◇◇◇
「すいちゃんって、庇護欲をそそるよね」
中学生のとき、わたしはこう声をかけられた。
ひごよく? なにそれと、放課後の掃除を止めてその子の方を見た。彼女――澄佳さんも雑巾をかけていた手を止めると、こちらを見て説明してくれた。
「えっとね。見ててほっとけないってことだよ。
だってほら」
澄佳さんはわたしの足元を指さした。
「ごみを集め終わったのに、ごみの上に箒を立てちゃうから散らかっちゃったじゃん」
「あ!」
ほんと詰めが甘いんだから、とくすくすと笑いながら彼女はちり取りを取りに行ってくれた。彼女のお下げ髪が楽しそうに揺れていた。
「さあ、ごみ出しに行こうかな」
「あ、わたしが持つよ!」
澄佳さんがごみ袋の口を閉じたところで、わたしが声をかけた。しかしながら、彼女は目を丸くしていた。
「え、いいよ。だってこれ重いよ?」
「だいじょうぶだって、持てるよ」
意気揚々と宣言したわたしだったけれど、持ち上げるだけで腕が震えてしまう。足もふらついてしまい、そのままどすんと床に置いてしまった。
しまいには膝を折ってしまって、ごみ袋に手をついた。それこそ、どすんという効果音がしそうだった。
「もう、なんで重いのさ」
「ほんとだよね。みんな面倒くさいって裏に捨てに行かないから私たちが困るのよ」
澄佳さんが大きく膨らんだごみ袋を睨み付けながら言う。
わたしは中腰の姿勢のまま袋の口をしっかりと握りしめた。そのまま持ち上げようとしたけれど、やっぱり袋を抱えて歩くことはできなかった。
もういいわと、澄佳さんが手を伸ばした。彼女は袋を受け取ると、そのまま抱えて歩いて行く。わたしは周りの小さな袋を抱えて後をついていった。
次の日、わたしは登校するなり澄佳さんが座っている席の前に立った。
「あ、すいちゃんおはよう!」
「澄佳さんおはよう」
わたしもあいさつを返すと、手に持っている小さな紙袋を差し出した。そして、少し小声になって話しかける。
「......昨日はありがとう。掃除いっぱいしてもらっちゃって、お礼がしたくて」
「え、そんなことしなくていいのに」
澄佳さんはいつもの明るいトーンで話をしていたけれど、紙袋の中身をちらりと見るとわたしのペースに合わせてくれた。何食わぬ顔で机の中にしまい込むと、今日一緒に帰ろうって提案してきた。
その表情は、映画館の上演を待ちわびるように楽しみを隠し切れない感じだった。
澄佳さんはこれといって欠点が見られない子だった。
とはいえ不真面目な生徒をしかるわけでもなく、優等生として積極的な授業態度をとっているわけでもなかった。
休み時間にはクラスメイトとよく会話をしている姿をよく見ることができた。その様子を眺めているとみんな楽しそうで、澄佳さんが教室にいるだけで安心するんだなという印象だった。
・・・
放課後、わたしはプリントの束を抱えて廊下を歩いていた。そこに、視界の先に澄佳さんがいるのが分かった。わたしから声をかけようとすると、向こうの方から気づいて返事をしてくれた。
「あ! すいちゃん!」
わたしは何を思ったか、手を振って答えたくなった。プリントの下に回してた手を上げて彼女に手を振る。それだから当然、プリントは廊下に散らばってしまった。
澄佳さんは慌ててこちらに駆け寄ってくれた。拾うのを手伝ってくれながら、彼女はある疑問を持ったようだった。
「これ、さっきの授業のやつじゃん。
こんなの日直にやらせればいいのに」
「え、わたしが代わりたいって言ったんだよ。
だって、あの子授業の片付け忙しそうだったから」
「すいちゃんから言ったの?」
「うん」
しばしの沈黙のあと、すいちゃんさあ......。という彼女の小声は聞こえなかった。
教室に戻ってくると、もう誰もいなくて窓すらもう閉まっていた。遠くからは野球部の声が聞こえてくる。
人気のない教室はなんだか寂しい気がして、早く行こうと鞄を手に取ると、澄佳さんはまだ帰り支度をするようすは見られなかった。そして、窓を少しだけ開ける。
この子は何をしているんだろう、ついまじまじと見つめてしまう。
