部屋に戻ってきた僕は、チャットの画面から電話を立ち上げた。
 数回のコール音のあと西原は電話に出てくれた。
「急にごめんね。
率直に聞くんだけど、来週の土曜日か日曜日かに予定を合わせてほしいんだ。
どっちがいい?」
 どっちがいいと聞かれても。なんだろう、そのシンプルな質問は。
 別にどちらも空いているからその通り答えようと思った。
「どっちも空いているよ。
よく分からないけど西原も行くの?」
「もちろんよ。
いい、きみにとっても大事な日なんだからちゃんと来るのよ。
じゃあ日曜日にしようかな。向こうにも伝えるから待っててね」
 待ち合わせ場所と時間はあとで連絡するね。そう言って彼女は電話を切った。
 とはいえ、本当はすいと会いたい日だ。だから、西原が提案してきた内容はどこか現実味がなくて。
 一方的に約束が決まってしまったが、これは真実を知るために必要なことだと気づく由はなかった。

 ・・・

 八月の風は気だるくて、なんだか重い。
 陽炎の中を通り過ぎる車が生み出す風がそんなことを思わせる。
 やはり夏はあんまり好きじゃない。重たい空気が全身を包み込んでいて、逃れられないような気がして。
 でも、足を進めてしまってよいのだろうか、誰かと一緒に行かないといけない気がするのに、その相手を見つけられなかった。
 どうしても暗い思考になってしまうのは、今日の朝見た夢が原因だったのかもしれない。
 
 僕は街角に立ち尽くしていた。
 見上げると、少しずつ雨が降っている。夕立だろうか、どこかで雨宿りしないと濡れてしまう。でも、僕はそこから離れる訳にはいかなかった。
 足元では雨が跳ね返り、白くきらめいているように思える。
 光のじゅうたんみたいに、とてもきれいだ。
 その光景をずっと見ていたかった......。
 しかし、一筋の流れが美しさを変えていく。滴り落ちた赤い何かが、白を塗りつぶしていく。
 そこからじわりと広がる赤。
 やがて海のように広がってしまい、あたり一面が暗くなってしまった。
 白を、白を探さないと......。
 
 あっちもこっちも、すべてが暗い。
 そんな中でやっと見つけた白いものは、人だった。
 動物が地面に伏せるように、赤いものの上でうつむけて寝ていた。ワンピースを思わせる服装が、上品にきらめいていた。
 ああ、前に見た夢の続きなんだな。教室で寝てる子がここにもいたから、そう確信する。
「すい......」
 その姿にはっとする。
 彼女はどことなくずっと一緒に居た子を思わせる。いや、ずっと彼女の夢を見ていたんだ。なんでこんなことになってしまったんだろう。
 そうだ、起こしにいかなくちゃ。そしていっぱい話をしなきゃ。
 
 でも、足が動かない。声も上げられない。
 まるで金縛りのように身体が硬直してしまう。
 
 この光景をただ見ているだけしかできなかった......。

 ・・・

 西原はどこに連れていくのだろうか、まったく見当もつかなかった。
 予定なら前もって確認したいところだけど、電話で話した感じからとても大事なことだと伝わってきた。でも、それを何のことだと聞いてみるのもはばかられてしまって。
 そうは言いながらも、これから行くべき場所は絶対に必要なことだと、覚えておかないといけないことだと。どこか心の中で思っている自分もいた。
 
 待ち合わせ場所が見えてきた。それはいつも自分が利用している最寄り駅だった。
 どうしてここに決めたのか理解できないまま、僕は駅の中に入る。
 改札の前にはもう西原が居た。彼女は黒いパンツルックスで、キャリアウーマンだったらこういうものだろうかと思わせる服装だ。だけども、どういうわけか喪服を想像してしまった。
 スマートフォンから顔を上げた西原は、こちらに向けて手を上げてあいさつをした。
「やあ、ごめん! 待たせちゃった?」
「だいじょうぶだよ。
成瀬くんはちゃんと時間通りに来るね。村上くんじゃこうはいかないもんね」
 西原はこう言いながらくすくすと笑っている。
 それから少し雑談を広げていると、頃合いだと思ったのか西原は腕時計を見た。自然な会話の流れで、行きましょうと歩き出した。
 自分が入ってきた出口に向かって。
 そのままバス通りを歩いていく。迷わず進む西原に、僕は一歩遅れてついていくのがやっとだった。
「ねえ、西原どこに行くの?」
「そのまま着いてきなさいよ」
 斜め向かいに見える彼女の表情は、今までに見られない凛々しい感じがしていた。
 口を結んでいる姿からは優等生というよりも、社会人のような雰囲気さえする。これから大事な話を打ち明けようとして、緊張しているみたい。
 そんな考え事をしていたら、あっという間に自分のマンションを通り過ぎる。
 どこにたどり着くんだろう、駅から離れてどんどん進んでいく。
 まるでジャングルの奥地に進むように。
 
 ここで、西原はトートバッグからメモを取り出すと、小さな路地に向けて入っていく。
 ......あれ?
 ある脇道を抜けたところで、僕はある既視感に出会った。
 オレンジ色のレンガ調のアパート。
 小さな桜の木が植えられている一軒家。
 どこかで見たことがあった。そう、それは中学生の頃に歩いていた通りだった。いつも親しんでいた塾に行くための道。
 心臓が鳴り出しそうだった。
 とある路地を曲がる。一歩一歩歩くたびに、足取りが重くなる。
 ここから先は進んじゃいけない。
 引き返したい気持ちでいっぱいだった。
 
