世間ではイルミネーションでにぎわうこの頃、君はいかがお過ごしですか。
寒いね。私は恋人なんていたことないけど、この時期の寒さは胸にこたえるものがあります。なぜでしょうか。
そういえば君、気になる人とはその後どうなったの?
……はい、馬鹿なこと言ってないで今日も勉強します。
突然だけど、一昨日の日曜日の夜、ネッシーさんに会った。
もちろん私にはスコットランドまで往復する時間もお金もない。自習室で偶然会ったんだ。
うちの大学院は自習室に一人一つ席があるって、前に書いたね。大学院の生徒は授業以外の時間にここで勉強していて、いつ来ても誰かいる。
ただ、私はほとんど家で勉強していたから、荷物置き場にしか使っていなかったんだ。
でも一昨日の私は、月曜日の朝九時締め切りのレポートが、日曜日の夜九時を過ぎても白紙だった。
ここは自宅でのんびりしていては駄目だと、私は自習室の門扉を叩いたわけだ。
「おっと、カードカード」
ちなみに自習室は叩いても開かない。学生証をカードリーダーに通します。
時刻はそろそろ十時、しかも日曜日。さすがに誰もいないだろうと思っていた。
「……あ」
そこで、運命の出会い。
ネッシーさんが歯ブラシをくわえてトイレから出てくるところだった。
ネッシーさんとは、うちの自習室のぬしと呼ばれる女性だ。
いつ来ても自習室に生息している、しかしその生態は謎だらけ。たぶん三年生で、おそらく名字は根岸、じっとみつめていると沼の底に引きずり込まれそうなミステリアスな魅力を持っている。
遠くからならともかく、こんな近くから姿を拝んだことは初めてだった。
しかし私を一瞥したネッシーさんは、ちょっと驚いたように言ったんだ。
「これは、メタルちゃんじゃないか」
「え? 私のことご存じなんですか?」
「君のレア度は群を抜いている」
私は苦笑いを返したよ。このあだ名も以前は複雑だったけど、二年も経った今だとすっかり馴染んだ。
ネッシーさんは手をさすって、そこからマジシャンのように何か取り出して言った。
「ありがたや。お菓子を供えよう」
「ありがとうございます」
私はチョコクッキーをもらって、それをその場でぱくりと食べた。
ただそのときは、ネッシーさんは歯磨きのためにトイレに戻ってそれだけだった。
時間が遅いから誰もいなくて、暖房がぬるく漂っていた。私は自分の席について勉強を始めた。
うっそうと茂る密林を思わせる机が詰まった部屋の中、どこかでカリカリとボールペンと紙が擦れる音が聞こえていた。
いつしかその音も聞こえなくなって、私もレポートのタイプを打つ手が鈍くなった頃だった。
「メタルちゃん」
「ひぇっ」
ネッシーさんの声が耳元で聞こえて変な声が出た。
振り向くと、ネッシーさんがバナナの抱き枕を片手に言った。
「そろそろ寝た方がいいよ、メタルちゃん。今三時だよ」
私は立ち上がって謝罪の言葉を口にする。
「すみません。起こしてしまいましたか」
おそらくいつもなら彼女の安眠を妨げるものはないんだろうね。
ネッシーさんがミステリアスだといわれるのは、一人黙々と勉強するからなんだ。ほっといてくれって雰囲気を、そこかしこから醸し出している。
私も一人で勉強するタイプだから、自分のペースを乱されるのがどれだけ不愉快か知っている。私は慌てて言った。
「私、別の部屋で電源取ってやります」
私が部屋を出ていこうとしたら、ネッシーさんはゆるゆると首を横に振った。
「これ、憲法のレポートだね?」
ネッシーさんは私の横からパソコンの画面を覗き込んで訊ねた。
「去年と同じ問題じゃん。先輩から解説と優秀答案もらえば、楽に書けるんじゃない?」
「あ、私、この学校に先輩いないもので。まあ、友達もそういないんですけど……いやいや」
余計なことを言いかけて、私は言葉をつなげた。
「なるべく自分一人の力で書きたいですし」
ネッシーさんは何か考えるように上を見てから、パソコンの前に屈みこんだ。
「ねえ、主張は1ページだけでいいの?」
唐突に内容について聞かれたので、私はだいぶ鈍った頭を回転させて答えた。
「えっと、判例がなくて」
「あの先生のことだから、判例がないから問題出してるんだよ」
