こんばんは。っていっても、君のところは今昼過ぎくらいか。
 君との距離って物理的には相当だけど、メールだとあんまり感じないな。
 君の予告通り、さっき届いたよ。
 ありがとう。そう、これが欲しかったんだ。びっくりしちゃったよ。
 君は私の欲しいものなんて、お見通しだと笑ってみせるんだろうな。



 幸せな時間を、誰だって生きたいと思う。
 大丈夫、怪しい宗教団体に勧誘されたりはしてない。
 今日、二週間ぶりにバイトと学校に行ってきたところなんだ。
 また引きこもってるのかって疑われそうだから先に言っとくけど、アパートに閉じこもってたのはその内半分くらいだからね?
 相変わらずテストが終わると一週間ぐらいは外に出て行く気力もないけどさ。前は三日くらい布団からも出られなかったんだから大目に見てよ。
 それで今日はまず、おやつ時くらいに家庭教師のバイトに行ったんだ。
 私が家庭教師として数学と英語を教えてるのは、アパートから電車で三駅分の住宅街に住んでる、高校一年生のまりあちゃん。名前からしてハイソサエティ。
「あら、先生いらっしゃい。まりあはまだ帰ってないから、申し訳ないのだけど少し待っていて頂けるかしら」
 家族の皆さんも実に上品で温和。バイト環境としてこの上ない。
 私がリビングに通されてお茶とお菓子を頂いていたら、まりあちゃんのおばあさまが二階から下りて来た。
「先生は大学院の生徒さんなんだってね?」
「はい、法律の勉強をしていまして……」
 そんなようなことをちょっと話していたら、ふいにおばあさまが言われた。
「幸せだねぇ」
 にこにこしていらっしゃったから、悪気はなかったんだろう。
 ただ私はその言葉に、なんだか苦笑いしてしまった。
「もーおばあちゃん!」
 甲高い声に振り向くと、リビングの入り口にきらきら眩しい女の子が立っていた。
 高校生にしてメイクにネイルまで完備しているまりあちゃんは、その外見の派手さに反して中身は真面目だ。
「幸せなんて他人がどうこう言えることじゃないっしょ」
 まりあちゃんは睫毛ばしばしの目をきっと尖らせて言う。
「大学院って勉強大変なんだって。バイトしながら勉強ってきついでしょ」
「そうなのかい。それは悪いことを言ったね」
「あ、いえ」
 おばあさまに謝らせてしまったので、私は慌てて笑う。
「この年になっても勉強させてもらえるのはありがたいことですよ」
 私もそろそろ二十代曲がり角。就職しているのが多数派でまだ学生をやっているのだから、幸せだといわれても仕方ない。
 後でまりあちゃんの部屋で勉強を見始めてからも、まりあちゃんは不思議そうに言った。
「大学ならあたしも行くつもりだけど、先生はその先もどうして勉強してるの?」
「だよね。ごもっともな疑問です」
 まりあちゃんの解答を採点しながら、私は苦笑したよ。
「この話はあとでね。次これ解いて」
「はーい」
 そんなわけで、まりあちゃんの勉強を見終わった後のことだ。
「で、で? 先生なんで大学院に行ったの?」
 なお追及してくるまりあちゃんに、私は自分の歴史をダイジェストで語ることになった。
「私はちっちゃい島の出身って、前に話したよね」
「うん。九州だっけ?」
「そう。それでまあ、勉強するのは好きだった。……だけど」
 ありがたいことに、親代わりの祖父母も島のみんなも、快く私を大学へ送ってくれた。
「大学まで行くと、なかなか成績が振るわなくなり」
「それなら余計、就職すればよかったじゃん?」
 これはまりあちゃんには言えないけど、君はよく知ってのことだろう。
 学部生の後半、私は体を壊した。故郷の祖父母はすごく心配して、大学なんていいからすぐ帰っておいでって言ってたよね。
「……私は嫌だったんだ」
「就職するのが?」
「はは、そうかも」
 何もできないままの自分でいたくなかった。何でもいい。何か自分ができることがほしい。そう思っていたら、今勉強していることをどこまでも突き詰めたいと願った。