「さあ、お茶会をしましょう」
澄佳さんに誘われて、わたしも彼女の机を囲むように座りだした。
わたしが澄佳さんに渡したのは小さな焼き菓子だった。それを、何とあろうことか放課後の教室で食べることになるなんて思いもしなかった。
「これ美味しいね、どこのお店で買ったの?」
「駅前の洋菓子店のやつだよ」
駅の近くにこんなお店あったかな。ちょっと路地入ったところだから分からないかもね。それから店内のイートインに一緒に行こうってなって、好きなお菓子の話になっていく。
まだほのかに広がるバターの香りがわたしたちの会話を彩ってくれるみたいだった。
ひとしきり会話が広がる中で、澄佳さんはこちらを見た。だけど、その表情はどちらかというと真剣で、わたしもつい背筋を伸ばしてしまいそうだった。
「ねえ、すいちゃんさ......」
「なに、澄佳さん。急に改まって......」
さっきのプリントの話。と前置きを添えて語りだした。
「......ほんとうにきみが運びたいって言ったの?」
「そうだよ」
わたしは短く言葉を切って返す。
「だってそうじゃん、あの子困ってたから......」
「困ってた、から」
「うん」
わたしは頷いた。目の前にいるこの子は何を伝えたいんだろう。
「じゃあ、きみは世界中のみんなにお菓子を配れる?」
「......どういうこと?」
真顔になって目をぱちぱちしてしまう。その様子を見ていた澄佳さんはため息をついたと思ったら、吹き出すように笑い出した。
「ま、世界中なんて冗談だけどね」
そういえば、今日の授業で世界中の食糧問題なんて取り上げられていたっけ。わたしはみんなにお菓子を配れば解決するかな、なんてはかないことをおぼろげに考えていた。
見透かされていたみたいで、つい頬が赤くなってしまう。
「実際できるかどうか、じゃないんだよ。
小さいことでも手助けできるって考えられるきみが素敵なの」
きみが好き、そう言われたみたいでわたしの頬はますます赤くなってしまう。
「さあ、そろそろ帰ろう。教室でお菓子食べてたなんてバレたら大変だからね」
「そうだね、これでわたしたち共犯者だね」
わたしたちは静かに教室を出て行った。
野球部の声援にかき消されてしまいそうなひそひそ話だった。でも、ふたりだけの秘密はとても楽しかった。
この話題が、じつは彼女からの忠告だと気づくことはできなかった。
もっと自分の立場を弁えなさいって。
わたし自身、クラスの中心人物になりたいとか良い子を演じて褒められたいとか思ったことは一度もなかった。
こういうのを承認欲求っていうんだっけ。それでも、わたしがいろんな子に声をかけるのは、わたしがしたいからなんだ。
裏で"誰にでもよい顔をする"とか"手伝ってるのに手間取らせてる"言われたことが何度もあった。そのたびにわたしは無視を続けていた。"言われなかったこと"にしようって決めて。
わたしだってお姉ちゃんに助けてもらったようなものだから、わたしもみんなのことを助けてあげたい。それは間違っているのだろうか。
・・・
ある日、その話題は急に巻き起こった。まるで、つむじ風みたいに。
準備室で授業に使う資料を移動用のボックスに詰めているところだった。わたしのとなりで作業をしているクラスメイトが声をかけてきた。
「ねえ、結城さんってさ......」
いきなりなんだろうと思って、わたしは棚に伸ばしていた腕を止める。
山瀬さんはこちらをまじまじと見つめたまま、すました表情で問いかける。肩まで伸びるヘアスタイルは、まるでモデルみたいに大人びている子だった。
「......澄佳と付き合っているの?」
は? 硬直したわたしの頭に資料の背表紙がこつんと当たって落ちる。
「そんなことないでしょ! な、なに言っているの」
「結城さんの照れてる顔かわいい! ね、ほんとうなんでしょ?」
山瀬さんと澄佳さんは同じ部活だった気がする。それなのに、なぜこんな話題を振るのだろう。ふたりのつながりがない、こんなわたしに。
「ちがうって!