判例は裁判官の作ったもので、百年単位で積み上げられた重みがある。私はそれに沿った主張しか書いたことがなかった。
ネッシーさんはぼんやりと私を見下ろしながら言った。
「この問題は弁護士の立場なんだから、もっと自由に書いたら?」
「あ、そっか……」
私は頭を下げて、パソコンを抱えて共用室に向かったよ。
それでネッシーさんの助言を元にレポートを書いては消して、いつしか夜も明けた。
「……メタルちゃん、メタルちゃん」
うとうとしていた私は、ネッシーさんの呼びかけにはっと顔を上げた。
ちょっとよだれが垂れそうになっていた口の端を拭って振り向くと、ネッシーさんが立っていた。
「私、シャワー浴びに家帰るけど。レポートできた?」
「は、はい!」
私は徹夜明け特有のハイテンションで、パソコンを立ち上げて完成したレポートを見せた。
「……これは、これは」
ネッシーさんは曇り空を見上げる目つきで眺めて言った。
「筆が滑ってるね。根拠がないのに自分で作ったでしょ?」
「うう……」
言い当てられて私ががくりと首を垂れると、ネッシーさんは私の前に数枚の紙を置いた。
ネッシーさんが私に見せたのは、綺麗な字で整然と理論構成された答案だった。
「えっ?」
「優秀答案じゃない、ただの答案の一つ。さっき試しに書いたんだ」
私が驚いて何も言えないでいると、ネッシーさんは眉を寄せて教えてくれた。
「私が学部生の頃、友達に答案を見せたらそれをまる写しされたことがあったんだよね。それ以来、勉強は一人でするものだって思ってたけど」
ネッシーさんは私を見やってくすっと笑った。
「君はほっとけないから」
鞄を抱えて、ネッシーさんは立ちあがる。
「精進したまえ、メタルちゃん」
ひらひらと手を振って、ネッシーさんは自習室のぬしらしく悠然と去っていった。
勉強は一人でするもの。そこはわかってる。
自分の勉強方法にあれこれ言われたくない。それもそうだ。
だけど私、全然ほっといてはほしくないんだ。
一昨日、私が自習室にふらりと向かったのも、そういうことなんだろう。
幸いレポートはできました。無事クリスマスイブを迎えられる。
寒いけど、大丈夫。理由は、案外ひとりじゃないから。
じゃ、またね。
寒いね。私は恋人なんていたことないけど、この時期の寒さは胸にこたえるものがあります。なぜでしょうか。
そういえば君、気になる人とはその後どうなったの?
……はい、馬鹿なこと言ってないで今日も勉強します。
突然だけど、一昨日の日曜日の夜、ネッシーさんに会った。
もちろん私にはスコットランドまで往復する時間もお金もない。自習室で偶然会ったんだ。
うちの大学院は自習室に一人一つ席があるって、前に書いたね。大学院の生徒は授業以外の時間にここで勉強していて、いつ来ても誰かいる。
ただ、私はほとんど家で勉強していたから、荷物置き場にしか使っていなかったんだ。
でも一昨日の私は、月曜日の朝九時締め切りのレポートが、日曜日の夜九時を過ぎても白紙だった。
ここは自宅でのんびりしていては駄目だと、私は自習室の門扉を叩いたわけだ。
「おっと、カードカード」
ちなみに自習室は叩いても開かない。学生証をカードリーダーに通します。
時刻はそろそろ十時、しかも日曜日。さすがに誰もいないだろうと思っていた。
「……あ」
そこで、運命の出会い。
ネッシーさんが歯ブラシをくわえてトイレから出てくるところだった。
ネッシーさんとは、うちの自習室のぬしと呼ばれる女性だ。
いつ来ても自習室に生息している、しかしその生態は謎だらけ。たぶん三年生で、おそらく名字は根岸、じっとみつめていると沼の底に引きずり込まれそうなミステリアスな魅力を持っている。
遠くからならともかく、こんな近くから姿を拝んだことは初めてだった。
しかし私を一瞥したネッシーさんは、ちょっと驚いたように言ったんだ。
「これは、メタルちゃんじゃないか」
「え? 私のことご存じなんですか?」
「君のレア度は群を抜いている」
私は苦笑いを返したよ。このあだ名も以前は複雑だったけど、二年も経った今だとすっかり馴染んだ。
ネッシーさんは手をさすって、そこからマジシャンのように何か取り出して言った。
「ありがたや。お菓子を供えよう」
「ありがとうございます」
私はチョコクッキーをもらって、それをその場でぱくりと食べた。
