嘘つきわんこは愛が重い


「高村せんせー!」
「げっ、成海!」

 かなでが職員室に入って、昨年の担任だった高村に声をかけると、あからさまに嫌そうな顔をされる。
 それも仕方のないことだろう。
 かなでは年明けの一月から、終業式のある三月までの間、ほとんど毎日職員室を訪ねていたのだから。
 それが勉強に関する質問だったなら、積極的な生徒だと可愛がられたかもしれない。
 残念ながらかなでの場合は違った。

「先生のおかげで陸くんと同じクラスでした! ありがとうございますっ!」
「やっと成海の押しかけから解放されると思うと、ようやく安心して眠れるよ……」
「私も昨日眠れなかったです! 今日のクラス分けがこわすぎて!」

 あはは、と笑うと、高村は肩を落として大きくため息を吐いた。

「一応もう一度確認するぞ? 就職希望クラスだけど、絶対に大学に進学するんだよな?」
「はい! それはもう絶対に! 神に誓って!」

 かなでは元々学業成績は上々だ。部活動はやっていないので、暇があればアルバイトか勉強に励んでいるのだから当然だろう。なのでもちろん、高校卒業後は大学に進学するつもりだった。
 しかし、陸が野球のプロを目指している、と聞き、かなでは慌てて進路調査表を就職希望に書き換えた。
 陸が大学に進学しないのであれば、彼と過ごせる時間は残りわずか。今は仲がよくても、所詮は異性の友達だ。卒業してしまえば疎遠になってしまうに違いない。
 それならば、高校生活の残り一年。何を犠牲にしてでも、陸と同じクラスで過ごしたかった。

 考えた末に、かなでがとった行動は、担任と学年主任への嘆願だった。
 就職希望に変更したけど絶対に大学に進学します、成績も落としません、必要ならうちの高校の進学実績に残るような大学に進学してみせます。
 強い熱意で語り、その上で陸と同じクラスになりたい、とお願いし続けた。
 陸と同じクラスじゃなかったら不登校になっちゃうかも、と少し脅迫まがいなことも口にしてしまったが、さすがにそれは反省している。
 その熱意を聞き入れてもらえたのか、はたまた別の理由かは分からない。でも結果として、かなでは陸と同じクラスになることができたのだった。

「高村先生! 私、勉強頑張りますっ!」
「まあそうしてくれ……」

 げんなりした様子の高村に、しっかりと宣言を残し、かなでは陸の待つ三年七組に向かうのだった。

「おい! かなで! おまえまた陸に迷惑かけただろ!?」

 三年七組の教室に入った瞬間、かなでは聞き覚えのある声に呼び止められた。
 振り向くとそこには予想通り、幼馴染である九条咲夜が不満気な表情を浮かべて立っている。

「かけてないもん。それに迷惑かけちゃったとしても、ねぎちゃんには関係ないし!」
「ねぎちゃんって呼ぶな! 全国の九条さんに謝れ!」
「全国に住む九条さんのことは素敵な苗字だなぁって思ってるし」

 つん、と冷たい態度を取れば、咲夜はかなでのアホ! と小学生のような語彙でけなしてくる。
 幼稚園の頃からの付き合いだが、咲夜はほとんど成長していない。身長ばかりが伸びて、中身は子どものままだ。
 九条というかっこいい苗字が台無しなので、いつも九条ネギをイメージして、ねぎちゃんと呼んでいる。ちなみにかなではネギが嫌いなわけではない。ただからかっているだけだ。

「つーか関係なくないし!」
「何が?」
「かなでが陸に絡んでると、俺も困るんだよ」
「えっなんで?」

 かなでが首を傾げると、咲夜は口ごもる。
 それから眉を寄せて口を尖らせると、だからつまり、とはっきりしない声で呟いた。

「あ、もしかして陸くんが困ってた!? 成海がうるさいって相談されちゃった!?」
「ちっげーよ!」
「なーんだ。それならよかった」

 かなでが顔をほころばせると、咲夜はしゃがみこんで頭を抱えてしまった。
 咲夜の変な行動は見慣れたものなので、かなでは気にすることなく教室の中を覗き込む。
 陸の姿は見えないけれど、教室の真ん中あたりに女子がやたらと集まっているので、その中心にいるのだろう。