一緒に帰ったりしただけじゃん。それに......」
慌てて口を閉ざした。お菓子を食べてたなんて言ったら大変だ。
「それに?」
「......な、なんでもないよ」
ほら、早く積んで持っていこう! わたしはおざなりに資料を投げ入れた。
教室に行くと、何人かの生徒がこちらをちらちらと覗いていて、なんだか雰囲気が違って見える。重くてなんとも表現しづらい空気が教室を包んでいた。
ちらりと澄佳さんの方を見ると、周りにはだれもいなくて彼女ひとり寂しそうだった。
......なんて言葉をかけてあげればよいのかな。
傷ついたものはどんどん置き去りにされていく。
どこから生まれたか分からない噂はいつの間にか膨らんでいった。
毎日の授業も休み時間もつつがなく進んでいく。その光景は変わってないけれど、みんな実はわたしたちのことを考えているんじゃないかと思ってしまう。
何か聞かれるたびにわたしは誤解だと説明したけれど、むきになってる仕草が本気なんだと思われるだけだった。
もうなにを言っても無駄だった。
苦しくて仕方なかった。
オレンジ色の夕日が沈む。
その様子を眺めていると、また明日がやってきてしまうんだと思うようになった。わたしはひとり登校して、誰とも話さないで、ひとり帰宅していく。
「あ、わたし手伝うよ」
「いいよ。きみに手伝ってもらったら、面倒が増えるだけだし」
気をつかって声をかけたのに、無視されることも増えていった。
こんな日々が続いていたある日、下校時間間際になった教室に澄佳さんがぽつんと座っているのが見えた。
わたしは足を止めてその姿にピントを合わせる。
教室に降り注ぐ夕日は濃い影を作り出している。それはこちらまで届きそうに長く、まるで自分に気づいてほしいと言っていそうな気がした。
静かな教室にわたしの足音だけが響く。
「澄佳さん......」
そっと呼びかけてみても、彼女は窓の方を向いたままだ。
別に無視されているわけじゃないのは分かってるんだ。だからわたしはずっと待つつもり。寄り添ってあげよう、一緒に答えを見つけてあげよう。
だって、彼女の力になれるのは、わたしだけなんだから。
それからどれだけ経っただろう。
澄佳さんはやっと話してくれた。静寂の中でも聞き取れないようなささやく声で。
「......私たち、どうしちゃったんだろうね」
「......そうだね」
声のトーンに合わせてわたしも小声で返す。
けっきょく、噂の出どころは分からないままだった。ただのやっかみなのかもしれない。
「その、......わたしが悪いんだよね」
わたしがつぶやくと、彼女はやっとこちらを向いてくれた。こちらの言うことが理解できないから、聞きたい。そんな瞳を投げかけて。
「......だって、わたしがお菓子持ってきたじゃない」
「なんでお菓子が出てくるのよ!」
わたしの頭は、わたしの口はもう止まるところを知らなかった。そのまま滑り出すように話し出した。
「一緒にお菓子を食べて、一緒に帰ったからだよ......。
そんなところを見られちゃったんだと思うよ」
「見られたからっていうのはあるかもしれないじゃん、でもちがうよ」
「なにがちがうの!?」
わたしはつい声を上げた。
「......そんな態度、きみらしくないわ」
「なに言ってるか分からないよ。
......わたしがこんなことしなければきみは傷つかなかったのに」
「......わ、私のことなんでどうでもいいんだから。
それにさ、きみまでなんでショック受けてるのよ」
わたしはここで言いよどんだ。でも何も考えられなかったから、また同じことを繰り返してしまう。
「......だ、だから。お菓子を食べたり帰ったりした、から......」
もう駄目だった。こんな感情的な自分にはじめて出会ってしまったわたしは、もうどうすればいいのか分からなかった。
......なんて言葉をかけてあげればよいのかな。
少し息を吐いて、澄佳さんは話してくれた。
よく聞いてと前置きをする口調はとてもやさしかった。
