生まれくる子どもに真心を伝えましょう......。
私たちはいつもきみの誕生を心待ちにしていた。
父親と母親が作り上げるもの、それは結晶のような愛しい我が子だ。でも、私たちの家庭は、もう一人いることを忘れてはいけない。
"お姉ちゃん"の存在がいるからこそ、きみの名前が世に華々しく出てくるんだよ。私たちは小さくつぶやくと、その生まれて間もない身体を抱きしめた。
「ありがとう、みどり」
「おめでとう、すい」
・・・
わたしが交わしたもの。
それは形がなくて、口だけで紡がれるからとてもふわふわとしていた。
姿のひとつも見えないから、まるで空に浮かぶ雲のように何処へまでも行きそうだった。
ひとつ間違うと、濁流の流れに乗って遠くへ行ってしまう。
わたしが声を出したときにはもう遅かった。
ここはどこなんだろう。
あたりには人影は見えず、どこまでも透き通ったコバルトブルーが一面に広がっている。
わたしは深く沈んでいくと思っていたのに、どうしたんだろうか。
首をあっちに向けてもこっちに向けても同じ景色だ。なんだかわたしだけがポツンといるようで、孤独におちいる感覚になってしまいそう。
"海のおきへ、遠く遠く出ていきますと、水の色は、いちばん美しいヤグルマソウの花びらのようにまっさおになり、きれいにすきとおったガラスのように、すみきっています。"
ふとわたしの頭の中に浮かんだのがこの一文だった。
ああ、そうだ。
わたしの好きな絵本、「人魚姫」だ。
もしかしたら、私の視界を染め上げているのも水の色なのかもしれない。
ぷかぷかと浮かんでいる感覚も、抱かれている感じなのも、不思議と合点がいくみたいだ。
誰に見せるまでもなく、わたしはふわりと微笑んだ。
なんだか孤独が少しは安らいでくる。
今まで一色だった視界に、視界の隅で差し色が添えられた。なんだろうとその方角に向けて首を上げてみると、なにかがきらめいていた。
「何かなあ」
そのきらめきに腕を伸ばしてみてもとうてい届かない。
どこまで遠いんだろうか。
もしかしたら、人魚姫にでてきた空を泳ぐ火の魚なのかもしれなかった。
それは、花火と呼ばれるもの。
人魚姫は花火に目を輝かせて、王子様に恋をした。
人魚姫のエンディングはどうなるんだっけ。
わたしは花火が上がる日を心待ちにしていた。
夜空に大輪の花が咲いたら、わたしは心に眠っている言葉を伝えよう。
きみがずっと言えなかったことは、わたしと同じだから。
――約束。
それが、きみと交わしたもの。
生まれ変わるなら、新しい恋をしよう。新しい約束をしよう。
その美しさはいつの時代も変わらない。
もうすぐそれに触れられるはずだったんだ......。
わたしははいつの間にか、このプールに姿を現すことができた。
もしかしたら、過去と未来が、わたしをつないでくれたのかもしれない......。
生まれ変わったなら、命の限り旅をしよう。心に秘めた言葉を伝えに行こう。
風になりたがったわたしは身体を泳がせて、水の上に上がっていく。
「さあ、出かけましょう」
そうつぶやいたわたしは、誰にも見せない微笑みを作っていた。
恋のものがたり。
忘れられない経験をしたのは、去年の夏のこと。
夏がはじまる。
その気配に一喜一憂する生徒たち。
さまざまな声が上がる中、僕だけは顔をうつむけてしまう。
子どものころから苦手だったものがある。
とはいってもまだ高校二年生の自分もまだ、大人から見たら十分子どもなのかもしれないけれど。
それは学校生活がはじまる頃から生まれていた、小さくも心に残る遺恨。
きみがやらないといけないことなんだよ。そうしないと困るでしょ。
こうやって話しかけてくる人がたくさんいた。
でも、それは諭すようなに口調の裏に上手く丸め込もうという意識を感じてしまって、神妙な顔つきをしながらも心根を隠すしかなかった。
そんなことを考えながら、僕は水の上に浮かんでいた。
かといって何もするわけでもなく。
これが動物園に居るらっこだったらかわいいと言われるだろう。いつもぷかぷかと浮いていてその手には貝を割るための石を抱えている、あの生き物だ。
もちろん人間だから石は持っておらず、代わりに抱えているのはビート板だ。
そう、僕は泳げない。
「成瀬、放課後どこか出かけない?」
「いや、今日はいいや」
などとクラスメイトである村上の提案を上手くかわした僕は、今日こうして学校のプールに居る。
水の中というあの空間が怖くてたまらないし、身体ひとつで浮かぼうとするとつい力が入ってしまうし。本当に水泳の授業だけはストレスがいっぱいだった。
大人になったときに泳げる必要があるかどうかなんて考えたことはないけれど、今困っているのは事実だったりする。
この年になってもとよく笑われてしまうし、目先に迫った体育の成績だってある。
だから、水泳部の休みの日を狙ってプールに潜入しているわけだ。
・・・
今でも思い出すのは小学生の頃だった。
休み時間のときにクラスメイトが教室で激しく遊び回っていた。
明るく遊んでいるといえば聞こえも良いのだけど、あまり品のない生徒に担任の先生もどこか見捨てている雰囲気があった気がする。
ある日の休み時間だった。
誰かが持ち込んだかわからないおもちゃ用のダーツがあって、一部の生徒がそれで毎日遊んでいた。
自分はそこに混ざりたいわけではなく、いつも目立たないように教室の隅にいた。ちらりとグループの方を見ると、ちょうどダーツの矢が的に当たったところだった。
その的はまるで自分みたい。
クラスでは浮かない自分だから、別にいてもいなくても問題ないだろう。
でも、自分の存在が意味を成すとするなら、それは外れくじ以外の何物でもなかった。
「お前と同じグループってやだな」
「このグループじゃ負けるの決まりだな」
こうやって言われたことは何度もあった。
小学生では水泳の授業で水泳大会が行われる日があり、リレーで一番最初にゴールしたチームが優勝となる。
自分が足を引っ張ってしまうから、順位は下から数える方が早かった。
本当はプールの授業そのものを参加したくなかった。仮病を使いたかったし、どこへだって逃げ出したかった。
居なくても文句は言われないだろう。
でも、どことなく真面目な性格が災いしていちおうは出席してしまう。
そしたら必死に泳いでいる自分に嘲笑の矢が飛んでくるのだ。
学校で行われているスポーツはたいていこんなものだと思う。
長い距離を泳いだり、サッカーでゴールを決めたりなどの輝かしい一面があるとヒーローとして注目を浴び、クラス中のまぶしい視線を集めるのだ。
今見えている水面はきれいなのに、体育だけは嫌いだった。
・・・
体育の授業に意味を持たせるならなんだろう。
小学生の頃から抱いている考え事をビート板に乗せながら、空を見上げていた。
少しずつ日が沈みはじめ、いくら夏とはいえ少し空気が冷たくなってきたような気がした。
わずかなそよ風が水面を揺らす。
つい身体をこわばらせてしまった。全身に力が入りそうなところでビート板を握りしめた。
そのままじっとして、揺れが収まるのを待っていた。
どのくらいそうしていただろうか、感じていた緊張はため息となってあふれ出した。
今日はもう止めにしようか。
長年に続く問いも、挑戦する意味も分からないまま、代わり映えのしない日々が続いている。
何もできていない自分に愛想をつかしつつも、何かしら特訓はしないといけない。
けれども、どうすればいいか見当もつかなかった。
空には太陽が浮かんでいる。
そちらを眺めていても、なにも答えてくれなさそうだった。せめてなにか特訓のメニューでも出してくれればいいのに。
期待なんかできないか、と思い直してあごを引き水面を視界に入れる。
なんとか足を動かしてプールサイドの縁まで行こうと思ったところだった。その視界の向こうにとある人物を見ることができたのだ。
その姿は、木陰にたたずむカワセミのように美しかった。
きちんと学校指定の水着をつけて、足を水につけて。
プールサイドの向こう岸に腰かけてこちらを向いて微笑んでいた。
彼女が、"すい"がここにいる。
彼女は「えいや」ってプールの中に飛び込むと、こちらへ向けて泳いでくる。
僕は何が起きているかわからないまま、その姿を見つめてしまっていた。
自分の近くに浮上した彼女は、こちらを向いて微笑んだ。
「ふふ。湊くんがんばっているね」
そして、まるで誘うように、僕をいちばん近いプールサイドまで連れていく。
お互いに縁に手をかけたまま、しばし見つめあってしまった。
「いつからここにいたの?」
「わたしはずっといたよ」
問いかけてみても、シンプルな答えしか返ってこなかった。ずっと見ていたとはどういうことだろうか。
僕の疑問も意識しないまま、彼女は驚くような提案をするのだった。
自分の手をとって、すいは告げる。
「ねえねえ、湊くん!
