。
 豆柴君は私を見ると困った顔をして、でも何も言わなかった。たぶん、ネエさんに言い含められているんだろうと思った。
 私は君に相談しようって、何度も考えた。でももうちょっと自分で、もうちょっとがまんして、そう考えていたら、三週間くらい経っていた。
 やっと君にメールを送れたのは、私の中で一区切りをつけられたから。
 今日私は、豆柴君に直接会って断ることができた。
「ごめんなさい。私はシバ君と付き合えない」
 自習室の裏手にある桜の下のベンチで、私は豆柴君に頭を下げた。
「私、一年くらい前に、その……失恋をして。それが、つらくて」
 ここは北の地だから、桜はまだ咲いてなかったよ。
 豆柴君は向かい側の席に座って、真剣な顔で私の言葉を聞いてくれた。
「でも本当につらかったのは、その後のこと」
 私は首を横に振って言う。
「私には、ずっと特別な友達がいるんだ。失恋した時、私はその友達と喧嘩しちゃって、しばらくメールもやりとりできなくて。もしかして二度と会えなくなっちゃうのかって、それが一番怖かった」
 豆柴君は言葉を返す代わりに、じっと私を見ていた。
 私はそのまなざしの中で言葉を続ける。」
「今の私には友だちより大事なもの、ないんだ」
「先輩の気持ちはわかりました」
 豆柴君はようやく口を開いて言った。
「僕からも話したいことがあるんですが、いいですか」
「う、うん」
「僕、学部生だった頃、先輩のアパートの隣の部屋に住んでました」
 私が首を傾げると、豆柴君は神妙に頷く。
「僕は隣人が気になってました。壁が薄いので物音は聞こえていました。一晩中起きてる気配もしました。でも何をしているのか、ずっと不思議だったんです」
 豆柴君はそこで気まずそうな顔になる。
「ある朝、僕は自分の部屋と間違って隣室に入ってしまいました。……わ、わざとじゃないですよ」
「……見ちゃったんだ、私の部屋」
「はい、隣人の……先輩がずっと何をしていたか知りました」
 私は彼が何を見たかわかりすぎるくらいにわかって、頭を押さえる。
「基本書や判例のコピーやノートのメモ書きや蛍光ペンやら、まあとにかく勉強道具に埋もれて先輩は力尽きてました」
「そ、その日はたまたまレポートの〆切前だったんだ!」
「その次の日も、さらに翌日も、一週間後も同じだったじゃないですか!」
「どれだけ私の部屋覗いたら気が済むんだ!」
 私がかっと顔を赤くしたら、豆柴君はしおらしくうなずいた。
「……すみません。二回目からは故意の住居侵入です。そのままだと僕は先輩のゴミ漁りまで始めそうだったので、引っ越したんです」
 豆柴君は諦めて自分の罪を認めると、ふと私の顔を眺めた。
「気になったら、直接話したくなって。大学院に入って話しはじめたら、今度は一緒にいたくなったんです。どこからが恋愛感情だったのかはわかりませんけど、今は間違いなく先輩のことが好きです」
「私と一緒にいたら、つまらないって思うよ。勉強しかしないから」
「それだって先輩の特技でしょ?」
 ふいに、豆柴君はくすっと笑った。
「あんな風に勉強してる人、見たことないですもん」
「勉強をがんばるのは当たり前だよ。この院の人たちはみんなそうしてる」
「がんばるのは当たり前じゃないです」
 豆柴君はじっと私の目を覗き込んで言った。
「それは決して、当たり前なんかじゃないです」
 私はなんだか、胸が痛いくらいに熱くなった。
「ど、どうしたんですか。先輩」
「ありがとう……」
 私はまためそめそと泣きだして、繰り返し頷いた。
 自分ががんばってきたことが認められて、涙が出るくらい嬉しい気持ちになった。
「がんばって勉強するよ」
 豆柴君はぐすぐす泣く私に苦笑しながら、そっと言ってくれた。
「……はい。今は他のことをする気になれないみたいですから。一緒に勉強しましょう」
 私はまた頷いて、うん、と呟いた。



 君と離れて大学院に入って、三年目になる。
 私、君といた頃より少しは前進したかな? ちっとも進んでる気はしないけど、今日はがんばれた一日だった。それが大事なことのような気もする。
 何はともあれ、私にはいっぱいいっぱいの出来事だったから、そろそろタイプを打つ手を止めて寝ようと思う。
 それじゃあ、またね。