「お菓子があっても無くてもだよ。
私は、きみと一緒に帰りたかったんだよ」
「澄佳さん......」
どちらが先だったんだろうか、お互いに静かに涙を流した。彼女が腕を伸ばして、わたしを包んでくれる。
「今まで通りのすいちゃんでいてよ......」
誰にでもやさしい、太陽のようなきみで。
「うん、ありがとう」
どれくらい抱きしめ合っていただろうか。お互いの制服に光るものが落ちていく。
「......私、がんばるからね」
「うん」
彼女の決意もむなしく、澄佳さんが次に登校したのは卒業式の日だった。
心に穴の開いたようなわたしは、それから孤独な日々が続いていった。
けっきょく、お菓子の件は先生に叱られてしまった。
わたしは校則をやぶる子として裏で呼ばれるようになって、次第にやっかみも増えていく。
ことが起こったのは学期末に行われた大掃除の日だった。わたしの隣で床に雑巾をかけている生徒が、バケツを倒してしまった。真っ先に駆けつけるわたしに、山瀬さんの声が矢のように飛んでくる。
「ああ、ドジだなあ。結城さんって」
......わたしじゃない。それなのに。この人はなんてひどいことを。
もう言い返す気力も残っていなかった。
あたし、澄佳のこと好きだったのに。それなのに結城さんが邪魔をした。
風のうわさできいた話だ。
山瀬さんと澄佳さんは幼なじみだったらしい。どういうわけか、わたしが好き合っているふたりの間に水を差したことになっていたみたいだ。それを真に受けた山瀬さんがお菓子のことを告げ、裏でいろいろと広めていった。
彼女だってピアスをしているのに......。
ヤマセミという鳥がいるのを図鑑で見たことがあった。山で観察することのできる、頭の飾りがおしゃれな黒い野鳥らしい。
その姿は今思うと山瀬さんのように思えてくる。カワセミとヤマセミの生息しているところが違うみたいに、わたしたちは相容れない。
◇◇◇
「すいちゃんって、庇護欲をそそるよね」
中学生のとき、わたしはこう声をかけられた。
ひごよく? なにそれと、放課後の掃除を止めてその子の方を見た。彼女――澄佳さんも雑巾をかけていた手を止めると、こちらを見て説明してくれた。
「えっとね。見ててほっとけないってことだよ。
だってほら」
澄佳さんはわたしの足元を指さした。
「ごみを集め終わったのに、ごみの上に箒を立てちゃうから散らかっちゃったじゃん」
「あ!」
ほんと詰めが甘いんだから、とくすくすと笑いながら彼女はちり取りを取りに行ってくれた。彼女のお下げ髪が楽しそうに揺れていた。
「さあ、ごみ出しに行こうかな」
「あ、わたしが持つよ!」
澄佳さんがごみ袋の口を閉じたところで、わたしが声をかけた。しかしながら、彼女は目を丸くしていた。
「え、いいよ。だってこれ重いよ?」
「だいじょうぶだって、持てるよ」
意気揚々と宣言したわたしだったけれど、持ち上げるだけで腕が震えてしまう。足もふらついてしまい、そのままどすんと床に置いてしまった。
しまいには膝を折ってしまって、ごみ袋に手をついた。それこそ、どすんという効果音がしそうだった。
「もう、なんで重いのさ」
「ほんとだよね。みんな面倒くさいって裏に捨てに行かないから私たちが困るのよ」
澄佳さんが大きく膨らんだごみ袋を睨み付けながら言う。
わたしは中腰の姿勢のまま袋の口をしっかりと握りしめた。そのまま持ち上げようとしたけれど、やっぱり袋を抱えて歩くことはできなかった。
もういいわと、澄佳さんが手を伸ばした。彼女は袋を受け取ると、そのまま抱えて歩いて行く。わたしは周りの小さな袋を抱えて後をついていった。
次の日、わたしは登校するなり澄佳さんが座っている席の前に立った。
「あ、すいちゃんおはよう!」
「澄佳さんおはよう」
わたしもあいさつを返すと、手に持っている小さな紙袋を差し出した。そして、少し小声になって話しかける。
「......昨日はありがとう。掃除いっぱいしてもらっちゃって、お礼がしたくて」