「実は私、結婚して海外に行ったことになってる」
「そうなの?」
「実家にまだお金出してなんて言えなかったしさ」
 もう七十過ぎの祖父母にこれ以上負担をかけるわけにもいかなくて、自分で奨学金を取った。
 私はそこでようやく笑う。
「でも今の院に来てよかった。みんなすごく優秀で、先生も環境もよくて。ますます私は劣等生になったけど、なんとかやってきたし」
「はぁ」
 まりあちゃんはぽんと私の肩を叩く。
「先生、もっと気楽に生きなよ。勉強が全部じゃないよ」
 高校生の方がまっとうなことを言っているなと、私は頷くしかなかった。
「そうだ。先生にこれあげる」
 まりあちゃんは机の引き出しから十枚つづりくらいのチケットを取りだす。
「先生の大学の近所にある、温水プールの割引券」
「まりあちゃんが使えば?」
「あたしは泳ぐの苦手なの。先生、これでイケメンと遊んできなよ」
 私はぷっと笑いながら、チケットを受け取って言った。
「私、まりあちゃんには勉強以外に教えること何もないなぁ」
 こんな感じで、今日もバイトは終わった。
 それで電車に乗って大学院に来た時は、もう日もとっぷり暮れてたな。
 最近は自習室で勉強する時間が増えたとはいえ、学期末テストが終わってから学校に来たのはこれが初めてだった。
 学校に来たのは、今季卒業する先輩から去年の六法を譲り受けるためだった。
 毎年法律は変わるから買い換える必要があるんだけど、なにぶん私はジリ貧なので、フリマとかで出されている去年の六法を譲ってもらっていた。
 けれど今年は譲ってくれる先輩ができた。院に来て自習室に入ると、通称ネッシーさんは、私の顔をみとめるなり言った。
「例の六法だけど、やっぱりあげないことにした」
「ええっ?」
 どうしよう。フリマはとっくに終わっているしと、私は頭を悩ませる。
「まあ待ちたまえ。このまま帰れというほど鬼じゃないさ」
 ところが、ネッシーさんは私の肩を掴んで止める。
「ネエさんのところに行きなさい。今共用室にいるから」
 ネエさんというのは私の所属しているゼミ長の呼び名だ。ネッシーさんにとっては年下だけど、みんなネエさんと呼ぶ。
「あら、メタルちゃんいらっしゃい」
 ネッシーさんにいわれて私が共用室に向かうと、ネエさんはいつものように愛嬌たっぷりに目配せしてみせた。
「はい、コレ」
「え?」
 ネエさんは私の手に小型六法を手渡す。
 でもこれはどう見ても新品だった。私が目を回すと、ネエさんはふふっと笑う。
「ゼミメンバーからのプレゼントよ。メタルちゃん、今日が誕生日でしょ?」
 私が驚いて何も言えないでいると、ネエさんは苦笑する。
「もっとかわいいもの……とも考えたけど、満場一致で六法になったわ。欲しいものが一番だものね」
 私はまじまじと六法をみつめて、それを腕に抱えた。
「……うん。これが欲しかったんだぁ」
 一番今私がほしいもの。それを院の仲間が知っていてくれたんだと嬉しかった。
 その後家に帰って、ふと気づいた。
「でも実はもう一冊要るんだよな……」
 自宅学習用は書き込みをたくさんしたいけど、学校用は試験に持ち込めるように白紙にしておく必要があった。
 そう思ったとき、君から郵便が届いた。
 ……ハッピーバースデーのカードと共に、新品の小型六法がね。
 家で勉強する時は君がくれた六法を、学校で勉強する時は皆がくれた六法を使うことにするよ。




 法律、その分野だけを突き詰めて学んで、どれほど意味があるだろう。
 この道を選んで幸せだったのかなって、考えることも多いよ。
 幸せが何なのかって訊かれても、すぐには答えられない。
 でも今私は、私のことを見てくれる人たちの中にいる。
 同じ大学院の中にいる仲間も、バイト先にいる子も、そして遠い異国にいながら私を見てくれる、君も。
 この瞬間はきっと、幸せな時間に違いない。
 本当にありがとう。今度は私が君のほしいものを送るよ。
 それじゃあ、またね。