わたしと一緒に泳ぎませんか」
え? この子はなにを言っているんだろう。
「いやいや、だからさ。
よければわたしが泳ぐの教えてあげようか」
今日この日、僕の瞳は彼女を映していた。
すい。なかなか珍しい名前を持つ彼女は、名前を結城 すいといった。
人懐っこく笑う表情、未だに幼さを感じさせる声。その愛らしさは昔と変わらなかった。
だけども、その姿がいつ現れたのかわからなかった。
まるで影送りのよう。
どうして、きみがここにいるんだろう。
僕は家に向けて帰宅している。
今ここには自分だけしかいなかった。
実のところは隣に歩く人の姿を心待ちにしていたのに、太陽が作り出す影はひとつだけだった。
せっかくだから、帰りながらすいと話してみたかった。
更衣室で着替えてから少し待っていたのだが、彼女は現れなかった。
いつの間にか下校時刻のチャイムが鳴り、ひとり仕方なく学校の門をくぐることになってしまった。
歩いていると、駆け足で走る小学生たちとすれ違った。
彼らは水泳道具を入れた袋を片手にはしゃいでいて、少し暗くなっていても無邪気な表情がよくわかった。
くすりと笑みがこぼれる。
水泳はもとより、体育の授業は下から成績を数える方が早かった。
そんな自分はいつもクラスでは蚊帳の外だったし、"どうして運動が下手なの"と聞かれることも多々あった。
「だったら強くなろうよ!」
こうやって声をかけられても、いじめられっ子が揃って空手やボクシングを学んだりするだろうか。
できてもできなくてもいいじゃない。
子供心にこんなことを言ってみたかった。
でも、クラスのカースト的な雰囲気の前ではそんな意見もはばかられてしまって、健康ならば参加しなければならないことが悲しかった。
友だちってなんだろう。
いきなり100人作れと言われても、僕にはよくわからない。
小学生の朝礼でよく"見ず知らずの生徒であっても、友だちと思おう"と言われても。
僕の耳に届く言葉は同調圧力でしかなくて、どうすればよかったのだろうか。
友だちが少ない自分にと親が勧めてくれたのが英会話教室だった。
意識してくれたか分からないが、同じ学校の子が居ない時間帯の教室に入ることになった。
そのことがとても嬉しくて、意気揚々と出かけて行ったのをよく覚えている。
目の前で信号が赤く変わったのが見えた。
ふたたび歩けるようになるのを待っていると、そよ風が頬をなでる。
この交差点は、すいと出会った場所。
◇◇◇
その出会いは中学生の頃。
閑静な住宅地にひっそりとたたずむ交差点。
目立つスポットではないこの場所を、ふんわりと舞う桜吹雪が彩っている。
足を止めて信号が変わるのを待っていると、その向こう岸に小さな女の子がいた。
女の子は交差点の角で立ち止まったまま、いろんな方角を向いてきょろきょろとしていた。
その姿は誰がどう見ても困っていると思うだろう。だから、こちらの信号が渡れるようになると小走りに走っていき彼女に声をかけた。
「ちょっと、だいじょうぶ」
「え? だいじょうぶ、だよ......」
「ほんとうに?」
「う、うん......」
これほどに言葉を重ね合わせてみても、視線すら合わさずにだいじょうぶと言ってしまう。その表情は、不安の顔色が隠しきれていなかった。
これはどうしたものか。
でも、僕だってもう行かなきゃいけなかった。
「ごめんね、僕は塾に行かなきゃだから」
そう言ってこの場から歩いていこうと思っていた。でも、僕の足はその場からひとつも動かすことができなかった。
彼女の手が、僕のシャツを握りしめていた。
「え、塾ってどこに行くの?」
その上目遣いの瞳はまるで希望を見つけたようにきらめいていた。
「いらっしゃい、結城さん!」
扉を開けると、机に座っていた女性が立ち上がって拍手をした。
塾講師の先生だった。
そう、塾に向かっていた僕は交差点ですいと出会った。新入生である彼女も同じところに行くとわかり、自分が連れてきた形になった。
「ここはおうちみたいにゆっくりしてくれていいのよ。
さあ、いらっしゃい」
「よ、よろしくお願いします......」
先生のあたたかい歓迎を受けて、すいは塾の教室へと足を踏み入れた。
「英語の挨拶をしてみようか。
自分の下の名前を言うのよ、"My name is Sui"言えるかな?」
「ま......、My name is Sui!」
「How many siblings do you have?」
先生の次なる質問に詰まったすい。ここで自分は救いの手を入れる。
「兄弟や姉妹ががいるかってことだよ」
「えっと、だれもいないから......No!」
よくできました! 先生は拍手をしてすいを迎え入れた。
彼女の頬は緊張しつつも、喜びの表情が浮かんでいるようだった。
それからしばらく経った日。
塾では小規模なテストのプリントが返されていた。
「みんな、良く出来ていたわね。
それでも湊は成績が伸びているよ。みんなも自分のために次もがんばるのよ」
塾の生徒の視線を浴びつつ、僕はちょっと恥ずかしい気分に浸ってしまう。
そして、先生は復習を兼ねて何枚かのパネルを見せた。
「えっと、......リンゴじゃなくてアップルだ!」
いつの間にか教室の雰囲気に溶け込んでいるすいは意気揚々と答えていた。
「すい、答えるの早いよー」
「っていうか、この絵の雰囲気を覚えてるんじゃないかな」
ほかの生徒に茶化されても、すいは明るくごめんと頭を下げる程度で学校みたいな煩わしさは感じられない。
「いいのよ、英単語を覚えている証拠なんだから。
さあ、次のゲームをはじめるわよ」
先生の誘いに乗って、皆は長机の上に広がるノートやプリントを片付けた。
「ほら、みんな早くこっち来てよー」
すいはいつの間にか長机から飛び出して隣のスペースに置かれているテーブルに移動していた。
はいはい、今行きますからね。
英会話の塾とはいえ、ゲーム形式で英文法や読み書きを学ぶ授業が主体だった。そのため、塾の教材とは別に先生が手作りしたプリントやカードがたくさんあった。
下の名前で呼び合うだけのルールしかなく、毎回宿題が出されたり英語で会話したりすることを強制しなかったから、生徒は皆楽しんで取り組んでいた。
塾が終わり自転車に乗ろうとしたところで、すいに声をかけられた。
「湊、すごいよ!