ただそのときは、ネッシーさんは歯磨きのためにトイレに戻ってそれだけだった。
時間が遅いから誰もいなくて、暖房がぬるく漂っていた。私は自分の席について勉強を始めた。
うっそうと茂る密林を思わせる机が詰まった部屋の中、どこかでカリカリとボールペンと紙が擦れる音が聞こえていた。
いつしかその音も聞こえなくなって、私もレポートのタイプを打つ手が鈍くなった頃だった。
「メタルちゃん」
「ひぇっ」
ネッシーさんの声が耳元で聞こえて変な声が出た。
振り向くと、ネッシーさんがバナナの抱き枕を片手に言った。
「そろそろ寝た方がいいよ、メタルちゃん。今三時だよ」
私は立ち上がって謝罪の言葉を口にする。
「すみません。起こしてしまいましたか」
おそらくいつもなら彼女の安眠を妨げるものはないんだろうね。
ネッシーさんがミステリアスだといわれるのは、一人黙々と勉強するからなんだ。ほっといてくれって雰囲気を、そこかしこから醸し出している。
私も一人で勉強するタイプだから、自分のペースを乱されるのがどれだけ不愉快か知っている。私は慌てて言った。
「私、別の部屋で電源取ってやります」
私が部屋を出ていこうとしたら、ネッシーさんはゆるゆると首を横に振った。
「これ、憲法のレポートだね?」
ネッシーさんは私の横からパソコンの画面を覗き込んで訊ねた。
「去年と同じ問題じゃん。先輩から解説と優秀答案もらえば、楽に書けるんじゃない?」
「あ、私、この学校に先輩いないもので。まあ、友達もそういないんですけど……いやいや」
余計なことを言いかけて、私は言葉をつなげた。
「なるべく自分一人の力で書きたいですし」
ネッシーさんは何か考えるように上を見てから、パソコンの前に屈みこんだ。
「ねえ、主張は1ページだけでいいの?」
唐突に内容について聞かれたので、私はだいぶ鈍った頭を回転させて答えた。
「えっと、判例がなくて」
「あの先生のことだから、判例がないから問題出してるんだよ」
判例は裁判官の作ったもので、百年単位で積み上げられた重みがある。私はそれに沿った主張しか書いたことがなかった。
ネッシーさんはぼんやりと私を見下ろしながら言った。
「この問題は弁護士の立場なんだから、もっと自由に書いたら?」
「あ、そっか……」
私は頭を下げて、パソコンを抱えて共用室に向かったよ。
それでネッシーさんの助言を元にレポートを書いては消して、いつしか夜も明けた。
「……メタルちゃん、メタルちゃん」
うとうとしていた私は、ネッシーさんの呼びかけにはっと顔を上げた。
ちょっとよだれが垂れそうになっていた口の端を拭って振り向くと、ネッシーさんが立っていた。
「私、シャワー浴びに家帰るけど。レポートできた?」
「は、はい!」
私は徹夜明け特有のハイテンションで、パソコンを立ち上げて完成したレポートを見せた。
「……これは、これは」
ネッシーさんは曇り空を見上げる目つきで眺めて言った。
「筆が滑ってるね。根拠がないのに自分で作ったでしょ?」
「うう……」
言い当てられて私ががくりと首を垂れると、ネッシーさんは私の前に数枚の紙を置いた。
ネッシーさんが私に見せたのは、綺麗な字で整然と理論構成された答案だった。
「えっ?」
「優秀答案じゃない、ただの答案の一つ。さっき試しに書いたんだ」
私が驚いて何も言えないでいると、ネッシーさんは眉を寄せて教えてくれた。
「私が学部生の頃、友達に答案を見せたらそれをまる写しされたことがあったんだよね。それ以来、勉強は一人でするものだって思ってたけど」
ネッシーさんは私を見やってくすっと笑った。
「君はほっとけないから」
鞄を抱えて、ネッシーさんは立ちあがる。
「精進したまえ、メタルちゃん」
ひらひらと手を振って、ネッシーさんは自習室のぬしらしく悠然と去っていった。
勉強は一人でするもの。そこはわかってる。
自分の勉強方法にあれこれ言われたくない。それもそうだ。
だけど私、全然ほっといてはほしくないんだ。
一昨日、私が自習室にふらりと向かったのも、そういうことなんだろう。
幸いレポートはできました。無事クリスマスイブを迎えられる。
寒いけど、大丈夫。理由は、案外ひとりじゃないから。
じゃ、またね。