教室に入ると色んな会話が浮かんでは消えていた。
 彼らの様子を眺めながら自分の席に座ったところで、クラスメイトの村上から声をかけられた。
「おはよう。アニメちゃんと見たかい?」
 僕ももちろん朝の挨拶を返した。
 すると、彼は自分の机の前に近寄ってくると週末に放送されているアニメの話題を切り出してくれた。
 アニメやゲームに造詣の深い彼は自分の知らない作品をよく知っている。
 ふたりの間で話題になっているのは、『ソラノアリア』というアニメ。
 戦争を題材とした内容で、主人公が旅をしている仲間と共に敵の大帝国と戦うことになってしまうストーリーが描かれている。
 注目するべきは昨日放送された出来事だった。
「急に形が変わってびっくりしたな!」
「そうだね、驚いたよ」
 昨日は主人公たち一同が敵の大群から逃げる内容が放送されていた。
 しだいに追い込まれていく展開。
 囲まれてしまい動きが取れなくなってしまう仲間たち。
 中でも主人公の師匠となる人物は崖の縁に立たされていて、落ちてしまいそう。
 どのシーンを見ても手に汗を握ってしまう。
 放送時間が残り5分あたりになったところで、窮地を救ったのが主人公だった。彼が叫びだすと、自身の体が光に包まれた。
 その光はとてつもなく高速で動き、敵の軍団を倒していく。
 僕は何が起きたかわからず、そのまま画面を見入ってしまった。
 驚いたのはいちばん最後のシーンだった。主人公が持っていた剣は青を基調としていたデザインだったのに、いつの間にか全身は赤く、そして形状が変わっていたのだった。
 
 そこまで話していると、教室に向けて走ってくる足音が聞こえた。
「よ、西原!」
 少し急ぎ足で教室に入ってきたのは西原(にしはら) 灯里(あかり)だった。
 彼女は村上の挨拶を聞いたか聞いていないか、自分に向けて声をかけてくる。
「おはよう、成瀬くん。
いきなりで悪いんだけど、昨日のプリントって持ってるかな」
 昨日の、ということは返却された期末試験のどれかだろう。色んな可能性がある中で、僕は会話を広げるように返事をしてみせた。
「どの教科かな」
「数学だよ」
 自分が手渡したプリントを受け取ると、彼女はそれを目を細めて見つめていった。
 そして、"ああ、ここはこういう答えなんだね"などと独り言をつぶやいている。
 彼女は、肩のあたりで跳ねたようなヘアスタイルが活発な印象を与える生徒だ。勉強に不自由はないものの、どちらかといえば身体を動かすことが好き。
 女子で行われる体育の授業では輝かしい活躍をすると聞く。実際、水泳部ではエースとして皆に期待をされているらしい。
 そんな彼女が勉強の振り返りをしているのが、なんだか不思議な光景に見えた。
「べつにテストで満点取りたいわけじゃないけどね」
 などと、彼女はプリントから目を離さないで答えてくれた。その口調から、まだテストの内容に納得できていない硬い雰囲気を感じた。
 そこに担任の先生が教室に入ってきた。
 クラス中の皆が慌てて席に着く中で、西原は自分にプリントを返してくれる。
 その微笑んでいる表情の中に、"本当はすいちゃんに見せてほしかったけどね"などと言葉が聞こえたのだった。
 今日学校で行われるのは終業式だ。
 暑い空気が漂っている空間に生徒が並ぶこの行事には、誰もが嫌だという声を上げるだろう。
 各クラスずつ男女に分かれて列をつくる中で、僕は斜め向かいに見える西原の姿にピントを合わせてみる。少しふらついているような彼女に、不安を感じてしまう。
 なんだか前にもあった気がする。
 それはいつのことだっただろうか。
 
 一学期最後のホームルームで行われるのは、生徒が大事な配布物をもらうことだ。
 これまでの成績が収められた通知表。
 その内容を確認しようとしたところで、視界の横から熱い視線を感じた。
 村上だ。彼は自分のは見ようともせず、こちらに向けて視線を注いでいる。
「ああー。成瀬、もったいないなあ」
 自分が成績を確認するよりも早く西原がちらりとのぞき込む。
 正直止めてほしい、っていうか自分自身の成績を見なくてよいのだろうか。