「陸くん、すっかり人気者だなぁ…………」

 思わず漏れた呟きに、咲夜が顔を上げる。

「ファン一号としては寂しいの?」
「うん。陸くんの魅力をみんなに知ってもらいたい、って気持ちと、遠い人になっちゃったみたいで寂しいって気持ちがケンカしてる」
「…………バカだなぁ、かなでは」

 いつもだったら怒る言葉だ。でも、咲夜の声がどこか優しいものに聞こえたので、かなでは怒らなかった。
 代わりに、そうかもね、と答えて小さく笑う。咲夜が驚いたような顔でかなでを見ていたが、かなでは女子に囲まれているであろう陸のことだけを考えていた。

 かなでの席は、陸の右斜め後ろだった。
 授業中に陸を観察し放題の最高の席である。隣の席が、咲夜であることを除けば。

「よりによってねぎちゃんが隣かぁ……」

 別に咲夜のことが嫌いなわけではない。幼馴染だし、気心知れた間柄なので、気楽ではある。
 しかし咲夜は基本的に騒がしい男なのだ。声も大きいし、クラスのムードメーカーになるタイプ。
 かなでのため息に、咲夜が反論の言葉を口にする。

「俺だって別に好きでかなでの隣なわけじゃねーよ!」
「あれぇ? さっくん、かなちゃんの隣でてっきり舞い上がってると思ったのに」

 からかうような言葉を口にしたのは、陸と咲夜の親友、白石蓮だ。陸にいつもひっついているかなでとも、一年のときから仲良くしてくれている。
 蓮は肩まで伸びた金髪を後ろで一つに束ねていて、笑うたびにその髪が揺れた。女性顔負けの美しさと色気を兼ね備えているので、男女共に蓮のファンは多いらしい。

「舞い上がってないから! なんで俺がかなでの隣で…………」

 そこまで言って、咲夜が口をつぐむ。
 なに? とかなでは首を傾げるが、咲夜はそっぽ向くだけだ。
 しばらく黙って見守っていた陸が、小さく笑い出す。それにつられるように、蓮もころころと笑う。

「えっ、よく分かんないけど笑ってる陸くんかわいい!」
「成海はもうちょっと、俺以外のことも見た方がいいよ」
「…………?」

 少し幼さの残る整った顔が、くしゃりと笑うところが好きだ。
 アーモンド型の大きな目を少し細めて笑いながら、周りを見ろ、と陸が言うので、かなでは辺りを見回してみる。
 視界に入るめぼしいものといえば、新しいクラスで舞い上がる生徒たち。それから、なぜか肩を震わせながら顔を赤くしている幼馴染だろうか。

「あれ? 咲夜、なんで赤くなってるの?」
「急に! 名前呼ぶなっての!」
「えっ、めんどくさい! ねぎちゃんって呼んだら怒るくせに!」

 うるせー、と呟きながら、咲夜はかなでの額をぺしんと叩く。
 陸にかわいいと思ってもらうために、せっかく早起きして前髪を整えてきたのに、咲夜のせいで台無しである。

「あー! もうねぎちゃんのバカ! 前髪崩れてない!?」

 慌てて鏡を取り出して、覗き込む。
 ふんわりと少しだけカールさせた前髪は、変な形につぶれている。
 蓮が笑いながら「さっくんは本当に女心が分からないねぇ」と咲夜を叱ってくれる。その間にどうにか前髪を直していると、鏡の向こうから陸がかなでの顔を覗き込んだ。

「成海はいつも前髪ふわっとしてるもんな」
「そうなの! だってその方がかわいくない?」
「んー、今のぺたんこの状態もかわいいと思うけど」

 かわいい。
 陸の口から紡がれたその言葉は、かなでを舞い上がらせるのに十分なものだった。
 真っ赤になっているであろう頰を両手で押さえながら、かなでは小さな声で呟いた。