さっきのプリント満点だったじゃない」
両手でガッツポーズをしつつ腕を振る彼女に合わせてショートカットの髪とスカートがゆれた。
どうしてそんなに頭がいいのと聞かれても、恥ずかしくなって困ってしまう。
「いや、そんな大したことはないよ」
これだけ答えてすぐに帰ろうとしたが、すいは立ち止まったまま瞳をこちらに向けて微笑んでいる。その瞳はまるで羨望のまなざしだ。
それじゃあと、自転車を押しながらゆっくり歩いていこう。
「それにすいだって、パネルを出たらすぐに答えてすごいじゃない」
「そうかなあ。
だって絵があるだけだし、なんていうかさ......」
まあ、なんとなく分かる気もする。英単語だけできても、文法ができないと困るだろう。
今日この日から、ふたりで一緒に帰るようになった。
「わたしがプリントでつまづいたら教えてね」
「うん、いいよ」
隣を歩くすいはあれらこれらと会話を紡いでいく。彼女がつくる無邪気な笑みを夕日が照らしていて、とてもきれいに見えてしまった。
毎日が楽しいから。
こう思えるだけで日々が彩りをもってくる。
その気付きを教えてくれたすいに好意をもつようになっていく。
・・・
出会いって喜ばしいな。
そう思う出来事が、すぐ近くに待っていた。
高校の入学式の日。校舎の入り口のところに、決められたクラス割がボードに貼り出されていた。
その前に立って、自分のクラスはどこだろうと探しているところだった。
隣に小さい背をした女子生徒が並んだ。彼女も自分が行くべき教室を探しているようで、ひっきりなしに首を動かしていた。
僕は彼女の姿をそっとだけ視界に収めると、校舎の中に入っていく。まさか、そんなことはないだろう。心の中にそっと浮かんだ思い出を秘めながら。
はじめて入る教室には、まだ数名の生徒しか集まっていなかった。
彼らはまだ緊張しているようで、お互いに話すことはなく静かに座っていた。
ああ、自分もそっと過ごす感じが良いんだな。そうやって自分の席に腰を下ろしたところだった。
静寂を切り裂くような音は、廊下を必死に走る足音。
何気なく廊下の方に目をやると、足音は近くで止まったようだった。教室の入り口で膝に手をついて息を整えている生徒がこちらに向けて顔を上げる。
......僕たちの視線が、お互いの姿に気づく。
すいだった。いつも塾で見ていた女の子がここにいるなんて。
顔を真っ赤に染めた彼女が、そそくさと教室の中に入っていく。その姿を目で追う僕も、どこか恥ずかしかった。
それから、入学式はつつがなく進んだ。ホームルームが終わると、近くの生徒たちはお互いに声を掛けて挨拶をし合っていた。
皆の様子を横目に見つつ、僕は席を立った。クラスメイトと仲良くなるためには、もっとゆっくりで良いだろう。
抑えた気持ちを抱えながら僕は教室を出ていこうとする。その時、僕の肩を叩く手があった。
すいだった。彼女はにっこりと笑うと、こちらの顔を見て頷く。僕も微笑みを返すと、ふたりして学校を出て行った。
路地裏を歩く僕とすいの間に爽やかな空気が流れているみたい。
「ねえ、湊くんは何が楽しみ?
わたしはどんな授業も早く受けてみたいなあ。あ、部活にも入らないとね」
すいはあれこれとこれからの希望を楽し気に話す。彼女の様子を見ながら、僕は自然と硬い表情になっていた。
「きみったら、そんな暗い顔しちゃだめだよ。
たしかに、来年も十年先だって分からないじゃん。明日何があるのかだってさ。
だからさ、日々を精一杯過ごそうよ!」
毎朝起きた時に、今日は何が起こるのか考えたい。こういう考え方に今までに出会ったことのない雰囲気だった。
「ねえ、すい?」
「なに、湊くん?」
言いたいことがあるなら、一緒に声を出して言おう。せーのってタイミングをそろえて。
「スイーツを食べに行こう!」
これからの生活がどんなものになるのか分からない。けれども、ふたりでいることが大事なんだと思っている。
◇◇◇
教室に入ると色んな会話が浮かんでは消えていた。
彼らの様子を眺めながら自分の席に座ったところで、クラスメイトの村上から声をかけられた。
「おはよう。アニメちゃんと見たかい?」
僕ももちろん朝の挨拶を返した。
すると、彼は自分の机の前に近寄ってくると週末に放送されているアニメの話題を切り出してくれた。
アニメやゲームに造詣の深い彼は自分の知らない作品をよく知っている。
ふたりの間で話題になっているのは、『ソラノアリア』というアニメ。
戦争を題材とした内容で、主人公が旅をしている仲間と共に敵の大帝国と戦うことになってしまうストーリーが描かれている。
注目するべきは昨日放送された出来事だった。
「急に形が変わってびっくりしたな!」
「そうだね、驚いたよ」
昨日は主人公たち一同が敵の大群から逃げる内容が放送されていた。
しだいに追い込まれていく展開。
囲まれてしまい動きが取れなくなってしまう仲間たち。
中でも主人公の師匠となる人物は崖の縁に立たされていて、落ちてしまいそう。
どのシーンを見ても手に汗を握ってしまう。
放送時間が残り5分あたりになったところで、窮地を救ったのが主人公だった。彼が叫びだすと、自身の体が光に包まれた。
その光はとてつもなく高速で動き、敵の軍団を倒していく。
僕は何が起きたかわからず、そのまま画面を見入ってしまった。
驚いたのはいちばん最後のシーンだった。主人公が持っていた剣は青を基調としていたデザインだったのに、いつの間にか全身は赤く、そして形状が変わっていたのだった。
そこまで話していると、教室に向けて走ってくる足音が聞こえた。
「よ、西原!」
少し急ぎ足で教室に入ってきたのは西原 灯里だった。
彼女は村上の挨拶を聞いたか聞いていないか、自分に向けて声をかけてくる。
「おはよう、成瀬くん。
いきなりで悪いんだけど、昨日のプリントって持ってるかな」
昨日の、ということは返却された期末試験のどれかだろう。色んな可能性がある中で、僕は会話を広げるように返事をしてみせた。
「どの教科かな」
「数学だよ」
自分が手渡したプリントを受け取ると、彼女はそれを目を細めて見つめていった。
そして、"ああ、ここはこういう答えなんだね"などと独り言をつぶやいている。
彼女は、肩のあたりで跳ねたようなヘアスタイルが活発な印象を与える生徒だ。勉強に不自由はないものの、どちらかといえば身体を動かすことが好き。
女子で行われる体育の授業では輝かしい活躍をすると聞く。実際、水泳部ではエースとして皆に期待をされているらしい。
そんな彼女が勉強の振り返りをしているのが、なんだか不思議な光景に見えた。
「べつにテストで満点取りたいわけじゃないけどね」
などと、彼女はプリントから目を離さないで答えてくれた。その口調から、まだテストの内容に納得できていない硬い雰囲気を感じた。
そこに担任の先生が教室に入ってきた。
クラス中の皆が慌てて席に着く中で、西原は自分にプリントを返してくれる。
その微笑んでいる表情の中に、"本当はすいちゃんに見せてほしかったけどね"などと言葉が聞こえたのだった。
今日学校で行われるのは終業式だ。
暑い空気が漂っている空間に生徒が並ぶこの行事には、誰もが嫌だという声を上げるだろう。
各クラスずつ男女に分かれて列をつくる中で、僕は斜め向かいに見える西原の姿にピントを合わせてみる。少しふらついているような彼女に、不安を感じてしまう。
なんだか前にもあった気がする。
それはいつのことだっただろうか。
一学期最後のホームルームで行われるのは、生徒が大事な配布物をもらうことだ。
これまでの成績が収められた通知表。
その内容を確認しようとしたところで、視界の横から熱い視線を感じた。
村上だ。彼は自分のは見ようともせず、こちらに向けて視線を注いでいる。
「ああー。成瀬、もったいないなあ」
自分が成績を確認するよりも早く西原がちらりとのぞき込む。
正直止めてほしい、っていうか自分自身の成績を見なくてよいのだろうか。
・・・
放課後にはほとんど生徒が残っていなかった。