 ・・・

 放課後にはほとんど生徒が残っていなかった。
 プールのある体育棟を覗いてみてもまったく静かだった。
 さり気ない顔をしつつ忍び込んで、中の様子をうかがう。
 ほかの生徒や先生に見つかると面倒なことになるのはわかっている。プールに続く通路を隠れながら歩いていると次第に緊張してしまう。
 そろりと階段を上り、ちらりとプールをのぞき込む。
 そこには誰もおらずわずかな風で水面が揺れているだけだった。
 よかった。
 胸をなでおろしつつ、さあ着替えに戻ろう......。
「わー!!」
「きゃー!!」
 振り返ったところ、すぐ近くに人の顔があったのだ。
 思わず後ずさりする。その顔にピントが合うと、次第と安心感が生まれてくる。
「......(みなと)くん、どうしたの?」
 いつの間にか僕の後ろに現れていた人物は、まぎれもないすいだった。

「そっか、水泳部が休みの日にここにやってくる、と」
 ふたりはプールサイドに腰を下ろしていた。
 お忍びなんだね、とすいはくすくすと笑っている。
「でもさ、先生に見つかったりとかしてないの?」
 それを言われたらたしかに困るところだ。つい指で頬をかく。
「だいじょうぶだよ。
あ、そうか。これでわたしたちは共犯者か」
 すいは自信ありげな顔でうなづきつつも、少しだけ釘を刺してくる。
 でも、その表情はまんざらでもない感じだった。

 すいがここにいる。
 それだけで嬉しくなって、練習はどうでもよくなってしまった。
 だから、水着に着替えることもせずにふたりだけの会話の花を咲かせていた。
「......今日で一学期も終わりだもんね。
どうだった? 通知表見せてもらったんでしょ」
 すいは体育座りをしながら、こちらに顔を向ける。
 あまり深く追求しないでほしい、その思いから僕は首を横に振った。
「相変わらずでさ、国語や英語はできるのに体育はダメでさ」
「そっかあ」
 話を聞くすいは否定もせず、ただ自分の言うことを表情を崩さずに頷いてくれる。
 これが彼女ならではのコミュニケーションだ。
 そういえば。この子の成績はどんなものか思い出してみると、すぐに教えてくれた。
「まあ、わたしはぼちぼちだったかな」
 などと、ずっと平均くらいだった成績を悪気もなく答える。
 塾の姿を思い出してみても勉強することに苦手意識はなかったと思う。ゲームをしながら学ぶ姿は楽しそうなのに、残念なことに成績に反映されないのだ。
 それでも、明るく語る彼女の姿にはなんだか許してしまいそうな愛嬌にあふれていた。
「わたしだって、少しずつできるようになるのは楽しいって思うんだよ。
でもなんだかテストの点が良くなくてさ」
 すいは表情を崩さないまま唇をとがらせて言った。
「そういうものなの?」
「そうなの。
少しずつできるようになったって湊くんが言ったんだよ。
ほら、英語のプリントとかでさ」
 そうだっけ。記憶を手繰り寄せていると、すいは彼女の中学校で行われていたダンスがあると語ってくれた。
「だからさ、いろいろ自分たちで創作ダンスをしてるとさ。
こんな動きができるんだなあって思うんだよ」
 なるほど、身体を動かせると世界が広がるんだ。

 すると、すいが顔をぐいっと近づけてきた。
 化粧をしていない真っ白な肌をした顔を間近にして、つい視線を注いでしまう。今日いちばんの笑顔をつくる彼女の瞳は、楽しいことがあるんだとばかりに輝いていた。
「だからさ、やっぱり泳ごうよ」
 またその話か、と軽くため息をついた。
 そのために放課後忍びこんでるんでしょ。正論を浴びせられると返す言葉もなかった。
 はいはい、そうでした。
「じゃあ決まりだね!」
 すいはそう言って立ち上がると、プールにまた入っていく。
 こちらを向きながら腕を上げて微笑む姿にはなんだか楽しく成長できそうな気がする。
 
 すると、自分の目に驚きの光景が映るのだった。
 すいの体が光に包まれたかと思いきや、その姿は今までと大きく異なっていた。
 
 "はだは、バラの花びらのように、きめがこまやかで美しく、目は、深い深い海の色のように、青くすんでいました。
 胴のおしまいのところが、しぜんと、さかなのしっぽになっているのでした。"
 
 そうだ、よく絵本で読んだことのあるお姫様。
 すいの足はいつの間にかなくなっていて、魚を思わせる尾びれがついている。
 その上に淡い水色のフリルのある服、ワンピースを羽織っているみたい。
 すいの体はまさしく人魚姫そのものだった。
「あちゃあ、見られちゃったか」
 すこし気恥ずかしさを含めた顔で彼女が答える。
「......どう、したの。その体?」
「わかんないんだけど、いつの間にかこんなことができるようになっててさ」
 目をそらさずに彼女の姿を見つめてしまう。
 まるで村上と話したようなアニメの世界が広がっていそう。
 この世界にいるはずなのに、この世とは思えないほどに美しかった。
 
 それでもすいは語りかける。
「今年も素敵な夏にしようよ!」