それからすいと出会ったのは、ある日の夢の中だった。
白い砂浜に、陽炎が揺れている水面。
照りつける太陽は今という季節を実感させてくれる。
僕たちは海に来ているみたいだった。ふたりだけしか居ない空間をそよ風がなでていく。
「今日来れてよかったね!」
すいはワンピースに裸足という格好で、水辺に向けて駆けていく。それからひとりで水をすくったりしてはしゃいでいた。
あんまり遠くに行かないでねと言った気がしながらも、僕も彼女の後を追っていった。
それから手をつないで、ばしゃばしゃと浜辺を走っていく。
きみと僕の世界は、どこまでも広がっていますように。その願いを込めて、視線を先に向けてこのまま何処へだっていこう。
ここですいは足を滑らしてしまった。尻餅をついて身体を水につける彼女はそれでも笑っている。僕は慌てて駆け寄った。
手を引いて立ち上がらせると、すいはこちらを向いて微笑んでくれる。
その表情はいつにも増して優しくて、まるで季節の中に凛として咲く花の如く。
そして、まだ腰をしゃがんだままの自分に一歩近づいたすいは、自分の頬に添えた。そのまま自分の顔をゆっくりと近づけた彼女は、額にキスをしてくれた。
「えっ......」
驚く僕をよそに、すいは背中を向けて水の上を走っていく。
行かないでほしい、これで終わりを迎えないでほしい。それなのに、彼女は僕のことを置き去りにして行ってしまった。
僕の願いが通じたかどうかはわからない。こちらを振り返るすいが水を勢いよく蹴り上げた。そのときの一瞬の表情に僕の心は鷲掴みにされてしまう。いつまでも僕の心に残りますようにって、そんな願いを込めて。
すいが蹴り上げた水しぶきは天に向けて勢いよくジャンプする。
きらめいていたそれらは、鳥の姿になってどこまでも空を飛んでいく。無邪気なその光景を、僕は見つめてしまった。
鳥たちに遮られた太陽が涙を誘う。もう流れるものを抑えきれることはできなかった。
この風の向こうに、秋があった......。
・・・
「西原 灯里選手! 見事な一着です!!」
そのアナウンスが流れると、会場に大きな歓声が生まれる。僕はその中で拍手を送っていた。
夏休み最後の週。
西原が挑戦するという水泳大会を観覧しに行った僕は、彼女の素晴らしい成績をこの目で見ることができた。壇上に上る彼女はとても輝かしくて、表彰式ではずっと目を離すことができなかった。
「やあ、待っててくれたんだね」
「うん」
控室の近くで待ち合わせした僕たちは、ふたり揃って会場を後にする。
そして見かけたコンビニでコーラを買うと、こつんとぶつけ合った。コンビニ脇のベンチで一口飲んだ西原がこちらに向かって告げる。
「やっぱり泳ぎ終わってから飲むのって最高だね」
そうだね。僕も頷いて相づちを返した。
西原の表情を見ていると満足の一文字が表れていて、やはり何かをやり遂げる人はかっこいいなって思う。
「私は私なりのがんばるところを見つけただけだよ。
みんながそうだもん。部活でも好きな教科でも、どこかにきっとあるんだよ」
好きだから、やってみる。そう告げる彼女は真剣に笑っていた。
「......それにしてもさ。成瀬くんって、なにか変わったよね」
「そうかな?