プールのある体育棟を覗いてみてもまったく静かだった。
さり気ない顔をしつつ忍び込んで、中の様子をうかがう。
ほかの生徒や先生に見つかると面倒なことになるのはわかっている。プールに続く通路を隠れながら歩いていると次第に緊張してしまう。
そろりと階段を上り、ちらりとプールをのぞき込む。
そこには誰もおらずわずかな風で水面が揺れているだけだった。
よかった。
胸をなでおろしつつ、さあ着替えに戻ろう......。
「わー!!」
「きゃー!!」
振り返ったところ、すぐ近くに人の顔があったのだ。
思わず後ずさりする。その顔にピントが合うと、次第と安心感が生まれてくる。
「......湊くん、どうしたの?」
いつの間にか僕の後ろに現れていた人物は、まぎれもないすいだった。
「そっか、水泳部が休みの日にここにやってくる、と」
ふたりはプールサイドに腰を下ろしていた。
お忍びなんだね、とすいはくすくすと笑っている。
「でもさ、先生に見つかったりとかしてないの?」
それを言われたらたしかに困るところだ。つい指で頬をかく。
「だいじょうぶだよ。
あ、そうか。これでわたしたちは共犯者か」
すいは自信ありげな顔でうなづきつつも、少しだけ釘を刺してくる。
でも、その表情はまんざらでもない感じだった。
すいがここにいる。
それだけで嬉しくなって、練習はどうでもよくなってしまった。
だから、水着に着替えることもせずにふたりだけの会話の花を咲かせていた。
「......今日で一学期も終わりだもんね。
どうだった? 通知表見せてもらったんでしょ」
すいは体育座りをしながら、こちらに顔を向ける。
あまり深く追求しないでほしい、その思いから僕は首を横に振った。
「相変わらずでさ、国語や英語はできるのに体育はダメでさ」
「そっかあ」
話を聞くすいは否定もせず、ただ自分の言うことを表情を崩さずに頷いてくれる。
これが彼女ならではのコミュニケーションだ。
そういえば。この子の成績はどんなものか思い出してみると、すぐに教えてくれた。
「まあ、わたしはぼちぼちだったかな」
などと、ずっと平均くらいだった成績を悪気もなく答える。
塾の姿を思い出してみても勉強することに苦手意識はなかったと思う。ゲームをしながら学ぶ姿は楽しそうなのに、残念なことに成績に反映されないのだ。
それでも、明るく語る彼女の姿にはなんだか許してしまいそうな愛嬌にあふれていた。
「わたしだって、少しずつできるようになるのは楽しいって思うんだよ。
でもなんだかテストの点が良くなくてさ」
すいは表情を崩さないまま唇をとがらせて言った。
「そういうものなの?」
「そうなの。
少しずつできるようになったって湊くんが言ったんだよ。
ほら、英語のプリントとかでさ」
そうだっけ。記憶を手繰り寄せていると、すいは彼女の中学校で行われていたダンスがあると語ってくれた。
「だからさ、いろいろ自分たちで創作ダンスをしてるとさ。
こんな動きができるんだなあって思うんだよ」
なるほど、身体を動かせると世界が広がるんだ。
すると、すいが顔をぐいっと近づけてきた。
化粧をしていない真っ白な肌をした顔を間近にして、つい視線を注いでしまう。今日いちばんの笑顔をつくる彼女の瞳は、楽しいことがあるんだとばかりに輝いていた。
「だからさ、やっぱり泳ごうよ」
またその話か、と軽くため息をついた。
そのために放課後忍びこんでるんでしょ。正論を浴びせられると返す言葉もなかった。
はいはい、そうでした。
「じゃあ決まりだね!」
すいはそう言って立ち上がると、プールにまた入っていく。
こちらを向きながら腕を上げて微笑む姿にはなんだか楽しく成長できそうな気がする。
すると、自分の目に驚きの光景が映るのだった。
すいの体が光に包まれたかと思いきや、その姿は今までと大きく異なっていた。
"はだは、バラの花びらのように、きめがこまやかで美しく、目は、深い深い海の色のように、青くすんでいました。
胴のおしまいのところが、しぜんと、さかなのしっぽになっているのでした。"
そうだ、よく絵本で読んだことのあるお姫様。
すいの足はいつの間にかなくなっていて、魚を思わせる尾びれがついている。
その上に淡い水色のフリルのある服、ワンピースを羽織っているみたい。
すいの体はまさしく人魚姫そのものだった。
「あちゃあ、見られちゃったか」
すこし気恥ずかしさを含めた顔で彼女が答える。
「......どう、したの。その体?」
「わかんないんだけど、いつの間にかこんなことができるようになっててさ」
目をそらさずに彼女の姿を見つめてしまう。
まるで村上と話したようなアニメの世界が広がっていそう。
この世界にいるはずなのに、この世とは思えないほどに美しかった。
それでもすいは語りかける。
「今年も素敵な夏にしようよ!」
教室のドアを開ける。
開け放たれた窓には午後の柔らかい日差しが降り注ぎ、カーテンをそよ風が揺らしていた。
隅の席ではだれか女の子が机に伏せて寝ていた。
その姿はとても気持ちよさそうで、離れたところにいても寝息が聞こえてきそう。
ささやかな彼女の声色を聞き取るために、あたりはミュートな音量が海のように広がっていた。
うまく説明できないけれど、思ったことはただひとつ。
えもいわれぬ美しさ。
ずっとこの景色を見ていたかった。
でも、とある気づきがこの視界を不思議なものに変えてしまった。
......この子は誰なんだろう?
たとえ顔が見れなくても、同じクラスだったら少しでも人物が分かるポイントがあるだろう。でも、視界の先にいる子は少しもそんなことを感じられなかった。
顔だけでも見てみたくなった。
声はかけないで、ちょっと顔を視界に収めるだけ。
それなら良いだろうと勝手に解釈して、少しずつ歩を進めていく。
もし起こしてしまったら彼女は迷惑だろう、それでも自分の興味は止まることを知らなかった。
あと少しのところで、彼女の姿はふと消えてしまった。
あの子の肩に手が触れそうな距離だったのに。
僕の周りをただ静寂が包み込んでいるだけだった......。
・・・
スマートフォンのアラームが鳴る。
それは夢から現実の世界への帰還を告げる音。
目覚まし時計を止めても、ここにはまだ自分がいないような気がした。まだあの虚ろな夢の中のよう。
ふわふわした気持ちを抱きつつも僕は身体を起こした。
夢を見るのも、その中で愛しい人と巡り合うのも。そして、新しい朝日を浴びるのも。生きているから実感できることなんだろう。
輝く太陽に祈りをささげよう、今日一日が楽しい日でありますようにって。
空はどこまでも青く、雲ひとつない晴天だった。
高気圧に覆われて何日も晴れの予報が続くとのことだ。夏休みのプール教室があった頃は憂鬱でしかなかったが、今年はなんだか気分がちがう。
すいが待っている、笑っている顔を見れる。
それだけで学校に行く価値があるんだと思うと、暑い中に外出するのも楽しくなってくる。
交差点で信号が青になるのを待っていると、そよ風が吹いた。
何気なく空を見上げてみる。
自分の瞳に映る青空はなんだか悲しく見えたのは気のせいだろうか。
......このそよ風が強く吹かないように。ふとこんなことを願ってみた。
・・・
夏休みの学校に入るのは大変だと思っていたけど、実際そんなことはなかった。
ほぼ毎日どこかの部活が行われているから、いつも通り制服を着ていれば校舎には入れる。
体育棟はちょっとしたミッションとなるけれど、それがクリアできればすいに会える。
「やっほー、今日も来たね」
彼女はこちらを見て手を振った。今日もにこにことしている。
「先生に見つからなかった?」
「うん、だいじょうぶだった」
水の上に浮かんでいた彼女は身体を起こして立ち上がると、こちらに向けて泳いでくる。
ちなみに、今日は普通に足があった。
やはりこないだ見た尾びれは気のせいだったろうか。
彼女はどうしてここにいるのか、そして毎回のように忍び込めるのはどうしてだろうか。