「もー、今日はぺたんこのままでいるー」
「成海は単純だなぁ」

 陸が面白そうにころころ笑うけれど、それも全く嫌じゃなかった。自分のことで陸が笑ってくれるなんて、幸せ以外の何物でもない。

 はー、今日も陸くんがかわいい。
 かなでの口から漏れた本音に、蓮は相変わらずだなぁ、と笑い、咲夜は苦い顔をした。
 言われた当の本人はもうすっかり慣れた様子で、はいはい、と流してくれる。
 これが実は恋なんです、と言ったら、陸はどんな顔をするだろう。
 一瞬だけそんなことを考えて、慌ててそれを頭から振り払った。

 かなでは中学生の頃、一時期、女子から嫌われていた。きっかけは思い出せない。
 でも、中学校に入学してしばらくした頃には、あちこちでかなでの悪口が囁かれていた。

 ブス。男好き。ぶりっ子。
 いつも男子に媚び売ってるよね。
 上目遣いとかあからさますぎてキモい。
 あざといよね、かわいくないくせに。
 あの高い声もどこから出してるわけ?
 この間はサッカー部の先輩に告白されたらしいよ。
 騙される男子もバカじゃん?

 最初は楽しかったはずの学校が、日に日に苦痛になっていった。
 人の視線が気になって、気になって、気になって、気になりすぎて、発狂しそうだった。
 誰もいないところでも、誰かがかなでの悪口を言っている気がした。
 どこかで笑い声が聞こえると、かなでのことを嗤っているのだと思い込んだ。

 誰にも相談できなかった。
 両親にも、三つ年の離れた姉にも、恥ずかしくて言えなかった。
 小学校のときに仲の良かった友人も、今ではかなでの悪口を言っている。
 男友達は多くはないが、幼馴染の咲夜に相談しようと思ったこともあった。
 でも結局、こわくて言えなかった。

 男に媚びるからそういうことを言われるんだよ。
 自業自得じゃない?

 もしも相談したならば、きっとそんな言葉が返ってくるだろう。
 心無い言葉を向けられ続けたせいだろうか。
 この頃のかなでは、被害妄想も激しくなっていた。

 人の視線から逃げるように、かなでは俯いて過ごした。ひとりぼっちでいるかなでに気をつかい、声をかけてくれる男子もいたが、そうすると悪口は悪化した。
 希死念慮が常にかなでにつきまとい、自殺の方法を考えることで、日々の苦しみから目を逸らし続けていた。

 世界が一変したのは、六月に入ってすぐのことだった。

 その日は朝から調子が悪かった。
 世界中の人がかなでを嗤っているような気がして、息もうまくできなかった。教室に向かう途中、強いめまいに襲われて、かなでは廊下でしゃがみ込んだ。
 ぎゅっと目を閉じて、両手で耳を塞いだ。

 何も見たくない。何も聞きたくない。
 気持ちが、悪い。

 世界を遮断しようとするのに、周囲のざわめきや声は聞こえてしまう。
 その中で拾った、優しい声。

「頭でも痛いの? 大丈夫?」

 まだ声変わりする前の少年の声だった。
 おそるおそる目を開けると、整った顔の男の子が、かなでの顔を覗き込んでいる。
 太陽の光が窓から差し込んで、彼のやわらかそうな薄茶色の髪を照らしていた。

 心配して声をかけてくれたのに、無視をするのは悪い。でも、男の子と話したらまた悪口を言われる。
 どうしていいか分からずに、かなでは唇を噛んだ。
 何か話さなければ、ううん、話してはいけない。
 そんな二つの感情に揺さぶられ、口を開いて、それから閉じて、と何度か繰り返した。
 男の子はかなでのことを不思議そうに眺めていたけれど、しばらくして首を傾げる。