僕自身が変わりたいって思ったんじゃなくて、変えてくれる人がいたんだよ」
そうじゃなかったら、僕は今までプールの上に浮かんでいるだけだった。体を動かす楽しさを教えてくれた存在に感謝したい。
そうだ、と西原はひとつの思い出話を教えてくれた。
「去年のさ、7月頃だったかな。
急にすいちゃんが水泳部入りたいって言ってきたんだよ。もう部活の募集なんて終わってる時期にさ。
最初はマネージャーとかやりたいのかなって思ったけど違ってて。記録を目指していくんだよ、って説明しても首を横に振ってた。
そしたらあの子、"ちゃんと自分が泳げるようになりたい"って言ったの。
なにを言いたいか分からなかったけど、真剣だっていうことだけは伝わったんだ」
初耳だった。
「けっきょく、説得して断ってもらったんだけどね。
今思うと、成瀬くんに教えたがってたんだなって感じるんだ」
大切な人に教えてもらえるなんて、きみは幸せだね。西原はこう締めくくった。
すいの想いがあったから、彼女はプールに現れたのだろう。
「きみも、自分なりのがんばりを見つければいいんだよ。
きみは誰よりもがんばっているじゃない。その姿に人は集まるよ」
"みなと"ってそういう意味だから。そう語る西原は少し気恥ずかしそうにしていた。そして少しばかり上目遣いにして問うのだった。
「......そしたらさ、そこに灯台ってあるのかな」
ここに吹く少し秋を思わせる風は、爽やかで気持ち良かった。
人魚姫の結末は死ぬとばかり思っていた。
一度は人間の姿になった彼女は、王子様の命と引き換えに人魚の姿に戻るはずだった。しかしながら人魚姫は王子を刺すことができず、ナイフを投げ捨て、海に身を投げる。
エンディングでは人魚姫の体は海の底に沈んでいくと思われたが、死んでしまった実感がないまま体が空へと上がっていくという。
"人魚のお姫さまは、自分のからだも軽くなって、あわの中からぬけ出て、だんだん上へ上へとのぼっていくのを感じました。
「どなたのところへ行くのでしょうか?」と、お姫さまはたずねました。
「空気の娘たちのところへ!」と、みんなが答えました。
空気の娘たちにも、やっぱり、死ぬことのない魂はありません。けれども、よい行いをすれば、やがてはそれをさずかることができるのです。"
人魚姫は風の精へと姿を変える。
そうして王子様のことを永遠に見守ることができるのだ。
人魚姫の最後には、額にキスをする描写が描かれている。それはきっと、きみが笑顔でありますようにと願いを込めて。
すいは、いつでも自分のことを想ってくれている。
これから何度も夏が来て、すべては思い出に変わっていく。いろんな人と出会っては別れていって、やがて人生のパートナーと巡り合う。
新しいふたりのために、彼女はずっと見守ってくれるんだ。だから、僕たちも最後のひと時まで、尊い命を見つめていよう。
素晴らしい思い出を胸に秘めつつ、人生のこれからを夢見ていたい。
さよなら、僕の人魚姫。
(おわり)
白い砂浜に、陽炎が揺れている水面。
照りつける太陽は今という季節を実感させてくれる。
僕たちは海に来ているみたいだった。ふたりだけしか居ない空間をそよ風がなでていく。
「今日来れてよかったね!」
すいはワンピースに裸足という格好で、水辺に向けて駆けていく。それからひとりで水をすくったりしてはしゃいでいた。
あんまり遠くに行かないでねと言った気がしながらも、僕も彼女の後を追っていった。
それから手をつないで、ばしゃばしゃと浜辺を走っていく。
きみと僕の世界は、どこまでも広がっていますように。その願いを込めて、視線を先に向けてこのまま何処へだっていこう。
ここですいは足を滑らしてしまった。尻餅をついて身体を水につける彼女はそれでも笑っている。僕は慌てて駆け寄った。
手を引いて立ち上がらせると、すいはこちらを向いて微笑んでくれる。
その表情はいつにも増して優しくて、まるで季節の中に凛として咲く花の如く。
そして、まだ腰をしゃがんだままの自分に一歩近づいたすいは、自分の頬に添えた。そのまま自分の顔をゆっくりと近づけた彼女は、額にキスをしてくれた。
「えっ......」
驚く僕をよそに、すいは背中を向けて水の上を走っていく。
行かないでほしい、これで終わりを迎えないでほしい。それなのに、彼女は僕のことを置き去りにして行ってしまった。
僕の願いが通じたかどうかはわからない。こちらを振り返るすいが水を勢いよく蹴り上げた。そのときの一瞬の表情に僕の心は鷲掴みにされてしまう。いつまでも僕の心に残りますようにって、そんな願いを込めて。
すいが蹴り上げた水しぶきは天に向けて勢いよくジャンプする。
きらめいていたそれらは、鳥の姿になってどこまでも空を飛んでいく。無邪気なその光景を、僕は見つめてしまった。
鳥たちに遮られた太陽が涙を誘う。もう流れるものを抑えきれることはできなかった。
この風の向こうに、秋があった......。
・・・
「西原 灯里選手! 見事な一着です!!」
そのアナウンスが流れると、会場に大きな歓声が生まれる。僕はその中で拍手を送っていた。
夏休み最後の週。
西原が挑戦するという水泳大会を観覧しに行った僕は、彼女の素晴らしい成績をこの目で見ることができた。壇上に上る彼女はとても輝かしくて、表彰式ではずっと目を離すことができなかった。
「やあ、待っててくれたんだね」
「うん」
控室の近くで待ち合わせした僕たちは、ふたり揃って会場を後にする。
そして見かけたコンビニでコーラを買うと、こつんとぶつけ合った。コンビニ脇のベンチで一口飲んだ西原がこちらに向かって告げる。
「やっぱり泳ぎ終わってから飲むのって最高だね」
そうだね。僕も頷いて相づちを返した。
西原の表情を見ていると満足の一文字が表れていて、やはり何かをやり遂げる人はかっこいいなって思う。
「私は私なりのがんばるところを見つけただけだよ。
みんながそうだもん。部活でも好きな教科でも、どこかにきっとあるんだよ」
好きだから、やってみる。そう告げる彼女は真剣に笑っていた。
「......それにしてもさ。成瀬くんって、なにか変わったよね」
「そうかな?