疑問ばかりが浮かんでしまう。
「ほら、どうしたの。はやくやろうよ」
プールの縁に手をかけたままのすいがこちらを見上げて声をかける。
その表情にはこちらの憂いなどひとつも気づいていなかった。
すいはプールサイドに上がるなり腕を組んで左右にぐりぐりと回している。
そっか、プールに入る前にはきちんと準備体操をしないと。
「そうだよ。
ちゃんとわたしが見ててあげるから、手を抜いたらだめだよ」
腕立て伏せと腹筋、そしては背筋くらいはやろうか。
運動神経がなくてもできるメニューが思い浮かんだところで、すいが声をかけた。
「さ、立ち上がって。
体を前に倒しましょう」
こともあろうことか、彼女が動きを指定してくる。
簡単な動きから入るんだなあ。上半身を倒して床に手をつけた。
「それをやったら、今度は床じゃなくて片足をもつようにしてみて」
よいしょ。まだまだこれくらいなら楽勝だ。
「さ、次は床に座って腕を前に伸ばして」
あどけない顔をしているコーチに言われるがまま、座って両腕を伸ばす。
そのまま準備体操をしていると、いきなり腕をつかまれた。なにがあったのかと思うと、ぐいっと思いっきり引っ張られた。
腕回りの筋が張るような感覚を覚えるもまだつかまれたままだ。
ああ、痛い。
これ以上は限界だというところで、やっと離してくれた。
解放された僕は疲れながらすいのことを見上げた。
彼女はふふ、と微笑みながらストレッチの効果について話してくれる。
「体を動かしてちょっとはすっきりしたでしょ。
ちゃんと準備体操するとやわらかく体を動かせるから」
たしかにそうかもしれない。肩回りとかが楽になって、なんだか体全体が軽くなった気がする。
「でも、ちょっとやりすぎだからね」
「ああ、ごめんごめん」
すいは明るい表情に少しの謝罪を混ぜて頭を下げた。
でも、自分のためだから悪気は感じなかった。少々ガサツだけど他人のことを考えてくれるのが、彼女の良いところだ。
少し休憩したところで最後は腹筋をやろうということになった。
あまり休憩を挟まない方が良いのではと思ったが、まあ初日だしこんなものだろうか。
さあはじめようと足を組んだところで、すいがその足を押さえてくれた。
別にそんなことをしなくて良いのに。
気にせず体を動かそうと思っていたのに、体を起こしたまましばらく動けなかった......。
......近いんですけど。
すぐ目の前にはすいの顔があって、もう鼻がくっつきそうな距離だ。
白い肌と対をなす黒い瞳。
しっかりとピントが合って、そのまま見ていたいと思ってしまった。
「なに、湊くん......?」
すいもこちらの顔をうかがう。
ふたりの視線が混ざり合って、ついお互いに見つめ合ってしまう。
どちらの頬も赤く染まるまで、どれくらいそのままにしていただろうか。
「わ、ごめん」
「こっちこそごめんね」
ふたりして慌てて離れる。
嬉しさや恥ずかしさが混ざり合ってしまい、どちらもうつむいてしまった。
何も話す雰囲気じゃなかったふたりを、プールに浮かんでいるトンボは何を見ていただろう。
・・・
すいがプールに入っていく。
それに続いて、自分もゆっくりと入水した。
思わず立ち止まって、彼女の方を見つめてしまった。
「......湊くん、どうしたの?」
「あ、なんでもないんだけどさ。
......すいって教えられたっけ」
水泳部でない彼女は一瞬きょとんとしたが、吹き出すように笑い出した。
「だいじょうぶだよ、ちゃんと本で読んだもん!」
本で? 不思議な会話に首をかしげていると、すいは次第に気恥ずかしさで顔を染めていた。
「だ、だいじょうぶだって!
すいちゃんにまかせなさい」
気を取り直して、すいは質問をしてくる。
「湊くんってさ、水が怖いの?」
とても直球だ。そういうことを、あまり考えたことがなかった。
シャワーは普通に浴びれるから、授業と関係ないところからつまづくことなんてあるのだろうか。
「たまにそういう子がいるらしいよ。
顔に水かけるのすら怖いって、小学校の子が言ってたよ」
まあ、その子すぐ泳げるようになっちゃったけどね、などと静かに釘を刺してくる。
「自分のペースでいいんだよ」
それでも、あたたかい一言を添えてくれた。
少し胸をなでおろしたのは秘密にしよう。
「さあ、この腕を取って」
そう言いながらすいは水中で左腕を差し出した。なにをするのかわからないまま、自分の左手で彼女の手をつかむ。
すると、すいは間髪入れずに勝負を挑んでくるのだった。
「じゃんけんしよ! 最初はグーだよ」
慌てて自分の手を出すも見事に負けてしまった。
勝ち誇った笑みをしたすいは、そのまま水に顔をつけてと指令を出す。
「とりあえず10秒でいいよ」
これだけ聞くとあっという間な気もするが、実際やってみるとなかなか大変だった。
水中で息を止めないといけないからだ。
「ぷはっ」
「けっこう大変でしょ。
静かに息を吐きだすよう意識してみるといいよ、あとがんばって目は開けてみてね」
さあ、次のじゃんけんをしよう。
視線をぶつけながらお互いのこぶしを掲げる。
しかしながら、勝負はおもしろい方向に進むのだった。
「......なんで何回も勝負しているのに、湊くんがほとんど負けてるのよ!」
すいは握っている手を離して、お腹の前に手を添えて笑い出してしまった。
楽しい授業は、これからはじまる。
じゃあ歩いてみようか。
そう言って、すいは僕の手を引いて歩きだした。
「湊くんはすぐ泳ごうとしちゃうから、ゆっくりと慣れたらいいんだよ」
もちろん自分も引かれたままついていく。
目指すのは25メートル先の向こう岸だ。
あまり意識したことはなかったが、実際歩いてみると思ったより大変だった。
水が重いという表現はたぶんはじめて使うだろう。自分の動きに合わせて生まれる水流が体に絡みついて、手足を動かしづらい。
前を進むすいは、少しずつ歩いては止める動作を繰り返している。
ゆっくりと歩を進めるのは、一気に行くと大変だろうからと気づくのは時間がかからなかった。
小さな感謝が伝わったかどうか、すいは振り返って教えてくれた。
「こういう体にかかる力を、抵抗って言うんだって。
けっこう力を込めないといけないって分かればだいじょうぶ。
最初だから、足を滑らせないようにだけ気を付けてね」
などといろいろ解説してくれる。
まずは向こう岸まで歩けた。
その感想といえば、なかなか疲れるということだった。
腕も足も最初の頃と比べて重い気がする。
「よくがんばりました!」
すいは微笑みながら、小さな拍手をして褒めてくれた。
すると、えいやっと壁を蹴ると潜水して元の方に戻っていく。少し泳いで、数メートル先のところで顔を出した。
こちらを向いて言うことは、
「今度はこっちまで歩いてみようか。
わたしの腕にタッチしてみてね」
もし怖くなったら縁に手を付けてよいと付け足してくれる。
さっきまで歩けていたからだいじょうぶ、そう自分に言い聞かせて歩き出してみた。
せっかくだから、もう少しチャレンジ精神を取り入れてみよう。プールの縁には手を付けないで進んでみる。
実際何事もなく歩くことができて、もうそろそろすいの手のひらにタッチできそうだった。
でも、すいは形よく口角を上げるとまた泳いでしまった。
ああー、ひどい。
彼女はまたすぐに顔を出したが、ゴールは遠のいてしまった。
にこにこと笑うすいは、こっちだよと手を鳴らしている。
まるで子どもの遊びで誘導される鬼のよう。
また少し歩いて、やっとのことで触れられそうだ。それなのに、すいはまた泳いでいってしまう。
ああー、これではお笑いで出てくる天丼みたいだ。また同じことが繰り返されて、困ってしまう。
少し休もう。足を止めてその場で膝に手をついた。
すいはどこまで泳ぐんだろう、いつの間にか25メートルの半分近いところまで進んでいた。
しばらく呼吸を整えて、また新しい一歩を踏み出す。
こうなったら絶対に捕まえてやるんだ。
だけど、その意気込みは空回りしてしまった。気持ちが先走ってしまい、足元には注意が及ばなかった。