「おんぶと抱っこならどっちがいい?」

 男の子の問いに、かなではやはり答えられなかった。
 もし喋ることができたとしても、きっとどちらを選ぶこともできなかっただろうが。

 結局かなでは、細身の男の子に抱き上げられた。お姫様抱っこではなく、お母さんが赤ちゃんを抱くような、縦抱きとでもいうのだろうか。
 体調の悪さと、悪口を言われる恐怖、それから恥ずかしさが複雑に絡み合って、かなでは限界を迎えた。
 抱き上げられたまま、すとんと、意識を失ってしまったのだ。

 気がついたら保健室のベッドに寝ていて、すぐそばの椅子には幼馴染の咲夜が座っていた。

「かなで、目が覚めた? 大丈夫か?」
「…………なんで、咲夜がここに……」
「保健室にかなでがいるって、陸から聞いた」

 陸、というのは知らない名前だった。
 誰なのかと訊ねると、挙げられた特徴は間違いなくかなでを運んでくれた男の子に違いなかった。

 どうやら咲夜と陸は同じ野球チームに入っているらしい。学校の野球部には入らず、なぜわざわざ外の野球チームに入っているのかは分からないが、きっと咲夜と同じで野球が好きなのだろう。
 そんなに身体が大きいわけではなかったのに、かなでのことをひょいと簡単に抱えていた。
 なんだかすごく、男の人だな、とそう思ってしまった。

「その……陸、くん? って人は、どうして咲夜に知らせたんだろう」
「俺とかなでが幼馴染だって知ってたんだって。まあ、かなでは結構目立つし」

 どくん、と心臓が大きく音を立てた。

 目立つ。目立つって、どういう風に。
 やっぱり男に媚びている、と有名になっているのだろうか。
 ブスのくせにあざとい、とか。
 ぶりっ子で気持ち悪い、とか。
 そんな風に悪目立ちしてしまっているのかもしれない。

 顔から血の気が引いたかなでに、咲夜はすぐに気がついた。
 どうした? と心配してくれるけれど、うまく息ができない。
 助けてほしいのに、助けて、というたった一言が出てこない。

 くらくらする頭を回すために、必死に呼吸を整えていると、こんこん、と小さな音が鳴って保健室のドアが開いた。

 カーテン越しに見える影。
 その人は、カーテンを開けることなく、こちらに呼びかけてきた。

「咲夜、その子起きた?」
「え? ああ。起きたけど、今ちょっと具合悪そうで」
「ふうん。その子とちょっと二人で話していい?」

 優しくて落ち着きのある声は、かなでにも聞き覚えがあった。かなでを助けてくれた、男の子のものだ。名前は、陸。
 咲夜が少し迷った表情を見せたので、かなでは大丈夫、と小さく応える。
 くしゃりとかなでの髪を撫でた後、咲夜は立ち上がってカーテンの外に出た。そこでやけに小さな声で会話をし、足音が保健室の外に出ていった。

「えーっと、入ってもいい?」

 控えめな声が、かなでに呼びかける。どうぞ、と言おうとしたけれど、またうまく声が出せなかったので、起き上がって少しだけカーテンを開けた。
 陸は驚いたように目を丸くして、それから遠慮がちにカーテンの中に入ると、先ほどまで咲夜が座っていた椅子に腰を下ろした。

「あ、の…………今朝、は、…………ありがとう、ござい、ました……」

 やけに言葉が途切れてしまうのはどうしてだろう。
 咲夜と話しているときは、もう少し普通に話せていたはずなのに。
 喋り方が変だって思われないかな、という不安がかなでを襲う。
 それに、不容易にカーテンの中に招き入れてしまったけれど、尻軽女だと思われてしまったかもしれない。気持ち悪いと思われたらどうしよう、と考えていると、また息苦しさが戻ってきてしまった。

「成海って、人目がすごく気になるタイプ?」

 ふいに投げかけられた問いに、かなではゆっくり顔を上げる。こくん、と小さく頷くと、当たった、とやわらかく彼は笑った。
 その笑顔は、かなでが久しく見ていなかった、悪意のない純粋なものだった。
 そのせいだろうか。少しずつ、呼吸がゆっくりできるようになってくる。だんだんと息苦しさが引いていき、うるさかった心臓の音もましになった気がした。