「え、そんなことしなくていいのに」
澄佳さんはいつもの明るいトーンで話をしていたけれど、紙袋の中身をちらりと見るとわたしのペースに合わせてくれた。何食わぬ顔で机の中にしまい込むと、今日一緒に帰ろうって提案してきた。
その表情は、映画館の上演を待ちわびるように楽しみを隠し切れない感じだった。
澄佳さんはこれといって欠点が見られない子だった。
とはいえ不真面目な生徒をしかるわけでもなく、優等生として積極的な授業態度をとっているわけでもなかった。
休み時間にはクラスメイトとよく会話をしている姿をよく見ることができた。その様子を眺めているとみんな楽しそうで、澄佳さんが教室にいるだけで安心するんだなという印象だった。
・・・
放課後、わたしはプリントの束を抱えて廊下を歩いていた。そこに、視界の先に澄佳さんがいるのが分かった。わたしから声をかけようとすると、向こうの方から気づいて返事をしてくれた。
「あ! すいちゃん!」
わたしは何を思ったか、手を振って答えたくなった。プリントの下に回してた手を上げて彼女に手を振る。それだから当然、プリントは廊下に散らばってしまった。
澄佳さんは慌ててこちらに駆け寄ってくれた。拾うのを手伝ってくれながら、彼女はある疑問を持ったようだった。
「これ、さっきの授業のやつじゃん。
こんなの日直にやらせればいいのに」
「え、わたしが代わりたいって言ったんだよ。
だって、あの子授業の片付け忙しそうだったから」
「すいちゃんから言ったの?」
「うん」
しばしの沈黙のあと、すいちゃんさあ......。という彼女の小声は聞こえなかった。
教室に戻ってくると、もう誰もいなくて窓すらもう閉まっていた。遠くからは野球部の声が聞こえてくる。
人気のない教室はなんだか寂しい気がして、早く行こうと鞄を手に取ると、澄佳さんはまだ帰り支度をするようすは見られなかった。そして、窓を少しだけ開ける。
この子は何をしているんだろう、ついまじまじと見つめてしまう。
「さあ、お茶会をしましょう」
澄佳さんに誘われて、わたしも彼女の机を囲むように座りだした。
わたしが澄佳さんに渡したのは小さな焼き菓子だった。それを、何とあろうことか放課後の教室で食べることになるなんて思いもしなかった。
「これ美味しいね、どこのお店で買ったの?」
「駅前の洋菓子店のやつだよ」
駅の近くにこんなお店あったかな。ちょっと路地入ったところだから分からないかもね。それから店内のイートインに一緒に行こうってなって、好きなお菓子の話になっていく。
まだほのかに広がるバターの香りがわたしたちの会話を彩ってくれるみたいだった。
ひとしきり会話が広がる中で、澄佳さんはこちらを見た。だけど、その表情はどちらかというと真剣で、わたしもつい背筋を伸ばしてしまいそうだった。
「ねえ、すいちゃんさ......」
「なに、澄佳さん。急に改まって......」
さっきのプリントの話。と前置きを添えて語りだした。
「......ほんとうにきみが運びたいって言ったの?」
「そうだよ」
わたしは短く言葉を切って返す。
「だってそうじゃん、あの子困ってたから......」
「困ってた、から」
「うん」
わたしは頷いた。目の前にいるこの子は何を伝えたいんだろう。
「じゃあ、きみは世界中のみんなにお菓子を配れる?」
「......どういうこと?」
真顔になって目をぱちぱちしてしまう。その様子を見ていた澄佳さんはため息をついたと思ったら、吹き出すように笑い出した。
「ま、世界中なんて冗談だけどね」
そういえば、今日の授業で世界中の食糧問題なんて取り上げられていたっけ。わたしはみんなにお菓子を配れば解決するかな、なんてはかないことをおぼろげに考えていた。
見透かされていたみたいで、つい頬が赤くなってしまう。
「実際できるかどうか、じゃないんだよ。
小さいことでも手助けできるって考えられるきみが素敵なの」
きみが好き、そう言われたみたいでわたしの頬はますます赤くなってしまう。