慌てて転びそうなところを、すいが駆けつけて支えてくれる。
「だいじょうぶ?」
うん。足は立つし、呼吸が整うのを待てば問題はなさそうだった。
「じゃああと半分過ぎてるから、あとはふたりで行こうか」
ゆっくりでいいからね。
そう言ってすいはまた自分の手を引いて歩き出した。
少し下がった日差しがふたりを照らし、空に浮かぶ雲が影を作っていた。
すいはぽつりと話し出した。
「ごめんね、わたしつい楽しくなっちゃって」
その声は少し湿っていて、それが謝罪だと気づくのには時間がかからなかった。
「いや、僕の方こそごめん」
「ううん、わたしの方が」
もう水中での歩き方は慣れてきていた。
でも、だからといってお互いに会話をする雰囲気ではなくて。ただスタートラインに戻るだけなのに、それはとてつもなく長い時間のような気がした。
前を向いたまま、すいが語り掛けた。
「......ねえ。
前にもふたりで手をつないで歩いたことなかったっけ」
こちらに振り返った表情は、なんだか痛いくらいに切なかった。
あれはいつのことだっただろうか......。
そんなことを考えていたら、思わずよろけてしまう。
「うわっ!」
「たいへん!!」
急いで急停止したすいは自分の体を引き寄せるように手首を掴んだ。そして、姿勢が安定するようこちらの腰に手をまわした。
気が付けば、ふたりプールの中に立ち止まったまま。
お互いの体が近いのも忘れて、ずっとその体勢を維持していた。
「まあ、合格にしようか......」
上目遣いのすいが告げる。
お互いの鼓動が聞こえそうな距離に、ふたりは無言のままだった。
・・・
水泳の練習では、こまめに休憩をしないといけない。
屋外でも室内でもかかわらず、なかなか体力を消費するものだ。それに水の中にいると実感しづらいものだから、想像以上に水分を摂りたくなってくる。
ふたりは足湯をするみたいに、プールの縁に座って足を水につけていた。
「気分悪くなってない? 顔色はいつも通りみたいだけど、なにかあればすぐ言ってね」
「うん、だいじょうぶだよ」
僕はとなりに座っているすいの方に顔を向けてみる。
よほど心配していたのだろう、弧を描いている眉がさらに丸まっているような気がした。
空は夕日が差し込み、少し冷たい空気が流れていた。
見上げるとハトが空を飛んでいた。平和の象徴が出現したことで、お互いに安堵の気持ちがこみ上げてくる。
「今日はここまでにしようか」
すいはそう言いながらも、こちらに向けた視線を外さない。
「......ね、聞いちゃっていいのかな。
湊くんって、......どうしてなんだろう」
どうしてなんだろう。こんな場所でその質問が意味するところはひとつしかなかった。
すいの顔にピントを合わせてみると、彼女の表情はみるみる変わっていく。
一瞬真顔になって。
すぐに顔を赤くして。
しまいには慌てながら身振り手振りで取り繕うようになった。
「ほら、湊くんここまで歩けるし水怖がらないし......。
......なんで、泳げないのかなって」
どんどん小声になっていく。
別に隠したい出来事ではないけれど、それは忘れられない経験だった。
◇◇◇
まだ小学生に入る前の年、僕は家族でプールに来ていた。
「あんまり遠くに行かないでね」
母親に言われて、すぐ近くを浮き輪で浮かんでいた。
周りを見てみると、楽しそうに遊んでいる姿が目に映った。
ボールを投げている子も、泳いでいる子も。みんな日常を忘れて精一杯遊んでいる。
そんな彼らを太陽が照らしていて、キラキラときれいに思えた。
そういえば、小学校からプールの授業があるんだっけ。
あの子たちみたいに泳げたらいいなあ......。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか家族とはぐれてしまった。
あたりは人ごみにあふれて、ずっと先を見通せない。
おまけにこの辺りは足の届かない深いところだった。
お母さんって呼び掛けてみても、はしゃいでいる声たちのせいですぐにかき消されてしまう。
そうだ、泳いでみたら家族のところに戻れるのかもしれない。
慌てて足を動かしてみる。
どちらに行けば良いのだろうか、そんなことを考える余裕もなくただ見ている方向へ向けて泳ぎだしてみる。
でも、身体ひとつで泳ぐのと訳が違うなんて分かるはずもない。
浮き輪をつけたままだから、腕を伸ばしても泳ぐ姿勢になんてならないし、足を上下に動かしても前に進むことができなかった。
しだいにひとり慌ててしまい、全身に力が入ってしまった。
やがて、どんな姿勢になったのかにまったく気づけず、浮き輪が外れてしまう。
これで身軽になれる......はずもなく、プールに沈んでいく。
もうあっという間だった。
うっすらと目を開けてみた。どの方角を見ても、薄暗い水色たち。その閉じ込められた世界に孤独を感じてしまう。
楽しかった幼稚園も、待ちわびていた小学校も。
水の中へ堕ちて、終わる。
ある一角が光ったような気がした。
こちらへ向かってやってくる、一筋の光。その姿は人間のようで、人間じゃないようで。
まるでこの世のものとは思えないほどにきれいだった。
......人魚姫?
だけども、僕の瞳はここで閉じられてしまった。
意識を戻した僕の瞳に映るのは、見知らぬ女の子だった。
「......ここは?」
「水飲んでないみたいだね、よかった」
同い年くらいの女の子がこちらをのぞき込んでいる。その表情は心配しているのが浮かんでいた。
それから、溺れているところをお母さんと一緒に助けたと教えてくれた。
体を起こすとまだ苦しい感じがする。
「まだじっとしててね。
今お母さんがタオル取りに行ってくれてるから」
内向的な性格だったから、これから話を紡ぐことはできなかった。
それでも、たったひとつ伝えるべき言葉がある。
「ありがとう」
「うん、どういたしまして!」
女の子がにっこりと微笑むとともに、ショートカットが揺れた。
もうちょっとしたら一緒に家族を探そうね。それは一日だけの冒険になるのだった。
◇◇◇
すいは時折頷いて話を聞いてくれた。話の終わりに小さなため息をつく。
「そうなんだよね。
小さい頃のトラウマって克服できないものでさ。
それなのに泳がなきゃいけないのかわいそうだよね」
それから、サラダに乗っかってくるキュウリを食べてくれないかな、などとつぶやいている。
ただ苦手な食べ物なのでは? あまり聞かないであげようと決めた。
すいはくすりと笑うと、体を滑らせるようにまたプールに入っていく。そして少しだけ潜水すると、立ち上がるように体を起こして語ってくれた。
「でもさ、授業とか関係なくただ泳ぐだけってのも楽しいけどね。
できないことができるようになると、楽しみが増えるから。
わたしはそのために教えてあげるんだ」
そう言ってにっこりと笑った彼女に、自分も微笑みを返す。
だけども、すいの姿を見て慌てて視線をそらした。
彼女はいつの間にか人魚姫の姿になっていて、こともあろうことかワンピースが透けているのだ。
すいはまったく気づいていなかった。
今日は水泳部が練習の日なので、その代わりとして村上の家にお邪魔している。
彼の母親が出してくれた麦茶を片手に、テレビ画面を凝視していた。
お誘いを受けた理由はとてもシンプルだった。
ふたりが注目しているアニメである『ソラノアリア』をまた見ようということで、彼はちょうどチューナーの再生ボタンを押したところだった。
映像を心待ちにしようと、腕をぐりぐりと回す。
その様子を見た村上が、ストレッチでもしてるのかとツッコミを入れてくれる。
「まあ、ちょっとね」
しだいに追い込まれていく展開がまた描かれている。
主人公の師匠が崖から落ちそう。死の危険を察知した主人公が叫びだすと自身が光に包まれる。
「やっぱり迫力あるなあ」
「そうだね」
そこには詳しい説明が一切なく、仲間に生存してほしいと願った主人公に呼応するように自身の姿を変えることしか描かれていなかった。