 セラピーでも受けたみたいだ、とかなでが目を丸くして見つめていると、陸は少し恥ずかしそうに笑った。

「俺、速水陸。咲夜と同じチームで野球してる」
「成海かなで、です」
「知ってる。咲夜がいっつも成海の話してるから」

 陸がかなでのことを知っていたのは、悪目立ちをしているせいではなかったようだ。
 安堵すると同時に、咲夜はどうしてそのことを教えてくれなかったのか疑問に思う。
 まだふわふわとしている頭では、うまく考えもまとまらなかった。
 そんなかなでに、陸はやわらかい声で問いかける。

「成海を保健室に連れてきた後、教室にカバン持っていったんだけどさ。もしかして、女子から嫌がらせとかされてる?」
「…………っ」

 恥ずかしさに顔が熱くなる。
 嫌がらせ、と言えるのだろうか。
 ただ悪口を言われているだけだ。それも、たぶん事実に基づいた本当のことを。

 自分は人に嫌われてしまうような人間だ、と口にするのが恥ずかしくて、かなでは泣きたくなった。
 でも質問されたということは、きっとクラスの女子から陸も何かを聞いてしまったのだろう。
 たとえば「また成海のやつ男子のことたぶらかしてたんだ。陸くんも気をつけた方がいいよ、あの子男好きだから」とか。
 実際に聞いたわけではないのに簡単に想像できてしまって、また頰が熱くなった。

「あの、私、ブスのくせにぶりっ子だし、あざといらしいし、男の子に媚びてて、男好きだって言われてて…………。その、だから、悪口とかじゃなくて、本当のことで…………」

 言い訳をするように並び立てた言葉は、果たして正しかったのか。

 陸は薄茶色の瞳でまっすぐにかなでを見つめていた。

 先のかなでの話を聞いても、陸は変わらず優しい声をしていた。

「さっき、成海は人目が気になるタイプなのって訊いたじゃん」
「え…………う、ん」
「昔の俺に似てるなって思ったんだ」

 苦笑いを浮かべて、陸が肩をすくめる。

「俺、すごい人見知りでさ。人目がやたらとこわかったんだよ。だからさっきの成海みたいに、目を閉じて、耳も塞いで、動けなくなる気持ち、分かる気がして」

 共感してくれる言葉が、傷ついたかなでの心にじんわりと沁みていく。
 クラスの女子にどんなに悪く言われても、泣くのを我慢してきた。泣くことでまた悪口を言われると分かっていたから。
 約二ヶ月。ずっと我慢してきたはずの涙が、どうしてかこの瞬間、ぽつりとこぼれ落ちた。

 ぽろぽろとこぼれていく涙を見て、どうしてか、陸はやわらかく笑った。

「人の目ばっかり気にしてるとさ、周りの言葉は全て正しい気がしてくるんだよな」

 だからさっきの成海みたいな言葉が出てくる。
 そう続いた言葉に、回らない頭でゆっくりと思い返してみる。

 ぶりっ子で、男に媚びる、男好き。
 今までたくさん言われて傷ついてきた言葉を、自ら口にした。
 そしてそれは、悪口ではなく本当のことだ、と。

 でもそれは間違ってるよ、と陸が優しい声でかなでに言い聞かせる。

「俺は成海のこと、全然知らないけどさ。少なくとも、ブスじゃないじゃん」
「でも…………すごく、言われるし……」
「…………うーん。そうだなぁ」

 困ったように陸が眉を下げる。
 それから、ああそうだ、と小さく笑う。

「俺は好きな人がいるんだけど、だから正直成海に好かれようが嫌われようが構わないんだよね」
「…………うん」
「俺が成海をわざわざ褒める理由もないわけで……。だからつまり、…………何が言いたかったんだっけ?」

 こてん、と首を傾げる陸。そんな彼をしばらく眺めていたけれど、少しずつ面白さが込み上げてきて、くすり、と笑ってしまった。
 くすくすと小さな声で笑っていると、陸も同じように笑い出した。
 それから、かなでの長く伸びた前髪を指先でちょこんと持ち上げて、整った顔でかなでの顔を覗き込む。