 とある一軒家で西原は足を止めた。
 くすんだ水色の小さな住宅だった。玄関の周りにはプランターで作られた小さな花壇が作られていて、可愛げに彩られている。
 でも、もっと別のものに、祭壇みたいに見えてしまう。
 そう思えてしまうのは、きっと気のせいじゃない。
 玄関に書かれているネームプレートに、目を大きく見開いた。
 ......「結城」という名前が書かれていた。ここは前に行ったことのある、すいの家、
 
 西原は静かに、そしてゆっくりとしたリズムで自分に告げる。物わかりの悪い子どもを諭すように、そして言い聞かせるように。
「私はきみに真実を見せる」
 鳴り出す心臓は落ち着いてくれない。胸の奥で、カチャリと鍵が開く音がする。
 僕は、去年の<あの日>に起こったこと思い出した。すべてを、全部。
 
 ......すいは、自分が殺したんだ。

 ◇◇◇

 すいと西原はよく似ていて、よく違っていた。
 困った生徒に話しかける姿はどちらも見かけることがあった。答えを持っているか分からないけれど一緒に探していこうというスタンスがすいで、ひとしきり話を聞いてから適切な答えを提示できるのが西原だと感じる。
 西原はすいと僕の関係にもよく馴染んでくれた。友達として接しながらも、時折保護者として自分たちを心配してくれる一面もあった。
 そんな彼女に好感を持ったのは嘘じゃない。
 
 <好き>という言葉の意味合い。
 その些細な違いがいつの間にか僕とすいの間に芽生えてしまっていた。
 西原はいつも仲の良いクラスメイトだよ、僕にとってもきみにとっても。
 こうすいに説明できればよかったのに、彼女は自分の説明をする暇も与えず帰ってしまった。こういうときは追いかけて、きちんと目を見て話そう。そうするべきだったのに、なぜか動けなかった。
 すいが立ち去ってしまった後のコーヒーは、不思議と苦かった。
 帰宅するなりスマートフォンを手に取った。メッセージアプリを立ち上げても、なにもできないままその画面を凝視してしまう。
 認めたい言葉は、水流に流されるようにどこかへ行ってしまった。
 ......きみは、なにを待っているんだろう。
 それでも、僕は好きだと告白したかった。きちんと言葉にして伝えようと思った。
 だから村上の誘いに乗り込んで、海の家でバイトをすることにした。思った以上に重労働だったけれど、すいのために我慢していった。
 貯めたお金で人魚のネックレスを買った。すいが欲しがっていたものなら喜んでくれるだろうと、その満面の笑みを見たくって。
 
 そのときは、きれいなものは残酷だと気づくことはできなかった。
 
 ある日、僕はふとした用事で買い物に出かけていた。
 コンビニから出たところで、ちょっと出かけてみようかな。そんな考えが芽生えてコンビニから入ってきた道とは別の方角へ向けて歩いていく。
 いつも通りの八月で、いつも通りの炎天下で。ただただ変わらない毎日をちょっとだけ変えようと思って、少しだけ散歩をして帰ろう。
 歩いていくうちに、見たことある景色が視界に映る。
 オレンジ色のレンガ調のアパート。
 小さな桜の木が植えられている一軒家。
 いつの間にか、塾に行くための道を歩いていた。なんだか懐かしいなと思って、色んな街角に目を通していく。この辺りはまったく変わっていなかった。
 この道をまっすぐに行けばあの交差点が見えてくる。そう、すいと出会った場所だ。
 せっかくだからあの交差点の角を曲がって帰ろう。ちょっとだけ思い出に浸りたくて、心の中に大切な人を思い出したくて。
 そうやって意気揚々と歩いていた。
 すると、信号機の向こう側にすいが居たのだ。
 僕が手を振って挨拶すると、すいは一瞬驚いた顔を見せて顔を伏せた。淡い水色のワンピースに白いハット。その組み合わせが実に彼女らしくて、花束のように咲いているみたいだった。
 ハットを手に取って顔を隠すすいは恥ずかしながらも、通りの向こうからこちらをうかがっている。
 遠くからでも瞳のきらめきが分かるような気がした。お互いに交わってはきれいにリフレインする恋心のよう。
 きみに恋をした嬉しさを抱きしめたから、きみが伝えたいことがあるってわかったから。
「やあ、すい」
「やあ、湊くん。......もう会っちゃったかあ」
 僕たちは挨拶をしつつ、白線の上を一歩ずつ歩いていく。まるで日常を噛み締めるように。
 そして、すれ違いざまに、また会おうねとその気持ちを視線で交わした。
 
 しかしながら、ふたりの物語がここで途切れてしまうとは思わなかった......。
 
 ふいに強く吹いた風。
 すいが慌ててスカートを押さえた。
 その反動で彼女のハットが飛んでいく。
 
 僕は背伸びをして風に乗っていくハットを受け止めた。
 これですいに渡せれば安心だ。
 しかしながら、いったん安堵した気持ちは過ちに気づかない。ふたりして思わぬ場所で足を止めていることなんて気づきもしなかった。
 状況が変わるのは、たった一瞬の出来事。
 
 急ブレーキをかけた自動車。
 その足元に横たわるすいの身体。
 
 すぐにあたりは血の海で染まってしまった。
「すいっ!!」
 通行人によって救急車が呼ばれたらしいが、僕はもう何も考えられなかった。
 つなぎ合った手。
 頬をつたう一筋の涙。
 自分ができたことはこれしかなかった。最後のひと時まで、自分の瞳できちんと映していよう、彼女の姿を。
 
 そして、いつの間にか心の中に鍵をかけてしまい込んでしまった。
 すいの記憶も、自分の恋心も......。

 ◇◇◇