一瞬のうちに姿が変貌するだけだったが、それは主人公の願いを具現化するような"進化"の現象なのかもしれない。
今後その秘密を解決してほしいなと思う。
「それで、続きの話を録画してあるんだけど、明日も見るか?」
「明日かあ。
ちょっと学校行かなきゃな」
学校? お前部活に入っていないのに、と村上は目を丸くしていた。
彼の家からお暇している最中、ふとすいのことを思い出した。
僕は彼女の秘密を何も知らない。人魚姫の姿になるということは、何かしらの秘密があるのかもしれない。それは"進化"と言える表現なのだろうか。
それとも、何か人に言えない出来事なのだろうか......。
・・・
今日もプールの授業が行われる。
はずだったのだが、プールサイドにはだれもいなかった。
水泳部の休みがない日だから自分もすいも入ってよいタイミングなのに。
仕方ないから、準備体操でもしておこう。
気合が入っている分、いつもより体を動かしていく。
すると、背中から声をかけられた。
「いつもより多めにやっててえらいね」
いつの間にか現れたすいは、微笑みを投げかけてくれた。
課題は歩きながら息継ぎをしよう、とのことだ。
「浮いたときに、泳ぐときに。
息継ぎができないと全然意味がないからさ、すぐおぼれちゃうよね」
まあ、たしかにそうだ。
「そういえばバタフライでもそうだけど、ちゃんと息継ぎしてるよね」
「あれは腕をかいて後ろに持っていくでしょ。
その時に実は水中をキックしてて、そのタイミングで顔が出るようになってるんだ」
本当に初心者である自分の質問にも答えてくれた。
なるほど、フォームっていうんだろうか。まだ上手くイメージがつかないけど、体の動かし方に合わせて息継ぎができるようになっている感じだろうか。
「まあ、実際そこまで教えるつもりはないけどね。
きみは水泳部じゃないし、完璧なフォームを作ってもね」
たしかにその通りだ。すいのウインクを受け止めた。
わたしがやってみるから見ててね、とすいはさっそく潜ってみせた。
なるほど、潜る直前に息を吸う感じなんだ。
「そうだね。
息を大きく吸って、少しずつ吐き出していくんだ。
前に水に顔付けたじゃない? あの時に少しずつ息を吐いてたと思うけど、潜りながら息を吸って吐くのサイクルを作るのが大事なんだ」
さあ、やってみよう。すいに促されて自分も歩き出した。
顔をつける前に、大きく息を吸い込む。そして水面を見ながら息を吐きだして、顔を上げる。その際にあたらしく息吸い込むんだ。
「お、すぐできちゃうんだね。
もし上がったときに息が残ってたら出し切ってね、新鮮な空気を毎回入れるんだよ。
よし、次は潜ってみようか」
また新しく息を吸い込んだ。
数回潜ったところで、こっちだよと声をかけられた。
振り返ると、すいがいちばん向こうのレーンにいた。右腕を高くあげて、おいでおいでと手招いている。
潜りながらすいのところまで行かないといけない。ただし、コースロープが間に存在する。
6レーンあるから、5回そのミッションがあるわけだ。
コースロープの手前で顔を出して、息を吸い込む。
やってみるとわかるもので、思った以上に体を潜らせないといけないし、それなりの歩数を歩かないとロープをくぐれなかった。
ちゃんとくぐれたかな。
頭上に注意しながら水中を歩いていくと、意識がそちらに向いてしまう。息を吐きだすのがおろそかになりそうだ。
それでも、ちゃんと浮上することができた。そのタイミングで息を吸い込む。
その後も順調に歩いていったが、最後のロープをくぐって浮上するときに頭をぶつけてしまった。
「ふふ、ほんと湊くんは惜しいね。
最後の詰めが甘いんだもん」
ついにすいの目の前までたどり着いたのだが、お腹に手を添えて笑う仕草で歓迎されるとは思っていなかった。
悪気はないのはわかっているけど、彼女は涙が出そうなほどに笑っている。
いい加減止めてほしい。
「でも、まあ良しとしましょう!」
・・・
少しの間休憩をとると、すいが勢いよく言った。
「さあ、ここから本格的な練習をしよう!
ついに、浮くことをはじめるよ」
彼女が腰に手をついて言うことは、ついに実践的なメニューの入り口となるものだった。
泳いでいる間も、実際体は浮いている状態になっている。
その状態をいかに維持できるかが泳ぐための大切なステップだ。
プールに入ったすいが指さしたのは、スタート台に備え付けられている背泳ぎ用のバーだ。
「これを掴んだまま体を伸ばして浮いてみて」
ざっくりした指示のまま、僕は腕を伸ばしてバーを掴んだ。大きく息を吸い込みながら、見よう見まねで床を蹴って浮く姿勢を作ってみる。
いざやってみると、自分でもしっかり浮かぶことができた。
......とはいえ、その姿勢は長くは続かず気を付けていないと足が沈みそうになってしまう。
「一回立っていいよ。
じゃあ、次は顔を上げないで水につけちゃって」
顔を上げたままだと、全身に力がかかってしまうのだという。顔を完全に沈めて水面をのぞき込むことが安定する姿勢を作るコツだという。
「おお、いい感じだねえ」
すいは拍手して褒めてくれると、じゃあ本格的なのをやってみようと次のステップを示してくれた。
彼女が差し出す手のひらに、自分の手を乗せた。
その状態で床を蹴って体を伸ばしてみる。この姿勢のまま、息を吐きだしつつ吸い込むタイミングだけ顔を上げればいい。
なんだか今までの授業が結びついて、ひとつにまとまっていくのを感じた。
「よくできるね。
じゃあ、そのままわたしの手を握ってて」
何をするのかと思ったが、すいが自分の体を引っ張っていく。牽引されながら、自分は姿勢の維持と息継ぎに注力する形だ。
「そう、全身の力を抜いてみて......。
きみはゆっくり身をゆだねていればいいんだ」
まるで子供を諭す親のような、ゆっくりと温かみのある口調だ。
いつの間にか、コースの半分とはいかないもののなかなかの距離を浮いてきたようだ。
ここで、すいが口角を上げる。
自分が息継ぎをしながら見たその表情は、自分が楽しいときにするもの。そして、自分への課題となるものだ。
すいはつないでいた自分の手を離した。
ついに、自分だけが水に浮くようになる。それでも慌てることなくしばらく浮かんでいることができた。
自分の視界に水色が流れていく。
最初のうちはそれが怖かった、あのプールで見た死の縁に追い込むような水流のようで。
そうだとしても、ここにいるのは僕独りじゃない。
手を引っ張ってくれる子がいるんだ。彼女の存在が、次第に水を、水泳を。
今までと違う景色が見えそうだった。
ついに立ち上がってしまった僕を、すいが微笑んで見つめている。
彼女は両手をパーの形に広げてこちらに示した。
そうだ、お祝いをしなきゃ。
ふたりはにっこりと笑いあって、パチンと小気味いい音がしそうなハイタッチをした。
・・・
ひとしきり浮くのに慣れてきた。
さすがに夕方になってしまった。そろそろ帰ろうかとプールから上がって声をかける。
「すいさ、一緒に帰らない?」
彼女は一瞬だけきょとんとした後、形のよい笑みを浮かべてこう返した。
「わたしはもうちょっと泳いでいくよ」
じゃあねと何気なく別れていった。
今日もひとしきり体を動したあと、少し休憩をとることにした。
プールサイドに上がって、スポーツドリンクを流し込むように飲んだ。けっこう喉が渇いていたみたいだ。
「すいはなにか飲まなくてだいじょうぶなの?」
「うん、だいじょうぶだよ」
そういえばすいはプールサイドに上がっても自分みたいに飲み物を飲んでいなかった。別に本人が飲まないというなら構わないけれど、なんだか気になってしまう。
前にもあったから。無理して学校に登校しては、周りに心配されてすぐに帰宅してしまった。
すいにだいじょうぶだよと言われても、なんだか不安になってしまう。
それでも、しぶしぶ納得するしかなかった。
自分の心配をよそに、すいは勢いよく立ち上がった。