「ほら、笑ったらかわいいし」
「………………え」
「少なくとも悪口のうちの一個は、女子の言いがかりだって分かったね」

 離された前髪が、ふわりとかなでの目を隠す。
 また目に涙が浮かび、頰は熱くてたまらなかった。

 ずっと悪口を言われ続けて、心が折れてしまっていた。知らぬ間に考え方も歪んでしまっていたのだろう。
 ぶつけられた言葉が、全て事実だと思い込んでしまっていた。
 ブスで、ぶりっ子で、媚びていて、あざとくて、男好き。
 かなで自身に非がある。だから何を言われても仕方がない。
 そう、思っていたのに。

「頭のおかしいやつの声ばっかりが大きく聞こえるかもしれないけど、大丈夫だよ」

 成海のことをちゃんと見てくれる人が、絶対にいるよ。
 陸から向けられたその言葉が、かなでの胸の奥深くにじんわりと響いた。
 その日から、かなでの世界は少しずつ変わっていった。
 別れ際にかけてくれた陸の言葉が、かなでのお守りになったのだ。

『何も信じられなくなったら、俺のところに来たらいいじゃん。俺は成海に嘘つかないよ』

 とてもシンプルな言葉だった。
 でも、それゆえに励まされた。
 悪口が聞こえてきて不安になったら、陸の教室を訪ねた。
 最初のうちは嫌な顔をされないかな、面倒じゃないかな、と心配していたが、陸はいつも優しくて、そして正直だった。

 男の子に媚びてるって言われたの、とかなでが言うと、でも俺には媚びてこないじゃん、と言ってくれた。

 上目遣いとか仕草があざといって言われた、と相談したときは、かわいいってことでしょ? 何が悪いの? と首を傾げられた。

 そうして陸の意見を聞いて、心のお守りにすると、不思議と俯く時間が減っていった。
 人の目がこわくて伸ばしていた前髪も、勇気を出して切ってみた。さすがにその日はこわくてたまらなくて、俯いてばかりだった。それでも、たまたますれ違った陸が、似合うじゃん、と笑ってくれただけで、また前を向くことができた。

 陸が話を聞いてくれるようになって、一ヶ月も経つ頃には、かなでにも女の子の友達ができていた。
 理科の実験で同じグループになった沙苗という子で、向こうから声をかけてくれたのだ。
 少しずつ話すうちに、「成海さんのこと誤解してたみたい。今までごめんね」と謝ってくれた。
 沙苗と仲良くなると、他のクラスメイトと関わることも増えていった。沙苗のように謝ってくれた子は少なかったが、かなではそれでもよかった。
 悪口を言われずに、普通に学校生活を送れる。それだけで十分だったのだ。

 友達ができて、笑い合っていても、ふとしたときにこわくなる。もしかしたら心の中ではかなでのことを嫌っているかもしれない。ブス。男好き。媚びてばっかりで気持ち悪い。そんな風に思われているかも。
 そんな考えが頭から離れなくなると、必ず陸のことを思い出した。
 陸の言葉はかなでのお守りで、陸の存在はかなでの精神安定剤だった。

「陸くん陸くん!」
「どうしたの、成海」
「ううん、用があったわけじゃないの。陸くんを見て元気を補充しようと思っただけ!」
「なにそれ。変なの」

 陸がやわらかく笑う。
 その表情が優しくて、すごく好きだなぁ、と思う。
 陸に会うと元気が出る。頑張ろうと思える。それは本当のことだ。

 きっとこれは恋なのだ、とかなでも気づいていた。
 そして陸に好きな人がいるということは、最初から知っている。
 叶わない恋、それでもよかった。
 陸が好きな人と幸せになって、笑っていてくれたら。
 かなでのことを友達としてそばに置いてくれていたならば。
 それだけで、十分すぎるくらい幸せだった。