「さあ、そろそろ帰ろう。教室でお菓子食べてたなんてバレたら大変だからね」
「そうだね、これでわたしたち共犯者だね」
わたしたちは静かに教室を出て行った。
野球部の声援にかき消されてしまいそうなひそひそ話だった。でも、ふたりだけの秘密はとても楽しかった。
この話題が、じつは彼女からの忠告だと気づくことはできなかった。
もっと自分の立場を弁えなさいって。
わたし自身、クラスの中心人物になりたいとか良い子を演じて褒められたいとか思ったことは一度もなかった。
こういうのを承認欲求っていうんだっけ。それでも、わたしがいろんな子に声をかけるのは、わたしがしたいからなんだ。
裏で"誰にでもよい顔をする"とか"手伝ってるのに手間取らせてる"言われたことが何度もあった。そのたびにわたしは無視を続けていた。"言われなかったこと"にしようって決めて。
わたしだってお姉ちゃんに助けてもらったようなものだから、わたしもみんなのことを助けてあげたい。それは間違っているのだろうか。
・・・
ある日、その話題は急に巻き起こった。まるで、つむじ風みたいに。
準備室で授業に使う資料を移動用のボックスに詰めているところだった。わたしのとなりで作業をしているクラスメイトが声をかけてきた。
「ねえ、結城さんってさ......」
いきなりなんだろうと思って、わたしは棚に伸ばしていた腕を止める。
山瀬さんはこちらをまじまじと見つめたまま、すました表情で問いかける。肩まで伸びるヘアスタイルは、まるでモデルみたいに大人びている子だった。
「......澄佳と付き合っているの?」
は? 硬直したわたしの頭に資料の背表紙がこつんと当たって落ちる。
「そんなことないでしょ! な、なに言っているの」
「結城さんの照れてる顔かわいい! ね、ほんとうなんでしょ?」
山瀬さんと澄佳さんは同じ部活だった気がする。それなのに、なぜこんな話題を振るのだろう。ふたりのつながりがない、こんなわたしに。
「ちがうって!
一緒に帰ったりしただけじゃん。それに......」
慌てて口を閉ざした。お菓子を食べてたなんて言ったら大変だ。
「それに?」
「......な、なんでもないよ」
ほら、早く積んで持っていこう! わたしはおざなりに資料を投げ入れた。
教室に行くと、何人かの生徒がこちらをちらちらと覗いていて、なんだか雰囲気が違って見える。重くてなんとも表現しづらい空気が教室を包んでいた。
ちらりと澄佳さんの方を見ると、周りにはだれもいなくて彼女ひとり寂しそうだった。
......なんて言葉をかけてあげればよいのかな。
傷ついたものはどんどん置き去りにされていく。
どこから生まれたか分からない噂はいつの間にか膨らんでいった。
毎日の授業も休み時間もつつがなく進んでいく。その光景は変わってないけれど、みんな実はわたしたちのことを考えているんじゃないかと思ってしまう。
何か聞かれるたびにわたしは誤解だと説明したけれど、むきになってる仕草が本気なんだと思われるだけだった。
もうなにを言っても無駄だった。
苦しくて仕方なかった。
オレンジ色の夕日が沈む。
その様子を眺めていると、また明日がやってきてしまうんだと思うようになった。わたしはひとり登校して、誰とも話さないで、ひとり帰宅していく。
「あ、わたし手伝うよ」
「いいよ。きみに手伝ってもらったら、面倒が増えるだけだし」
気をつかって声をかけたのに、無視されることも増えていった。
こんな日々が続いていたある日、下校時間間際になった教室に澄佳さんがぽつんと座っているのが見えた。
わたしは足を止めてその姿にピントを合わせる。
教室に降り注ぐ夕日は濃い影を作り出している。それはこちらまで届きそうに長く、まるで自分に気づいてほしいと言っていそうな気がした。
静かな教室にわたしの足音だけが響く。
「澄佳さん......」
そっと呼びかけてみても、彼女は窓の方を向いたままだ。