けのびはいずれの泳法でも基礎となる、スタートライン的な位置づけだ。まさしく蹴って伸びること。それがどの競技でも活かされる。
「そうだね、今までは小さな村を転々としているのかもしれない。
だから、これからは魔王の城に入るみたいなレベルアップが必要なんだよ」
すいは右腕を掲げる。
すいの例えは、RPGのゲームをあまりやってこなかった僕にはピンと来なかった。けれども、ここから先は重要なことが教えられるのだ、ということはわかった。
「バタ足でもクロールでも、最初はけのびからはじまるよ」
レーンの壁際に立ったすいはまず見本を見せてくれた。
腕を前に伸ばすように立ち、その腕を水中に沈めながら両足で壁を蹴りこむ。
そのまま体をそろえて伸ばせばある程度まで距離を進むことができる。
「じゃあ湊くんもやってみようか」
彼女に続いて自分もレーンに立った。
思いっきり壁を蹴りこんだ。そのまま手足を伸ばそうとする。
けれども、すいがやってみせたように前には進まず数メートルも進んだかわからなかった。
「ああー、最初はこんな感じだよね」
目の前のコーチは初心者だからねと軽く頷いている。
「これからだよ、練習すればできるようになるって。
今は全然できない湊くんでもさ」
そしてこちらに見せるように体の前にガッツポーズを作ってみせる。
本人には悪気がないとは思っているだろうが、たまにショックになる一言を放ってくる。
さすがに落ち込んでしまうから止めてほしい。
「これから、きみはドルフィンです」
「......は?」
続いて口にしたのはよくわからない一言だ。
「ほら、水族館のイルカってジャンプしてから深く入水するでしょ。
けのびで腕を伸ばす時も同じでさ、下へ向けて沈めていく感じだよ」
さっき引っ張って浮いた時も水面を見てたでしょ、となるほど思い出せる説明だ。
「まあ。やってみようか。
体が慣れてしまった方が良いかもしれないね」
すいに促されて、改めてレーンに立つ。
意識して腕を水の中につけて、続けて体を滑らせるように入水した。
壁を蹴る動作に違いがあったどうかはわからなかったものの、結果として少し先へ進むことができた。
なるほどと感心する。自分にもできるんだなって。
「よし、じゃあわたしもやろうっと!」
すいは威勢のいい声を上げると、自分の横のレーンに並んだ。
彼女はこちらに顔を向けながら腕を肩からぐるぐると回している。
「どっちが遠くまで伸びるか競争しようよ」
なるほど、それは楽しいアイディア。
これが村上だったら、アイスの一本でも賭けて勝負したくなるものだ。でも、純粋な気持ちで臨んでみたい。相手がすいだから。
「よーいドン!」
すいの掛け声とともに水中に潜り込む。
でも、そこそこの距離しか進まなくて、あっという間に起き上がってしまった。
頭ひとつぶん先で顔を出したすいが、こちらを向いてにこにこ微笑んでいる。
けのびを覚えだしたばかりだから難しいのかもしれないけれど、正直残念な気持ちだった。
しかしながら、もう一回勝負しても結果は同じでしかない。
「じゃあ、最後にもうひとつだけ勝負といこうか!」
負けるわけにはいかない。そうだ、今の自分はドルフィンなんだ......。
息を大きく吸い込んで、腕を伸ばして。
顔は言われたとおりに水中をのぞき込んだ。いや、もっと首自体を下げよう。自分の体が見えるかもしれない。そんな視線を作りながら体勢を整えていった。
「ぷはっ!」
ふたりはほぼ同時に顔を出した。
自分の方が長く進んだわけでもなかったが、その距離はとても近くほぼ互角といっても良いくらいだった。
「湊くんやるじゃん!
次はわたしの方がもっと伸びるんだからね」
などと言い出した張本人が仕返しを食らって頬を赤らめていた。
・・・
「ついに本番となりました! バタ足をしてみよう!」
すいはハッピーバースデーの歌を歌うように、わーっと拍手をした。
自分もつられてパチパチ手を合わせる。しかしながら、いざ泳ぐとなると緊張してしまう。
「まずは湊くんやってみて。
けのびで進まなくなってきたら、足を動かすようにするんだ」
言われた通り、見よう見まねでけのびからバタ足をはじめてみる。
けれでも、水をどれだけ蹴ってもほとんど前には進まなかった。
「なるほど、わかったわ」
すいに止められて少し練習を止めると、まずはいったん上がろうと諭された。
プールサイドの縁に座ってみる。
「ちょっとわたしが足の動きをやってみるから見ててね。
こうやって、足全体を動かすんだ」
すいが足の動きを見せてくれる。それは膝から曲げるのではなく、足全体を一本の棒のように、太ももの付け根から動かしていた。
「そうだね、しならせるようにって本では表現されているよ。
でも、わたしがやってみて思うのは、人魚の尾っぽのようかもしれないなって」
なるほど、人魚みたいかもしれないか。
すいならではの意見だと思うし、前に彼女がプールの中を泳いでいるのを見たことがあったが尾をこまめに動かしていたっけ。
ここで、僕は我に返った。
すいが人魚姫の姿になるのは、自分のこの目でしっかり見た。そのせいかもしれないが、彼女のことには慣れてしまった。
一度はいなくなったすいと、今再会しているから。
もしかしたら、僕は絵本の世界に飛び込んでしまったと思うから。
「ほらほら、どんどん泳ごうよ」
その思考から抜け出せないまま、僕はレーンの壁際に戻っていく。
異変が起きたのは、バタ足を何本も続けて泳いだときだった。
ふと、右足に痛みが走りつってしまう。
慌ててしまった僕は何をすればいいかもわからず、無我夢中で手足を動かすしかなかった。
いつのまにか、すぐ目の前に水面が映っていた。
視界の縁で、異変を察知したすいがこちらにやってくるのが見える。
辺りは光に包まれて、何が起きたかわからなかった。
・・・
気が付いたら、すいの顔がすぐ目の前にあった。
「だいじょうぶ?」
そうやって、上目遣いにすいがのぞき込んでいる。
彼女の瞳はうるんでいて、心配する雰囲気がありありと浮かんでいる。
「え......。
僕はどうしたの?」
「湊くん急に溺れちゃったから、わたしが止めに入ったんだよ」
気が付くと、すいに抱きしめられていた。
いつの間にか彼女は人魚姫の姿に変身していて、視界の縁にワンピースや尾が見えている。
「......人魚の姿になるとはやく水の中を動けるから、間に合って良かった。
水飲んでないみたいだね、苦しい?」
彼女の問いに首を横に振って答える。
「今浮いているから、まだじっとしてて......」
......全身の力を抜いて。体を動かすと、すぐ沈んじゃうから。
すいはそう語りながら、自分の背中をさすってくれる。
お互い水に濡れて冷たいはずなのに、触れている肌は不思議と温かった。
その体は、その手は。自分の心も温めてくれる。
「うう、よかったあ」
次第にうるんでいる瞳から雫が零れ落ちる。
すいは流れている涙を止めようともせず、自分の体に顔をうずめた。
「......なんで泣くの、僕は無事だったよ」
「......無事だからに決まっているからじゃない」
きみが泣かないからじゃない、そう小さくつぶやいていた。
すいはいつも自分の目の前にいた。
よく休み時間とか話していて、タイミングが合えば一緒に帰ったりしていて。
それでいて授業のプリントは自分が良く教えていた。
当たり障りのない日常が、僕たちの間柄だったのに。
今、すいにすべてを任せていた。そばにいてほしいと思った。
はじめて、自分の心が鳴った音がした。
いつか捨てた恋がまた目覚めようとしていた。
すいの正体が何者かなんてどうでも良いと思った。
ここに来れば出会える訳だし、その幼い感じのする声をいつだって聞くことができる。
それに、人魚姫の姿になるのだってアニメのように、願いが結晶となっている証拠なのかもしれない。
きっと、そうだ。
僕たちは二度目の青春を謳歌していることには変わりないのだから。
ふたりはしばらくそのまま水面に浮かんでいた......。