 だってかなではもう、陸に救ってもらっている。
 たくさんのお守りをもらっている。
 笑いかけてもらうだけで、元気になれる。
 好きだと言えば困らせてしまう。
 優しい人だから、かなでを傷つけることに、陸自身も傷ついてしまうかもしれない。
 そんなのは耐えられなかった。

 だからかなでは、友達でいい。
 友達のまま、陸の幸せを願い続ける。
 友達として、陸に大好きだと伝え続ける。
 もしも陸に元気や自信がなくなったときに、かなでの気持ちが少しでも糧になれるのならば、それでいいのだ。

「陸くんはね、私の推しなんだよ!」

 だからかなでは嘘をつく。
 大好きな人に、大好きと伝えるために。
 大好きな人の、負担にならないために。
 大好きな人を、困らせないために。
 大好きな人が、今日も笑顔でいられるために。

「推しって、アイドルとかに使う言葉じゃない?」
「うーん。推しってその人の元気の源で、原動力で、笑顔にさせてくれる存在だと思うの。つまり、陸くんだ!」
「まあ成海が楽しいならそれでいいけど」

 そう言って笑ってくれる陸に、かなでも笑い返した。
 陸くん、大好き!
 初めて口にしたその言葉は、心からの本音のはずなのに、とても歪だった。
 『恋』ではなく、『推し』。
 まとっているのは、薄皮一枚の嘘。
 その嘘が、二人の関係を守ってくれていた。

 かなでは自分の気持ちが恋だと気づいた後も、隠し続けた。
 陸と仲良くなってから二ヶ月ほど経った頃だろうか。かなでは初めて、陸の好きな人について質問してみた。

「ねぇ、陸くん。前に好きな人がいるって言ってたでしょ? どんな人なの?」

 かなでの唐突な質問に、陸は目をまたたかせた。それから珍しく照れたような表情を見せた。

「言うの恥ずかしいんだけど。言わなきゃダメ?」

 照れた顔もかわいい。
 陸の頭に思い浮かんでいるのは、陸の大好きな人なのだろう。
 かなでが恋を叶えようとすれば、一番の障害になるはずの人。でも、かなではこの恋を叶えたいとは思っていない。
 だから陸の好きな人の話も、純粋な興味として聞きたいと思った。

「聞きたい! 教えて!」

 身を乗り出したかなでに、陸は眉を下げて笑った。

「うーん。いつもまっすぐで、何に対しても一生懸命。負けず嫌いで、ちょっと気が強い」
「うんうん」
「それから…………かわいいよ」

 その言葉を口にしたときの陸の表情は、一度も見たことのない甘やかなものだった。
 ずきん、と胸の奥に痛みが走る。
 この恋を叶えるつもりはない。
 そう思っていたけれど、前提が間違っていたとかなでは思い知る。
 叶えようと思っても、決して叶うことのない恋なのだ。

 それでも好きな人を思い浮かべて微笑む陸の表情が、どうしようもなく好きだと思う。
 優しくて甘い、本当に幸せそうな顔だったから。

「私とその人、どっちがかわいい?」
「え? それは萌かな。成海には悪いけど」
「あはは! 陸くんが正直で安心した!」

 ここでかなでの名前を挙げていたならば、きっと今までお守りにしてきた陸の言葉の信頼性が揺らいでしまっただろう。
 でも陸は迷うことなく、好きな人の名前を口にした。
 正直で、自分の気持ちにまっすぐで、優しい人。そんな陸だから、かなでは好きになったのだ。

「…………もう好きって伝えたの?」
「ん? まだ。もっと野球がうまくなったら言う予定」
「そっか、野球やってるんだっけ」

 どうして告白をするのに野球の上手さが関わってくるのかは分からない。もしかしたら、陸なりの基準やプライドがあるのかもしれない。

「陸くんの恋、叶うといいなぁ」

 かなでの口からこぼれた言葉は、紛れもない本心だった。
 陸が好きな人と結ばれて、幸せになって。そして笑っていてくれたなら、かなではそれだけで幸せだから。

 陸は恥ずかしそうに笑って、叶えられるように頑張るよ、と呟いた。