別に無視されているわけじゃないのは分かってるんだ。だからわたしはずっと待つつもり。寄り添ってあげよう、一緒に答えを見つけてあげよう。
だって、彼女の力になれるのは、わたしだけなんだから。
それからどれだけ経っただろう。
澄佳さんはやっと話してくれた。静寂の中でも聞き取れないようなささやく声で。
「......私たち、どうしちゃったんだろうね」
「......そうだね」
声のトーンに合わせてわたしも小声で返す。
けっきょく、噂の出どころは分からないままだった。ただのやっかみなのかもしれない。
「その、......わたしが悪いんだよね」
わたしがつぶやくと、彼女はやっとこちらを向いてくれた。こちらの言うことが理解できないから、聞きたい。そんな瞳を投げかけて。
「......だって、わたしがお菓子持ってきたじゃない」
「なんでお菓子が出てくるのよ!」
わたしの頭は、わたしの口はもう止まるところを知らなかった。そのまま滑り出すように話し出した。
「一緒にお菓子を食べて、一緒に帰ったからだよ......。
そんなところを見られちゃったんだと思うよ」
「見られたからっていうのはあるかもしれないじゃん、でもちがうよ」
「なにがちがうの!?」
わたしはつい声を上げた。
「......そんな態度、きみらしくないわ」
「なに言ってるか分からないよ。
......わたしがこんなことしなければきみは傷つかなかったのに」
「......わ、私のことなんでどうでもいいんだから。
それにさ、きみまでなんでショック受けてるのよ」
わたしはここで言いよどんだ。でも何も考えられなかったから、また同じことを繰り返してしまう。
「......だ、だから。お菓子を食べたり帰ったりした、から......」
もう駄目だった。こんな感情的な自分にはじめて出会ってしまったわたしは、もうどうすればいいのか分からなかった。
......なんて言葉をかけてあげればよいのかな。
少し息を吐いて、澄佳さんは話してくれた。
よく聞いてと前置きをする口調はとてもやさしかった。
「お菓子があっても無くてもだよ。
私は、きみと一緒に帰りたかったんだよ」
「澄佳さん......」
どちらが先だったんだろうか、お互いに静かに涙を流した。彼女が腕を伸ばして、わたしを包んでくれる。
「今まで通りのすいちゃんでいてよ......」
誰にでもやさしい、太陽のようなきみで。
「うん、ありがとう」
どれくらい抱きしめ合っていただろうか。お互いの制服に光るものが落ちていく。
「......私、がんばるからね」
「うん」
彼女の決意もむなしく、澄佳さんが次に登校したのは卒業式の日だった。
心に穴の開いたようなわたしは、それから孤独な日々が続いていった。
けっきょく、お菓子の件は先生に叱られてしまった。
わたしは校則をやぶる子として裏で呼ばれるようになって、次第にやっかみも増えていく。
ことが起こったのは学期末に行われた大掃除の日だった。わたしの隣で床に雑巾をかけている生徒が、バケツを倒してしまった。真っ先に駆けつけるわたしに、山瀬さんの声が矢のように飛んでくる。
「ああ、ドジだなあ。結城さんって」
......わたしじゃない。それなのに。この人はなんてひどいことを。
もう言い返す気力も残っていなかった。
あたし、澄佳のこと好きだったのに。それなのに結城さんが邪魔をした。
風のうわさできいた話だ。
山瀬さんと澄佳さんは幼なじみだったらしい。どういうわけか、わたしが好き合っているふたりの間に水を差したことになっていたみたいだ。それを真に受けた山瀬さんがお菓子のことを告げ、裏でいろいろと広めていった。
彼女だってピアスをしているのに......。
ヤマセミという鳥がいるのを図鑑で見たことがあった。山で観察することのできる、頭の飾りがおしゃれな黒い野鳥らしい。
その姿は今思うと山瀬さんのように思えてくる。カワセミとヤマセミの生息しているところが違うみたいに、わたしたちは相容れない。
◇◇◇