僕自身が変わりたいって思ったんじゃなくて、変えてくれる人がいたんだよ」
そうじゃなかったら、僕は今までプールの上に浮かんでいるだけだった。体を動かす楽しさを教えてくれた存在に感謝したい。
そうだ、と西原はひとつの思い出話を教えてくれた。
「去年のさ、7月頃だったかな。
急にすいちゃんが水泳部入りたいって言ってきたんだよ。もう部活の募集なんて終わってる時期にさ。
最初はマネージャーとかやりたいのかなって思ったけど違ってて。記録を目指していくんだよ、って説明しても首を横に振ってた。
そしたらあの子、"ちゃんと自分が泳げるようになりたい"って言ったの。
なにを言いたいか分からなかったけど、真剣だっていうことだけは伝わったんだ」
初耳だった。
「けっきょく、説得して断ってもらったんだけどね。
今思うと、成瀬くんに教えたがってたんだなって感じるんだ」
大切な人に教えてもらえるなんて、きみは幸せだね。西原はこう締めくくった。
すいの想いがあったから、彼女はプールに現れたのだろう。
「きみも、自分なりのがんばりを見つければいいんだよ。
きみは誰よりもがんばっているじゃない。その姿に人は集まるよ」
"みなと"ってそういう意味だから。そう語る西原は少し気恥ずかしそうにしていた。そして少しばかり上目遣いにして問うのだった。
「......そしたらさ、そこに灯台ってあるのかな」
ここに吹く少し秋を思わせる風は、爽やかで気持ち良かった。
人魚姫の結末は死ぬとばかり思っていた。
一度は人間の姿になった彼女は、王子様の命と引き換えに人魚の姿に戻るはずだった。しかしながら人魚姫は王子を刺すことができず、ナイフを投げ捨て、海に身を投げる。
エンディングでは人魚姫の体は海の底に沈んでいくと思われたが、死んでしまった実感がないまま体が空へと上がっていくという。
"人魚のお姫さまは、自分のからだも軽くなって、あわの中からぬけ出て、だんだん上へ上へとのぼっていくのを感じました。
「どなたのところへ行くのでしょうか?」と、お姫さまはたずねました。
「空気の娘たちのところへ!」と、みんなが答えました。
空気の娘たちにも、やっぱり、死ぬことのない魂はありません。けれども、よい行いをすれば、やがてはそれをさずかることができるのです。"
人魚姫は風の精へと姿を変える。
そうして王子様のことを永遠に見守ることができるのだ。
人魚姫の最後には、額にキスをする描写が描かれている。それはきっと、きみが笑顔でありますようにと願いを込めて。
すいは、いつでも自分のことを想ってくれている。
これから何度も夏が来て、すべては思い出に変わっていく。いろんな人と出会っては別れていって、やがて人生のパートナーと巡り合う。
新しいふたりのために、彼女はずっと見守ってくれるんだ。だから、僕たちも最後のひと時まで、尊い命を見つめていよう。
素晴らしい思い出を胸に秘めつつ、人生のこれからを夢見ていたい。
さよなら、僕の人魚姫。
(おわり)